★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

クスリと自殺

2024-03-12 23:46:15 | 文学


溱与洧、方渙渙兮。 士与女、方秉蕑兮。女曰、観乎。 士曰、既且。且往観乎。 洧之外、洵訏且楽。維士与女、 伊其相謔、贈之以芍薬

クスリをやってる男女をすみやかに逮捕せよ。

感覚的な問題として、自分の課題ではなく他人の課題をやるみたいなかんじでなんとか学問に堪えられるようになる場合がある。大学院生の頃、多くの人が経験することで、それはわかるんだが、いちばんの危機は、自分が面白いなと思った着地点がいちいち現実とは違ったみたいな経験だとおもう。そこで結局必要なのは、自分が上のように遊び、相手にクスリを送るみたいな対話?が学問上で感じられるかどうかである。そこで本当に相手を毒殺してしまう人がおおく、そうすると学問は急激に苦行、というか…政治になる。

そのためには、対話がある種の恋愛の雰囲気に包まれていることが重要だと思う。例えば、『ドクタースランプ』の下ネタについて、ああいうのもあったこういうのもあったぞと細に言ったら、熟読してたけどそんなの絶対なかったと言っていた。鳥山明をすっきり神扱いに出来てしまうのはこういう事情もある。幼い頃に読んでるというのもあるし、ロボットに下ネタをやらせると下ネタの意味合いが少し変化するというのもある。――すなわち、その創作世界が愛の遊びの世界に包まれているからそれがある程度許されているのである。時代的な問題ではない。もっと明らかに不愉快な下ネタが当時もあって、明らかに嫌われていたからである。

確かに、SFが当時新たな楽しいものとして一気に輸入されてきたことと関係があるに違いない。そのSFは、しかし、日米双方の「戦後」の結果でもある。今回ゴジラ映画が、アカデミー賞(特殊効果)を取ったけれども、そもそもアカデミー賞とかあちらさんの賞じゃねえか。原爆落とした国行って特殊効果褒められてるってほんといやだな。原爆は特殊効果じゃねえぞ。ゴジラこそ自虐史観のある種あれだからな、次回作ではどうぞニューヨーク粉砕とホワイトハウスのまえで核燃料たっぷりのうんこでもひりちらかして頂きたい。

――と、こんな感想は、結局、日本がアメリカに80年代にもう一度占領されなおして、ゴジラをプロレスごっこでも反戦映画にもできない、ジレンマに我々がおちいったことを示している。それは、ゴジラをハリウッドにとられたという歎きと、ゴジラでアカデミー賞とったぞという喜怒哀楽のなかにおかれると言うことだ、それは、日米関係の暗喩に過ぎない。映画「アバター」のときに、押井守がこれに追いつくのに十年以上かかるみたいなこと言ってたが、まあほんとに十年以上かかったということではある。しかし、結局、そもそも「アバター」においつく必要があるのか。植民地主義映画ではないか。

だいたい、「ゴジラ-1.0」の何が不満て、そのー1.0がソサイエティ5.0より邪悪さに於いて劣りそうだという、我々の崩壊した和魂洋装の頭脳の悲惨さである。

結局、こういう拘束に苦しむ我々は、なにか自分の実を切り落とすことですっきりしようとしかねない。蜥蜴の尻尾切りみたいな者だと思う。で、Nというアメリカの大学の学者が、老人は集団自決するのが一つの案みたいなことを口走ったことがある。やつが東大や香川大の学者でないことが重要である。――それは、あちらに行った我々のなかまによる、宗主国の自決命令なのだ。それ以上の意味がない発言である。

そもそも集団自決とか、管理職がむりながら中間管理職でもやってから言って欲しいわな。そんな意思統一は容易なことじゃねえぞ、結句、全員を脅して殺すしかない。過去にそうなりかけたじゃないか。集団自決はいまもある。アメリカに影響をうけた外食産業である。岡田斗司夫がむかし夜のファミリーレストランやめたらいいと思うとかいってたけど、たしかに集団自決をやめたいのではあればほんと深夜の飲み食いは危険である。

自決というのは、自殺になることと、自分で自分のことを決めることの二つの意味合いで使われることが多いんだろうが、実に意味深である。後者は実際にはありえないのでそれにむかってがんばると結局自分をなくすみたいなところで一瞬実現されることになるんじゃねえかな。自殺する、の間違え方と思ったが、いや、あるいみ自殺になる、で正しい。ハリウッド映画にくらべて金かかってないのに頑張ってるみたいなのが日本のプライドみたいになってるし、もしかしてそういう時のほうがいい作品がでてくるのかもしれないが、さすがにアニメその他のクリエイターたちの貧困問題はどうにかする必要がある。我々は自殺、いや他殺されかかっているのである。