堀井憲一郎氏の『若者殺しの時代』を大急ぎで読む。特に何のためというわけではないが、読んだ。
80年代以降、若いことが大して楽しくもなくなっていったプロセスを追った本である。……と書くとやや間違いである気もする。この人の本は語り口は軟らかいのだが、結構難解である。この本はなかなかいい本ではないかと思う。なにしろ、2015年あるいは2030年あたりには日本は滅びるので、「すきあらば、逃げろ。一緒に沈むな。うまく、逃げてくれ。」と締めくくっている。私もそういう絶望的な気分はわかる。
70年代までの若者は、まだ古いものと新しいものを勝手に峻別して右肩上がりの雰囲気を味わっていた。しかし、その新しいものを社会の側はある程度蔑視し無視していたからよけい若者は燃えた。しかし83年頃から、それらのうちのいくつかが「若者向け」という形に変容して商品として売られるようになる。「恋人たちのクリスマス」「ディズニーランド」「マンガやアニメ」、「女性主導のラブストーリー」。ビデオや携帯電話やワープロなどがそれらの普及を後押して生活は快適で便利にはなったが、不透明で豊かな人間関係などいろいろなものを失ってしまった。恋愛の条件はつりあがり、サブカルチャーのもっていた淫靡なモチベーションはオタク迫害によって失われ、友情の数を着信数によってカウントされる。そのくせ、70年までの永遠の若者たちに、「若いんだからがんばれがんばれ」と言われる。よくみると、その「大人」と自分たちは大して変わらない状態にある。なにしろ「大人」もまだ若者のつもりなのだ。どっちが劣化コピーなのかわからない。この状態でがんばれと言われても、どうがんばったらいいのか分からぬ。その永遠の若者たちのようにがんばろうとすると、なぜか益々自分たちの身動きがとれなくなっていく。まあ、それなりに便利で楽だし……。とにかく果てまで来たらしい。もう破滅しかない。
私見も混ぜて勝手にこの本をパラフレーズするとこんな感じかなあ……。
新自由主義者とか堀江氏とか業績主義者とか、だいたい老人の作った社会主義的な制度を打ち壊して、もっと資本主義として徹底せよと言っていたような気がするわけだが、思うに、自分たちも再び右肩上がりの気分を味わせてくれ、若者でいさせてくれ!という気分が彼らを後押ししていたかもしれない。(実際、被災地について堀江氏が「これから右肩上がりだから楽しいと思う」と言っていた。)だから、彼らはある程度過剰に子どもっぽくなっていたところがある。子どもまで帰らなければ、上の世代と一緒にされてしまうからだ。しかし、堀井氏の観点から行くと、彼らの運動は、自分たちを若者ではいられなくさせたシステムを更に強力に推し進めているにすぎなかったということになる。いわば帝国主義戦争から革命へという感じだ(笑)。現実的な戦略があるとすれば、メディアや企業の創った文化に踊らされるより、自分の趣味を仕事にしてロケット飛ばした方がよいという、オタクの逆襲といったかんじであろうか。しかし問題は、アウラがでてくる作品をつくる環境そのものが、堀井氏の述べる過程で、とても成立しにくくなっていることであろう。かくて、その事情をあまり自覚しない、オタクとしてもレベルが低そうなやつがなぜかきまって逆襲したがっている。
ところで、堀井氏は、最後に体を使って身に付ける類の伝統文化をやることも逃げるのに役立つかも、と言っている。
……私は、ここで、私の妹2が日本舞踊にのめり込んでいった理由を理解したような気がした(笑)。私にとって、それは近代文学のはずだったが、いかんせん、近代文学は上記の滅びのプロセスを後押しした側面もあるので、気分は複雑である。あまり体を使わんし……
80年代以降、若いことが大して楽しくもなくなっていったプロセスを追った本である。……と書くとやや間違いである気もする。この人の本は語り口は軟らかいのだが、結構難解である。この本はなかなかいい本ではないかと思う。なにしろ、2015年あるいは2030年あたりには日本は滅びるので、「すきあらば、逃げろ。一緒に沈むな。うまく、逃げてくれ。」と締めくくっている。私もそういう絶望的な気分はわかる。
70年代までの若者は、まだ古いものと新しいものを勝手に峻別して右肩上がりの雰囲気を味わっていた。しかし、その新しいものを社会の側はある程度蔑視し無視していたからよけい若者は燃えた。しかし83年頃から、それらのうちのいくつかが「若者向け」という形に変容して商品として売られるようになる。「恋人たちのクリスマス」「ディズニーランド」「マンガやアニメ」、「女性主導のラブストーリー」。ビデオや携帯電話やワープロなどがそれらの普及を後押して生活は快適で便利にはなったが、不透明で豊かな人間関係などいろいろなものを失ってしまった。恋愛の条件はつりあがり、サブカルチャーのもっていた淫靡なモチベーションはオタク迫害によって失われ、友情の数を着信数によってカウントされる。そのくせ、70年までの永遠の若者たちに、「若いんだからがんばれがんばれ」と言われる。よくみると、その「大人」と自分たちは大して変わらない状態にある。なにしろ「大人」もまだ若者のつもりなのだ。どっちが劣化コピーなのかわからない。この状態でがんばれと言われても、どうがんばったらいいのか分からぬ。その永遠の若者たちのようにがんばろうとすると、なぜか益々自分たちの身動きがとれなくなっていく。まあ、それなりに便利で楽だし……。とにかく果てまで来たらしい。もう破滅しかない。
私見も混ぜて勝手にこの本をパラフレーズするとこんな感じかなあ……。
新自由主義者とか堀江氏とか業績主義者とか、だいたい老人の作った社会主義的な制度を打ち壊して、もっと資本主義として徹底せよと言っていたような気がするわけだが、思うに、自分たちも再び右肩上がりの気分を味わせてくれ、若者でいさせてくれ!という気分が彼らを後押ししていたかもしれない。(実際、被災地について堀江氏が「これから右肩上がりだから楽しいと思う」と言っていた。)だから、彼らはある程度過剰に子どもっぽくなっていたところがある。子どもまで帰らなければ、上の世代と一緒にされてしまうからだ。しかし、堀井氏の観点から行くと、彼らの運動は、自分たちを若者ではいられなくさせたシステムを更に強力に推し進めているにすぎなかったということになる。いわば帝国主義戦争から革命へという感じだ(笑)。現実的な戦略があるとすれば、メディアや企業の創った文化に踊らされるより、自分の趣味を仕事にしてロケット飛ばした方がよいという、オタクの逆襲といったかんじであろうか。しかし問題は、アウラがでてくる作品をつくる環境そのものが、堀井氏の述べる過程で、とても成立しにくくなっていることであろう。かくて、その事情をあまり自覚しない、オタクとしてもレベルが低そうなやつがなぜかきまって逆襲したがっている。
ところで、堀井氏は、最後に体を使って身に付ける類の伝統文化をやることも逃げるのに役立つかも、と言っている。
……私は、ここで、私の妹2が日本舞踊にのめり込んでいった理由を理解したような気がした(笑)。私にとって、それは近代文学のはずだったが、いかんせん、近代文学は上記の滅びのプロセスを後押しした側面もあるので、気分は複雑である。あまり体を使わんし……