ある辺鄙な県庁所在地へ、極めて都会的な精神的若さを持つた県知事が赴任してきた。万事が派手であつたので、町の人々を吃驚させたが、間もなく夏休みが来て、東京の学校へ置き残した美くしい一人娘が此の町へ来ると、人々は初めて県知事の偉さを納得した。
一夕町に祭礼があつて、令嬢は夜宮の賑ひを見物に出掛けた。祭の灯に薄ら赤く照らされた雑踏の中で、自分に注がれた多くの眼が令嬢を満足させたが、最後に我慢の出来ない傲岸な眼を発見した。その眼は憧れや羨望や或ひはそれらを裏打した下手な冷笑を装ふものでもなく、一途な傲岸さで焼きつくやうに彼女の顔を睨んでゐた。令嬢は突嗟にその眼を睨み返したが、すると、彼女の激しい意気組を嘲けるやうに、傲岸な眼は無造作に反らされてゐた。その後、同じ眼に数回出会つた。眼は思ひがけない街の一角から、彼女の横顔を射すくめるやうに睨むのであつた。
――坂口安吾「傲岸な眼」
上の開始部分、「二十四の瞳」のパロディのようである。思うに、令嬢なんて言葉が捨たれたのも現代にはまずかった。霊獣みたいな奴が増える一方である。
イデオロギーは、言霊の存在を前提にしている。労働者、弱者、女性、障害者、いろいろな言葉が刀として使われて新たな権力を確立するためには必要だったが、名指しされている人たちがすべて善人でもなければ純粋なわけでもないのは自明である。だから、イデオロギーの行き過ぎに対してバランスをとったり反発してバックラッシュしたり、面倒だからAIに判断してもらおうとしたりするだけではだめなのだ。人間関係における現実的な対処が必要なのである。そんなときには、さまざまなやりとりがあり、小説的な心理的出来事に耐えなければならない。
実験を繰り返せば次第に事態はよくなるみたいな考え方も、人間の社会に対してはかなり甘い想定だ。実験の失敗は研究室のなかでは改善されるのかもしれないが、現実の人間社会では失敗の数と量は悪霊となり我々を支配するからである。イデオロギーを内面と作詞しがちな異様な雰囲気がその悪霊によって作られる。
その悪霊は、何かわれわれを行動に駆り立てる。つまらないことだが、共通一次試験なんかも近代100年の受験生の悪霊のなした技であった。――個人的体験では、つまらない感想を排した感想文という教育的地点はありうるし、どちらが正解に近いですかみたいな共通一次試験みたいなことはある特定の能力の開発に偏っているとも思う。しかし、自由な言語能力のためにに自由な感想を言ってよいみたいな教育は、文章に対するゲスの勘ぐりみたいなものを助長してしまった。だから、共通試験みたいなスタイルがまだ抵抗になってるんだみたいな考え方すら一理あるような雰囲気だ。一度、妙な路線を走り始めると、かえってそれがましだみたいな異空間に到達するよい例だ。空間ではないから亜空間かもしれない。――私も、つい「みたいな」を連発してしまう亜空間に到達した。
漢文不要論とかなんとか不要論とかたくさんある訳だが、「私は漢文苦手でまじで不要に感じるんで」とか「漢字偏重は漢心の表れだ」とか「中国倒せ」とか馬鹿みたいに本気で言ってくれりゃまだいいけれども、結局、本心は、「それがなけりゃわたくしも軽く東大入れたのに」とかのファンタジーかSFの類いが多すぎる。かれらはもう悪霊化している。
大学教員なんか、試験監督の苦痛と同等の快楽と交換したいと思っている訳だが、何も思いつかん。こういう場合に、流れ出した苦痛が悪霊化しやすい。
共通一次みたいな悪霊に取り憑かれていないだけ、我々の親の世代は有利であった。ネットの一部で、柄谷とド・マンの背比べが話題になっていた。柄谷は私のおやと同い年。ド・マンは、祖父の世代である。で、エール大でとられた昔の写真をみてみたら、ド・マンが案外巨体だったのだ。そういえば、こまけえ脱構築論を展開しているあるドイツ人学者に会ったときに、すごい大男だったのでびっくりしたことがある。日本でも小型に属するわたくしは、せめて脱構築はちっちぇえ者の味方であってほしいと思ってしまったほどであった。むろん、脱構築と日本人の小ささは何の関係もない。――脱構築といえば、昔の友人が脱穀かと思ったとか言ってたが、そういえば洒落にしてはメタファーとしては脱穀のほうが納得だ。
あと、むかし塾で、脱構築とか知ってるかクソがきども、とかやってたら、建てるか壊すかどっちかだろみたいな、正義の中学生に会ったことがある。ある意味で、時代の流れだったのかもしれない。