★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

差別と仲間

2023-01-18 23:37:28 | 文学


女とは京都からの相乗りである。乗った時から三四郎の目についた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づいて来るうちに、女の色が次第に白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくような哀れを感じていた。それでこの女が車室にはいって来た時は、なんとなく異性の味方を得た心持ちがした。この女の色はじっさい九州色であった。

……「三四郎」


女性差別とかなんとか差別とかいろいろあるが、これに対して真に怒るためには、本人の怒りだけではたりなくて、彼らの友達やパートナーやらの怒りが必要だ。わたしも女性差別や障害者差別を結婚してはじめて実感したと思う。実態をしるというより、広い意味で自分の仲間の感情を知る。これがないとすぐさま、差別問題は差別にもいろいろあるよねー、みたいな全体化というか相対化というかが起こるし、差別を告発する側の中での差別にも鈍感になってしまう。感情がどのように起こっているのか目の当たりにしなくちゃならないのだ。

その場合、それが必ずしも女性差別や~差別という言葉では説明できないものであることが多々認識されるわけである。で、その際にそれを「~差別」と端的に戦う必要性があるかどうかがその都度判断されるべきだ。そもそも、差別される側というのは、ひとつの観点で差別されているのではなく、大概差別が複合的に絡まり更に個人の事情も重なって、大きな「暴力」として現象するからである。――が、上の判断とは優先順位を伴うある種の政治であって、多々ある原因や差別のいくらかを犠牲にすることは覚悟のうえだ。その犠牲になっているものは本人の怒りの中ではなかなか意識できなくなってしまいがちであり、そのとき仲間が必要だ。一方、もちろん彼らは根本的にさらなる単純化に陥る可能性があるから本人が必要なのである。

かかる関係性をどう名付けるかだが、――連帯とかいってもそのニュアンスは失われ、紐帯とか「絆」とか言ってもだめで、対立点を明確にする的な内ゲバ的覚悟は問題自体が流産させてしまう。現在のように、実感のない感性の場所で生成されてしまった感情が横溢すると、我々はほんとうに空疎な言葉だけで、差別を差別の定義だけの言葉でコミュニケーションしなければならなくなることも確かである。「思い」や「絆」などというセリフは、そのじつ、当事者と当事者以外を形式的に分けたりくっつけたりしているだけの『差別』的な言表である。

ここ数年、演習で、江藤淳を扱っているが、例えば小林秀雄と彼はとってもかみ合ってないと思われる。似ていない。江藤には、小林が感じていた自意識の錯乱がない。だから、明治の文学者たちが強固な自我をもっているようにみえ、われわれはこれに対して、アメリカに抑圧された母も見失った抜け殻みたいなものに見えてしまう。錯乱は差別的ではない。

そうすると、抑圧された側は強くあらねばらないみたいな論法が、彼のチルドレンから現れるのである。属国が宗主国から受けるいじめもそうである、いじめが怖ろしいのは、いじめる相手の判断力とか感情を奪うということにある。いじめられた方が本当に劣って見えるように、そして実際に劣るように追い込んでゆくのである。そうするといじめられた彼らは、敵はある集団とか社会とかだと思いがちであり、ほんとの敵を見失うのである。例えば、次のような例がある。

共通テストの問題を見てみると、教科ごとに意図も強いられていることも少しずつ違っている。文科省や指導要領との関係もそれぞれ違う。世論との関係も違う。にも関わらず、共通テストへの批判は、つねに文科省や国家への批判となり、それを受けて、どうせ改革とやらも一体で行なわれてしまうのであろう。国語と英語の課題が同じな訳ないではないか。我々にとっての合理性は、どんどん二項対立の激突みたいな、中学生的なところに退行している。

計画というのも有効性と無効性の二項対立でできている。しかし、実践は計画とは常に異なる。そのために、計画はゆるく立てとかないと成果があがらない。このことを知らないやつが昨今威張りすぎであり、彼らは小学生の初期のような単純作業の終了を成果と思える状態から進歩していない輩と言ってよいと思う。

今はどうか知らないが、学校のクラス編成を考えるときに、「問題児」をどこに集めるか、あるいは散らすか、にかぎらず、彼らを押さえ込むことが可能かもしれない教師や生徒とむすびつけて、――対立物の二項を凭れさせるみたいな発想で行われることがある。しかしこれが、うまく行くとは限らない。中学ぐらいになると生徒の方でも、その作為に気付くからでもある。役割を背負った一部の生徒はとても大変な目に遭うし、レッテルを貼られている感じがいやな生徒も多い。先生の方も想定通りには自分を動かせない。あまりにこういうちぐはぐさが続くと、何か意図的に行うことがお互いに厭になってしまう。初発の容易な、合理的な想定がほとんど間違っているのである。で、その合理の外の曖昧な領域をコミュニケーション能力とか言うてるうちに、行き当たりばったりのいい加減さが幅をきかすようになり、教師を含んだ学級集団がギャング化してゆくのであった。

静聴せい。静聴せい。静聴せいと言ったら分からんのか。静聴せい。

三島由紀夫の檄の一節である。三島由紀夫の心の叫びは、自衛隊はなぜ米に従うんだ、憲法改正はどうだとか、おまえら武士ではないのか、とかは相対的な問題で、とりあえず、ギャングたちに向かって人の話を聞いてくれないかということにあった。三島は、言論の原則に対して矜持がつよすぎたせいなのか、自分がかわいそうな右翼たちの主張に耳をかしているくらいなのに、松本清張的な泥臭い庶民たちが自分に対立してくるノイズに対して不感であり過ぎるようにみえたのかもしれない。

例えば叱られるのはノイズである。しかし、我々の成長のプロセスにおいてそのノイズがどこまで重大なのかどうかは、よほどの弁証法論者でない限り、実態に即しているからどうかは意識できないはずであるし、実際のところはわからないという他はない。怒られて育つとか怒られないで育つみたいなものが何かの要約になっているかはかなり疑問なのだ。一方的な褒めや暴力を受けるなんて想定も空想にすぎない。親からの子への暴力の連鎖もあり得る話ではあるが、自らの暴力の報復を受けなかった人間が暴力に鈍感になることもあり得る話であって、実際、いまどきの若者が寛容になっているとも優しくなっているとも思えない。だいたい優しさなんてのはあまりも人間を説明できないのである。せいぜい「優しい人が好き」みたいな社交辞令で有効な程度だ。いつも事は簡単ではないのである。われわれは根本的にそれほど頭がよい訳ではなく、とくに倫理の試行錯誤をできる人間は特殊な安定感を精神に維持している人間だけだと思われる。それは自己肯定感みたいなものじゃなく否定が支えているような安定感である。それは自己否定ではない。それを自己否定と呼んだ連中は、同志を殺して穴に突き落としたりした。


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