★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

タイムマシンの目的論

2011-08-11 04:51:49 | 映画


1959年の古典SF映画「タイムマシン」を観る。原作は社会派哲学小説みたいなものであるが、時間旅行ものというのは多く作られていくうちに、思春期の悔恨をどう処理するかみたいな話になってしまっており、タイムマシンの意味がなくなっているのではなかろうか。そんなのは時間を操作するまでもなくお前の自意識をなんとかすりゃいいだけの話じゃ、といいたくなる。「バック・トゥー・ザ・フューチャー」とか2002年版「タイムマシン」とか、「ドラえもん」とかがそうである。だいたい変更できん過去に帰りたがって失敗する話が多いではないか。タイムパラドックスなんて、自意識の鏡の反射ではないか。やっちまったもんはしょうがないんだよ、やっちまったもんはよ。

もともと「タイムマシン」で問題になっているのは、どうせ人類はこれからも酷い歴史を作るであろうが、それはこれから変更可能であろうか、という無理難題を解決しようとする話なのだ。(言ってて違ってる様な気がしてきたが……。)

であるはずが、この59年版でも、未来の食物人類として放牧されているイーロイのなかに、ウィーナという超絶美少女がいて、タイムマシンに乗ってやってきた19世紀人ジョージの正義心を発動させることになっていて、そこから話が春めいてくる。しかし、主人公のジョージが戦争続きの現在を見捨てて(これは確かである。戦死する友人も助けなかったし……)未来に帰ろうとするのが、崇高な未来を築こうとしたのかウィーナちゃんに惚れすぎていたのか分からないところが残念、というか、それこそがこの映画に趣を与えているのではなかろうか。前者は未来志向であるが、後者はジョージにとっての過去(ウィーナちゃんと別れちゃったョということ)を変更しようといういつもの思春期パターンに他ならぬ。二者の関係が不明であることが我々の人生である。したがって、2002年版の様に、新しい世界はつくれますといったようなもっともらしいメッセージを付加しているよりはましである。2002年版は幼い奴でも進歩があればいい、むしろ幼さや純粋さが世界を救うというガキの夢想を実現した映画である。59年版は少なくとも、幼い奴らが死んだ後大人の恋が始まるということを主張した淫靡な大人の映画である。

しかし大人も問題だ。ジョージは三冊の本を未来に持っていったらしい。ジョージの言動から推測するに、その三冊とは、『資本論』『死の家の記録』『旧約聖書』であろう。(そうであろう、そうであろう)未来のジョージがイーロイ族をこの三冊を使って洗脳し、いかに共産主義的ハーレムを築いていくか見物であろう。戦争嫌いのジョージも、イーロイ族を救うために、かわいそうな小太りモーロックを皆殺しにする最終戦争を闘ってしまった。(5分ぐらいだったけど)共産主義は戦争が廃絶された世界である、しかしその共産主義を実現するのも戦争であった。というより、イーロイを搾取するモーロックを倒すという結末は、階級闘争は簡単にイメージできるが、国家が行う戦争を終わらせることをイメージするのは難しかったという大問題を明らかに回避したところに、この話が成り立っていることの証拠である。だいたいモーロックとイーロイを階級闘争(あるいはカルバリズムのような野蛮)の様に捉えているからまずいのだ。あの未来世界が結構自然豊かだった様に、核戦争後の人類が苦難の果てにたどり着いた新たなエコ世界かも知れないのである。要するに、折角、核戦争後に、人間同士が共食いをする自然に優しい共生関係を築いていたのに、ジョージは悲惨な歴史を繰り返そうとしている。ジョージ最悪。


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