★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

学校・老人・漫才

2024-12-22 23:38:44 | 文学


「はなしておくれよ、クロック先生。」
 やはり、ひくい、かなしい、機かい的な調子でした。かはいさうに、ちようどお祈りをでも暗誦してゐるやうに、つゞけました。
 とうとう車はとまりました。私たちは学校へもどつたのです。クロック夫人は、校舎のまへに、がんどうぢようちんをもつて待つてゐました。
 夫人はひどくおこつてゐて、いきなりガスパールをぶちのめさうとしました。クロック先生は、それをおさへとめ、意地わるさうに笑つて言ひました。
「あす計算をつけよう。今晩はもうたくさんだ。」


――ドーデー「村の学校」(鈴木三重吉訳)


わたくしのいつもの印象であるが――、わりとおおくの日本人がたぶん先生の努力のおかげであろう、学校が根本的に好きで、だからこそ大人になって文句つけたり恨みを晴らそうとしたりしている。やはり彼らが普通に祝福されながら卒業しているだけのことはある。よって、一部の反抗的な輩を除きやる気のない羊共をみな退学にすればよいのではないか。小学校退学とか、あれだ、黒柳さんみたいだし。

黒柳さんの育った戦前では、彼女のようなブルジョアジー以外はまともに小学校にかよったか怪しい。市民講座とかに出講していて観察されるのは、戦前に小学校しか行けなかった向学心にあふれた秀才たちがいなくなって、戦後生まれの「市民講座に行ってきまーす」みたいな人たちが増えて雰囲気が悪化した事態である。正直申し上げて、知ったかぶりの人たちがとても増えた。いまや、その孫たちは、じいちゃんばあちゃん、親父やおかんの知ったかぶりをうざがり、無知の無知に向かって突入しつつある。

「羊をめぐる冒険」が書棚からようやく発見されたから再読しているが、結構面白いではないか。村上春樹はむしろこれからクルのではないだろうか。かれの表現していた空=物自体としての現実は、人間の発する意味を打ち消していってあらわれるはずであった。無知の無知の境地はその現実のあらわれと似ている。似ているだけであるが。

いったい戦後とは、戦後のヒーローとなった戦後の子どもたちの時代の否定による、戦前への回帰、それを更に超えた近代以前への回帰そのものであった。昨日、FMで大山のぶ代の「浪曲ドラえもん」みたいな曲が流れていたが、妙に声が合ってて、ドラえもんとか悟空の声は浪曲系の変形かも知れないと思った。たぶん、浪曲的なものはアニメーション文化として復活している。それは子どものが爺婆化したおとぎ話としての現実である。おとぎ話では子どもと爺婆しかいないという説があったが、まさにそれは現実のことであった。

例えば、親にとっては子どもはいつになっても子どもとかいうけど、子どもに対して堂々と言っていい事じゃねえし、――さすがに長生きするようになって、親と子どもは一緒に朽ちて行く、結構な割合で子どもが先だ、みたいな人生観のほうが実感に近いひとも多いはずである。のみならず、子どもに対するイメージだけではなく、親に対するイメージも変容しているはずで、自分が老いても長く付き合わなければならない何者かになってきているはずである。ともに衰えることによって最終的に屈服するしかない何ものかである。策は一つである、親と一緒に早く衰えボケてしまうことだ。

最近、若手のお笑い芸人が台頭してきたが、この連中の、特に大学お笑い出身者の一部の頭の回転はすごく、全てをボケてツッコむ、――つまり全てを解かず、全てを喋りつくすがごとくである。いわば、西鶴の俳諧の連続技のようだ。上の問題に置き直すと、いわば人生を痴呆のケアとして展開することだ。もう少しで、「どうでもいいじゃないか」運動のようになるであろう。もう日本の人文学の難問は、令和ロマンとかラランドに任せりゃ30分ぐらいで全部解けるんじゃなかろうか。


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