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二、三日ばかりありて、暁方に、門をたゝく時あり。さなめりと思ふに、憂くて、開けさせねば、例の家とおぼしき所にものしたり。つとめて、直もあらじと思ひて、
歎きつゝ独り寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
と、例よりは、ひきつくろひて書きて、うつろひたる菊に挿したり。
この和歌は、歌の歴史に燦然と輝くものであったが、いまみてみると案外普通の歌のように思える。――しかし、誰でも分かる率直さと、情景の変化が明瞭で、最後に「とかは知る」と突然詰問してくるアッパーカット的展開がやっぱりいいかんじである。
さても、いとあやしかりつるほどに、事なしびたり。しばしは、忍びたるさまに、「内裏に」など言ひつゝぞあるべきを、いとゞしう心づきなく思ふことぞ、限りなきや。
「内裏に」と言ったら言ったで「この嘘つきが」となるのであろうが、何も言わずに粛々と女のもとに通う姿が不愉快だ。単に不愉快なのではない、「心づきなくおもふこと」が、「限りない」のであって、ここには二段構えとしてあらわれた憤懣がある。ホントの気持ちは「限りない」ほうである。もう何を言ってもその「限りなさ」の中に入ってしまう。こうなってしまうと、もう収まりがつかぬ。
最近の世間でいけないと思うのは、感情を何か勝手に有限なものと決めつけて、それを何か別のものに代替出来るかのような風習が広がっていることである。感情というのは基本的に無限なものである。もし、他のもので癒やされてしまったりするものであるのなら、それは感情ではなく症状である。
感情は、和歌のようなモノとなって人に届き、返しがモノとなってやってくる。これによって、感情は有限的なふりをすることが出来る。そのときに起こっているのが感情のモノ的結晶である。感情は一度死ぬ。そして、作品の中でもう一度蘇生してくる。そのとき、和歌のやりとりをする人間たち全体が文化的な何ものかとして信の対象となり流通することになる。蜻蛉さんはこの過程を知っていた。上の「有限的なふり」が殺伐とした感情から離れていればいるほど結晶は面白いものとなる。かくして蜻蛉さんも紫式部もひどい題材を選ぶ。
悲しみ、怒り、歎く前に、果してここで悲歎していいのかと批判を働かしてみることは、然し已に一応の教養をもつた人間にとつては、甚だその既得の思想に瞞着され易いものであつて、ただこれだけの単純なことでも、相当の難事のやうであります。要するに、日本の小説家に罪があるのではなく、感情にも追求といふ苛酷な手段のあることを教へなかつた、日本文化史に罪があるのでありませうか。
――坂口安吾「無題」
安吾の批判に人は批判精神を見るかも知れないが、「既得の思想に瞞着され易い」事態を意識してからが大変なのだ。だから「日本文化史」を安吾が内側から総点検しようとしたのは当然であるし彼を疲弊させることになった。