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かくて絶えたるほど、わが家は内裏よりまゐりまかづる道にしもあれば、夜中あか月とうちしはぶきてうちわたるも、聞かじと思へども、うちとけたる寝もねられず、夜ながうして眠ることなければ、さななりと見聞く心地はなににかはにたる。
「夜ながうして眠ることなければ」の部分は、白楽天の所謂「上陽白髪人」の「秋夜長 夜長無寐天不明」をふまえていると言われている。がっ、肝心なのは、上陽人がなぜ秋の夜長を一人で寝ているかと言えば、若い頃後宮に入ったが楊貴妃に睨まれて帝に会えずに一生を終えようとしているからなのであった。このすさまじさに比べれば、蜻蛉さんなんか、兼家という字が汚いボンクラに遊ばれて飽きられていらいらしているだけで、全く似ていない。
今も昔も、
わたくしである。
とはいえ、こういう他人の不幸が人を勝手に慰撫することはあるのは確かに倫理的におかしく見えるのであるが、――他人の幸福の場合もそうであるから、人間は生きて居られるということがある。
今日、岡江久美子さんという人がコロナでなくなったのだが、子どものころ、「連想ゲーム」で大和田獏というにこにこ顔の男の前に座っていた岡江さんというきれいなお姉さんいて、その人が今日なくなった人なのであった。(ちなみに、わたくしの記憶違いで、その「きれいなお姉さん」というのはもしかしたら檀ふみだった可能性もある。)「連想ゲーム」というのは子供心に「大人は頭がいいな」と思わされた番組であって、大和田さんと岡江さんがその後結婚したと聞いて、頭のいい大人同士は結婚する、という意味不明な観念を私に植え付けたのであった。
まだ、この頃は、テレビの中の世界がなんだかおとぎ話みたいなところがあったと思う。志村けんの下ネタでさえ、アダムとイブは裸だぞ、みたいなパラダイス――虚構空間でおこなわれていたところがある(だから志村の相手はいつも美女だった)。
だから、芸能人の個人性は本当はどうでもよかったのだ。
そして、それは視聴者の個人性のあり方と対応していた。私の勘違いでなければ、一部の半端なインテリたちの「実存」的意識を除けば、我々大衆のなかには個性はあってもアイデンティティや居場所などいった慰撫が必要な何者かはなかった。そうでなくなった後は、我々は個人性がどうにもならない虚構空間を失ったのである。
オレはヒメに歩み寄ると、オレの左手をヒメの左の肩にかけ、だきすくめて、右手のキリを胸にうちこんだ。オレの肩はハアハアと大きな波をうっていたが、ヒメは目をあけてニッコリ笑った。
「サヨナラの挨拶をして、それから殺して下さるものよ。私もサヨナラの挨拶をして、胸を突き刺していただいたのに」
ヒメのツブラな瞳はオレに絶えず、笑みかけていた。
オレはヒメの言う通りだと思った。オレも挨拶がしたかったし、せめてお詫びの一言も叫んでからヒメを刺すつもりであったが、やっぱりのぼせて、何も言うことができないうちにヒメを刺してしまったのだ。今さら何を言えよう。オレの目に不覚の涙があふれた。
するとヒメはオレの手をとり、ニッコリとささやいた。
「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……」
ヒメの目が笑って、とじた。
オレはヒメを抱いたまま気を失って倒れてしまった。
――坂口安吾「夜長姫と耳男」
近代文学が生んだ最高の「夜長」小説にして、パンデミック小説であるこの小説は、病によって社会が崩壊し、しかも為政者の気が狂っている場合に、何が起こるかが夢想されている。プロレタリア文学が敵との一騎打ちを夢みたなかでは、まだ社会(集団としての労働者)が機能していた。本当は社会が壊れることをシュミレートしておくべきなのだ。そこで安吾が考えたのは、社会が壊れたことを想像するのは男女関係を想像すればよいということではなかったか。――しかし思うに、男女関係のなかでも、蜻蛉さんのように人は中途半端に夢みるのであり堕落を避けるのである。