★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鏖の論理

2025-02-23 23:31:54 | 文学


早速私は、家の人形芝居でシェイクスピアを演じてハムレットの亡霊を見たり、リア王と荒野にさまようたりした。一體私には、一つの芝居の中で人物が多く死ねば死ぬほどその作が面白いやうに思へた。丁度この頃であつた、私が最初の脚本を書いたのは。それは紛れもなく悲劇といふべきもので登場人物が皆死んでしまふのであつた。筋は古くからある『ピラムスとティスベーの歌』から取った。然し私は、事件を擴げる爲に一人の者と彼の息子とを附け加へた。この二人はティスベーを愛してゐたが、彼女が死ぬと、自分達も自殺してしまふ。職者の話す言葉は大抵聖書の文句で、簡易基督教問答書から、就中『隣人に對する義務』から借りて来た。

――「アンデルセン自伝」」(大畑末吉訳)


『Papa told me』第一巻読んだ。よのなか頭のいい作家たちがうじゃうじゃいる。しかし、一話完結という形式のためか、道徳的な決めぜりふが早すぎる気もした。母親の死が起点になっているせいもあり、主人公の女の子は生き急いでいる。これは死に向かわない急ぎ方である。物語はその急ぎ方を道徳的な周囲の人物たちが宥めながら進行する。この穏やかさはしかし主人公のおっとりした性格に拠っている。こういうことは、ジェンダーの議論に載っけない方が良いような気がする。

生き急ぐと、つい我々は結果は度外視して断行をしたがる。「断行すべし実際に断行しました」、みたいな人たちは、自分が子どもの頃、勉強でも何でもいいけど断行してどれだけの何が出現したのかよく思い出してもらいたいのである。ほんとうに断行できたのか?目の前をよくみろ。

生き急ぐために死にたがる場合は、どうか。たぶん、それは幼児性である。「伝説巨神イデ★ン」が鏖のお話になっているの、自分の力のなさだったと監督が言っているのにたいし、いろんな意見があると思う。アンデルセンがまだ学校にも行ってないような頃つくっていたのが、上のように鏖の話で、死ねば死ぬほど悲劇としてよいと思ってたらしいのだ。おそらく、彼のつくる筋立てがシェイクスピアの剽窃だったことと関係がある。みずからの生の痕跡が否定的に作品に作用して全否定に走る。おそらく、社会の歯車になることは、主体的には歯車の剽窃を地で行くことになり、――だから、全否定に走りがちなのである。


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