★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2023-11-27 23:25:22 | 文学


 芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具えている。しかし種々の鑑賞を可能にすると云う意味はアナトオル・フランスの云うように、何処か曖昧に出来ている為、どう云う解釈を加えるのもたやすいと云う意味ではあるまい。寧ろ廬山の峯々のように、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具えているのであろう。


――芥川龍之介「侏儒の言葉」


物事の多面性みたいなことを言う人は、驚くほど単純なファクトだけは指摘しなかったりするものであるが、それも当然で、その多とやらが誰でも分かることからの逃避である場合が「多」いからである。芥川龍之介さえそういうところがある。

多面性というのは、せめてピーラー・バリーの『文学理論講義』の各章を授業ごとに使いこなすとか、そういう感じであるべきではなかろうか。この書はなんかめんどくさそうな感じがして読まなかったんだが、最近ちょっと読んでみた。フェミニズムやレズビアン/ゲイ批評のあとにマルクス主義批評がきてるのが目につく。案外、この順で勉強するのがいいのかもしれない。マルクス主義のヴァリエーションがフェミニズムとかいう理解が出てくるのを防げる。

一方、「多」は、田んぼの中の蛙の卵とか、そういうイメージにもある。そういえば、親ガチャとか言うてる輩って、人間から人間が生まれるときのイメージを吉野弘の「I was born」の蜻蛉みたいに思ってるんじゃないだろうか。この詩でもちゃんと自分の体が母親の胸までふさいでいる自覚に到るわけだ。親ガチャどころのイメージじゃないだろが。

多く積み上げなければならないのは、業績だ。その結果、論文がちっこい単位の話題ごとにそろえないといけなくなったのがあれなのだ。話題だから問題にすら達しない場合が出てくる訳だ。そもそも博論のシステムは下手するとそういう事態を生み出すし、そのほかもいろいろと。作品論はその内部で掘るとでかいものに行き当たる場合があった、それよりもまずい場合が多多ある。

今日、「神秘的反獣主義」を朗読してて、ただでも意味不明なのはわかるんだけど、たぶん「煩悩即菩提」の「菩提」の意味が分からない学生が多かったんだろうとおもった。考えてみると、「即」で結んでいるのは、こういう単語の意味が分からない人々のためにというのもある気がするな。自己肯定感みたいなナルシシズムを避けるのもあるんだろうが。我々は「一即多」みたいな抽象性には慣れているのだ。煩悩そのものの頑強性と多様性みたいなものだ。しかし「即」「菩提」となれば、煩悩のあり方を精神のあり方として再構築する必要がどうしてもでてくる。


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