おぼしきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける。かかればこそ、昔の人はもの言はまほしくなれば、穴を掘りては言ひ入れ侍りけめとおぼえ侍り。かへすがへす嬉しく対面したるかな。
いいたいことを我慢するのは腹に異物があるようでいやですねえ、と語るのは大鏡の爺である。いいたいことを我慢させられた時代といえば、20世紀みたいなイメージが残っている。例えば、ソ連と芸術というと、ショスタコービチとかプロコフィエフへの弾圧とかがすぐ想起されてしまう。しかし、その「げにぞ腹ふくるる心地しける」のを永い間我慢するのはインテリゲンチャで、表現においては案外すぐに反作用みたいなものがでてくるような気がするのだ。例えば、弾圧の効果としては、スヴェトラーノフとかゴロワノフなどのクラシックは演歌だみたいなものがそうかもしれないのである。ジャズの爆発的発展が、禁酒法と関係があったのはよくしられているが、ジャズと演歌も関係がある。
阪神タイガースが日本一になったのである。38年ぶりである。が、阪神ファンはいつも「六甲おろし」を歌っているところが、暗黒時代の効果ともはや考えてもいいかもしれない。そのかわりに、なかなか優勝しないことに対する意識は、インテリゲンチャを擽る事態であったことは、柄谷行人の昔の発言からわかる。
友愛について考えるために、一つの例をあげましょう。たとえば、阪神とヤクルトの試合で、神宮球場のレフト側に行ってみて下さい。そこでは、各人が日常ではどんな立場にいようと、一つの「共生感」が生まれている。阪神が勝てば、互いに見知らぬ人、ことによると日常で敵対的立場にある人たちが喜んで握手したり抱き合っている。甲子園なら、まだ関西の地縁的共同性があるでしょうが、それは神宮球場にはありません。また活躍する選手が外国人であろうが、構わない。時にはアメリカ人の観客も一緒に騒いでいます。彼らが共有しているのは、タイガースの過去の栄光というよりも悲惨の記憶です。
「友愛」を考えるとき、これを一つのモデルにしたい。(略)むろん、ここでの「友愛」はたんに幻想的なもので、「たかが野球」にすぎないのです。しかし、たとえば、こういう現象が江戸時代にありえたかどうか考えてみて下さい。阪神ファンの観客は、互いが誰であるのかに関心をもっていない。つまり、彼らは、その場において、どんな所属からも断ち切られている個人です。
――「自由・平等・友愛」
今流行の「推し」は、推される主体と推す主体の往還みたいな関係がおもしろいかもしれないが、――野球ファンみたいな一年間ガンバレーといいつづけて40年に一回ぐらい生きてて良かったみたいに思うのもよいと思う。どうもわたくしは、柄谷氏みたいに幻としての「友愛」を信じる気にはなれず、もはや阪神とは人生ではないかと思うのだ。柄谷氏は批評家として絶好調の頃、阪神が優勝したのでなにか自我が拡大したような共生感を獲ていたに違いない。
確かに、85年といえば、野球に限っても、落合三冠王とか清原甲子園で大爆発とかがあって、なんかふわふわした感じがあったのをおぼえているが、今年も大谷とかヌートバーとかあったし、阪神の快進撃というのは、他に釣られてみたいなところがあるような気がするのはたしかだ。85年といえば、豊田商事事件、日航機墜落とかゴルバチョフ書記長登場とかの年であって、次の年がチェルノブイリ原発事故であることと別宇宙で興ったことのようだ。
しかし、今回の38年前の阪神日本一なんか、もはや須賀敦子の『ヴェネツィアの宿』の「オリエンタルエクスプレス」で、娘が父親が死にかけているときに、父が若い頃乗ったオリエントエクスプレスを経験してから死に目に会うみたいな感覚に近いものだ。
結論1、ドラゴンズの日本一回数に阪神が並んだので、名古屋人達のプライドが心配だ(棒読み)
結論2、日本シリーズ7回しかやれないのは実力でてるか分からないじゃん、かわいそう(細)