★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

殿の登場

2020-03-09 23:50:22 | 文学


殿の戸口の局に見出だせば、ほのうちきりたる朝の露もまだ落ちぬに、殿ありかせ給ひて、御随身召して遣水払はせ給ふ。


紫式部は殿(道長)とともにあり。枕草子が批評的なのに対して、こういう場面の紫式部の書きぶりはよく出来た通俗映画のヒーロー登場のようであり、「御随身召して遣水払はせ給ふ」と、お供のものに焦点を合わせているところなんか、いいとおもう。焦点の外にある道長の姿が逆に照射される。

橋の南なる女郎花のいみじう盛りなるを、一枝折らせ給ひて、几帳の上よりさし覗かせ給へる御さまの、いと恥づかしげなるに、我が朝顔の思ひ知らるれば

ここも道長に焦点を合わせながら、語り手の方にひょいと女郎花をそれを移してみせる。そして几帳の上から差し出すその先に紫式部がおり、まず感情「恥ずかしげなる」を言っておいて、「我が(すっぴんの)顔」を示す。ここで示されているのは、式部の恥ずかしい感情ではなく、彼女の顔と比べられてしまった道長の立派な姿である。

「これ。遅くてはわろからむ」とのたまはするにことつけて、硯のもとに寄りぬ。
女郎花盛りの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ


ここで「硯」を入れてくるところがさりげないが、そのことでかえって「女郎花盛りの色」が華やぐ。「露の分きける身こそ知らるれ」(露の恵みをうけられず美しくなれなかった我が身が恥ずかしいです)ということで、上の「恥づかしげなるに、我が朝顔の思ひ知らるれば」が変形されて、もはや紫式部も女郎花の仲間入りを秘かに果たしているのが小狡い。

「あな、疾」
と微笑みて、硯召し出づ。
白露は分きても置かじ女郎花心からにや色の染むらむ


自画自賛を道長に言わせる。心次第で女郎花は美しいんだよ、御前はどうかな?……

知るかっ

台風と云ふ新語が面白い。立秋の日も数日前に過ぎたのであるから、従来の慣用語で云へば此吹降は野分である。野分には俳諧や歌の味はあるが科学の味がない。勿論「野分の又の日こそ甚じう哀れなれ」と清少納言が書いた様な平安朝の奥ゆかしい趣味は今の人にも伝はつて居るから、野分と云ふ雅びた語の面白味を感じないことは無いが、それでは此吹降に就ての自分達の実感の全部を表はすことが不足である。近代の生活には科学が多く背景になつて居る「呂宋を経て紀伊の南岸に上陸し、日本の中部を横断して日本海に出で、更に朝鮮に上陸す」と気象台から電報で警戒せられる暴風雨は、どうしても「台風」と云ふ新しい学語で表はさなければ自分達に満足が出来ないのである。
 清少納言は野分の記事の中に萩や女郎花の吹き倒されたのを傷ましがつて居るが、ダアリヤやコスモスの吹き倒される哀れさは知らなかつた。


――與謝野晶子「台風」


そりゃそうなんだが、台風が文化のなかに侵入してくるには時間がかかった。紫式部の女郎花がすでに女郎花という名前を越えてしまっているように、台風は、梅崎春生の「無名颱風」のような無名に達してようやく科学から離脱したように思う。残念なことに、梅崎の作品を読めば分かるが、それは戦争に吹き飛ばされた台風だったのだ。


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