しめやかなる夕暮れに、宰相の君と二人物語して居たるに、殿の三位の君、簾のつま引き上げて居給ふ。年のほどよりはいとおとなしく、心にくきさまして、
「人はなほ、心ばへこそ難きものなめれ。」
など、世の物語しめじめとしておはするけはひ、幼しと人の侮り聞こゆるこそ悪しけれと、恥づかしげに見ゆ。
ぼんぼん頼通が続いて登場。道長の長男である。「幼し」という噂があるのはしょうがない。まだ数えで一七なのである。しかし、すでに公卿である。国会を開いたら、大臣の席に高校生が混じっているようなもんだ、しかも首相の長男である。
「人はなほ、心ばへこそ難きものなめれ。(女性はやっぱり気立てが大事だがそれこそ難しいよね)」
この一七歳ぐらいというのは、いっちょ前に哲学語る時期なんだよ。それを紫式部は褒めまくっている。若い男は良いよね……
うちとけぬほどにて、「多かる野辺に」とうち誦じて立ち給ひにしさまこそ、物語にほめたる男の心地し侍りしか。
彼が口ずさんだのは、「女郎花多かる野辺に宿りせばあやなくあだ名をや立ちなむ」(『古今和歌集』)である。美女ばかりのところに長居したら好色だと噂されてしまうなあ、という意味であるが、無論、自分がモテることをいいたいんじゃなくて、相手を「女郎花」と持ち上げていい気にさせたいのである。当然紫式部も「白馬の王子様みたい~」と物語上の男にたとえるわけである。
かゝる夜の月も見にけり野辺送り
これは俳人去来が中秋名月の夜に、甥の柩を送った時の句である。私も叔父の野辺送りに、かかる新年の風景を見るかと思うと、なんだか足が進まないように思われた。
ここにまた一つの思い出がある。葬式を終って、会葬者は思い思いに退散する。私たちは少し後れて、新しい墓の前を立ち去ろうとする時、若い陸軍少尉が十四、五人の兵士を連れて通りかかった。彼は私が中学生時代の同期生吉田君で、一年志願兵の少尉であるが、去年の九月以来召集されている。その吉田君に偶然ここで出逢ったのは意外であったが、叔父の死を聞いて、彼も気の毒そうに顔をしかめた。
「葬式に好い時節というのはないが、新年早々は何ともいいようがない。」
いずれお目にかかりますといって別れたが、私はその後再び吉田君に逢う機会がなかった。吉田君は台湾鎮定に出征して、その年の七月十四日、桃仔園で戦死を遂げた。青山墓地の別れがこの世の別れであった。同じ日に二つの思い出、人の世には暗い思い出が多い。
――岡本綺堂「正月の思い出」
生きているうちに物語上のそれになってしまう輩もいれば、死んでからなる人達もいる。最近は、だれかが死んでから物語を紡ぐ人々で溢れかえっている。これは危険である。我々は、生きている人間に対してもっと豊かな物語を紡ぐべきだ。