★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

悪人正機

2022-08-02 23:02:15 | 思想


善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。

我々は根本的に悪人であって善人と称するものは自意識の膜のなかでのことに過ぎないのであるからして、いわゆる世間的に非難されることによってその膜が破損した「悪人」は一歩他力本願に近づいている。もっとも近づいているだけであるが、悪人を救う弥陀の目的に自ら接近していることになるのであろう。それにしても、根本的に煩悩にまみれた悪人だと自覚することと世間的な「悪人」になることにはだいぶ開きがあるはずである。実際は、他人によって生死を決められる状態に置かれる事態が「悪人」だという事情が大きい。その「他」は仏の力なんぞではなく、単に他人のことであり、そんな不自由の中でわれわれのなかには真の何かが見えてくると思われたのである。これは案外、自らを頼んでいるようで自分の眉間にいつ刀が振り下ろされるかわからない武士たちに当てはまっている気がする。

そういえば、本多顕彰が『歎異抄入門』で、彼が結核になって歎異抄を読む前に、福来友吉などの念写実験とか霊魂の話とかに熱中したと言っていた。映画で有名になった貞子による念写実験は、井上哲次郎とか筧克彦の立ち会いの下に行われた。なんだか、立ち会っている人もなにかそれっぽいというかなんというかなのであるが、それはともかく、――歎異抄にのめり込む人たちのなかには、科学?や唯物論にのめり込んだひとたちがいる。案外、科学は死を体験するのであろうか。

万物は皆な流れ去るとヘラクリタスも言った、諸行は無常、宇宙は変化の連続である。
 其実体には固より終始もなく生滅もなき筈である、左れど実体の両面たる物質と勢力とが構成し仮現する千差万別・無量無限の個々の形体に至っては、常住なものは決してない、彼等既に始めが有る、必ず終りが無ければならぬ、形成されし者、必ず破壊されねばならぬ、生長する者、必ず衰亡せねばならぬ、厳密に言えば、万物総て生れ出たる刹那より、既に死につつあるのである。
 是れ太陽の運命である、地球及び総ての遊星の運命である、況して地球に生息する一切の有機体をや、細は細菌より大は大象に至るまでの運命である、これ天文・地質・生物の諸科学が吾等に教ゆる所である、吾等人間惟り此鈎束を免るることが出来よう歟。
 否な、人間の死は科学の理論を俟つまでもなく、実に平凡なる事実、時々刻々の眼前の事実、何人も争う可らざる事実ではない歟、死の来るのは一個の例外を許さない、死に面しては貴賎・貧富も善悪・邪正も知愚・賢不肖も平等一如である、何者の知恵も遁がれ得ぬ、何者の威力も抗することは出来ぬ、若し如何にかして其を遁がれよう、其れに抗しように企つる者あらば、其は畢竟愚癡の至りに過ぎぬ。只だ是れ東海に不死の薬を求め、バベルに昇天の塔を築かんとしたのと同じ笑柄である。


――幸徳秋水「死生」


獄中にいる幸徳秋水ですら科学を口にする。この科学というのが、「善」に近いものがある。この「善」は他力のようなふりをしているから厄介だ。我々は科学によって生きているのではなく、何を行ったかその結果によって生きている。


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