親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。
信心もないものが「念仏、あるいは別のせりふとか便利なものがあれば往生極楽するのかのう」みたいなこと言っててもしょうがない。念仏を唱えることは信心を高める何か呪文のようなところがあり、極端なはなし「おはよう」と似たところがある。言葉の世界は心を乱す。日蓮に襲われた念仏論者たちは日蓮の言葉のピストルに動揺する。そして、師匠に確かめに来てしまった。
親鸞は確かにおれが浄土に行くか地獄に行くかはしらん、と言ってのける。彼にとっては信心とは未来に伸びる実践としての信心である。そりゃ確かにわからんわな。
例えば、この文章を批評せよという課題を出すと感想文よりも高度なものが提出されていた時代は終わった。いまはむしろ、素朴な感想が書けない代わりに、明らかに間違った判断を性急にしている「間違っている文章」が提出されてくる。わたしは以前から、感想文じゃだめで根拠のあるレポートをかかせるというやり方を一般化すべきではないと主張してきたけど、正直なところ、ほれ見たことかという気分である。エビデンスとは、レポートなんかでは恣意的に選ばれた知識であり、選ばれた主張を選ばれた証拠で固めてもなんの正しさにも到達しない。小林秀雄ではないが、批評とは「己れの夢を懐疑的に語ることではないのか」。懐疑的に語ることが精々なのである。
研究でも、根拠と結論しかなくて根本的におかしいものが昔からあって、昔の私のものなのどそれかも知れない。根本的にセンスが狂っているもの、生き方が賢しらなものはだめであった。出席してれば単位OKみたいな価値が、ついに書くものにまで及んでいるのであった。
レポート書けば不可地獄に行くか秀浄土にいくかしらねえよ、としか言いようがない。――いま思ったんだが、やはり地獄や浄土は存在せず、その人間の駄目な生涯だけがあるのだ。最近は、死人に対して「天国に行った」みたいな、もはや何教かも分からないせりふが国営放送から流れてくる段階である。
白水社の一店員が、出版の事で、出頭を命じられた時、いきなり「お前は何だ」ときかれたさうである。「何だとはどういふ意味です」と反問したら、赤かファッショかと質問された。
――萩原朔太郎『「シンニッポン」欄』
赤かファッショか、どちらが地獄なのか浄土なのか知らないが、当時の警察もまだ親鸞の不肖の弟子レベルであった。いま戦前の白水社の堂々たる出版物をみて赤でありファッショであるとしか言いようがないかもしれないが、――より厳密に言えば、共産主義もファシズムも当時の「知的ファッション」という側面があった。そんなものに惑わされている警察は一生迷いから抜け出られない。浄土や地獄に行ったのは、本を真面目に読んで行動した連中だけだ。