★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

潜伏する地方の青春

2024-07-08 23:52:53 | 文学


「ああ、あれですか、コスモスに花が咲いたのですよ。夜になるまでお待ちなさい。今夜は月夜です。夜になったら、お母さんも一寸上の方まで行ってみます。その時、ちょっと覗いてみたらいいでしょう」
 もぐらの子供は、夜がくるのをたのしみに待っていました。
「お母さん、もう夜でしょう」


――原民喜「もぐらとコスモス」


Perfumeがすでに35歳であると知りショックを受けたが、のみならずおれはもう**歳とか想っているファンの皆さんに朗報です。うちの蛙に比べれば35歳も**歳も一緒です。もはや同い年と言ってよい。

――という感じで、くだらないことしか思いうかばない今日この頃であるが、暑さのせいであろう。「書を捨てよ、町へ出よう」というのが最近、日本が熱帯ではなかった時代の懐かしい主張と化した。

こういう季節には、大交響曲を聴いている頭の余裕がない。だから次のような屁理屈がうかんだので紹介する。――ラジオやテレビでポップスを流すときに途中まで聴かせてあとは音量絞って解説や紹介があるのがあれだけど、クラシックでも解説を重ねながら流してゆくのももしかしたら可能かも知れない。音楽は会話の一種かもしれんので。

今日は授業で『闇の自己啓発』を使った。――それは、闇と言うより、雌伏する者たちの現代の青春の書であった。授業のテーマはでは、「熱力学と文学」みたいなものであった。で、コミュ力、生きる力、読解力、人間力、漢字力、モラリッシュエネルギー、このなかで一番邪悪なのはどれかということで盛りあがった(私が)。青春のエネルギーとはなんであろうか?上のような屁のようなものではないことは確かである。

近代の青春については考え中である。佐々木孝文氏の島根文士の研究で、地方の近代化に一定の役割を果たした文学運動が、昭和期になりスタイルと化した文士が陳腐化し次は映画に向かった、という分析があった。そうだとしたら、ある意味すごく劇的な展開で、長野県だともう少し近代化運動としての文学運動は長く続いたのかも知れない。想像するに、長野県の運動というのは、必ずしも協働現象ではなく、例えば、村の地方文士予備軍はほんとに学校にひとりぼっちで、まるで隠れキリシタンみたいになっていた事例があるとおもう。実際、戦時下では文士と信仰者が組んで秘かに活動する例もあった。で、その結果、硯友社や白樺派まがいのものが保存されて急に戦後を迎えることさえあったように思う。もちろん、綴り方事件みたいなものを支えた運動や京都学派系の読書会みたいなものもたくさんあるわけだが、もっと広く潜っているものがあるのだ。あと、漢詩や和歌を読むグループはわりと堂々と雑誌を作り続けていたりする――つまり表に潜っているものがある――し、北部中心の?謡の文化なんかはつい最近まで勢いがあった。保守的なもののようにみえるけど、たぶんこれにもいろいろ方向性が違う集団がたくさんあったはずだ。


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