
夜、築地の待合へ客に呼ばれて往った某妓が、迎えの車が来ないので一人で歩いて帰り、釆女橋まで往ったところで、川が無くなって一めんに草茫茫の野原となった。彼女ははっと思って立ちすくんだ。彼女も川獺の悪戯のことを知っているので、こんな時に立ち騒いではいけないと思って、そのままそこへ蹲んだのであった。すると暫くして遠くの方から燈が一つ見えて来た。燈が見えるとほっとして気が強くなった。そのとたんに、
「どうしたのです、姐さん」
と云って声をかけられた。それは己を迎いに来ている車夫であった。
――田中貢太郎「築地の川獺」