をのこども、火をともして見れば、昔、こはたと言ひけむが孫といふ。髪いと長く、額いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、「西国の遊女はえかからじ」など言ふを聞きて、「難波わたりに比ぶれば」とめでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなく歌ひて、さばかり恐ろしげなる山中に立ちて行くを、人々飽かず思ひて皆泣くを、幼き心地には、ましてこの宿りを立たむことさへ飽かず覚ゆ。
足柄山は神奈川と静岡県にわたる山々であるが、写真で見る限り、大した山ではないようである。がっ、山というのは、近くに近づけば恐ろしく巨大で人間の把握しきれる大きさを越え、起伏のある闇という――ただの地獄である。孝標の娘の一行もそのなかで怯えておった。そこに遊女が現れる。
伝説の「こはた」さんの孫であった。美しく声は「空に澄みのぼる」如くである。
孝標の娘さんは、すっかり気分は変わってしまう。こんなところを彼女は「幼き心」と言っている。遊女についてはよくわからんが、彼女を「幼き心」といわせれるものがあったとは言える。彼女にとってその歌声が、垂直に立ち上り澄み渡る何かであった。
わたしの勝手な感慨によれば、演歌の世界は、子どもに対して自分が「幼き心」を持っていることを自覚させる効果があった気がする。演歌歌手はどさ回りの印象もあって、いまでも流浪の民的ななにかを持っているし、これがまた、大人の世界がある意味で「流浪」であることを自覚させる。
遊里の光景と其生活とには、浄瑠璃を聴くに異らぬ一種の哀調が漲つてゐた。この哀調は、小説家が其趣味から作り出した技巧の結果ではなかつた。独り遊里のみには限らない。この哀調は過去の東京に在つては繁華な下町にも、静な山の手の町にも、折に触れ時につれて、切々として人の官覚を動す力があつた。然し歳月の過るに従ひ、繁激なる近世的都市の騒音と灯光とは全くこの哀調を滅してしまつたのである。生活の音調が変化したのである。
――永井荷風「里の今昔」
それはそうなのであろうが、いまだって、そういうところは別の哀調があることはたしかだ。もっとも、それが一所に動かないものである限り、そこに共通のものがある気がする。つまり、それはある種の「帰郷」的な雰囲気だ。それが裏返って差別的な悪所となる。最近の、「夜の街」バッシングのニュースをみながら、この人たちは常に移動すべきなのではないか、と思った次第だ。ステイホームの時代、長く続くと言わざるをえない。