
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交はしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわりまことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。
和泉式部については、学部でも院でも演習で習ったはずであるが、わたくしには難しくてあまりついて行けなかった記憶がある。それでもこの前その「日記」の冒頭部を読んで見たら、結構諳んじていることが分かったので、勉強はしておくもんだなと思った。それでも和泉式部はとても難しいという感じがいまもしていて、いろいろ読んでからの方がわかるんじゃねえかと思っている。
「はかない言葉のにほひも見えはべる」(何気ない言葉が匂い立つようみえます)――これはなんだか分かる気がする。これを不心得者が、天才は却ってわかりやすく表現するものだとか言うてしまうのだが、そういうことじゃない。
それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。
いまも昔も批評の言語というのは、ただでもその人の格を落とす行為になりがちなのだ。下品になるというのもあるけれども、批判の言葉というものはそれ自体で歌や小説の境地に達するのは無理だからなのである。だから、この格の下落という現象は、人そのものを批判する場合には案外有効である。「このクソ餓鬼」という非難が、もっとひどい状態にある子どもを救う場合がある。否定か肯定かで考えている人間に何か創造的なことが出来るとは思えない。この紫さんの批評でも二項対立的に考えたために、和泉式部の勤勉な面を取り逃した。そもそも、こういう上げて下げてみたいな批評は、いまの、確かにAしかしBのやり方と同じで、Bの暴発を一生懸命押さえているという、ルサンチマンにルサンチマンを重ねてしまうやり方であって、精神衛生上よくないばかりか、時間の無駄なのである。
我々のコミュニケーションの場合は、褒める方が即効性があるみたいな半端な科学主義が入り込んでいるため、よけい時間がかかる。
自分はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやと云うほど擲った。そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。両腋から汗が出る。背中が棒のようになった。膝の接目が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。無はなかなか出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に口惜しくなる。涙がほろほろ出る。ひと思に身を巨巌の上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。
――漱石「第二夜」
無はアイロニカルなものであるけれども、ここにはいろいろなものを入れたっていいのだ。我々には自然な動作以外に役立つものはほとんどない。