
この殿、父大臣の御忌には、土殿などにもゐさせたまはで、暑きにことつけて、御簾どもあげわたして、御念誦などもしたまはず、さるべき人々呼び集めて、後撰・古今ひろげて、興言し、遊びて、つゆ嘆かせたまはざりけり。そのゆゑは、花山院をばわれこそすかしおろしたてまつりたれ、されば、関白をも譲らせたまふべきなり、といふ御恨みなりけり。世づかぬ御ことなりや。さまざまよからぬ御ことどもこそきこえしか。傅の殿・この入道殿二所は、如法に孝じよてたてまつりたまひけりとぞ、うけたまはりし。
アホ道兼は、自分が花山院を欺して退位させたのになんで自分に関白を譲らないんだとか言うて、親父の法事を蹴ったのである。むかしからこういう馬鹿はいるものである。理由がひとつあれば結果を導けるしそれが「よい」ことだと思っている。単位が足りてれば卒業、それが「よい」みたいな発想である。単位が足りていても「よい」とは限らないし、そもそも卒業できても「よい」こととは限らない。我々は「よい」ことを目指すべきだ。花山院をだまして退位させることが良いことか悪いことなのか私は知らないが、それは歴史的必然でもなければ、政治ですらなく――いわば、授業を十五回出席するようなもので、ただので出来事だ。
能登半島の大地震関連のニュースを見てると、高齢者や障害者へのケアの話がわりとでてくる。しかし、これは報道機関の取材の努力の所産にはみえず形式的なかんじにみえる。もう、こういう問題に触れること自体には授業十五回分の価値しかない。もうテレビは問題を発見する気はないとみてよい。言うまでもないことだが、天下国家?を考えることと、弱者をケアすることの混同はある種の危険性をもつものだ。ソ連とかナチスは弱者(労働者)へのケアを国是とした国家であり、それがどうなったかは皆の知るとおりだ。天下国家みたいな観念の消失は我々の社会性の欠落と関係がある。むろん、それは我々が経済的にもそんなことを考える余裕をなくしてしまったことが原因かも知れないが、――我々は『(弱者である)私』ばかりを問題にするようになってしまった。テレビはもう天下国家ではなく、視聴者の『私』にしか興味がないのだ。視聴者が孤独である(『私』しか物理的に存在しない)せいもあるかもしれない。アナウンサーのキャラクターがもう社会性を帯びていない。NHKでもそうで、視聴者にいそうな、ナルシスティックなにおいのする者がまじっている。NHKの厭がらせではなく、たぶん視聴者にあわせているのではなかろうか。
おもうに、我が國は昔からそうだったのかもしれない。さっき穂村弘出演で、短歌の番組やってた。それをみてたら、短歌みたいなものほどテクストみたいな考え方が鑑賞上は必要で、しかも作者は自意識の迷宮でねちっこく「いま・ここ」を旋回している必要があるんだなと思った。われわれが過去を忘れる癖は、こういう旋回から説明しうることだ。
昔、うちの親か誰かが、ムード歌謡あたりまではきけたけどあとはジャカジャカみたいなのでうるさくて、と言っていたが、わたしをしていわしむれば、クラシック音楽まではきけたけどそのあとはみんなジャカジャカだ。その人がそういうこと言ってたのは、アイドル歌謡が流行ってた頃であって、今考えてみりゃその人の感性が古くなっていたというより、ジャカジャカみたいな曲が実際多かったともいえる。むかしから松本なんとかは嫌いだったとか宮★はダメだとおもっていたとか、嘘はないんだろうが、それこそむかしから我が国はそういう言説で溢れかえっており、体制的言説の一種に過ぎない。今の感情を昔に遡って当てはめているわけである。と同時に、むかしから伊藤蘭が大好きすぎて死んでも好きみたいな持続性も多く観察される。いや、ほんとうは持続性ではなく、「いま・ここ」の旋回なのだ。
道兼も、花山院をだました時点で、時が止まっている。だからかれは、父親の法事を和歌集で楽しんで蹴っているのであろう。