★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

おためごかしからの逃走

2014-08-12 10:13:08 | 大学


昔、高峰秀子様がどこかで言っていたのだが、教科書は一人では読めないけれども本なら一人で読める、と。これは重要なことである。高峰秀子の文章に、学校化された文章、というかなんというか、教師特有の「おためごかし」的なニュアンスが殆ど感じられないのは、彼女が学校に行かず教科書で勉強していないというのが大きいのかも知れない。教科書には、書物としてのいわば一貫した意図がない。あえてそれを読もうとすれば、グローバル化対応とか、富国強兵とか、文化国家とかいう、まさに「おためごかし」が出てくるだけである。ところが、学校というのは、そういう下らぬものを一応錦の御旗として掲げないと、優等生、というより劣等生にはなりたくない劣等生という層がついてこないのである。つまり教科の内容は理解できないが、その「おためごかし」だけは理解できる層というのは、教師も含めて非常に多い、最近、すぐ授業中に「交流」とかしたがる輩はそういう奴らである。学びの自主性とかいう御旗を掲げているが、その実、教科内容を自分が理解できる程度へ引きずり下ろしコンプレックスを解消したい連中の自己満足に終わり、結果的に、学びの自主性を持った連中の邪魔をするのが目的になっている。(最近、聞いた話によると、授業の前には必ずなにか児童や生徒を褒めなければならないという方法論があるそうである。何をやりたいのかわからんが、たぶん「ご機嫌伺い」であろう)我々は教科内容とともに、そういう妙なおためごかしに関わる心理的からくりを繰り返し教え込まれている。特に、国語や道徳の教科書は、オムニバスだから、作品と作品の間にすきがある(笑)ので、危険である。国語の授業が、作品と関係ないことを教えてしまうのは、全面的に作家論のせいとか、教師の無能のせいばかりではなく、作品が教科書に載っていることからも来るのではなかろうか。

作品を面白く語れないのに、話し合いでごまかそうとしたり、作品を心のケア(笑)の道具にしたり、しまいにゃ、体育と称して運動場で劣等生と優等生をいじめてみたり、命の大切さを説いてみたり……、と。子どもたちよ、はやく学校から逃走せよ、と言いたい。一緒に教師も逃げても良いかもな……。最近は、大学まで学校化が進んでいて、素人のくせに大学の教員まで教師面するようになってきたから、大学も逃げ場ではないのかもしれない。かんがえてみりゃ、おためごかしを内面化しなければならないような学問をやり、まじめな学究タイプを研究と関係ないところでいじめて勝ち上がってきた連中が研究者の殆どを占める様になってしまっているから、大学が本質的に学校的になるのは当たり前だ。

大切なのは、道徳や心のケアではなく、作品と治療である。

とはいえ、おそらく「逃げた」結果が、今の状態なのである。


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