さるほどに平家滅び源氏の世になりて後国は国司に順ひ庄は領家のままなりけり、上下安堵して覚えしほどに同じき七月九日の午の刻ばかりに大地夥しう動いてやや久し、赤県の内白河の辺六勝寺皆破れ崩る、九重塔も上六重を揺り落す、得長寿院の三十三間の御堂を十七間まで揺り倒す、皇居を始めて在々所々の神社仏閣賤しの民屋さながら破れ崩る、崩るる音は雷の如く上がる塵は煙に同じ、天暗うして日の光も見えず老少共に魂を消し朝衆悉く心を尽す
平家が滅んで一息ついたところ、文治地震が起こった。これは一説には南海トラフ大地震ともいわれている。平家の没落とは何の関係もないが、当時はそうは思えなかった。いまだって、地震を人のせいにする言説は跡を絶たないので、たいして変わっていない。しかし無理もないのだ。我々は自分の見た範囲の中でしか因果律を紡げない。
さっきも、夕方になってこの世の終わり的な色に染まっていた。関東では颱風で大災害である。この情報が、たとえば当時は平家の滅亡だったのである。二つが関係あると思ってしまうのは、人の心の現象としてはそんなに狂っていない。
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最近の教育界での一部では、くだらない評価基準とやらに自分の行動を当てはめて反省したふりをしているお馬鹿が多いのであるが、これも平家滅亡と大地震を結びつけるのと変わらない。大切なのは、そのものの分析である。その力が落ちているから、自分のいらいらを隣の同僚のせいにして虐めを行うなどの犯罪者が出てくるのである。そういう短絡な輩の方がコミュ力があっていいと本当に考えている管理職もいるのだからあきれるが、本質的には、われわれは彼らを笑えない。似たようなことを種々やっているからである。
教育界の最近のニュースでは、組み体操だか人間ピラミッドの話題もあったが、むろん、合理的にはこれをやり続けているのは発狂レベルに決まっている。しかし、これをやり続けてしまう学校の空間を、生贄や祭りで法外における統治みたいなことをやっていた我々の社会に置き換えて考えてみれば、あまり馬鹿にするだけではすまないことも明らかなのである。社会は、法外の怖れみたいなものでいまでも維持されている。おそらくネットや為政者の無能がそれにあたっていて、教員だって、そういう役回りをすることを社会の無意識として求められる。教員の世界に限らない。さまざまな組織で、恐れ神のような存在や行事が統治の中核にあるではないか。それが崩れたとたんにエゴをむき出しにしてくる多くの人々がいるのは歴史の示すとおりである。
八九十七八十の者共、世の滅するなどいふ事は世の習ひなれどもさすが今日明日とは聞かざりしものを、と云ひければ童部共はこれを聞きて喚き叫びけり
本当は童部どもだって「喚き叫」んでいただけではない。さまざまな声を無視することでこの記述は成り立っている。諸行無常の繰り返しという観念の中にあっては、地震も平家も同じレベルで並んでしまうものだし、童部は等し並みに童部である。つまり、
十善帝王都を出でさせ給ひて御身を海底に沈め大臣公卿囚はれて旧里に帰り或いは頭を刎ねて大路を渡さる、或いは妻子に別れて遠流せさる、平家の怨霊にて世の失すべき由申しければ心ある人の嘆き悲しまぬはなかりけり
という次第になってしまう。形式論理的に、今度滅びるのは義経である。さっそく頼朝から刺客が放たれた。しかし、義経に見破られる。
土佐房一旦の害を遁れんが為に居ながら七枚の起請を書き或いは焼いて飲み或いは社の宝殿に籠めなどして許りて帰り大番衆の者共催し集めてその夜やがて寄せんとす
当時の風習について無智なのでなんとも言えないが、起請文を焼いて飲む、みたいなことをして刺客が逃れようとする描写に、あちらを燃やしたらこちらを燃やすみたいな子供じみた感性があるようにわたくしには思われる。こういう形式論理が、上の恐れ神を生成させてしまうのであった。
平家が滅んで一息ついたところ、文治地震が起こった。これは一説には南海トラフ大地震ともいわれている。平家の没落とは何の関係もないが、当時はそうは思えなかった。いまだって、地震を人のせいにする言説は跡を絶たないので、たいして変わっていない。しかし無理もないのだ。我々は自分の見た範囲の中でしか因果律を紡げない。
さっきも、夕方になってこの世の終わり的な色に染まっていた。関東では颱風で大災害である。この情報が、たとえば当時は平家の滅亡だったのである。二つが関係あると思ってしまうのは、人の心の現象としてはそんなに狂っていない。
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最近の教育界での一部では、くだらない評価基準とやらに自分の行動を当てはめて反省したふりをしているお馬鹿が多いのであるが、これも平家滅亡と大地震を結びつけるのと変わらない。大切なのは、そのものの分析である。その力が落ちているから、自分のいらいらを隣の同僚のせいにして虐めを行うなどの犯罪者が出てくるのである。そういう短絡な輩の方がコミュ力があっていいと本当に考えている管理職もいるのだからあきれるが、本質的には、われわれは彼らを笑えない。似たようなことを種々やっているからである。
教育界の最近のニュースでは、組み体操だか人間ピラミッドの話題もあったが、むろん、合理的にはこれをやり続けているのは発狂レベルに決まっている。しかし、これをやり続けてしまう学校の空間を、生贄や祭りで法外における統治みたいなことをやっていた我々の社会に置き換えて考えてみれば、あまり馬鹿にするだけではすまないことも明らかなのである。社会は、法外の怖れみたいなものでいまでも維持されている。おそらくネットや為政者の無能がそれにあたっていて、教員だって、そういう役回りをすることを社会の無意識として求められる。教員の世界に限らない。さまざまな組織で、恐れ神のような存在や行事が統治の中核にあるではないか。それが崩れたとたんにエゴをむき出しにしてくる多くの人々がいるのは歴史の示すとおりである。
八九十七八十の者共、世の滅するなどいふ事は世の習ひなれどもさすが今日明日とは聞かざりしものを、と云ひければ童部共はこれを聞きて喚き叫びけり
本当は童部どもだって「喚き叫」んでいただけではない。さまざまな声を無視することでこの記述は成り立っている。諸行無常の繰り返しという観念の中にあっては、地震も平家も同じレベルで並んでしまうものだし、童部は等し並みに童部である。つまり、
十善帝王都を出でさせ給ひて御身を海底に沈め大臣公卿囚はれて旧里に帰り或いは頭を刎ねて大路を渡さる、或いは妻子に別れて遠流せさる、平家の怨霊にて世の失すべき由申しければ心ある人の嘆き悲しまぬはなかりけり
という次第になってしまう。形式論理的に、今度滅びるのは義経である。さっそく頼朝から刺客が放たれた。しかし、義経に見破られる。
土佐房一旦の害を遁れんが為に居ながら七枚の起請を書き或いは焼いて飲み或いは社の宝殿に籠めなどして許りて帰り大番衆の者共催し集めてその夜やがて寄せんとす
当時の風習について無智なのでなんとも言えないが、起請文を焼いて飲む、みたいなことをして刺客が逃れようとする描写に、あちらを燃やしたらこちらを燃やすみたいな子供じみた感性があるようにわたくしには思われる。こういう形式論理が、上の恐れ神を生成させてしまうのであった。