★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

カオスと揚力

2020-03-15 21:57:50 | 文学


その夜の御前のありさま、いと人に見せまほしければ、夜居の僧のさぶらふ御屏風を押し開けて、「この世には、かういとめでたきこと、まだ見たまはじ。」と、言ひはべりしかば、「あなかしこ、あなかしこ。」と本尊をばおきて、手を押しすりてぞ喜びはべりし。
上達部、座を立ちて、御橋の上にまゐりたまふ。殿をはじめたてまつりて、攤うちたまふ。上の争ひ、いとまさなし。


パーティは何か土産が必要で、紫式部が夜居僧に中宮の様子を見せたこととか、道長自ら双六遊びで紙を賭けて遊んでいるところもサービスなんだが、サービスする方が自らの高さを示すという感じで、このパーティの場面ではやたら、下々の下人とか役人とかがでてくる。場違いなセンスの悪い服装をしてきてしまった女房とか……。その代わり、上のように、「本尊」という言葉がさりげなく吐かれ、これよりも上の母子、上達部、道長、お上、というこの世の春を謳歌する人々がこれでもかと並べられるのだ。

いわば嫌みなやり方なのであるが、これはこれで、お上から下々に急に視点が動くことがおそらく可能になっているのである。若者風に言えば「カオス」状態が基盤として用意されている気がする。

この前、録画してあった「翔んで埼玉」という映画を見たが、埼玉と千葉の連合軍が都庁を包囲したお祭り場面は二人の美男の扇動した革命運動の「都市伝説」とされて、いわば道長や紫式部の世界だ。これに対して、この都市伝説を心の支えにした「全国埼玉化計画」は下々の地道な活動である。この二つは地続きなのである。

コロナ騒ぎで、表向きは「コロナ絶滅作戦」(自粛運動も含む)をやっていることにし、裏ではなんちゃって人権=好き勝手行動の自由は行使する。どうも我々が好きなマスクは、この仮面の表と裏を使い分ける隠喩として積極的に用いられている気がする程だ。

夕方、エルンスト・カッシラーの『ルネッサンス哲学における個と宇宙』の翻訳を読んだが、そこでジョルダーノ・ブルーノの詩が出てくる。

Non temer, respond io, l' alta ruina !
Fendi sicur le nubi, e muoro contento,
S il ciel sì illustre morte ne destina!

恐るるな、我は答える、昂揚した破滅を
暗雲を決然として切り裂き、満足して死ね
至高の天が我々に死を定めたもうならば


自我とは、こういう揚力のごときものであり、我々の場合はそうではない。我々の場合、かかる揚力はコロナ以上に病気と見なされる。


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