★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

毎日毎日つまらないことだらけなのでネットで遊ぶ

2012-07-19 23:40:51 | 思想
http://mainichi.jp/feature/kaasan/

「毎日かあさん」の最近まれに見る傑作

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120719/234639/

小田嶋隆氏の最近好調のコラム。先週の文楽についてもよかった。氏のコラムは、氏自身が興味があるのかないのか良く分からん話題の時が一番面白い。つまり、この態度はこれからの市民の理想型ではなかろうか、ある意味でぇ~。興味ないことで一番公共性を発揮できるのはすごいよ。

http://www.nicovideo.jp/watch/nm4965434

クラシックオタクは、大作曲家の大交響曲のあら探しをして「第6より第5だ」「あのオーケストレーションはいまいち」とか言いだすのであるが、大作曲家は短い合唱曲でも全然格が違うことが分かる曲。私の葬式で、私の指導学生はこれを合唱すべし。

諸葛亮大地震の前触れがひどい

2012-07-15 23:10:32 | 文学
前に「三国志」のドラマ観ていると書いたけど、昨日、第2部の終わりまでたどり着いたので覚書をしておこう。

第2部は、呂布の死後から、劉備が諸葛亮を見出す(あ、逆か……)直前までであった。この「中原逐鹿」の部分というのは、ドラマ的にいって、おそらくこのあとのレッドクリフ「赤壁の戦い」の為のステップであって、それぞれの人物達が、いまいちの活躍をみせる。主な人物達のいまいちさは以下の通り。

・曹操……頭痛持ちのふられ専門キャラ。呂布からうばった貂蝉をいつもの趣味で奪おうとしたところ自害されてしまう。関羽が大好きなので、呂布の赤兎馬までくれてやるが、やっぱりふられる。

・劉備……負け戦専門キャラ。よく考えてみたら、こいつ、50にもなってなんにもしてないじゃないか……。最近いきなりキレたり、泣いたりする。義理や恩を重んじる余り危機管理能力に欠けることが判明。ついに、いままで自分がいまいちだったのは「軍師」がいなかったためだと、人に言われてようやく気付く。遅いわ。張飛と関羽を見て気付けよ。

・関羽……千里行専門キャラ。あるいは、主人公格は裏切りも正義に見えるキャラ。一度曹操にくだり、袁紹軍の大物をぶった切ったりしていた。だいたい、劉備が生きていなかったらどうなっていたか。曹操のもとで出世街道まっしぐらだ。この後ろめたさがあるから、もう千里行でも何でもするしかないわな。

・張飛……一歩まちがえばやはり山賊以外の何物でもないキャラ。噂だけで関羽を斬り殺そうとしたり、梅の木に八つ当たりしたり、お前は一体なんなのだ。

・袁紹……いざとなれば驚くほど頭の回る男だと言われつつそういう場面は一度もなかったキャラ。70万で5万の曹操軍に負けるとは……、真似した日本軍がアメリカ軍に挑んでとんでもないことになったじゃないか。変な前例つくるなや。

・漢献帝……めそめそキャラ。いつも泣いてる。

・許攸……寝返り自慢キャラ。袁紹が自分の進言をまったく聞かないので曹操に寝返る。しかもそれを曹操本人に向かって自慢したので許褚に首をはねられてしまう。一体、軍師の癖になんという見通しの悪い奴であろうか。

・除庶……天才だがマザコンなので一話しか活躍しなかったキャラ。劉備の初代軍師でなぜ片田舎でくすぶっていたのかわからない天才。しかし、曹操が「母親を人質にとったぞ」と噂を流すと、すぐに劉備を捨てて曹操の下へ。長く「ドラマ三国志」をみてきたが、ここまでのアホは初めて見た。下は、劉備を捨ててゆく場面。このアホは劉備にまで感染する。劉備曰く「除庶の後ろ姿を遮ったあの木を切り倒せっ」←狂ったな。



……というわけで、第2部最終話は、除庶が母親に会うために劉備から去るところで終わった訳である。第1部は、アホスギ呂布の死で終わり、第2部は、マザコン除庶のトンズラで終わる。明らかに、もっとまともな英雄の活躍を見たいと思わせてひっぱる、弁証法的なやり方である。最近、いろんな軍師の失態が多かったのもあからさますぎる。さあ、お待たせ致しました……。

自己否定!自己否定!

2012-07-14 22:34:09 | 文学


読んだ。解説の糸井重里も言っているけれども、ここには自己否定の激しさみたいなものがある。先日の『赤い雪』にはあまりそれは感じなかったけれども。中野重治と柳田國男の違いみたいなものかな……。



昔のこういう本には、作品に子どもの名前と指導者の名前とが載っていることが多いと思うが……。冗談半分で言うのであるが、戦争責任は子どもにあるのであろうか、指導者にあるのであろうか。私はどちらにもあると思う。さしあたりは、そんな認識はあるべきである。だいたい、こういう戦争をあおる作品がでてくるにあたり、果たして指導者が一生懸命だったのか、子どもが一生懸命だったのかは容易に決められない。子どもは指導者に脅迫されているが、指導者も子どもに同時に脅迫を受けている。教壇に立った者なら、有象無象の輩の(しかも「社会」が背後に控えている)発する同調圧力の物凄い波動を感じなかった者はあるまいよ。

わたくし自身を振り返ってみても、子どもの時の過ちは案外大人になってそれを必死に打ち消そうと思うものである。あるいは「今更やめられない」という感じで過ちの合理化を一生懸命はかるか、どちらかなのではなかろうか。ある程度大人になると、やっちまった時に屁理屈付けてるから反省の質が違ってくるが、子どもの場合の過ちは大人になって全否定、あるいは全肯定しなければ自己同一性が保てなくなるのではなかろうか。しかも、上の戦争の終わったあとの場合のように、大人から「あれは過ちでした~」と、過去を他人から全否定され、子どもだからという理由で罪を免罪された子どもは大人になってどう出るか。自分で自分を罰しようと思うのではなかろうか。もちろん、大勢の子どもたちはそうでもないかもしれん。大人達だって大半は過ちが何なのか罪があるかないかなんかは考えてやしなかった。大江健三郎や「自己批判」運動に走ったインテリを世代の代表として扱う訳にはいかないであろう。でも、誰かが自分だけにはない責任をひっかぶって自ら「私が悪かったことにするから」と大人ぶる必要があったのではないか。そうすれば、上のように自己同一性などという幻想に向かって合理化を続ける思春期的状態を続けることもなかったのではなかろうか。連合軍が天皇を免罪してそういう大人にしなかったことがあるんだとすれば、まあ、うまいことやられたということである……

……無論、以上の事情は、巷を騒がしているいじめ問題とも関係がある。

見ると、吉助の口の中からは、一本の白い百合の花が、不思議にも水々しく咲き出ていた

2012-07-13 23:10:23 | 文学
 じゅりあの・吉助は、遂に天下の大法通り、磔刑に処せられる事になった。
 その日彼は町中を引き廻された上、さんと・もんたにの下の刑場で、無残にも磔に懸けられた。
 磔柱は周囲の竹矢来の上に、一際高く十字を描いていた。彼は天を仰ぎながら、何度も高々と祈祷を唱えて、恐れげもなくの槍を受けた。その祈祷の声と共に、彼の頭上の天には、一団の油雲が湧き出でて、ほどなく凄じい大雷雨が、沛然として刑場へ降り注いだ。

……四時間目、芥川龍之介「じゅりあの・吉助」の演習をやっていて、上の部分の解釈を問題にしていたところ、教室の外も大音響と共に豪雨になった。



人びとには、「べれんの国の若君様、今はいずこにましますか、御褒め讃え給え」という吉助の祈祷が匂うようであった。

吉本隆明も原発事故も文化のせい

2012-07-11 23:03:26 | 文学
今日図書館で『日本児童文学』のバックナンバーを漁っていたら、『中央公論』の場所につい立ち止まってしまい、内田樹と高橋源一郎の対談「吉本隆明と江藤淳」(2011・12)を読む羽目になった。あんまり面白くなかったねえ。おじさん達が吉本や江藤の思い出──というより高校生が部室で雑談をしているようであった。雑談が本人にとってなぜ面白いかと言えば、そこに分析がないからである。思い出と共に記憶されている書き手というのは不幸である。

私は、吉本隆明が「生活者」の生活倫理の延長で政治過程やら文学を論じようとしたとは思わない。いろんな吉本読者が彼から離れたと言っている所謂「コム・デ・ギャルソン」事件も、吉本が大衆に付いていこうとしていたためにやりすぎてしもうたのだ、とは思わない。コムデギャルソンはコムデギャルソンであり「大衆」ではないっ。吉本は彼の意図を超えてそもそも見かけほど一貫していない人だと思うのである。埴谷雄高は、「もっと一貫してくれよ。おれは一貫してるけど目立たないからさあ、君が頼りなんだよ」と言いたかったのではあるまいか。埴谷は資本主義を舐めておるな。我々は商品を買えば、もう既に買う前の人間ではなくなっているのである。



で、たまたま勝又進の『赤い雪』を読んだので、果たしてこれは解説の呉智英の言うように近代化・均質化以前の世界が描かれているのであろうか、と思った。私は、世界をくまなく確かめて歩き尽くさない限り現に均質化しているかしていないかは言うことは出来ないと思う。最近、「原発事故は日本の文化のせいです」とか言い訳した国会報告書が、英国だか米国の新聞で袋だたきにあっていた。責任を文化のせいにするとは頭がおかしいのかっ、と。「文化」とか言えば話が収まると思っている我々の一部の頭の悪さはいつものことであるが……、その「文化」の内実を勝手に均質化して「結論」する習慣がインテリの中にあることの方がたちが悪いかもしれないし、もしかしたら頭が良すぎるのかもしれない。それは、米英のある種の人達にとっては、原因と責任がどこにあるかを考えようとしない後進性に見えるかもしれないが、──実際は、原因や責任を政治過程で誰もがその内実を思い出せないほど複雑にしてゆくことで最後に恰も何かが偶然に自然生成したかのように繕う高等テクニックなのかもしれず、そのテクニックのいちいちをいつまでも明らかにせず「文化でーす」とニヤニヤしていることが一体なんなのか、一体いつまでグローバリズム(笑)の中で通用しそうなのか、考えてみる必要があるであろう。一方、米英の一部の方々は原発の問題を単に扱う人間の責任の問題にしたいのかもしれないが、そう簡単に騙されへんでー。原発の問題は、まさにあんた方の「文化」の問題ではないか。そして原子爆弾の責任者ははやく出てこい。こちらは何年も待ってるんだけど。

ジョージ・オーウェル 対 フリードリヒ・エンゲルス

2012-07-08 03:05:28 | 文学


角川文庫の「動物農場」がどっか紛れてしまったが、最近生協で漫画版が売っていたので、ラムネと一緒に飼ってきた買ってきた。オーウェルを反共主義者として祭り上げる人達もいたが、スペイン内戦で共産主義者として?戦った経歴からしても、小説の中身からしても、どうみても正統派プロレタリア文学(笑)の人としか思えない。特に「1984年」が文化人にとって、全体主義批判の根拠の最後の砦として機能しているこの半世紀──、マルクス主義失墜のあと、頼れるのはオーウェルだったわけである。

「1984年」は何だかわからんが支配されていることの恐怖を描いたわけだったが、「動物農場」は、余りにも明瞭である支配を描いている。明瞭すぎてスターリンが豚であったこと迄見えてしまっている。最後に二本足で歩き出した豚一族は豚から人間に進化した訳ではなくて、おそらくはじめから奴は二本足の豚だったのである。まわりのアホな動物たちにすら最後にはスターリンの正体が分かってしまったわけであった。(なんというプロレタリアートに対する信頼であろうか。)しかし余りにも明瞭な支配にもブラインドは存在した。豚という意味にまつわるブラインドである。

……というのは半ば冗談であるが、エンゲルスの著作の中でも特にあかんかったと思うのが右の「猿が人間になるについての労働の役割」。あかんのは、エンゲルスが科学者であったところから来ているのではなかろうか。彼は人間の中に猿や豚が混じっていることに気が付かないのである。

石激

2012-07-06 23:44:11 | 文学


志貴皇子の石激の歌も真っ青の、×松の癖にあらぬ大雨

今日は、「じゅりあの・吉助」についての演習で、勢いあまって、人格神と理神論とかについて恐ろしく単純化された間違いだらけの宗教論をしゃべってしまったが……。そのせいであろう、誰か(何か)の怒りに触れたのである。

真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり

2012-07-05 23:02:04 | 映画


二・二六事件のことは良く知らないが、時間があれば少しずつ勉強しているつもりである。上は、立野信之の小説をもとにしたもので、佐分利信(←!)監督の映画。

実際はどうだったかわからんが、完全に頭にきてしもうている青年将校達が「やるぞ貴様裏切るのか自決するぞいや法廷闘争だ暗黒裁判だ天皇陛下万歳」みたいな感じでいきり立っているのに対し、北一輝おじいちゃんが「まあいいか」みたいな感じで傍観しているという……この事件に限らないよくある風景を描いている。無論、実際はもっといろいろとあったはずである。事を有利に運ぼうとしているのは、軍人や政治家達だけではない、驚いたふりをしている国民や、昭和天皇だって同じである。勝手に自分の軍隊が動きまわっているのを見て見栄の上でもイライラしない大将がどこにいるというのだ。どうも、尊皇の連中というのは、天皇をなにかインパーソナルな何物かと思い「過ぎる」ところがあるのではなかろうか。三島由紀夫はそこんとこよく分かっていて、天皇個人に対する反感を隠そうとしていなかった。──いや、私は三島に影響されたために、そんなことを思うに過ぎないかもしれない。実際の二・二六事件は、もっとしょうもない理由で起こった政治的騒乱だったのかもしれない。昭和天皇に関しても、高峰秀子様が「たぶんいいひと」と言っていたので、たぶんそうなのであろうが、秀子様は青年将校に会ってもそう言ったかもしれない。