★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ああ、日本が戦争に負けて、よかったのだ

2015-09-18 23:16:08 | ニュース


しかし、私はあの日、青森で偶然、労働者のデモを見て、私の今までの考えは全部間違っていた事に気がつきました。
 生々溌剌、とでも言ったらいいのでしょうか。なんとまあ、楽しそうな行進なのでしょう。憂鬱の影も卑屈な皺も、私は一つも見出す事が出来ませんでした。伸びて行く活力だけです。若い女のひとたちも、手に旗を持って労働歌を歌い、私は胸が一ぱいになり、涙が出ました。ああ、日本が戦争に負けて、よかったのだと思いました。生れてはじめて、真の自由というものの姿を見た、と思いました。

――太宰治「トカトントン」

先ほどから寝ている方が沢山おられる――メタファーでもあるよ、当然。

2015-09-16 04:33:36 | 思想
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/264668


すみません、こんなことを言うのは非常に申し訳ないのですが、先ほどから寝ている方が沢山おられるので、もしよろしければお話を聞いていただければと思います。[…]指摘されたこともまともに答えることができないその態度に、強い不信感を抱いているのです。政治生命をかけた争いだとおっしゃいますが、政治生命と国民一人ひとりの生命を比べてはなりません。

……SEALDsの奥田氏が国会の公聴会でしゃべったというので、書き起こされていたものを見てみた。なかなかの能力だとおもった。デモの時のかれの演説もいくつか映像でみたことがあるが、全体的にある種の韻の踏み方というか、リズム感がいいのである。若さに必ずしも備わっているものではないから、一生懸命考えた末に出てきたものであろうと思う。所謂「リアリズム」の観点から言えば、彼の論理についていろいろあげつらうことは可能なのであろうが、デモや行動が、言葉の繊細さ誠実さによって生じる――というか、政治的正しさだけでは人は動かないのである――ことは、政治的局面に立つ人間は自覚しておいても良さそうだ。所謂「リアリズム」は論理としては整合性を持っているように見えるが案外乱暴な精神を思わせる言葉によって構成されてしまうことが多い。そのリアルが我が国では自然主義の昔から、善人の顔をした悪人の「露悪」を意味しているからである。だから、人びとを分断する言葉は、ナショナリズムに立とうとも、もはやわれわれは越境者としてかあり得ないのだという立場をとろうとも……、現実主義者のふりをした瞬間に、どちらにも生じる可能性がある。残念ながらというか、なんというか、学問的な分野でも芸術的な分野でも、そんな自覚のない人が大声を張り上げてしまうのは、今も昔も変わりないように思われる。

目的を同じくした者同士が、自らの信じる「リアリズム」の言葉の無神経さと無謀さによって内ゲバ状態に陥って行くのをわたしも様々に見てきた。問題は、運動がそれが行われている「現在」のリアリティを見つめすぎるところにあると私は思う。運動を形作るのは、運動がない時代に考えられたものであって、思いつきは大概役に立たない。奥田氏のいう「個」は、氏の場合は案外素朴なものなのかもしれず、それがよいところなのであろうが、実際は長い間の精神的抵抗の経験を経ないと形作られないものであると思う。実際、最近の抵抗運動の盛り上がりは、急に出てきたものではなくて、かなり前から研究室や書斎や街角で始まっていたものなのである。(確かに、その都度流れにのっているだけの者も散見されるのであるが、それはそれ、ちゃんとノートに記録しておけばいいことだ。)それが急に盛り上がってみえるときがあって、まあ「革命」とか「運動」に見えなくもないわけだ。しかし、それを歴史的必然とか呼べないのは、まったく予測がつかず、どの時点でも五里霧中なのにはかわりがないからだ。その感覚をなくした輩が乱暴な言葉、いや精神で人を動員しようとしてしまうのである。

あと、我々の世代に多いと思うのだが、抑圧に慣れて、潜っていたのを忘れて更に潜ろうとする傾向が……。自らの起源をわすれずにいたいものである。

しなーのーのくーにーはーじぃっしゅううに~

2015-09-14 19:08:42 | 音楽
阿蘇まで噴火した今日この頃ですが……



四方にそびゆる山々は
御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
浅間は殊に活火山
いずれも国の鎮めなり
流れ淀まずゆく水は
北に犀川 千曲川
南に木曽川 天竜川
これまた国の固めなり

……いまや御嶽は活火山なんだが……、それはいいとして山は「国の鎮め」であり、川は「国の固め」である。この国は長野県のことであるから、日本国がどうなろうとしったことではないのであるが。(「信濃の国」は、もともと日清戦争の頃の「軍歌」ばかり歌わせる糞じみた教育現場に、一石を投じるために創られたらしいのだ。)それはともかく、川は氾濫し火山は火を吐き続ける。我々の国には鎮めや固めが多すぎる。どうも、そうおもわなければいろいろと災害が多すぎるのではないか。合理的に考えている暇がなかったのではなかろうか。ここまでいろいろと続くと、我々が弁証法的ではなく俳句や狂歌で遊びがちなのもそんな暇の問題と関係あるのではないかと妄想してしまう。もちろん、いやに熱くなって人災まで起こそうとする輩も居るから、それに対しては、鴨長明の所謂、

月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな

という気分がいいと思うのである。無常観は憲法9条のような積極的なものではなかったか。そうであって欲しい気がする。

日本フルートフェスティバルin かがわ に行ってきました

2015-09-13 22:57:25 | 音楽

電車に乗ってゆきました。向こうに妙なものがいました。


・「サウンド・オブ・ミュージック」より……ジュニアフルートアンサンブルの演奏。思ったんだが、我々素人の耳は、ビブラートかけた音より、ノンビブラートの音に美を感じるようになってきているのではなかろうか……。

・「眠りの森の美女」と「コッペリア」のワルツ、「トルコ行進曲」……フラウトマジコアンサンブルの演奏。そういえば、昔、ワルツの演奏をした後行進曲を演奏すると、行進曲も三拍子っぽくなるという噂を聞いた。

・「キャンディード序曲」……クリシュナフルートアンサンブルの演奏。キャンディードってひどい話ですよね……。

・E・バートン「ソナチネ」……富久田治彦さんのソロ。ピアノが凝ってるなあ……と思ったら、この作曲者ピアニストか……。

・カンタータ「我はみちたれり」、リナルドより「涙の流れるままに」、メリー・ウィドゥより「ヴィリアの歌」……林里美さんとクリシュナフルートアンサンブルの演奏。救い主たる赤ん坊に出会ったからといって余はもう満足じゃとは何事か、とわたくしは思うね。本当は、赤ん坊を前にしてさえ「泣かせてくれー」と思っていたにちがいない。対して、一般的には恋の歌にはそんな逡巡はないように見える。が、森の精に一目惚れで小屋に誘惑されてキスしたとか、よくわからんが「メリー・ウィドウ」はものすごく病んでいる作品のような気がする。

・ドボルザーク「弦楽セレナーデ」……90名によるフルートアンサンブル。やっぱりドボルザークは若い頃からすごいな。メロディが変わると会場の空気が変わる。各パートが人の動作みたいに自然にでてくる。すごいなあ……

・エルガー「威風堂々第一番」……同上の演奏。この曲は、イギリス人がやるよりイタリア人とかがやった方がいいような気がする。という偏見丸出しのわたくしであった。

感想……フルート男子はモテそうな気がする。

蝶は人の霊魂であるというようなことが、深く頭脳にあった

2015-09-11 23:19:25 | 文学


 すると、突然自分の足に軽く触れたものがある、ゾーッとしたので見ると、一疋の白い蝶だ、最早四辺は薄暗いので、よくも解らぬけれど、足下の辺を、ただばたばたと羽撃をしながら格別飛びそうにもしない、白い蝶! 自分は幼い時分の寐物語に聞いた、蝶は人の霊魂であるというようなことが、深く頭脳にあったので、何だか急に神経が刺戟されて、心臓の鼓動も高ぶった、自分は何だか気味の悪るいので、裾のあたりを持って、それを払うけれど、中々逃げそうにもしない、仕方なしに、足でパッと思切り蹴って、ずんずん歩き出したが二三間行くとまた来る、平時なら自分は「何こんなもの」と打殺したであろうが、如何した事か、その時ばかりは、そんな気が少しも出ない、何というてよいか、益々薄気味が悪るいので、此度は手で強く払って歩き出してみた、が矢張蝶は前になり後になりして始終私の身辺に附いて来る、走ってみたらと思ったので、私は半町ばかり一生懸命に走ってみた、蝶もさすがに追ってこられなかったものか、最早何処にも見えないので、やれ安心と、ほっと一息付きながら歩き出した途端、ひやりと頸筋に触れたものがある、また来たかとゾーッとしながら、夢中に手で払ってみると、果せるかな、その蝶だ、もう私も堪え兼ねたので、三町ばかり、向う見ずに馳け出して、やっとのことで、赤羽橋まで来て、初めて人心地がついた、清正公の此処の角を曲ると、もう三田の夜店の灯が、きらきら賑かに見えたのだ、この時には蝶も、あたりに見えなかった、が丁度その間四五町ばかりというものは、実に、一種何物かに襲われたかのような感がして、身体が、こう何処となく痳痺したようで、とても言葉に言い現わせない心持であった、しかし、それからは先ず無事に家へ帰ったものの、今日まで、こんな恐ろしい目に出会った事は未だにない、今でも独りで居て偶々憶出すと、思わず戦慄するのである。

――岡田三郎助「白い蝶」

秋の夜長、やっぱりベートーベン

2015-09-10 23:21:50 | 音楽
暑すぎたり寒くなったりと動揺しているうちになんだか夏に仕事が全然進まなかったことが判明し我々を絶望させる今日この頃ですが、むしゃくしゃする秋の夜長はベートーベン(戦時下ナチス型フルトヴェングラー)ですね


ちょっと明るく生きてみたい人には復活型アバド氏で幸福になりましょう
https://www.youtube.com/watch?v=n4gzX1_OavA

9月になって焦るやつは素人とかひとりごち、却って自分を傷つけたいひとは、【怖い】チェリビダッケ【声】で自分に喝を入れましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=IwLLh6K6QQ8


あと、日本は滅びるねと思いたい人は、のだめのベートーベンでも聞いてくれ


時々に踊って又やめる

2015-09-09 23:23:28 | 文学


「地蔵は始終踊っているんですか」と、わたしは訊いた。
「日が暮れてから踊り出すのですが、夜なかまで休み無しに踊っているのじゃあない。時々に踊って又やめる。それを拝もうとするには、どうしても気長に半晌ぐらいは待っていなければならない。それには丁度いい時候ですから、夕涼みながらに山の手は勿論、下町からも続々参詣に来る。そのなかには面白半分の弥次馬もありましたろうが、コロリ除けのおまじないのように心得て、わざわざ拝みに来る者も多い。そんなわけで、高源寺の縛られ地蔵はまた繁昌しました。

――岡本綺堂「地蔵は踊る」

蝉の抜け殻

2015-09-09 01:58:48 | 文学


 私は、突瑳に幻を変えて――
 私は、一瞬にして、懶うげな空気の中へ、透明な波紋となつて溶けてしまふと、この坂道に鳴き頻るジンジンとした蝉の音となり、そして、この真つ白な病室へ――私は、もんもんと呟き乍ら木魂して来るのであつた。

――坂口安吾「蝉――あるミザントロープの話――」

昨日の猫ちゃん

2015-09-09 01:03:33 | 文学


吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは教員という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この教員というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。

――「吾輩は猫である