★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

しなーのーのくーにーはーじぃっしゅううに~

2015-09-14 19:08:42 | 音楽
阿蘇まで噴火した今日この頃ですが……



四方にそびゆる山々は
御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
浅間は殊に活火山
いずれも国の鎮めなり
流れ淀まずゆく水は
北に犀川 千曲川
南に木曽川 天竜川
これまた国の固めなり

……いまや御嶽は活火山なんだが……、それはいいとして山は「国の鎮め」であり、川は「国の固め」である。この国は長野県のことであるから、日本国がどうなろうとしったことではないのであるが。(「信濃の国」は、もともと日清戦争の頃の「軍歌」ばかり歌わせる糞じみた教育現場に、一石を投じるために創られたらしいのだ。)それはともかく、川は氾濫し火山は火を吐き続ける。我々の国には鎮めや固めが多すぎる。どうも、そうおもわなければいろいろと災害が多すぎるのではないか。合理的に考えている暇がなかったのではなかろうか。ここまでいろいろと続くと、我々が弁証法的ではなく俳句や狂歌で遊びがちなのもそんな暇の問題と関係あるのではないかと妄想してしまう。もちろん、いやに熱くなって人災まで起こそうとする輩も居るから、それに対しては、鴨長明の所謂、

月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな

という気分がいいと思うのである。無常観は憲法9条のような積極的なものではなかったか。そうであって欲しい気がする。