★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

木蓮によく似た架空的な匂い

2015-11-14 16:31:19 | 文学


「あの遠くの柿の木を御覧なさい。まるで柿の色をした花が咲いているようでしょう」私が言った。
「そうね」
「僕はいつでもあれくらいの遠さにあるやつを花だと思って見るのです。その方がずっと美しく見えるでしょう。すると木蓮によく似た架空的な匂いまでわかるような気がするんです」
「あなたはいつでもそうね。わたしは柿はやっぱり柿の方がいいわ。食べられるんですもの」と言って母は媚かしく笑った。
「ところがあれやみんな渋柿だ。みな干柿にするんですよ」と私も笑った。

――梶井基次郎「闇の書」

職業としての村上春樹

2015-11-12 06:56:40 | 文学


村上春樹のすごいところは、いつの間にか速読法を身につけたらしいと錯覚を起こすほどはやく読めるということである。本書でも述べられているが――、徹底的な推敲によって文章が研磨されているのである。彼が音楽好きなのは非常に彼の作品にとって本質的である。音楽を模倣しようとする如く、へたくそなアーティキュレーションを許さないのである。だから、読者はどんどん読んで(聴いて)しまう。しかしだからこそ、作者の文章(演奏)が嫌いな息づかいだと感じる人は、内容以前に不快感を感じる。音楽の演奏は、仮に作品が普遍的な感情や理念を目指していたとしても、その息づかいを聴衆に受け入れさせることができるかが、まあとりあえずは問題になるところだろう。カラヤンやフルトヴェングラーにファンとアンチがいるのと同じ現象が、村上の小説にたいしても起こる。

だから(たぶん……)、どういう内容だったのか案外読者は忘れがちであり、わたくしも職業柄だいたい主要な作品は読んでいるはずなのに、ほとんど覚えていない。試しに「風の歌を聴け」をおおかた読み直してみたのだが、中絶や恋人の死などが描かれていることさえ覚えていなかった。

村上の小説は、たぶん、死者の鎮魂であり、全体として「レクイエム」みたいなジャンルなのだと思う。そこでは、生前のことを細かくあげつらったりはしない。そういう時には、やっぱりあいつも人間だった、弱い人間だった、それで死んだ、なにも出来なかった、などと言っておくのがよいだろう。どうも村上の小説をよんでいると、その延長で生者も死者みたいな属性(上のような)を持ち始めるような気がする。私は全くそうは思わないのであるが……。本当に死者とは、生者に対して「弱者」であるのであろうか。そんなことはない。生者も同じことであり、村上の小説の中のように優しく話題をはぐらかしながらしゃべってくれるとは思われないのである。

「風の歌を聴け」のなかで引用されているハートフィールドの小説で、「火星の井戸」というのがあり、ほぼ「ドン・キホーテ」の洞窟のエピソードと浦島太郎をくっつけたみたいな話になっている。村上の小説は、サンチョ・パンザが自らドン・キホーテになったような感じではなかろうか。しかし、サンチョが幾ら反省してもドン・キホーテにならないのは自明ではないか。いや、そうとも限らんが……、どうも私には、「ドン・キホーテ」には自由があり、村上春樹にはない感じがしてならない。

村上春樹にあるメタフィクション的な構造は、対話ではなく拒絶と具体的記憶の精算、が核にあるようだ。村上氏が、日本的な文章を捨て普遍的な文体を翻訳調に求めて日本を越境してしまったという見方は当たらない、と思う。外側に越境しようとする意識は、根本的に西洋文学(外)の翻案的な性格が強い近代文学の――村上氏の言う日本的な文脈やらコンテンツに縛られることである。彼はむしろ、内側に――何もない内面という底的な穴――というより「演奏」する生身の村上氏――に越境しようとする作家である(これが日本近代文学では案外珍しい姿勢であることを村上氏ははじめから自覚的であり、その意味で、きわめて挑戦的な作家だった。村上氏が嫌われたのもそこに原因があるであろう。)予想はしていたが、本書で村上春樹が大学を含めた学校生活を本当につまらなかった、と嘆息していることは印象に残った。音楽や小説に比べてそれは本当につまらなかった、と。私も似たようなものだったから、その気持ちは理解できるが、自分の学校生活をつぶさに点検してみりゃ、その発言はたぶん出て来ない。村上氏の言うように、頭が「クラッシュ」してしまうからである。だから誰でも内側に越境する、すなわち自浄作用が必要になるわけであるが、村上氏の場合は、小説を読むこと、そしてその完全な延長線上に小説の創作をおくことになる。だから、彼の場合は、自浄作用を働かせようとする時にもうすでに小説を書ける気がし、成功する予感までしてしまう。我々が「あー、よっしゃ、なかったことにしよう」という一言を吐く場合に、村上氏の場合はそれが長編小説にまで引き延ばされるのであろう。長い嘆息である。しかし嘆息であるから、嘆息の終わる瞬間まで予感できているのはあたりまえである。

というわけで、村上氏の小説が読まれるのは、我々がやっぱりあまりにストレスを抱えているからではなかろうか、と思わざるをえない。その意味で、村上氏の小説は、裏返された、というか癒やし系宗教と化した教養小説といえなくはないと思う。だから、まあ、ストレスを徹底して文学で救済しようとしているところが、スゴイと思う。小説にも認識があるぜとか言いつつ、えせ科学みたいなものを人文科学が目指した結果自滅しかかっているところをみると、その意味では、村上春樹は正しかったと言わざるを得ない。ただ、私は、この道にはこれ以上自由はないと思う。学校にだって、どこにだって、自由はあるはずである。

村上春樹の饒舌さに影響されて長く書いてしまったが、相変わらず、彼にある浄化作用は私にはなかなか働かない。

ひかる一平の持ってる道具が欲しい

2015-11-11 18:49:45 | 日記


「必殺仕事人Ⅲ」の、ひかる一平が持ってる道具がほしい。ラジオのアンテナみたいなものを二本伸ばし、悪者に当てて感電死させるやつである。



しかし、暗殺も「仕事」だとは……日本人は仕事が大好き。だいたい、仕事人の労働時間帯は完全に夜勤そのもの。彼らが金を要求するのは当然である。おかしなおっさんやお姉さんを相手にするという意味ではコンビニのバイトに近い。ひかる一平なんか、受験生のくせに裏の世界で使われているのであって、まさに文字通りの「ブラックバイト」である。こんなストレスフルな生活を送っている学生は、何処かに留学して広い世界(やつは長崎)を見てきたとしてもこうなる



ウィキペディアによると、最後は自分も爆発に巻き込まれて死んだらしい。

ありのままの指摘はあたらない。  

2015-11-09 19:48:39 | ニュース
BPOに文句を言われた件で、官房長官のあれが久しぶりにでた。「指摘は当たらない」。大学でも、このせりふを使うやつで精神がまともであったやつを見たことがないが、だからといって官房長官が狂っているとはいえない。たぶん、やつは一生懸命無理をしているのである。――しかし、狂気というのはそういうもんであろうが……。

満州国の研究からはじめ、日本にはびこる「立場主義」を次々に暴いている安冨歩氏は最近、こんな感じになっている↓


以前、マツコデラックスが素晴らしいと感じた人に「OUT」と叫ぶ、何とかいう番組に上の容姿の初期段階みたいな感じで出ていたのを見て、嬉しくなった。以前、宮台真司と神保哲生の番組にビンラディンみたいな容貌で出演していた時も、「振る舞いが自然だなあ」と感心していたのであるが、――更にありのままになったようであった。というのは、こちらの印象で、氏にとっては男の服装は無理していたものであった。

今日は午前中から、自然な感情と不即不離であるところの具体性から抽象性(じゃねえんだが、むしろ無実の罪の自白に近い)を強引に引き出す苦行をしている全体主義的授業を目撃し、いらいらしてたので、怒りを抑える方法について考えていたのである。いや、やはり私は無理をしすぎているようだ。

この本で、共感したのは、前半で、ニュースウォッチ9のお天気お姉さん(井×寛子さん)が綺麗だなあと書いてあったのと、小学校からいつも友達は女子だったという経験談である。わたくしも全く同じである。「はいこんばんは」という語尾を上げる口調が許されるのは、×田さんだけだ。そこらの女子学生はゆるさん。わたくしも女子の友達がほとんどだった気がする。男子は汚くて粗雑だからいやだ。……とはいえ、小さい頃はよくでかい女子に頭をはたかれていたような気がする。乱暴者はきらいだよ

要するに、何が言いたいかといえば、自然な感情といい、ありのままの私といい、そんなものにたいしてさえ言語によって錯誤は続くし、しかしそこにしか我々の自由はないということである。

人は可能なことのみ空想する

2015-11-08 18:33:44 | 漫画など


とは、「影丸」の言葉である。ヴェルヌだったか、誰だったか、そんな言葉を吐いてた様な気がするし、マルクスも「だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけ」とか『経済学批判』で言っていた。永禄年間なのに、殊勝なことである。つまり白土三平の物語は、ヴェルヌやマルクスのようにある種の未来をかいているのである。安保運動を背景にしたのではなく、運動の未来を空想したのである。ほとんど読んでないが、そんな気がするぞ。

この前「必殺仕事人Ⅲ」の再放送を見たのだが、あれも庶民の絶望的な夢であろう。わたくしも、越後屋みたいなやつと悪徳役人が死んで非常にすっきりした。しかし、水戸黄門や将軍、あるいは暗殺集団しか悪を処罰できないとは考えてみりゃひどすぎる。だいたい、悪人は殺すしかねえよ、と思ってしまう我々の社会はあまりにもまだ根本的には封建的であり、抑鬱感を処理する方策が「殺し」や洗脳みたいな「癒し」しかないのはいったいどういうことであろうか。この調子では、アメリカや中国にたいしても、殺しか癒ししか求めないのではないかと疑われる。ちょっかいを出してくる隣人に対しては、警察に頼む、お裾分け、など、いろいろなやり方をすべきで、仕事人や将軍に頼んではならない。世界はそんなやり方はとっくに悲しみとともに放棄しようとしているのである。……ともあれ、最近は、こういう殺しの物語すらなくなって、越後屋悪代官と絆的コミュニケーションをとってしまいそうな勢いであって――、まあそれはただの屈従である。この憤懣はいずれ必ずどこかで爆発するであろう。

とはいえ、マルクスの言うことはまあ正しく、憤懣を晴らす言葉が「安倍は辞めろ」とか「憲法壊すな」となってしまうのは、それ以上のことがどうやら問題に出来ないほど困難であるから、というのが本当のところかもしれない。しかし、庶民は一歩一歩出来そうなことを行って密かに進む。知識人は……白土やマルクスのようにちょっと夢を付け加える。たぶん……。


餅を食うのは舌にとっても正月

2015-11-07 23:55:47 | 文学


杉の木の当主助六は戦争中に杉の木にシメナワをめぐらして神木に仕立ててしまった。そして無事供出をまぬがれるとともに、シメナワをはるわけにいかない隣家の円池を見下して、杉の木の由緒を誇ったのである。それ以来、両家の仲は一そう悪くなってしまった。
 杉の木の助六は若いころ旅にでて、オシルコもおいしいし、お雑煮もおいしいものだということを発見し、年に一度の正月に餅を食うのは舌にとっても正月だということを確認したのである。そこで自分の代になると、正月は餅をついて食うことにした。

――坂口安吾「餅のタタリ」

脱出と回帰

2015-11-06 23:43:37 | 思想


 生活よりの遊離は、実は宇宙の秩序の創造の探求であり、それは、実は人間性の本質への回帰であるべきであったのに、流離より流離へと、はてしもなき迷路が、娯楽の世界を支配している。いつになったら、人々は、アリアドネの糸をたどって、そのもとの入口に帰っていきはじめるのか。[…]
 ゲーテがディレッタントのことを評して、何でも自分が練習すれば上達しうるものであると思っているもののことであるといっているのは、注意すべき言葉である。何でも一家言をもち、自信をもち、放言し、自分が行くところ可ならざるはない「器用人」だと思い込んでいる人のことをゲーテはいうのである。[…]
 それまで獲得した自分の芸が、その芸独りの歩みによって、それを抜けださざるをえない、したがって自分自身から脱出せざるをえない「巨大なる動き」が、自分自身の中に起ってくるのである。
 自分自身が相手であり、自分自身が自分を弁護するにもかかわらず、それを裸にし、露わにして、闘わねばならない。何人にもゆずることのできない対決が、自分自身に課せられてくるのである。
 多くの人々はそれから眼をそらすことで脱落しているであろうが、また多くの人が、この闘いを手離すことなく闘い続けている。

――中井正一「脱出と回帰」


……脱出、抵抗、遊離、逃避、デレッタンティズム、自己満足、――これらの区別がつかない人間は多い。個人主義的であり政治や正義に敏感な割に、他人に依存する傾向があり、故に学問的には紋切り型。物怖じしないので存在感はまあまあであるが、どこにいても人に知的な影響を与えることが殆どない。最近の一部のエリートの特徴のように思われるな……。居場所は与えられるものではなく、つくりだすものである。褒められようとして訴える相手が、文科省であったり、大学であったり、学会であったり、ミューズの膝であったり、いろんな場合があるのであろうが、やたら越境者のふりをしようとも、――要するに機会主義者に思想は生まれようがない。ファシズムが個人主義の相貌への誘惑をもって忍び寄ってくるのは、こういう越境者が増えている時ではあるまいか。

樹木化して切り株となる魔所

2015-11-05 23:28:47 | 文学


 で諸君、諸君はこの川が貫いている“Esteros de Patino”すなわち『パチニョの荒湿地』なるおそろしい場所を知っているかね。いや、ブラジルには通り名がある。パチニョというよりも『蕨の切り株』――。俺はその名を知らんとはいわさんぞ」
 パチニョの荒湿地、一名「蕨の切り株」――それには、また人々の中がザッとざわめき立ったほどだ。読者諸君も、蕨の切り株とはなんて変な名だろうと、ここで大いに不審がるにちがいない。蕨といえば、太さ拇指ほどもあれば非常な大物である。それだのに、それが樹木化して切り株となる魔所といえば、それだけ聴いても、この「蕨の切り株」なる地がいかなるところか分るだろう。でまず、順序としてピルコマヨ川の、化物然たる不思議な性質から触れてゆこう。

――小栗虫太郎「人外魔境 水棲人」

黯然として、私は

2015-11-04 23:14:48 | 文学


 黯然として、私は崖の樹木を眺めるのである。樹木は無数の枝を差しのべて、その先には、もう若芽がふくらんで色づいている。やがて瑞々しい緑の葉を出すだろう。青空の下、日の光が晴れやかに照っている。樹木よ……。
 樹木よ安らかなれ! と私は叫びたい。が然し風に揺れてるその梢を見ては、私の頭に、崖の中途に半ば露出してるその根本が映る。樹木よ力あれ! 力強く待て! 千円余の余裕を働き出すことは、私にとっては全く夢想だ。然し夢想を夢想として諦めないところに、実現の可能性がある。
 樹木を愛する心などは、一文の価値もない、と或る人々は云うだろう。然し私は、崖の中途に根を露出してる樹木を、社会的に虐げられてる人間と同一だと観る。そしてそれらの樹木から、根深い力と闘争とを教えられる。
 崖の樹木等よ、私もまた汝等のうちの一人だ。

――豊島與志雄「樹を愛する心」


ガジエフの交響曲第5番をyoutubeで発見
https://www.youtube.com/watch?v=E6uHal1hlGo


……「市民のためのファンファーレ」のパロディか、と思いきや、アゼルバイジャンの香りすら吹き飛ばすショスタコーヴィチ第4番臭。いやこれはシュニトケか……もうわけがわからんけど、たぶん、作曲家は民族意識に目覚めりゃいいというもんでもないから……。あれっ、「猿の惑星」やハンソンの第2番みたいなところまで出てきたぞ。もはや世界同時革命だな。というより、冷戦か。

かくかくしかじか5

2015-11-03 23:40:29 | 漫画など


やはり、最後は絵がどんどん白くなっていった……。日高先生はやはり最後まで生かすべきであった。先生が死ぬことで、実際のところ生徒たちも死んでいる。芸術に師匠の生き死にが関係あるかよ。現実問題として考えた場合、日高先生も生徒たちに異様に依存していたに違いない。教師として、私はそう想像せざるを得ない。日高先生にとって教育は自らに対するそれなりの危機の表現だったのに違いないのだ。というわけで、葬式に再登場する、日高先生のしごきにすら無反応だった石崎という元画塾生が「漫画かきたい」と言っておきながら、結局かけてない様、これが我々にとっての課題なのだ。この漫画の作者の結論は、たぶん、石崎のようなあり方は永久にだめだ、である。私もそう思うが……。石崎みたいなやつばかりが大勢を占める世の中ではそうも言っていられない。