内田樹氏が講演をするというメールが事務方から送られてきていたので、氏の講演会には何回か行ったことがあったが、「大学教育は生き延びられるのか」という答えが自明の理のような演題だったので、いつもの悪口が聞けると期待してサン×ート高松の会場に行ってみた。
行って気付いたのであるが、香川大学が今年当番校であるところの「国立大学教養教育実施組織会議及び事務協議会」とかいうものの最初のイベントだったらしく、来ているのは教養教育に関係する部署の教員と事務方がほとんどで、その他一般の教員はほとんど来てなかった。しかし来てた先生が知り合いでよかった。
というか、よくもこういうところに内田氏を呼んだと思う――、今回の会議は文科省の命令であるくぉーたー制とかなにやらに関してみんなで示し合わせることが目的なはずである。明日の会議では文科省の人も来るみたいだから、あれな雰囲気になるはずである。どうみても、内田氏に文科省批判をさせるという、企画側の一部の抵抗があったとしか思えない。そうでなかったら、内田氏の批判で溜飲を下げた後、現実に帰ろうというわけであろうか。あるいは、内田氏が案外、難局を乗り切る具体案を持ってきてくれるかと期待したのであろうか?
内田氏のことである。話が長くなるのは最初からわかりきっているにもかかわらず、最初の司会と学長のお話が長いと思ったが、これも、内田氏の話となるべくコントラストをはっきりつけ、いわば、対立物が対立したまま統一されるが如き、シュルレアリスム的な何かを狙ったのかもしれない。案の定、内田氏の批判がヒートアップし、予定よりかなりオーバーしたようだった。忙しい内田氏が今回承諾したのも(――そういえば、以前、講演はもうやらねえよ、と言っていた気が……)、明らかに、国立大学の子犬のような体たらくに嫌みを言うためであろう。
無論、内田氏のいう文科省の過ちは、ほとんどの大学人にとって自明なはずである。「生き延びる」どころの話ではなく、文科省に殺されようとしているのが日本の教育である。しかし、上記の「勘違い」を意識しない限りは、本当の意味での面従腹背すらなされず、実際は、大学人はアイヒマンみたいな「悪の凡庸さ」に陥るだけなのであろう。
それにしても、内田氏はもともとレヴィナスの翻訳やユダヤ人問題の地味な(今読んでみると、確かに内田氏の文体なのだが)研究者であって、九〇年代以降の大学の滅茶苦茶さがなければ、そのままそんな感じだったのかも知れない。しかし、中野重治ではないが、叩かれることによって強くはねかえる人間という者はいるものであって、話しまくり書きまくる思想家としての内田氏は、実は文科省やら安倍政権やらが生み出したと言っていいと思う。皮肉な事態だなあ……
内田氏の放言癖を批判する人もいるが、だって、彼は時代が生み出した跳ね返る鉄塊なのである。そりゃどこに跳ね返るかわからんだろう。
内田氏が学者だなあと思うところは、学会でみんな同じような分野をやりたがるのは、その分野の論文が多ければその論者の「格付け」が即座に分かるから、と言っていたこと。これはたぶん正しい。うちの学会でも明らかにそうだったからである。よく知ってるなあ……(当たり前)。そこで、多様性が失われ、素人にうまく面白さを伝えることができない人が増えていって業界に来る人がいずれはいなくなってしまう。カルスタで、議論が広がると思いきや、そうでもなかったのは、議論の多様性が抑圧されていたからである。
確かに、学者のなかの「格付け」願望の方が、エビデンス主義そのものよりもやっかいなのである。エビデンスは証拠という意味ではなく、エクセルで並べ替えをするためのデータに過ぎないのだ。
以上は、大学人が学問が本当は好きだと仮定した場合の話。現実は、もっと陰惨であることを本当は皆知っている。教育現場がいまも何とかなっているのは、確かに内田氏がいうように、教育に携わる人間が、自分が死にかけても現場を何とかしてしまう「業の深い人」であるせいなのかも知れないが、――いまやそうでない人も多いのである。かつて私も、もしかしたら、文科省は、そういう人たちをあぶり出そうとしているのだ、と思ったこともある。確かに一部そういう側面はあるのである。しかし総体としてはそうでもなさそうだ。制度を改革することと人間の変化の関係にたいする考察が滅茶苦茶である限り、いつまでたっても隔靴掻痒なのは当たり前であって、焦って強権的な異分子排除に脱線するに決まっていると思っていたら、本当にそうなった。まず、教育を目にみえる成果として測定しようとする、通俗小説に出てきそうな小役人的発想から早く脱出しなければならない。
――とはいえ、大学人も、文科省に楯突いても文科省自体に主体性が全くない以上、いじめの応酬みたいな泥仕合になることを予感している。今は、大きな地殻変動の時期であり、文科省も我々もその中の小物に過ぎないのは確かなのだ。ただ、ガロアみたいな、突撃する天才バカが歴史に必要な気もするからなあ、と迷っている時点で、わたくしはより小物であった。
……そういえば、昨日、かわぐちかいじの『テロルの系譜』を読んだので、こんな感想をもったのかもしれません。