★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

内田樹氏がいらっしゃいました

2016-05-20 00:29:00 | 大学


内田樹氏が講演をするというメールが事務方から送られてきていたので、氏の講演会には何回か行ったことがあったが、「大学教育は生き延びられるのか」という答えが自明の理のような演題だったので、いつもの悪口が聞けると期待してサン×ート高松の会場に行ってみた。

行って気付いたのであるが、香川大学が今年当番校であるところの「国立大学教養教育実施組織会議及び事務協議会」とかいうものの最初のイベントだったらしく、来ているのは教養教育に関係する部署の教員と事務方がほとんどで、その他一般の教員はほとんど来てなかった。しかし来てた先生が知り合いでよかった。

というか、よくもこういうところに内田氏を呼んだと思う――、今回の会議は文科省の命令であるくぉーたー制とかなにやらに関してみんなで示し合わせることが目的なはずである。明日の会議では文科省の人も来るみたいだから、あれな雰囲気になるはずである。どうみても、内田氏に文科省批判をさせるという、企画側の一部の抵抗があったとしか思えない。そうでなかったら、内田氏の批判で溜飲を下げた後、現実に帰ろうというわけであろうか。あるいは、内田氏が案外、難局を乗り切る具体案を持ってきてくれるかと期待したのであろうか?

内田氏のことである。話が長くなるのは最初からわかりきっているにもかかわらず、最初の司会と学長のお話が長いと思ったが、これも、内田氏の話となるべくコントラストをはっきりつけ、いわば、対立物が対立したまま統一されるが如き、シュルレアリスム的な何かを狙ったのかもしれない。案の定、内田氏の批判がヒートアップし、予定よりかなりオーバーしたようだった。忙しい内田氏が今回承諾したのも(――そういえば、以前、講演はもうやらねえよ、と言っていた気が……)、明らかに、国立大学の子犬のような体たらくに嫌みを言うためであろう。

となりに座っていた、どこかが悪そうなおじさんがずっとiPadでヤフーを見ていたのが気になったが、内田氏のお話は、まあいつものあれであったが、面白かったと思う。というか、ときどき「キミたちは骨の髄からポチである」と言われないと、本当にそれに気付いていない人がいるからである。内田氏が、(大学関係者なら自明の事実であるはずの)大綱化のあたりからふり返って、自身の転向(教務委員長の時の自己評価導入→挫折)をくどいほど説明していたのも、下手をすると、我々は面従腹背とかサバイバルとか、自分自身に言い訳をしながら、改革とかミッションのなんちゃらとかグローバルだかグローカルだか、学生中心だかしらんが、そういう狂ったスローガンを半ば信じ込んでいるからである。現実に我々が行っている制度変更やなにやらが全て間違っているのではないが、それを、狂ったスローガンに対する対処だと思っているところが最悪である。そこには本質的な現実の分析が最後までないからだ。確かに、今大流行のエビデンス主義はあるが、大学が言い訳で捻出しているデータはほとんど嘘じゃねえか。いや、嘘ではないかもしれないが、教育の成果の本質的な部分とは無関係ではないか。いや、完全に無関係とは云いきれないかも知れないが、無関係だと意識的に思っていないと、より大きく関係があるように思い込み始めてしまうのがおちなのである。内田氏が今日繰り返していた「A=スローガンとB=証拠は全く関係がない」という言葉はそういう、「勘違い」の発生のことを言っているのである。だから、内田氏は、教務委員長の時の「勘違い」からの目覚めをふり返ったのであり、その意味で、現役の我々に対して「そろそろ目を覚ましたら如何?」と呼びかけているのである。内田氏は、文科省への一斉蜂起を促したような感じだったが、実際は、別にゼネストやちゃぶ台返しを実行しろといっているのではなくて、学者たちの(学者らしからぬ)認識の問題を示唆していると見るべきであろう。

無論、内田氏のいう文科省の過ちは、ほとんどの大学人にとって自明なはずである。「生き延びる」どころの話ではなく、文科省に殺されようとしているのが日本の教育である。しかし、上記の「勘違い」を意識しない限りは、本当の意味での面従腹背すらなされず、実際は、大学人はアイヒマンみたいな「悪の凡庸さ」に陥るだけなのであろう。

それにしても、内田氏はもともとレヴィナスの翻訳やユダヤ人問題の地味な(今読んでみると、確かに内田氏の文体なのだが)研究者であって、九〇年代以降の大学の滅茶苦茶さがなければ、そのままそんな感じだったのかも知れない。しかし、中野重治ではないが、叩かれることによって強くはねかえる人間という者はいるものであって、話しまくり書きまくる思想家としての内田氏は、実は文科省やら安倍政権やらが生み出したと言っていいと思う。皮肉な事態だなあ……

内田氏の放言癖を批判する人もいるが、だって、彼は時代が生み出した跳ね返る鉄塊なのである。そりゃどこに跳ね返るかわからんだろう。

内田氏が学者だなあと思うところは、学会でみんな同じような分野をやりたがるのは、その分野の論文が多ければその論者の「格付け」が即座に分かるから、と言っていたこと。これはたぶん正しい。うちの学会でも明らかにそうだったからである。よく知ってるなあ……(当たり前)。そこで、多様性が失われ、素人にうまく面白さを伝えることができない人が増えていって業界に来る人がいずれはいなくなってしまう。カルスタで、議論が広がると思いきや、そうでもなかったのは、議論の多様性が抑圧されていたからである。エクリチュールとか越境とか宙づりとか符牒で話をしていれば学会で仲間は増えるだろうが、そりゃ普通の人は何を言ってるかわかんねえわ……

確かに、学者のなかの「格付け」願望の方が、エビデンス主義そのものよりもやっかいなのである。エビデンスは証拠という意味ではなく、エクセルで並べ替えをするためのデータに過ぎないのだ。

以上は、大学人が学問が本当は好きだと仮定した場合の話。現実は、もっと陰惨であることを本当は皆知っている。教育現場がいまも何とかなっているのは、確かに内田氏がいうように、教育に携わる人間が、自分が死にかけても現場を何とかしてしまう「業の深い人」であるせいなのかも知れないが、――いまやそうでない人も多いのである。かつて私も、もしかしたら、文科省は、そういう人たちをあぶり出そうとしているのだ、と思ったこともある。確かに一部そういう側面はあるのである。しかし総体としてはそうでもなさそうだ。制度を改革することと人間の変化の関係にたいする考察が滅茶苦茶である限り、いつまでたっても隔靴掻痒なのは当たり前であって、焦って強権的な異分子排除に脱線するに決まっていると思っていたら、本当にそうなった。まず、教育を目にみえる成果として測定しようとする、通俗小説に出てきそうな小役人的発想から早く脱出しなければならない。

――とはいえ、大学人も、文科省に楯突いても文科省自体に主体性が全くない以上、いじめの応酬みたいな泥仕合になることを予感している。今は、大きな地殻変動の時期であり、文科省も我々もその中の小物に過ぎないのは確かなのだ。ただ、ガロアみたいな、突撃する天才バカが歴史に必要な気もするからなあ、と迷っている時点で、わたくしはより小物であった。

……そういえば、昨日、かわぐちかいじの『テロルの系譜』を読んだので、こんな感想をもったのかもしれません。