★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

モンタージュは真実にあらず――あまちゃんのあれ

2016-07-10 18:42:55 | 思想


「三億円事件」のドラマや映画というのはなんだかいつも面白いので、先日やってた「モンタージュ 三億円事件奇譚」を観てみた。
あまちゃん男子(能年さんの恋人役の背の高いのだれだっけ?「あまちゃん男子」としか出て来ない)と芳根京子(女子の名前はいつも覚えられるなぜだろう)が主役であった。

どうやらあまちゃん男子の父親(以下「あまちゃん父」)が、三億円事件の犯人らしい。で、その父親が失踪し遺体まででてきたので、あまちゃん男子が京子ちゃんの家に居候に……。なんだこの少女漫画的な展開は、とどきどきしていると、京子ちゃんの両親まで失踪。とりあえず、軍艦島に何かヒントがあるということで、行ってみたら、簡単に三億円が見つかり、札束担いで帰りかけているところを、「いかつい」刑事に襲撃される。それから、とにかくいろいろあるのだが――、あまちゃん父(軍艦島出身)は――青春時代、恋人の大学生を安保闘争のデモで圧死させられたかなにか恨みをはらすために同郷の刑事と組んで、学生運動つぶしに三億円事件をでっちあげた過去があった。で、いろいろあって、あまちゃん父は、同郷の刑事の子ども(さらってしまいました)や炭鉱で会ったトモダチの子どもを孤児院に送ったところ、なんと彼らが恋に落ちてしまい、京子ちゃんを生むに至る。で、あまちゃん父の息子(あまちゃん男子)が、京子ちゃんと仲良くなり――、とにかくいろいろあって、あまちゃん父の同郷の刑事(いまは憲法改正に突き進む党の幹事長にまで出世)や、あまちゃん父、あまちゃん男子、京子ちゃんの両親、京子ちゃん、あまちゃんの父のトモダチの息子(いま塾講師)や、あまちゃん父がさらった子どもの代わりにあまちゃん父の同郷の刑事が拾ってきた男子(いまは「いかつい」刑事)が、――軍艦島にあつまり、真相を(ほとんどあまちゃん父が)お話しする。あまちゃん父は、一人で軍艦島に残り、三億円でたき火する。あまちゃん男子と京子ちゃんはとりあえず仲良く手をつなぐ……end

あまちゃん男子が最後に言っていたように、「全部おめえ(あまちゃん父)のせいじゃねえか」……という話に見える。あまちゃん父たちはそれにしてもなぜ?

軍艦島が石炭時代の終わりの煽りを食って衰退していっていたので、その出身者がなにか世の中に怨みを抱くのはありうる話だ。軍艦島とは日本のメタファーであった。あまちゃん父の同郷の刑事(党の幹事長)が「他から左右されない世の中をつくる」と言った「他」とは、はじめは東京を中心とする日本であり、政治家になってからは外国(特に憲法をおしつけたアメリカ)だったのであろう。しかし、彼らのルサンチマンはそれだけでは爆発しなかった。安保騒動の中で「高卒は大卒(キャリア)に馬鹿にされている」、「大学生が恋人を殺した」などの理由から、三億円事件で反抗的「大学生」を一斉捜査し一掃することを思いつくのである。

果たして、このような認識について我々はどう判断を下すべきであろうか?

わたくしは、いずれにせよ、このような、弱者の「個人的理由」を、政治的事件の原因としてイメージしているうちは、幾ら時間がたっても、情けない我らの政治風土から抜け出せないと思う。残念なのは、我が国の芸術的な才能が、昔から、その「個人的理由」を、しかも同情的に描くことに全力を傾けてしまっていることであろう。我々の文芸文化はこのドラマを嗤うことは出来ないのではなかろうか。

高校まで(今では大学でも)、徹底的にいじめに対する恐怖を植え付けられ、政治について雑談も出来ない教室のなかでは、おそらく、勇気ある教師が辛うじて啓蒙を行っていたのであろう。そのとき教師としての権威が辛うじて日本のいじめ的多数決主義に対して抵抗していたのであろう。が、最近、「中立性」などという脅迫に屈しつつあるのは周知の事実である。長野県では、お茶と漬け物で政治談義に花を咲かすおばちゃんたちがいたはずであるが、最近は期待できない。そういえば、自民党が、中立性を侵した教員を密告するフォームまでネット上でつくっていたことが判明し、昨日、騒ぎになっていた。こうなっては遅いが、こういうのが一部の馬鹿の仕業ではなく、この程度の輩が昔から沢山教室の中にいたことが重要である。自己愛の強い馬鹿に密告するスタイルがいじめの典型ではないか。密告する弱虫がだいたい中立面しているのは皆知っていることだ。

言うまでもないことであるが、国民国家成立以降、外国に対する戦争が本物の〈外〉国に対する憎しみに発していたことなどほとんどないのではなかろうか。ファシストはいつも隣の気に入らない奴をぶち込むことだけを考えている。だから、彼らの関心を本当に〈外〉に向けさせることが重要である。彼らは我々において常に自らを弱者として見ていじめをしてしまう、潜在的に多数を構成するタイプである。結局、学校世界で、政治(外)の話をする土壌を再構築することで、自己愛のあまり決定的に馬鹿なことをする(上のような)一名を出さないようにするしかない。そこからしか、我々は、主権やら人権やらの自覚に向かうことはないであろう。――もっとも、これがかなり難しいと知っていたのがマルクスであろう。

あまちゃん男子と京子ちゃんは、最後にあまちゃん父に対して「これからの私たちの人生はまかせて」と言っていたが、彼らに必要なのは、決心ではなく勉強と討論である。ただ世代交代しても意味はなく、選挙に行きゃいいというもんじゃない。まさに選挙結果に、我々のいじめ精神が「モンタージュ」のように浮き上がるだけである。

とりあえず、自民党の憲法草案をみてみたが、そこにある自立と自己愛の区別もつかないセンスには全くもってついて行けない。憲法については勿論、日本の文化の伝統について勉強したことのないすっとこどっこいが書いていることは明らかである。むろん、ある種の外国はこれを読んで喜ぶであろう。文化が発達していない国に意地悪しても良心は痛まないからだ。