ポケモンを記憶で描いてみた。
ポケモンが何なのか分かってないどころか、ゲームというものをやったことがないのでさっぱり分からない。
なんでも、ゲームをやると世の中がすべてゲーム空間にみえてくるだけでなく、3次元の女子/男子が気持ち悪い獣にみえたり、センター試験が一発勝負なのに理不尽さをおぼえて「無理ゲー」(どういう意味?これ?)だと言ってみたり、突然「自分はラスボスだ」とか言い放ってみたくなったりするそうである。なんだ、現実と同じじゃないか。
「人生に文学を!」「文学を知らなければ、どうやって人生を想像するのだ(アニメか?)」http://www.jinsei-bungaku.jp/とかいう広告が一昨日あたりにでてて、わたくしも授業で批判しておいた。問題はいろいろあるが、一番の問題は「想像」というところであると。文学の問題が想像力の問題と思っているところが、文科省の指導要領(国語)を含め、コンプレックス丸出しだ。虚実皮膜論の昔から問題は繰り返されているのであり、いまさら居丈高になって、「人生の方が偉い」「文学の方がエラい」「アニメを下に見るな」「だから文学は衰退したのだ」「上から目線だ」とか言っても仕方がない。だいたい、上の広告は、文藝春秋あたりの昔からのあれであって、文学のあれとは無関係のあれであるのは当たり前なのである。それにしても、アニメも芸術だという意見が出てくるところからすると、アニメでも「悪霊」や「未成年」、「フィネガンス・ウェイク」、「万延元年のフットボール」、「復興期の精神」や「内省と遡行」並のケッサクがあるのであろう。是非見てみたい。たぶん「セブンテイィーン」並のケッサクならもうありそうだ。とすると、こういうせりふももうそろそろアニメ業界から出てきそうな気がする。
「アニメを知らなければ、どうやって人生を想像するのだ(文学か?)」
こんな風に思っている奴がいけすかない奴であることは自明であり、文学を下に見ている点というより、アニメや人生の具体に対するあれの貧困さにおいて、創造的な現場とは無縁である。
「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を抽き去りたらむには人生何の色味かあらむ、然るに尤も多く人世を観じ、尤も多く人世の秘奥を究むるといふ詩人なる怪物の尤も多く恋愛に罪業を作るは、抑も如何なる理ぞ。」
透谷のだめさは、ここではなく、むしろ
「彼は実を忘れたるなり、彼は人間を離れたるなり、彼は肉を脱したるなり。実を忘れ、肉を脱し、人間を離れて、何処にか去れる。杜鵑の行衛は、問ふことを止めよ、天涯高く飛び去りて、絶対的の物、即ち Idea にまで達したるなり。」
こういうせりふで盛り上がってしまうところにあるのである。彼に足りないのは、恋愛とか文学ではなく、洗濯や昆虫採集である。その意味で、ポケモンGOというのは昆虫採集的なところがいいのではなかろうか。