★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

生まれ変わり――第二の青春

2021-04-15 22:38:34 | 文学


余りに気くたびれて、頭をうな低て少し目睡たる夢の中に、御廟の震動する事良久し。暫有て円丘の中より誠にけたかき御声にて、「人やある、人やある。」と召れければ、東西の山の峯より、「俊基・資朝是に候。」とて参りたり。此人々は、君の御謀叛申勧たりし者共也とて、去る元徳三年五月二十九日に、資朝は佐渡国にて斬れ、俊基は其後鎌倉の葛原が岡にて、工藤二郎左衛門尉に斬れし人々也。貌を見れば、正く昔見たりし体にては有ながら、面には朱を差たるが如く、眼の光耀て左右の牙銀針を立たる様に、上下にをひ違たり。其後円丘の石の扉を排く音しければ遥に向上たるに、先帝袞竜の御衣を召れ、宝剣を抜て右の御手に提げ、玉扆の上に坐し給ふ。此御容も昔の竜顔には替て、忿れる御眸逆に裂、御鬚左右へ分れて、只夜叉羅刹の如也。誠に苦し気なる御息をつがせ給ふ度毎に、御口より焔はつと燃出て、黒烟天に立上る。暫有て、主上俊基・資朝を御前近く召れて、「さても君を悩し、世を乱る逆臣共をば、誰にか仰付て可罰す。」と勅問あれば、俊基・資朝、「此事は已に摩醯脩羅王の前にて議定有て、討手を被定て候。」「さて何に定たるぞ。」「先今南方の皇居を襲はんと仕候五畿七道の朝敵共をば、正成に申付て候へば、一両日の間には、追返し候はんずらん。仁木右京大夫義長をば、菊池入道愚鑑に申付て候へば、伊勢国にてぞ亡び候はんずらん。細川相摸守清氏をば、土居・得能に申付て候へば、四国に渡て後亡候べし。東国の大将にて罷上て候畠山入道・舎弟尾張守をば、殊更嗔恚強盛の大魔王、新田左兵衛佐義興が申請候て、可罰由申候つれば、輙かるべきにて候。道誓が郎従共をば、所々にて首を刎させ候はんずる也。中に江戸下野守・同遠江守二人は、殊更に悪ひ奴にて候へば、竜の口に引居て、我手に懸て切候べしとこそ申候つれ。」と奏し申ければ、主上誠に御心よげに打咲せ給て、「さらば年号の替らぬ先に、疾々退治せよ。」と被仰て、御廟の中へ入せ給ぬと見進せて、夢は忽に覚にけり。

天皇が死んだらどうなるのかはあまり最近は気にされない。即位と崩御の社会性が大き過ぎて、生と死後はどうでもよくなってしまったのだ。そういう意味で、でかい墓を造っていた時代のほうが、彼らの生を大事にしていたのかもしれない。これは、天皇に限らない。我々も誕生と死があまりにも大きい行事になってしまい、そのあとがないがしろにされている。生まれてきてありがとう、あとは婚活とか就活とか終活とか、行事のための準備期間である。

上の後醍醐天皇は、死んでもまだ生きている。魔王として再生しているのであった。むろん、部下たちも生きている。

彼らは一生懸命、生を生きていた。而して、死後も生きることができるのである。――これはむろん比喩的なもので、我々の人生が如何にあるべきか、あとに残らない生き方をしても仕方がないことを説いているのである。そういえば、昔、こんな歌がバリケードで歌われた。

生きてる 生きてる 生きている
バリケードという腹の中で
生きている
毎日自主講座という栄養をとり
“友と語る”という清涼飲料剤を飲み
毎日精力的に生きている
生きてる 生きてる 生きている
つい昨日まで 悪魔に支配され
栄養を奪われていたが
今日飲んだ“解放”というアンプルで
今はもう 完全に生き変わった
そして今 バリケードの腹の中で
生きている
生きてる 生きてる 生きている
今や青春の中に生きている


彼らはまた生まれ落ちている。最近、出版界上で全共闘が復活しているのは、まああれだよな、退職して第二の青春である。荒正人的な×け犬の第二の青春――戦後派である。しかしいまはどちらかというと戦時中なので抵抗運動としてなんかやる気が出てくるという。

『情況』の最新号(「国防論のタブーを破る」)が届いてお昼食べながら読んでたんだが、尖閣諸島に民族派がいざというときのための食料のためにヤギを持ち込んだ結果、それが野生化してヤギが実効支配している話が面白かった。それにしても、なんだか元気になってきている、この雑誌。マルクス主義者的尊王攘夷派である廣松氏の名と共にある雑誌である。やっぱり日本の運動が盛りあがるのは国防や安全保障のときであり、今もそうだ。右と左がついに素朴にパッションのみで共闘するところまで追い込まれている。

本当は、我々の生は、思春期の後から長く続き人しれずリタイアしてゆく。生まれ変わりも第二の青春もおかしいのである。

子どもと自由

2021-04-14 22:38:34 | 文学


教育は、文化の維持と発展の実践である。それは文化的な最低限度の生活という理念と一体であり、それが我々が生存している意味になっている。こうでもしとかないと、国家は、教育を「こども」の為「だけ」に行ないかねない。子どもを単体として捉える場合、子どもは労働者として馴致されてない大人にすぎず、文化の表現であるべき存在から滑り落ちてしまう。ほっておくと、軍事工場で子どもを無償で働かした前科があるわれわれである。むろん、当時も、それが「子どものため」だったのである。健康のためにもだらだら本を読むよりもよかったわけだし、国家のために働くことは陛下に庇護される『子』として「ためになった」。子どもはそもそも概念であり、大人への発達段階ではなく、子どもを文化概念の一部として捉える必要がある。(大人と対等という意味ではない。現実的にそうでないものは対等にはならない)

生きる力とか、子ども庁とか、――現実的な問題が切迫していることは分かるが、子どもを救うことは子どもを自由にすることでなければならない。救いというものの厄介さは、大概、もともと我々は自由であるという自明の理から、またもや我々を回避させてしまうからである。オウム真理教の救いも、アニメーションによる救いもそうであった。宗教や文化は、――ほんとは、純粋に娯楽として存在していなければならない気がするのである。マジンガーZの頃は、まだ娯楽だった気がするのであるが、そのあとの苦労する子どもたちの戦争ものから様子がおかしい。明らかに救いの手段となった気がする。

潜在的に、我々は子どもを救済の対象としてみるようになった気がするのである。むろん、自分達が救済の対象だからで大人たちは鏡を見ているに過ぎない。必要なのは、救済ではなく自由である。自由がないから誰かによって救済するしかないところに追い込まれるわけだ、我々は自らを自らで救う自由がない。

次には人の和に付て思案を廻し候に、今度畠山が上洛は、只勢を公義に借て忠賞を私に貪んと志にて候なる。仁木・細川の一族共も彼が権威を猜み、土岐・佐々木が一類も其忠賞を嫉まぬ事や候べき。是又人の心の和せぬ処にて候はずや。天地人の三徳三乍ら違ひ候はゞ、縦敵百万の勢を合せて候共、恐に足ぬ所にて候。

よくわからんが、――現実には、褒美を貰おうとして突進する「自由」を舐めない方がよいと思うのである。人の和がないからといって、米国軍を舐めていたら、相手はお菓子を舐めながらたくさん爆弾を振らせてきた。そりゃ、米国の精神には問題があるかもしれん。しかし、腹が減っては戦は出来ぬという自明の理を理解している連中だけが世の中を動かせる。

がんばれなかったやつにお金と自由を与えてなんぼだということがいつになったら分かるのであろう?

末世の作法

2021-04-12 23:45:29 | 文学


故細川陸奥守顕氏子息、式部大夫繁氏を伊予守になして、九国の大将にぞ下されける。此人先讃岐国へ下り、兵船をそろへ軍勢を集る程に、延文四年六月二日俄に病付て物狂に成たりけるが、自ら口走て、「我崇徳院の御領を落して、軍勢の兵粮料所に充行しに依て重病を受たり。天の譴八万四千の毛孔に入て五臓六府に余る間、冷しき風に向へ共盛なる炎の如く、ひやゝかなる水を飲共沸返る湯の如し。あらあつや難堪や、是助てくれよ。」と悲み叫て、悶絶僻地しければ、医師陰陽師の看病の者共近付んとするに、当り四五間の中は猛火の盛に燃たる様に熱して、更に近付人も無りけり。病付て七日に当りける卯の刻に黄なる旗一流差て、混た甲の兵千騎許、三方より同時に時の声を揚て押寄たり。誰とは不知敵寄たりと心得て、此間馳集たる兵共五百余人、大庭に走出て散々に射る。箭種尽ぬれば打物に成て、追つ返つ半時許ぞ戦たる。搦手より寄ける敵かと覚て、紅の母衣掛たる兵十余騎、大将細川伊予守が頚と家人行吉掃部助が頚とを取て鋒に貫き、「悪しと思ふ者をば皆打取たるぞ。是看よや兵共。」とて、二の頚を差上たれば、大手の敵七百余騎、勝時を三声どつと作て帰るを見れば、此寄手天に上り雲に乗じて、白峯の方へぞ飛去ける。変化の兵帰去れば、是を防つる者共、討れぬと見へつる人も不死、手負と見つるも恙なし。こはいかなる不思議ぞと、互に語り互に問て、暫くあれば、伊予守も行吉も同時に無墓成にけり。誠に濁悪の末世と乍云、不思議なる事共なり。

細川繁氏は、わが讃岐の昔の支配者であった。足利尊氏の死に勇気を得た南朝方が九州から必ず攻めあがるであろうコリャ一大事と、讃岐で兵力を蓄えいざ出陣というところで病に倒れる。なんと、崇徳院の御陵になんかしたために、崇徳院の呪い攻撃を受けたのであった。昔は、悪いことすると不安になって免疫がよわくなりたぶんインフルエンザかなにかにかかったのであろう――高熱でうなされることになった。そして、もともと気にしていた崇徳院のことを喋ってしまったのである。もうこうなったら、周りはパニックである。崇徳院はもと天皇にして別の天皇と戦争をしてしまった、いまだったら――軍靴の音が聞こえる、というやつであって、歴史の必然性である。読者も、もう崇徳院の怨霊部隊がやってこないともう収まりが付かないのだ。

いまでも、パワハラセクハラへの批判が世代論的に展開することはまあいつものパターンだとは言え、それが自らへの考察・過去の検討を回避する絶縁体みたいに作用している。アスペルガー云々もそうで、その認識が通俗的に広がった結果、その人物が空気を読めないということでいろいろな事が免罪されたり、逆に批判されたりして、問題の具体的なことがやや抜けてしまうという。近代風に言うと、病への過剰な意識化の時代(その裏返しとしての過剰な健康への欲望の時代)というべきであろうが、本当は、怨霊がやってくるからだ。過去の家父長制的・ミソジニー的・近代の病的ななにかが怨霊として殺到している。これには、スピリチュアルな存在があるという前提がなくともよい。近代だったら、心理学があればよい。大正期以降の変態心理学といまの発達障害論というのはほぼ社会的に似たような意味を持っていると考えた方がいい。心の世界に目にみえない差異があるということが分かればよいのだ。これに対しては、我々は恐怖を覚える。そして、その恐怖がどこから来るかではなく、恐怖そのものを使ってファクトの世界を裁断するか、恐怖を否認するかになる。太平記だったら、上のエピソードが前者であり、武士たちの戦争そのものが後者である。

最近の論文の傾向としていえるのは、AにおけるBについて、が多いということだ。論文というのは、AにおけるBとCの関係性みたいなものになっていないといけない気がするんだが、最近は、そういうのはわかりにくく感じる傾向がある。これも、Aがファクトの世界だとすると、Bは心の世界であり、その関係をエビデンスとして匂わすだけで精一杯なのである。問題は、その関係をもう一回別の関係に置き直すことではあるまいか。

かれらはいいつけられて為朝を討ちに来たというだけで、もとよりおれにはあだも恨みもない者どもだ。そんなものの命をこの上むだにとるには忍びない。それにいったんこうして敵を退けたところで、朝敵になっていつまでも手向かいがしつづけられるものではない。考えて見ると、おれもいろいろおもしろいことをして来たから、もう死んでも惜しくはない。おれがここで一人死んでやれば、大ぜいの命が助かるわけだ。」
 こういって、為朝はそのままうちにかえって、自分の居間にはいると、しずかに切腹して死んでしまいました。
 そのあとで寄せ手は、こわごわ島に上がって見て、為朝が一人でりっぱに死んでいるのを見てまたびっくりしました。


――楠山正雄「鎮西八郎」


「考えて見ると、おれもいろいろおもしろいことをして来たから、もう死んでも惜しくはない」、鎮西八郎は言う。悲惨である。頭が筋肉で出来ているのであろうか。

飢人投身事

2021-04-11 23:19:38 | 文学


中にも哀に聞へしは、或る御所の上北面に兵部少輔なにがしとかや云ける者、日来は富栄て楽み身に余りけるが、此乱の後財宝は皆取散され、従類眷属は何地共なく落失て、只七歳になる女子、九になる男子と年比相馴し女房と、三人許ぞ身に添ける。都の内には身を可置露のゆかりも無て、道路に袖をひろげん事もさすがなれば、思かねて、女房は娘の手を引、夫は子の手を引て、泣々丹波の方へぞ落行ける。誰を憑としもなく、何くへ可落著共覚ねば、四五町行ては野原の露に袖を片敷て啼明し、一足歩では木の下草にひれ臥て啼き暮す。只夢路をたどる心地して、十日許に丹波国井原の岩屋の前に流たる思出河と云所に行至りぬ。都を出しより、道に落たる栗柿なんどを拾て纔に命を継しかば、身も余りにくたびれ足も不立成ぬとて、母・少き者、皆川のはたに倒れ伏て居たりければ、夫余りに見かねて、とある家のさりぬべき人の所と見へたる内へ行て、中門の前に彳で、つかれ乞をぞしたりける。暫く有て内より侍・中間十余人走出て、「用心の最中、なまばうたる人のつかれ乞するは、夜討強盜の案内見る者歟。不然は宮方の廻文持て回る人にてぞあるらん。誡置て嗷問せよ。」とて手取足取打縛り、挙つ下つ二時許ぞ責たりける。女房・少き者、斯る事とは不思寄、川の端に疲れ臥て、今や今やと待居たりける処に、道を通る人行やすらひて、「穴哀や、京家の人かと覚しき人の年四十許なりつるが、疲れ乞しつるを怪き者かとて、あれなる家に捕へて、上つ下つ責つるが、今は責殺てぞあるらん。」と申けるを聞て、此女房・少き者、「今は誰に手を牽れ誰を憑てか暫くの命をも助るべき。後れて死なば冥途の旅に独迷はんも可憂。暫待て伴はせ給へ。」と、声々に泣悲で、母と二人の少き者、互に手に手を取組、思出河の深淵に身を投けるこそ哀なれ。兵部少輔は、いかに責問けれ共、此者元来咎なければ、落ざりける間、「さらば許せ。」とて許されぬ。是にもこりず、妻子の飢たるが悲しさに、又とある在家へ行て、菓なんどを乞集て、先の川端へ行て見るに、母・少き者共が著たる小草鞋・杖なんどは有て其人はなし。こは如何に成ぬる事ぞやと周章騒ぎて、彼方此方求ありく程に、渡より少し下もなる井堰に、奇き物のあるを立寄て見たれば、母と二人の子と手に手を取組て流懸りたり。取上て泣悲め共、身もひへはてゝ色も早替りはてゝければ、女房と二人の子を抱拘へて、又本の淵に飛入、共に空く成にけり。今に至まで心なき野人村老、縁も知ぬ行客旅人までも、此川を通る時、哀なる事に聞伝て、涙を流さぬ人はなし。誠に悲しかりける有様哉と、思遣れて哀なり。

これが公務員の話というのがつらい。戦乱で棒給も家財も失って町にさまよい出た一家だが、飢えてどうしようもなく行きだおれていた。夫はなんとか物乞いをしたが、侍に掴まって拷問されてしまう。女房と子どもは噂を聞きつけ、夫の死に後れまいと入水してしまう。食料を持って妻子の元に帰った夫だが、すでに遅し。見ると井堰に妻と二人の子どもが手を取りながら引っかかっていた。夫は、彼らを抱えて淵に飛び込んだという。

例えば、芥川龍之介「羅生門」など、こういう話を下敷きに読むのが適当かも知れない。死への理屈なき抵抗というものがそこに描かれている気がするからである。考えてみると、上の役人はそこそこ学もあったにちがいない。これにくらべて、羅生門の下人など、京都が滅茶苦茶になっていても、内面的なショックをあまり受けていないのではないかと疑われる。

いまの日本だってヒドイもんだが、それでもその崩壊過程に於いて一番傷つけたのは人の心であって、――いま耐えられているのは、すでにいい加減に生きてきた証拠である。いまの年老いた政治家がその意味で信用できないのは当然である。

すなわち、いまどき軽く「家族の絆」とか抜かしているやつは、上の「飢人投身事」を熟読していただきたい。ある意味で、公務員的、というより、ブルジョアジーのひ弱さと観念性がつくったのが「絆」なのであり、中国大陸に気分の子どもを託して死んだ満州難民の方がまだ事態を飲み込めているとえばいえないことはないのだ。

しかし、それは理屈の上の話である。絆なんてもんは、言葉にしてはいけないものなのである。なぜこの程度のことを今の日本人は忘れているのであろうか。

道への道

2021-04-10 23:02:32 | 文学


さらば吉野殿へ奏聞を経て勅免を蒙り、宣旨に任せて都を傾け、将軍を攻め奉らんは、天の忿り人の譏りもあるまじとて、直冬潜かに使ひを吉野殿へ進らせて、「尊氏の卿・義詮朝臣以下の逆徒を可退治由の綸旨を下し給ひて、宸襟を休め奉るべし」とぞ申されける。伝奏洞院の右大将頻りに被執申ければ、再往の御沙汰迄もなく直冬が任申請、即ち綸旨をぞ被成ける。これを聞きて遊和軒朴翁難じ申しけるは、「天下の治乱興滅皆大の理に不依と云ふ事なし。されば直冬朝臣を以つて大将として京都を被攻事、一旦雖似有謀事成就すべからず。その故は昔天竺に師子国と云ふ国あり。この国の帝他国より后を迎へ給ひけるに、軽軒香車数百乗、侍衛官兵十万人、前後四五十里に支へ道をぞ送り進らせける。日暮れてある深山を通りける処に、勇猛奮迅の師子ども二三百疋走り出で、追つ譴め追つ譴め人を食ひける間、軽軒軸折れて馳すれども不遁、官軍矢射尽くして防げども不叶、大臣・公卿・武士・僕従、上下三百万人、一人も不残喰い殺されにけり。

このあと、天竺の話がつづくのであるが、――果たして、この話が天の理に従えという説教に説得力をもっているかどうか、わたくしにはいまいち分からない。雨月物語の白峯でかたられているように、理を乗り越えてしまう怨念、――というより、怨念と意識されないなにかに突き動かされていってしまっているのが、このひとたちであり、名目上?天皇や親子関係というものの呪縛が意識されてはいるけれども、一度何かが起これば、そんな呪縛はもうほとんど働いていないのではなかろうか。

こんな状態で、理と道徳を説こうとした人々がいかに大変だったかは想像に余りある。

よく分からないのだが、神仏習合には、もうとりあえず滅茶苦茶になっている人々に対して使える物はすべて使おうとした結果である側面は本当にないのであろうか。その「習合」は融合ではなく、熊野詣にみられるように「一度死んで冥途から帰る」みたいな往復運動のような気がする。帰ってきても、家や近所にはまた別の神がいる。わたくしの感覚だが、そこには人生を旅程になぞらえて、あちらとこちらのどちらも否定できないことで、辛うじて道徳を一元的に内面化しなくても、どのつどの使える物にすがるということで、なんとなく「道」に反しない気がする。我々が道徳ではなく「道」が好きなのはその意味で当然のような気がする。人生は、ダンテの描くように、もしかしたら地獄に堕とされる人々のように、行為と一体化した人格のようなものかもしれないのだが、我々は、人生を道程に喩えて切り抜けるのだ。

罪を犯した人間は、最近のサブカルチャーに到るまで大概旅にでる。

旅に出たらよけい罪を背負ったオイディプスとはえらく違う。わたくしは「大菩薩峠」の主人公が生悟っていなければ、もう少しまともな戦後世界があったのではないかと思うくらいだ。

相対的運命論

2021-04-08 23:34:33 | 文学


猶も将軍の御運や強かりけん、見知人有て、「そこに紛て近付武者は、長尾弾正と根津小次郎とにて候は。近付てたばからるな。」と呼りければ、将軍に近付奉らせじと、武蔵・相摸の兵共、三百余騎中を隔て左右より颯と馳寄る。根津と長尾と、支度相違しぬと思ければ、鋒に貫きたる頚を抛て、乱髪を振揚、大勢の中を破て通る。彼等二人が鋒に廻る敵、一人として甲の鉢を胸板まで真二に破著けられ、腰のつがひを切て落されぬは無りけり。され共敵は大勢也。是等は只二騎なり、十方より矢衾を作て散々に射ける間、叶はじとや思けん、「あはれ運強き足利殿や。」と高らかに欺て、閑々と本陣へぞ帰りける。

尊氏も暗殺者から遁れ得て運がよかったのかも知れないが、この二人の暗殺者も、四方から矢を射られても余裕を持って逃げて行く、これこそ強運である。この二人が強運にみえないのは、この前に「彼等二人が鋒に廻る敵、一人として甲の鉢を胸板まで真二に破著けられ、腰のつがひを切て落されぬは無りけり」と大げさな描写があるからだ。つまり強かったから、ということになる。しかし、運というものは、悪運もあるはずである。

語り手が言っているのは本当は運じゃなくて、生き延びるべきやつが生き延びる必然性はあるということである。こういう人生観では、予期せぬ時には「運命」とか言って嘆息するか、川の流れだね、とぼやっとしてしまうかである。

西田幾多郎は、どこかで「哲学は深い悲哀から始まるべし」みたいなことを言っている。彼の悲哀は、純粋経験と同じで、なんの根拠も必然性もないように思われるが降りかかる経験である。

わたくしは、どちらかというと「恐怖」から研究を始めた自覚がある。それは、太平記のようなシーンに対する恐怖だったのであろう。そこには対象がちゃんとあったから、西田よりも哲学的な位相へジャンプしなかった。

厳密に作品を考えるならば、切り込み方は一つで済む筈がない。問題を論じるより作品を論じるほうがはるかに困難だ。作品は人生に似ている。作品論の不可能性を読み手の主観の相対性に求める批判って昔からあったが、主観というものは、そのひとにとって「一つ」ではない。「一つ」とは西田の言う「悲しみ」を何か原因に対応させている。西田のいう経験の表面をきちんと見れば、作品のように毛玉にみえる。それを無視して人との相対性に急に話を移すから滅茶苦茶になったのではなかろうか。人との相対性のなかでは我々はまた「一つ」に縮減されてしまうのである。

太平記が、数限りない人々の争いを書いていることに注目したい。これは怖ろしい相対性の世界である。源氏物語や伊勢はそうではない。あんな差異と反復みたいなお話なのに、実のところ、たったひとつの経験を描いただけかも知れないという気が私はする。

兄弟惨殺

2021-04-07 23:10:03 | 文学


執事兄弟、武庫川をうち渡りて、小堤の上を過ぎける時、三浦八郎左衛門が中間二人、走り寄りて、「ここなる遁世者の、顔をかくすは何者ぞ。その笠ぬげ。」とて、執事の着られたる蓮の葉笠を、引っ切って捨つるに、ほうかぶりはずれて片顔の少し見えたるを、三浦八郎左衛門、「あわれ敵や、願うところの幸いかな。」と悦びて、長刀の柄をとり延べて、胴中を切って落とさんと、右の肩先より左の小脇まで、きっさきさがりに切り付けられて、あっと云うところを、重ねて二打ちうつ。打たれて馬よりどうと落ちければ、三浦、馬より飛んで下り、頸を掻き落として、長刀のきっさきに貫いて、差し上げたり。越後入道は、半町ばかり隔たりてうちけるが、これを見て、馬を懸けのけんとしけるを、あとにうちける吉江小四郎、鑓をもって背骨より左の乳の下へ突きとおす。突かれて鑓に取り付き、懐に指したる打刀を抜かんとしけるところに、吉江が中間走り寄り、鐙の鼻を返して、引き落とす。落つれば首を掻き切って、あぎとを喉へ貫き、とっつけに着けて、馳せて行く。


高師直・師泰兄弟は、道心もないのに?僧になって逃げていた。じつに、覗き横恋慕事件、天皇木彫り発言事件など、めちゃくちゃに書かれている高師直であるが、太平記に限らず、日本人の悪口というのはまったく信用できない。この場合もかえって悪口大王語り手のゲスさをあらわしている。兄弟の最後も悲惨なものであり、――こういう場面で興奮する読者のために書かれているということである。

本質だけが問題だ。文学は、その入り口でもあり得るが、虚飾で覆われることもある。――我々の生そのものである。

いまの学生の特徴として、恥をかきたくないというのがある。観察するに、むしろ一対一の師匠と弟子みたいなのを好む気がする。そういう意味でも、学校の集団指導というのはもう限界に来ている。この集団指導というのは、そもそも個の自立を集団内でも果たせるエリートを前提にしたもののような気がするのだが、これを普通の人々にほどこすと、小学校みたいな社会への順応機関は意味があるかも知れないが、それ以上は、群れへの埋没を促すだけなのである。それでかえって、これを押さえ込むために、管理みたいなものが招来してしまうのだ。

しかしながら、大人になって、そこまでただ一人に親身になってくれる師匠って実際問題そんなにいるのであろうか?まず能力がなきゃ選ばれんでしょうが。恋人よりも更に厳しいぞ、それは……。誰も親身になってくれない状態でこそがんばれるようでないとどうしようもないんじゃないかな、現実問題として。で、やっぱりそういう庇護者が現れない場合(実際、そんなにいないんだから――)、自分の無能がバレないように群れの中に自分を消す、か。ひとりでもがんばれよ、どうでもいいけどさ

思うに、上のような高師直に対する激しいあざけりは、威張っていたけれども負けた人間に対する、有象無象の読者の溜飲を下げる効果があったのだと思う。結局、この場面が二人の兄弟であるところも気になるところだ。有象無象からすると、目立つリーダーレベルの同志というのは「つるんでる」というイメージが加わって、特別に怨嗟の対象なのである。実際、いまの日本のようなものでも、リーダ-は、二人か三人と存在としてアンサンブルを奏でている。対の芸術というか。

ぴようぴようと吠える、何かがぴようぴようと吠える。聴いてゐてさへも身の痺れるやうな寂しい遣瀬ない声、その声が今夜も向うの竹林を透してきこえる。降り注ぐものは新鮮な竹の葉に雪のごとく結晶し、君を思へば蒼白い月天がいつもその上にかかる。
 萩原君。
 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。君は私より二つ年下で、室生君は君より又二つ年下である。私は私より少しでも年若く、私より更に新らしく生れて来た二つの相似た霊魂の為めに祝福し、更に甚深な肉親の交歓に酔ふ。
 又更に君と室生君との芸術上の熱愛を思ふと涙が流れる。君の歓びは室生君の歓びである。さうして又私の歓びである。


――北原白秋「序」(朔太郎「月に吠える」)


こういうのを政治でもやろうとするやつがいるはずだ。もともと政治というのはそういうものかもしれない。傍から見るとそびえ立つ二つの㋒ンチにみえたりもするのであろうが……。

理りをも欲心をも打ち捨てた場合

2021-04-06 23:49:21 | 文学


今、持明院殿は、なかなか権を執り運を開く武家に順はせ給ひて、ひとへに幼児の乳母を憑むが如く、奴と等しくなりおはします程に、仁道の善悪これなく、運によつて形の如く安全におはしますものなり。これも御本意にはあらねども、理りをも欲心をも打ち捨ておはしまさば、末代邪悪の時、なかなかに御運を開かせ給ふべきものなり。


いまの世の中に、とくに知識人の間で絶望がひろくゆきわたったようにみえるのは、――日本国憲法の下でも、天皇が邪悪な人間たちによってその地位を堕とされた上に、「奴と等しくなりおはします」状態になってしまうような様を見せつけられたことがあると思う。近代憲法など、我々の国にとっては行動変容を起こすのはあまりに無力のような気がしたからである。

もっとも、憲法は法律ではなく、憲法意志の化身であるべきであり、そんなものが存在していないのに、――すなわち、なにも意志せず行為もしないのに、憲法が存在しているはずもないのであって、我々は依然として、太平記みたいな世界に生きているのはそもそも自明であった。

上の引用のような考え――、邪悪なものが跋扈するときには、その理性も欲もなくしてしまえば、かえって運命というものに従順なものにはなれるという考えは、我々に行き渡っている。語りは、武家の時代を認められない後醍醐天皇を欲望の塊とみなしている。しかし、本当にそんな簡単な話であったはずがない。我々は、すぐに時代とか流れを意識したふりをして、身を縮ませてしまう。

学会もむかしからまあそうであったけれども、河の流れのようである。知らないうちに、同じような言葉を喋らされている。我々はそもそも「研究者」や「学者」という職業人であることに気をとられすぎであり、職域奉公論みたいな考えを持たせられているわけだ。パワハラも大概、無理に自分を職業人として縛るところからくるし、その実、ハラスメントを受ける人間もそうだったりするのである。

例えば、教育に必要なのは、ある種の諦めなのであろう。そのかわり、――というかそのためにも、評価は嘘つかずにちゃんとしたほうがよい。そしてそのことで、学生の側もはやく自分に対して諦めて自分の実力を認めなきゃだめである。なぜこういうことが普通に出来ないかというと、学生が自分のやるべき学業=仕事に対して職域奉公みたいになってるからである。べつにおちこぼれてもいいのである。実際、ある希望を抱いたとしてもいろいろな理由で実力が追いつかないことはあり得るわけで、そのくらいは覚悟すべきなのは当たり前である。それを許せない人間が、指導する側及び受ける側にもいる状態だと、無理な作為が入り込んでハラスメント的な関係が発生する。

希望への「支援」の必要性と言った観点で、うまくいかなくなったら人のせいにするみたいな人間も多いけれども、常にそんなうまく物事が運ぶことはありえない。何が起こるか分からないわけだ。よく言われていることだけど、成功したと自分で思っている人が、都合よく自分の成功物語をくみ上げてるのがよくない。誰もが大して成功はしていないし、いろいろと偶然なわけよ、いまのようになったのは。――しかし、こういうこというと、努力の意義を認めないのかとか言う人がいるけど、認めてるに決まってるではないか。何もしなきゃ何も起きないのはあたりまえだ。が、頑張ったらいいことあるかも、というのは、偶然でよいことあったとき努力したそのせいにできて気分がいいよ、ぐらいの意味だろう。

夢を場合によってはその都度諦めて、次にゆくことを習慣づけないといけない。職域奉公して玉砕するまで我慢する必要はないんだ。うまくいかなくても、自分のせいでも他人のせいでもないわけだ。単に自分がその程度だったというだけである。過剰な自己否定も必要ないけど、肯定も必要なし。だいたい、夢とかが相当な割合である「職業につくこと」になってること自体がちょっとおかしいんだ。そういう人がいてもいいが、全員がそうすべきみたいな雰囲気であるのは明らかに狂ってる。

つまりは、ハラスメントは、何があっても自由な人生を得る勇気が存在している分だけその発生する確率は減るのだが、その自由だけは抑圧して効率的に職域を発揮しようとしたり個々の平安を得ようとした場合は、そりゃ職業は平安や勝利を目的とした軍隊に接近する。――それだけはやめる気がないのが我が国だということである。

その原因が、河の流れのように――みたいな考え方に潜んでいるし、また因果業報みたいな考え方にもあるに違いない。あまりにも過去のことを都合よく忘れる頭の悪い連中を諫めるために生まれた因果業報という発想が、原因からの作用が結果になるみたいな発想を生むのである。この発想自体が他人からの作用を感じればハラスメントみたいに思う感性を生み出している。

以木造るか、以金鋳るかして

2021-04-03 23:13:48 | 文学


又正く承し事の浅猿しかりしは、都に王と云人のましまして、若干の所領をふさげ、内裏・院の御所と云所の有て、馬より下る六借さよ。若王なくて叶まじき道理あらば、以木造るか、以金鋳るかして、生たる院、国王をば何方へも皆流し捨奉らばやと云し言の浅猿さよ。一人天下に横行するをば、武王是を恥しめりとこそ申候。況乎己が身申沙汰する事をも諛人あれば改て非を理になし、下として上を犯す科、事既に重畳せり。其罪を刑罰せられずは、天下の静謐何れの時をか期し候べき。早く彼等を討せられて、上杉・畠山を執権として、御幼稚の若御に天下を保たせ進せんと思召す御心の候はぬや。」と、言を尽し譬を引て様々に被申ければ、左兵衛督倩事の由を聞給て、げにもと覚る心著給にけり。是ぞ早仁和寺の六本杉の梢にて、所々の天狗共が又天下を乱らんと様々に計りし事の端よと覚へたる。

思うに、天狗やらなにやらと思い描いているからこそ、天皇を木や金で造りゃいいなどという言も紹介するきになるのである。もはや、天皇も足利たちも人間ではなくなっていた。三島由紀夫が言ったように、天皇が人間宣言したことの深刻さは、こういうところから明らかだ。天皇を人間にしてしまっては、逆にその人は人間の属性として、しかも社会制度上で神聖不可侵のものとなってしまう。明治維新の天皇というものがそもそもそういうものであったのだから、三島は戦前の天皇制を思い切り否定しているのだ。かえって、天皇を古典世界の神みたいにしておけば、木や金や天狗に通じる流動性の中にその存在が置かれ、馬鹿にすることも崇めることも自由自在となる。我々は天皇制から解放されることになる。

たしかにインテリのひねくれた逆説のようにも思えるが、古典世界を読んでいるかぎりではなんとなくリアリティがあるのだ。ただし、古典の世界が現実の昔の日本を必ずしも表象していないであろうことは気になる。

戦後、近代のためにも、神殺しが行われなければならなかったのだが、――むしろ、室町時代あたりにそういうルネッサンスをみる思想家が戦後にいたことは、三島由紀夫の上の意見と同時代的ではあった。最近、新しい天皇の地位はかなりあやふやなものだ。ここからどうなるか、わからない。

久松潜一の『日本文化の本質を語る』という本が昭和一三年に出ている。久松氏の戦時下はかなり評判が悪いが、読んでみると、やはりこれはまずかったという感じがする。氏の頭には、内から外を受けいれたり抱合するという図式しかない。日本が島で、周りからいろいろな物が流れてくるが、それを力として受け取る必要はない、餃子のように包んでいると考えるみたいな発想である。

われわれもこれを笑えない。いまだに、外部を他者として考えるか力として考えるか、みたいな発想が幅をきかせている。

 俳諧の趣味ですか、西洋には有りませんな。川柳といふやうなものは西洋の詩の中にもありますが、俳句趣味のものは詩の中にもないし、又それが詩の本質を形作つても居ない。日本獨特と言つていゝでせう。
 一體日本と西洋とは家屋の建築裝飾なぞからして違つて居るので、日本では短冊のやうな小さなものを掛けて置いても一の裝飾になるが、西洋のやうな大きな構造ではあんな小ぽけなものを置いても一向目に立たない。
 俳句に進歩はないでせう、唯變化するだけでせう。イクラ複雜にしたつて勸工場のやうにゴタゴタ並べたてたつて仕樣がない。日本の衣服が簡便である如く、日本の家屋が簡便である如く、俳句も亦簡便なものである。


――漱石「西洋にはない」


確かに、進歩をやめて変化に重点をおいただけでちょっと気が楽になることは確かである。漱石は、単に比較をしているだけで、それによって俳句の本質を規定するのをやめている。

野田池の水神さんを訪ねる(香川の神社137-2)

2021-04-02 22:59:15 | 文学




一日著暖たる物具なれば、中と当る矢、箆深に立ぬは無りけり。楠次郎眉間ふえのはづれ射られて抜程の気力もなし。正行は左右の膝口三所、右のほう崎、左の目尻、箆深に射られて、其矢、冬野の霜に臥たるが如く折懸たれば、矢すくみに立てはたらかず。其外三十余人の兵共、矢三筋四筋射立られぬ者も無りければ、「今は是までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違へ北枕に臥ければ、自余の兵三十二人、思々に腹掻切て、上が上に重り臥す。

四條縄手の戦いは太平記のクライマックスの一つである。昨今の、ヤマト、イデオン、エヴァンゲリオンなどの殲滅系のアニメーションが甘いのは、こういう白兵戦のぐだぐだこそ、戦争の恐ろしさであり、人間のおそろしさであるのに、これから逃げ回っているからだ。原爆みたいな必殺兵器の使用がまずかったのは、あれが戦争ではなくどちらかというと政治を表象するからである。我々は、原爆を落とされて戦争をやっていたことを忘却させられたのだ。あの戦争は、もちろん戦争である限りは本土決戦で終わるべきだったのである。我々にそのきがそもそもなかったことが暴かれて、まったく生き恥をさらされているのである。

それはともかく――、敵の手にかからないで死ぬというモラルは、いまでもなんとなくわれわれの中にある。相手の存在を悪魔にみたいに想定しているが、ほんとうはもっと内面的なものではないか。ショーペンハウアーがいうより我々の生き方は、なにか「生き恥」という感じがするからだ。我々は、そもそも自分の人生もふくめて変化に弱いところがある。何か急激な変化に対して「スミマセン」「もうしわけない」「ごめん」の合体した感情に襲われるのである。

四季の変化も実はかなりゆっくりである。我々は桜に大騒ぎしているけれども、これは変化を無理矢理時間的に解して大騒ぎするだけで、本当は、ゆっくり変化を感じながら生きたいのである。

わたくしが子どもだったせいもあるだろうが、山国の春はすごくゆっくり進行していた気がする。ゴールデンウィークにかけてゆっくり桜や菜の花が咲いてゆく。そして暑くなるまでに三ヶ月ぐらいあって、短い夏休みの途中でもう秋っぽくなってゆく。そして11月頃には雪が降って4月まで続く。我々が感じてた季節の推移とは、こういうなんだか緩やかな流れを前提にしてたんじゃないか。四つの季節があるとかじゃなく。知らないうちに訪れる変化だから変化らしいのである。

今住んでるところの、4月にいきなり夏が来て10月まで酷暑とか、変化じゃなくてもはや変異としかいいようがない。

今日は夏日だった……。今年も暑いのかなあ

野田池のお地蔵さんを訪ねる(香川の地蔵24-2)

2021-04-01 23:49:57 | 神社仏閣


横の石碑には、「このお地蔵さまは享保十二(西暦一七二七年)湛明元江和尚と宝暦六(西暦一七五七年)博道覚性沙弥二人のため、また野田池の安全と多くの人々の冥福を祈って建立されたものと思われる」とあった。一人目は福岡の戒壇院の第四代住職みたいだが……。

野田池からの眺めは、年々変化している。このブログのバナーの部分がその風景なんだが、四国山地よりもマンションがにょきにょき生えてきている。

我々は風景の中から人間を見出すみたいな顛倒から文学を作ってきた歴史のなかに生きているのだが――、これは案外柄谷行人が言うような意味でのパースペクティブの成立以上の意味がある。

桜をみていると、感覚がぼけてくる感じがして好きじゃないが、これがなんとなく鬱っぽくなることと関係があるのではないかと勝手に考えている。桜なんかより人間のほうがうつくしいに決まっている。しかし、我々は桜なんかを見てしまう、――というより、常に人間と桜の混合した状態を眺めているといってよい。古い和歌たちは無論そうである。わたしは山の中で育ったので、桜は山が白粉をしているようでなんとなくこちらも恥ずかしい感じがするが、平地の桜は、なんですかこれから小麦粉で料理はじめんですかみたいなかんじがする。――こんな認識だって、混合状態を示している。

「クラシック名曲「酷評」事典 下」には、ショスタコービチの「マクベス夫人」の米ソそれぞれの酷評が載ってておもしろかった。アメリカのニューヨーク・サンの批評は、これは「閨房オペラ」でそのセックス描写は「便所の落書き」だと言う、プラウダはよく知られているように、それをはじめ「自然主義」だと言っていたが、「形式主義」と言い出す。ここにも、人間の肉体と閨房や便所、「形式」といった二対の混合である。批評者たちは、音楽を用いて、人間のいる物質的な風景を見ているのであった。

Carl Rugglesに、「Sun-treader」 (1931) という曲があるが、これに対してドイツの「音楽報知新聞」の批評家は、「太陽を踏む者」ではなく「便所に踏み入る者」であると酷評した。しかし、なんとなく酷評の気分は分かる気もする。この無調音楽は人間のそれの感じがしなかったのだ。評者は、人間への懐かしさのあまり「便所」と言ってしまったのである。無調の陶酔で「胃が収縮」しそうだと告白しながら、無調を肉体の問題として解することまでやっている。そういえば、以前、某便所の落書き掲示板で、ショスタコービチのバイオリン協奏曲に対して、「ガクガクブルブルオシッコシャーシャーみたいな曲」と言われていたが、結構イメージとしては当たっていると思う。ショスタコービチは、無調や新古典主義や機械主義に対して、いかに性欲や肉体の勝手な動き(げっぷやおなら)をねじ込むかを若いときから考えていた。

その意味で、石の像というのは風景でもあり人間でもある、うまい解決の仕方である。

もっとも、オスカーワイルドなんかは、そんな庶民の気持ちは分からない。石になってゆく王子様に向かって燕として愛を捧げるのである。