★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

民謡と音楽

2022-05-17 23:58:32 | 音楽


今日は、民謡と柳田国男みたいなテーマの講義のなかで、クニッペルの4番やショスタコービチの9番について考えた。やっぱり受講生の音楽専攻の学生が9番にウケてた。あれに激怒できるソ連当局はマジメな意味で音楽に慣れてるとしかいいようがない。日本なんかは、この曲でさえ、戦勝紀念の曲として陳腐なせりふで飾り立てることができそうである。

Shostakovich "Symphony No 9" Gennady Rozhdestvensky



万類万品。乗雲雲行。

2022-05-16 23:09:01 | 思想


然後。待於万類万品。乗雲雲行。千種千彙。騎風々投。自天自地。如雨。如泉。従浄。従染。若雲。若煙。上天。上天。下地。八部四衆。区各交連。讃唱関々。皷騁渕々。鐘振礚々。華飄聯々。燐々爛々。震々塡々。溢目溢耳。履踵履跟。側肱側肩。尽礼尽敬。心謹心専。


みんなで生死の海に蠢いていたのだから、そっくりそのまま救済されるのである。


動かない無常観

2022-05-15 23:54:03 | 思想


則許頂珠。以封壃。同彼鶖子授記之春。奉頸瓔。以尽境。比此龍女得果之秋。十地長路。須臾経殫。三祇遥劫。究円非難。然後。捨十重荷。証尊位於真如。登二転台。称帝号於常居。一如合理。心莫親疎。四鏡含智。遥離毀誉。起生滅而不改。越増減而不襄。踰万劫兮円寂。亘三際兮無為。豈不皇矣。不亦唐矣哉。軒帝堯羲。不足採履。輪王釈梵。不堪扶騎。天魔外道。馳百非而非所毀。声聞僻支。飛万是而非所是。


「起生滅而不改。越増減而不襄。踰万劫兮円寂。」(生滅増減を越えて、改まったり減ったりもしない、長い時間をこえて涅槃にいたるのだ)というが、我々にはなにか、この越えてゆく涅槃以前に、時間を長引かせる癖がある気がする。

いろいろな土地に移住してきた経験からいうと、日本というのは山と海に行く手を阻まれた基本的にとても移動が難しい国だと思う。ヤマトタケルから義仲や義経の伝説には、余り長い距離を短期間で行こうとすると疲れて死ぬという実感が込められている気がする。日本はその意味で広くて果てしない空間があり、それが長い時間を維持しようとする感覚にも繋がっていると思う。無常観が必ずしも絶望じゃないのもそういうのと通じてる気がする。それは動かない無常観で有り涅槃とも言うべき感覚である。

賴朝や家康があまり移動しなかったことによって長い時間を獲得したのが、我々を縛っている。そもそも、天皇自体があまり動かない存在である。動いたら、わが崇徳院の様になってしまう。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われてもすゑに 逢わむとそおもふ

これと、方丈記の冒頭や美空ひばりの歌は同一物を歌っている。それは流れてしまうこと、短時間で終わることへの恐怖ではなかろうか。

筏としての六度

2022-05-13 23:38:33 | 思想


是故。自非発勝心於因夕。仰最報於果晨。誰能抜淼々之海底。昇蕩々之法身。誠須六度筏。解䌫漂河。八正之航。艤棹愛波。樹精進橦。挙静慮颿。拒群賊以忍鎧。威衆敵智以剣。策七覚馬。亟超沈淪。駕四念輪。

六度とは六波羅蜜で、修行の徳目だ。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧。それぞれはけっこう大変そうである。しかし。これは筏なのである。それがなければいままでの迷いの海に落っこちてしまう。そして、修行を支えるのは筏に乗った気分という安心感なのである。修行は安心である。修行を苦行として捉えるところから錯誤が生まれる。あくまで筏であることをわすれないようにしないといけない。行はイメージとしての言葉によって支えられている。というより、イメージとしての言葉とともに行為される。しかし、それは、発心があってのことである。発心とはたぶん自発的ななにかであるが、それはぼんやりとしたものである。そこにイメージが入り込むのであろう。

悟りへの道は、たぶんそういうぼやっとした発心の穴によいイメージが入り込むことが重要なのである。それによって、自動的に修行がはじまる。修行はなにか構造的なものなのである。神話の様なもので、膨らんでつねにブリコラージュ(修繕)されてゆく。

今夜、テレビで「ローマの休日」がやっていた。ヘップバーンの王女としてのアルカイックスマイルみてておもったが、そういえば、ウルトラマンもそんな顔をしている。やはり戦争の後にはそういうイメージが必要だったんだと思った。仏的な顔というか。。。

物語において、男女がお互いに身分を隠して嘘をつきながら、つい本気で恋してしまうが、それは嘘であるからして、その嘘の側面を全否定することは出来なかった。だから、彼らはお互いに自分の身分にかえってゆく。が、それによって愛は理念となる。嘘も愛に転化する、とりあえず信じなさい、という理屈なのである。最後の記者会見で、欧州経済共同体に期待するという発言があるが、上のこの物語の主題がそういう友愛という「嘘」にも期待していることを示している。舞台がローマなのも、ローマ帝国の延長に、それが過去の幻影であることを知りながら信じてみようというわけだろう。グレゴリー・ペックがアメリカ人なのがちょっと、当時の政治状況を表してて欺瞞的であるが、実現のためには手段を選ばず、とりあえずもう一回嘘を信じるというのが希望であった。しかし、本当は、それだけではだめであったのを証明したのが第二次世界大戦であったはずであった。その嘘がナチスに展開しないとなぜ言い切れるのか?――というわけで、必要なのは、浮世離れした天使の笑顔であった。ヘップバーンはそこに入り込んだのである。

そして、彼女が、大戦をくぐり抜けたレジスタンスで、しかも両親がナチスのシンパで、という情報が、天使の笑顔を修繕して行った。

触処櫛比。毎浦連屋。

2022-05-11 23:14:29 | 思想


如是衆類。上絡有頂天。下籠無間獄。触処櫛比。毎浦連屋。玄虚之神筆。千聚難陳。郭象之霊翰。万集何論。因茲。五戒之小舟。漂猛浪。以曳々掣々於羅刹津。十善之椎輪。引強邪。而隠々軫々於魔鬼隣。

先に、空海はダンテに比べて意地が悪くないみたいなことを言ってしまったが、ここをよむとそんなことはなさそうだ。「上絡有頂天。下籠無間獄。触処櫛比。毎浦連屋。」(天のてっぺんから地獄の底までいたるところに櫛のように密集し浦々に家が集まるように並んでいる)。これは、生死の海に折り重なっている魚鳥獣の輩、我々のことである。空海は海の民である。海辺の家々と礒の不気味な生態を思い浮かべているのであろうか。ここにあるのは、我々自身に対する生理的な嫌悪感みたいなものであり、それは、海辺の風景を細密描写的に眺めているうちにその風景が心に貼り付いて行くような不気味さなのである。さとりへの道は、さしあたり、このような世界を自らの感覚のなかに引き込んでおかしくなることが重要なのである。誰もが知っているように、いっこうに成長しない人間というのは、自分を世界と別のものとみているからである。そもそも思い上がりも謙譲も心理的な影であるにすぎず、自分であり世界でもあるところの「情景」を浴びることが重要なのである。

何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。
 時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。


――「檸檬」


梶井基次郎は、移動の作家で、自分の心を押さえつけている風景を「錯覚」とみながら自らを想像的に揺籃させている。そのゆりかごからでてくるのは卵であり、檸檬という爆弾である。しかし――思うに、こういうことができるのは、梶井があまり人を救おうとしていないということではなかったか。

天然の渡り廊下

2022-05-09 23:02:00 | 文学


昨日から柳田の「序」が気になっていた。木曽谷において中山道は「天然の渡り廊下」であって、流行歌がながれてゆく廊下であるが、それを摘まむ人々は流れとは関係なく家に帰って生活に即した歌として歌う、そんな記述である。

――確かに中山道が中央線に置き換わって、文化の通り道ではなくなったんだな。そして柳田が夢想する文化的滞留と発酵を支える常民もただの田舎もんになってしまったのかも。ネットワークの世界とはケーブルや密室の電車であり、その外部に繋がっていない。文化の滞留は、都会や、いまだったらスマホのなかに閉じ込められる。我々がかえって文化を失いつつあるのは当然だ。


対象への態度

2022-05-07 23:35:17 | 思想


其鱗類。則有慳貪嗔恚極癡大欲。長頭無端。遠尾莫極。挙鰭。撃尾。張口。求食。吸波。則離欲之船。橦摧。帆匿。吐霧。則慈悲之船。擑折人殛。且泳。且涵。志意不式。或饕。或餮。心性非直。如壑。如渓。後害不測。若鼠。若蚕。匪惻。共忘千劫之蹉跎。並望一涯之貴福。

確かに、私も魚にあまり好意をもっていないような気がする。子どもの頃、金魚が家で飼われていたが、彼らに感情が入り込むことはなかった気がする。これに比べると、――冬に孵ってしまったカマキリとか、増えに増えてしまったモルモットたちでさえ、気持ちが分かる気がしたものだ。高校のときのインコなんかどうみても学校の仲間たちより私の気持ちを分かっていた。

魚たちのせわしない感じをみていると、吾々の先祖は陸に上がって、静止の世界を獲得した様に思われるのだ。吾々は考えながら動くことも出来るが、止まって考える場合によく考えることは確かである。魚は水と一体化している、つまり世界の外部がない。我々は水を捨てた代わりに、空気(無)を介して外部を持ったのであろう。対象を自分と切り離して勝手に対象に入り込む様な魂を手に入れた。「夢応の鯉魚」は、たまたま魚に入り込んでしまった皮肉な話である。――それはともかく、我々は対象にのめり込むことを快とかんじながら、本来の姿はそうではない。

菅田将暉氏が、俳優は他人のことばっかり考え続けているのでそのままだと壊れてしまうみたいなこと言っていた。これは、対象のことばかり考えている学者にもいえるんじゃないだろうか。理性でなんとかしていると思っているからかえってやっかいで、壊れていることに気付かない人もいるのかもしれない。

かように我々はやっかいな存在になってしまったが、その調整作用として、我々は自分にすら自分で入り込む。しかし入り込むことを対象に対する価値評価と解して頑張ってしまう場合もあり、今はやりの「自己肯定感」とかいうのがそれであろう。そもそも「肯定」というのが思い上がっているのだ。実際は、安心感みたいなものである。そんな判断を行うのは暴力である。すなわち、自己肯定感とやらがある人って、逆に自己を否定することもあるし他人を否定することもあるということであろう。肯定とか否定とか、そういうもんは閻魔様に任せりゃいいのだ。まだ太宰治の方がしゃれてるよ、人間合格感とか人間失格感とか、言っているわけで。

今日は、信濃毎日新聞社編の『信州の百年』(昭四十三年)を読みふけってしまったが、ありふれた意見だけど、日本の歴史みたいなものをやったあとで、こういう県とか郡とかの歴史を勉強すべきなんだと思うのである。そうすると、ドイツの片田舎の娘が自分の親や祖父祖母たちがいかにナチスに迎合していたかを暴いた、映画「The Nasty Girl」 じゃないが、自分達のまわりがどういう風に処したかおぼろげながら分かって、政治的なふるまいの必要性もはっきりすると思う。いまみたく、小学校低学年で郷土の歴史をものすごく単純におそわっただけで、あとは世界とか日本の広さに飛んでしまい、しかも近代史までたどりつかないとなると、ほんと、世界観が「自分と世界」みたいな「セカイ系」みたいになってしまうにちがいない。

日本でも事情は同じである。外国での戦争犯罪の議論も大事だけど、もっと伏せておきたかったのは狭い共同体における戦争協力・扇動の実態である。戦争に限らない。たとえば私は神坂村の合併問題の時に、児童の登校拒否や長野県警の300人弱の出動などがあったことを知らなかった。地元の人はトラウマだろうが、こういうことはいつも蒸し返してもよい問題である。こういうことを蒸し返し続ければ、問題解決能力とか合意形成能力とかいうファシスト紛いの言葉を振り回さなくてもよくなり、政治問題はテレビの向こうではなく、親子関係や師弟関係にこそあることが明らかであるはずである。

『信州の百年』の解釈?だと、「長野県教員赤化事件」に関して、不況で東京外大や京都大の卒業生が、実業補習学校の教員として赴任し、三木清の購読会などをやりはじめたのを重視している。西田派にあきたらない青年教員たちが三木に走ったというのとはちょっと違った側面があったということになるだろう。インテリ帝大生による「赤化」を恐れた官憲が動いた側面は確かにあるのかもしれない。大正期以降の自由主義教育のせいなのか、西田哲学を勉強するようなきまじめな風土のせいなのか、いずれも少しはあたっているのかもしれない。

私なんかは、我々が魚やモルモットやインコの真似を少しはしているように、「信濃の国」にでてくる人物たちの真似をしている気がしている。義仲、仁科五郎、太宰春台、佐久間象山、――みんな日本国にたいして一言多い連中である。