★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

世界としての海

2022-05-04 23:54:04 | 思想


夫生死之為海也。絡三有際。彌望罔極。帯四天表。渺獼無測。吹嘘万類。括捴巨臆。虚大腹以容衆流。闢鴻口而吸諸洫。襄陵之汰。洶々不息。凌崎之浪。礚々相逼。礚々霆響。日日已衆。轔々雷震。夜々既充。衆物累積。群品夥藂。何恠不多。何詭不豊。

この海というのは比喩ではなく、吾々の生死のあらゆるものがふくまれて飲み込まれているものを言っており、それが確かに海らしく思われるのには、何か海にそういうところがあるからにちがいない。母なる海とかいいたいのではなく、世界そのものが海的なのである。

人間基本狂ってるので、まわりに物が溢れてるだけで自分がその物を作ったか生み出したかのような感覚に少しだけ本気でなっている。そういう風に感じ続けていると、やってないことまでやったと言うようになるにちがいない。ネットだけじゃなく豊かささえ人間にははやすぎたのである。しかし、このような物との相互交通、いや相互浸透とはまさに海のようであって、それはきれいなもんじゃない。「衆物累積。群品夥藂。何恠不多。何詭不豊」である。

実際、海は遠くから観るときれいに見えなくはないが、近づいてみると、様々なものが浮き上がり蠢いているきわめて不気味なものである。河や空気と混じり合い、地上の様々なものを波で飲み込んできているそれは、たしかに物を混ぜたらこうなるわな、という体である。これにくらべて、山の方のほうがよほど混じっていない。どちらかというと物と物との相互交通の世界であり、混じり合ってる感じとは違う。

平家と源氏の争いを、海の民と陸の民の争いとしてみる見方がある。わたくしは山の民だから、義仲の味方であるが、義仲は法皇に命ぜられて西国に攻め入ったときに、平家は瀬戸内海を楯に四国に陣取った。このときから義仲の凋落が始まった。義仲の気持ちになって考えてみるに、正直海が怖かったのではないだろうか。山の民は海を川の延長にしかみることができない。でかい川が海である、しかしでかすぎるし、こんなきたねえ水は見たことがないから頭が働かなくなってしまうのである。しかるに、空海大先生が言うように、海の方が川に延長して飲み込んでいると見做すべきなのである。

横道誠氏の『みんな水の中』と東浩紀氏の『ゲンロン戦記』を去年一緒に論じたときに、言葉や共同体を水のなかのものとして考える彼らは非常に本質的なところをついているし、同時にわたくしなんかはなんとなく言葉をそんな風に考えていなかった、と思った。

長野県教員赤化事件(二・四事件)が長野県内でどのように意識されてきたか、前田一男氏の研究で教えられた。日義や茅野では児童による抗議の同盟休校が行われたと。教育会の本や学校史で記録されているらしい。こういう出来事は他でもあったに違いないが、長野県みたいな山では、歴史が出来事の点を結ぶようにして主体形成をしようとするところがある。実際影響関係はなくても、日義村での義仲の旗揚げや、藤村の「破戒」にでてくる校長に抗議する児童が、この同盟休校の記録と結びつく。事件の規模とは関係なく点があれば主体は作られる。――こんな風にも私は考えがちである。

前田氏の研究で紹介されていたが、郷土史で有名な一志茂樹は、長野県の教員の一部が左傾したのを白樺派的なものに結びつけるのは信濃哲学会の責任逃れの側面があると言っているという。思想統制が強まるなかで、長野県では多くの教員が西田哲学系に逃避し、そのなかで弟子の三木清に流れた若手がいたんだと言うのである。本当はどうだったかわからない。松本で逮捕者が出なかった代わりに、木曽では7名逮捕者が出たらしいし、実際は抵抗は点的である。しかし、この場合は、権力が長野県の教員を「赤化」の象徴としてでっちあげた。それは、教育県みたいなイメージがもともとあったからである。このイメージは海的な混沌ではなく記号に過ぎないから、簡単に書きかえればよかったのである。長野県が、更なる書き換えを志向して満州に児童を送り込んでしまったのは有名である。

これにくらべると、香川県なんかさまざまな歴史があるにもかかわらず、なんとなく自らを象徴化せずに海の様にたゆたっている。そういえば、その様態に「うどん県」というのは非常に合っている。三木成夫とか菊池寛とか、そんなイメージに合っている気がしてくるし、大平正芳だってそんな気がしてくる。

しかし、山の民のわたしは、所詮水は低きに流れるじゃないかと思いがちなのである。

地獄の映像

2022-05-03 23:11:43 | 思想


於是。亀毛等。百斛酢梅。入鼻為酸。数斗荼蓼。入喉爛肝。不仮呑火。腹已如焼。不待刀穿。胸亦似割。哽咽悽愴。涕泣漣々。擗踴倒地。屠裂愬天。如喪慈親。似失愛偶。一則懐懼失度。一則含哀悶絶。仮名。則採瓶呪水。普灑面上。食頃。蘇息不言。如劉石之出塚。似高宗之遭喪。

儒教先生や道教先生に勝つために、仮名乞児は理屈ではなく「それじゃ地獄に墜ちるぞ」「地獄というのはこういうもので……」と長々と歌った。吾々にとっての世界は理屈というより、空が青いとか美しい人が居るとか虫がいるとか地獄があるとか、――そういう具体的な映像そのものによって吾々の頭脳に跳ね返ってみえるものであって、本当は、儒教先生も道教先生も自らの説教でそれを自覚しているはずであったが、それはまだ説教の手段に寄っていた。これに比べると仮名乞児のそれは、まるで歌う総天然色映画であった。

現代においては、怪獣映画やゾンビ映画が地獄を歌っているが、それをフィクションだかメタファーだかの概念が妨害している。

最近、高峰秀子さま主演の「女性操縦法」を観た。太宰の原作は「グッド・バイ」だが、それとはだいぶ違う物語であった。わたくしはフェミニストというよりファンとして、原作のクライマックスを活かし、秀子様が森雅之を蹴り飛ばす場面が見たかったのであるが、なんだか男の横暴を緩やかに許すラブストーリーになっていた。京マチ子と宇野重吉の「痴人の愛」も結末がひっくり返っててびっくりしたのだが、――そういえば、「青い山脈」もあわせてみんな一九四九年の映画なのである。

この三つの映画の争いは、結局石坂洋次郎のものが大勝利だった。「古い衣装よさようなら」で水着を押し出して、自転車に乗って歌を歌わせたら大ヒットしてしまったのだ。結局、戦争そのもの、戦前そのものを蹴っ飛ばすような乱暴なところが勝利した気がする。戦後、吾々がいま想像するより、戦争映画は多い。それは反動的でもあったであろうが、結局は吾々はどういう理屈がついていようとも、戦争という体験を「映像」に置き直して昇華する段階を必要としたのである。まだ必要としているようなので、ちょっとおかしいのであるが。。。

紅葉が庭で繁殖

2022-05-02 23:15:54 | 文学


いろいろの秋の紅葉の散りかう中へ青海波の舞い手が歩み出た時には、これ以上の美は地上にないであろうと見えた。挿しにした紅葉が風のために葉数の少なくなったのを見て、左大将がそばへ寄って庭前の菊を折ってさし変えた。日暮れ前になってさっと時雨がした。空もこの絶妙な舞い手に心を動かされたように。
 美貌の源氏が紫を染め出したころの白菊を冠に挿して、今日は試楽の日に超えて細かな手までもおろそかにしない舞振りを見せた。終わりにちょっと引き返して来て舞うところなどでは、人が皆清い寒気をさえ覚えて、人間界のこととは思われなかった。物の価値のわからぬ下人で、木の蔭や岩の蔭、もしくは落ち葉の中にうずもれるようにして見ていた者さえも、少し賢い者は涙をこぼしていた。


――與謝野晶子訳「紅葉賀」

地獄のサイクル死んでも回せ

2022-05-01 23:30:55 | 思想


尸骸爛草中。以無全。神識煎沸釜。而無専。或投嶃巌之刀嶽。流血潺湲。或穿山集嶫之鋒山。貫胸愁焉。或轢万石之熱輸。乍没千仭之寒川。有鑊湯入腹。常事炮煎。有鐵火流喉。無暫脱縁。水漿之食。億劫何聞称。咳唾之飡。万歳不得擅。師子虎狼。颬颬歓跳。馬頭羅刹。盱々相要。号叫之響。朝々愬霄。赦寛之意。暮々已消。嘱託閻王。愍意咸銷。招呼妻子。既亦無繇。

空海も一回ダンテのように地獄巡りでもしてきたにちがいない。もっとも、ダンテはもっと意地が悪く、地獄に行くと自分の恨みが投影された風景が広がっていた。で、つい彼らがどんなに罪深いのか逐一書き記し、階級的地獄をつくりあげた。これにくらべると、この地獄はまるで万人に対して待っているかのようだ。空海は、恨みがないのか、恨みが深すぎるのか。

いまの大河ドラマでは、義に厚い義仲像が打ち出され、反対に鎌倉の連中は粛清の嵐を起こしてしまう。嗚呼、政治はかくもきたないと視聴者たちは思うかもしれないが、これはPDCAサイクルとかいうて、欠点や問題点を「消去(粛清)」するのに一生懸命な吾々の社会そのものなのである。義仲殿の評判が好転したことをいいことに、我が田舎こそが義仲に由縁ありと名乗り出てくる其処此処のあれがあれであるが、吾々の先祖のだいたいは、幼い義仲の居所を密告したり、義仲軍の落ち武者や平家の落ち武者を集団で殺して褒美を貰ったりした輩である可能性が高いのではなかろうか。どういうことであろうか。

吾々の行き方は、たいがい「下手な鉄砲も数撃てば当たる」的であり、それはいつも生き残りをかけて行動しているだけだからで、――確かにどこかに弾はあたってるのである。そこに源氏がいたか平家がいたか、組織の不良分子がいたかの違いにすぎない。数撃てば当たる、というのはPDCAサイクル的に計画的なのだ。そのサイクルの最悪のサンプルが連合赤軍事件だ。この場合少数だから悲惨な結末がすぐきたが、普通はここまで糞真面目でないリンチが国中で延々続く。数打ちゃあたると思って続くリンチである。

労働を管理しようとして労働者がますます受け身になり、つまり労働者は能力を失い、もうすでに能力の問題を指摘することさえ怖くて出来なくなっている。そして疲弊の余り、労働時間を減らすことだけを考えるようになる。労働時間を減らしてもやらなければならないことは減らないし、むろん労働のための自らの体力は落ちてしまう。労働だって、ピアノや野球と同じく練習による観念的=体力がつかなければこなすことは無理なのである。

こんな悪循環は、吾々の社会では繰り返して起きていると見做すべきである。で、あとはプライドをどう保つかみたいな話になる。そんな人間の心ではどういうことも起こるので、瀕死の平家の落ち武者を叩き殺してしまった農民が自分を平家の落ち武者として子孫に伝えて行くなんてことは容易に起こりうる。そして良心欺瞞か傍観か、――何かはかわらんが、判官贔屓などというものも発生させることもあるだろう。