花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「北部ベトナムの旅」(1)

2016年12月01日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪ベトナムに行って来た≫

今回の「北部ベトナムの旅」は、全ての庭仕事や農園の片付け、漬物作りを済ませた先月25日に羽田を出発し、29日に帰国する5日間の旅だった。
ベトナムは今回で3回目の訪問で、国の事情もある程度分かっていたし、観光は中3日間だけだったので大した事前の準備をせずに出かけた。

ただ「地球の歩き方」最新版を見ると「治安が悪化」していると書いてあったので、安全面には特に神経を使い、貴重品の管理に注意した。
結果的に「ハノイ」で夜、ホテルからスーパーまで2回往復したが、車やオートバイがバンバン走る信号機が無い横断歩道を横切るのに神経を使った以外、問題はなかった。
観光地で勝手に人の写真を写して、帰りにプリントしたのを売りつけられた以外は、売り子にしつこく付きまとわれる事もなかった。(写真は勿論、断固として断った)



       

気候的にこの時期の「ハノイ」は、最低16度~最高25度。雨もほとんど降らず、快適な旅ができた。
この地域では米は2期作だそうだが、2期作目の収穫が10月に済んだ田んぼには水が残してあり、地上から25cm程刈り残した稲の茎が立ち並んでいた。このまま腐らせて堆肥にするらしい。
田んぼで鴨やアヒルが遊び、タニシの卵が稲の茎に産み付けられていたのを見ると、化学農薬はあまり使われていない様子だった。
道路沿いに砂糖キビやトウモロコシが育っていた。



                  

食事には経験上、期待していなかった。田舎のベトナム料理の中には、油が古くて胸焼けした揚げ物があったが、全体としては80点をつけても良い程美味しかった。

主な観光地は「ハノイ」からバスで2~4時間かかる郡部「ホアルー」「マイチャウ」「チャンアン」の町の世界遺産が中心だったので、バスに乗っている時間が長く、のんびりゆったりした旅だった。

次回からもかいつまんで今回の旅の様子をお知らせしたい。








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ベトナム・カンボジアの旅(7)

2011年02月02日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
昨夜は真夜中にホテルに着いたので周りの様子が分からないまま寝たが、朝食を食べに部屋を出たらいくつかの棟に分かれたフランス風の立派なホテルで、ベランダからハロン湾を見渡せる絶景ポイントに建っていた。①
ハノイは緯度が高いので、南部のホーチミンに比べると10度以上気温が低い。昨夜着いた時、部屋に電気ストーブがつけられていたが、室温が低かったのでそのまま朝までつけて寝たのだった。
朝、私は家を出発した時の様に重ね着をして旅の最後のハイライト、3時間のハロン湾クルーズに臨んだ。

湖の船着き場に待機していた中型客船を1隻借り切って②、「海の桂林」といわれる大小200もの島があるという景色の中を進んだ。③

 ① ②

 ③  

ハロン湾には鍾乳洞が4つあるらしいが、私たちが途中立ち寄ったのはダウゴー島にある「ティエンクン洞」だった。高さ20m、幅10mと大きくはないが、素晴らしい鍾乳洞だった。④ しかし、赤や青にライトアップされていたのはいただけなかった。
船に戻ると海鮮料理のランチが用意されていた。その後、絹製品や真珠の船内販売があったが、買った人はいないようだった。

 ④ 

船を降りてから午後は、賑わっているハノイの下町を歩いた。
花店⑤や靴店⑥もあったが、靴店の前の路上では店員が電動の道具を使って靴を修理していた。⑦
肉屋は切り分けたばかりの肉を、人通りの多い店先に無造作に並べて売っていた。真夏の炎天下でも、こうして売っているのだろうか。⑧
シクローに乗った欧米人が沢山通って行った。⑨

 ⑤ ⑥ ⑦

 ⑧ ⑨

ベトナムの食料品を扱っているという土産物店に行った。甘く味付けした黄な粉を紙に包んだ菓子や、ピーナッツを飴で固めた菓子などが売られていた。
その店の隅でベトナム刺繍をしている女性たちが数人いた。その刺繍も、完成すれば高価な売り物になるのだろう。⑩

それから「ホーチミン廟」⑪に行った。
現在のベトナム民主共和国を建国するリーダーとなったホーチミンは1969年9月2日に亡くなったが、6年後の命日に総大理石の「ホーチミン廟」が完成した。
彼の棺は衛兵に守られていて、週末には大勢の市民が訪れるのだという。
この建物の前は広大な広場になっているが、ここで彼は1945年に独立宣言文を読み上げたのだという。

 ⑩ ⑪

すぐ傍に「一柱寺」があった。⑫ ここは李朝の僧侶が1049年に創建したという小さな寺で、池に咲く蓮の花に似せて、水中に立てたたった1本の柱の上に乗るように寺が作られていた。⑬
クチの地下トンネルに行った時、そっくりな寺があったのを思い出した。90%の大きさで造られたものだったのだ。この古い寺は、ベトナム人の精神的な支えとなっているようだった。

          ⑫ ⑬

夕食後は、伝統ある「水上人形劇」を鑑賞してから、ハノイのノイバイ国際空港に向かった。
ANAは予定通り00;05に離陸し、4時間35分後の6;40に成田空港に着いた。
私たちはリムジンバスで羽田空港に移動した後、予定より2時間早い10;00の飛行機の席をとって新千歳空港には12時前に無事帰ることができた。




ベトナムとカンボジアは熱帯に位置する国ということで、マラリア、デング熱を媒介する蚊に刺されないよう虫よけクリームを持ち、破傷風と日本脳炎の予防接種も受けて行ったが、乾期のためか気になる程蚊は出ず、手首を3か所刺されただけだった。(時期的に日本の薬局では虫除けクリームが売られていなかったので、手に入れるのには、苦労した)

また、友人は医師に勧められて高価な狂犬病の予防接種もしたというが、ベトナムでもカンボジアでも犬はほんの少ししか目に付かなかった。ガイドに聞くと「犬の肉は美味しいから、食べます。」といわれて納得した。
水道水は飲めないので、1日1本配られるミネラルウオーターが有難かった。

食べ物はちゃんとしたホテルやレストランの物でも、私は用心した。生野菜、カットフルーツには手を出さなかったし、勿論、生ジュース類も避けた。時間が経っているものかも知れないし、水道水で作った氷が入っているかも知れないからだ。
そこまで注意しても料理に使われた油が悪かったのか、二度もお腹を壊した。そんな時は治るまで絶食することにしている。

行く前には、時期的に北海道の気温より40度も高い国に行く不安があったが、ホテルやレストランはクーラーが効いていたし、シェムリアップでは、昼食後ホテルで休憩させてくれたので良かった。

今回の短かった旅で、知っている様で知らなかった二つの国について、実際に自分の目で見て知ることができて良かった。
帰って来てからは図書館で借りた本を読み、旅行中抱いたいくつかの疑問の答えを探した。
皆さんは私の今回の旅日記に、どんな感想を抱いただろうか。(完)






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ベトナム・カンボジアの旅(6)

2011年02月01日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
6日目はオプショナルで「トンレサップ湖」のミニクルーズだった。
シェムリアップの南方にあるこの湖は、雨期には乾期の数倍の大きさになり、深さも乾期には1~2mだが雨期には5~6mにもなるらしい。
多様な淡水魚が生息しているので、水上生活者はこの淡水魚を取って食べたり、売ったりして生活しているという。しかし、乾期の4か月間は魚の産卵期に当たるため、漁労が禁止されているし、小魚を取って売っても、あまり良いお金にはならないのだという。そこで近郊で農業を兼業している人も多いのだとか。
内戦中にベトナムから来た人達も多く、ガイドの話では水上生活者の50%はベトナム人だと言っていた。
トンレサップ湖の水は、真っ赤な色をした泥水だが、水上生活者は生活用水としてその泥水を使い、飲み水は山の麓に行って買うのだそうだ。

バスで船着き場まで行き、湖を見たが、乾期の最中なので水はかなり少なかった。①
観光用小船の補助労働者として男子小学生が働いていた。② オイルを運んで来たり、船を船着き場に誘導してロープで止めたりするのだ。良く見ると、沢山の小学生程の男子が他の船でも働いていた。

 ① ②

小船が湖に出ると間もなく、傍に寄ってきた小さなボートから7~8歳の少女が船に飛び移って来た。籠の缶ビールや缶ジュースを要らないかというのだ。
誰も買わなかったらさっとボートに飛び乗って消えた。その鮮やかな行動力に驚いた。ボートを操縦していた男性は、父親だったのだろうか。

次にまた近づいてくるボートがあるので見ると、男性の横に大ニシキヘビを体に巻きつけた幼女がいる。驚いた。男性が手を出して物乞いしている。男性の後ろに座っていた2~3歳位の男の子は、なぜかずっと泣いていた。③

                 ③

ボートに果物を積んで売りに来た女性もいた。赤ちゃんを抱いて、私たちに物乞いをする女性もいた。次々と現れる予想外の光景に、私たちはただ唖然とするばかりだった。
漁労が禁止されている時期は、こうして物乞いをするしかないのだろうかと、深刻な思いに捕われた。

川岸に建てられた家も水中に建つ家も、屋根はバナナの葉かトタン葺きで、壁は板壁か布をかけてあるだけの家が多かった。④⑤⑥
見るからに貧しい生活が、目の前にあった。
資料を見ると、トイレがない家がほとんどなのだそうだ。湿地帯で米を作っている農家にも決まったトイレはなく、土に順次排泄物を埋めて行くそうだ。しかし、雨期になるとそれが溢れて来て、不衛生な状態になるようだ。

 ④ ⑤ ⑥

20分程行ったところで水上にレストランや土産物店がある住居に降りた。生簀でエビや魚を養殖していた。観光用だと思われる鰐も数匹飼われていた。
湖の上には、ベトナムの水上小学校とカンボジアの水上小学校もあった。子供たちはボートで通学するという。

その後、バスで湿地帯の田園風景を見ながら⑦シェムリアップに戻った。
ガイドの話では、水田に撒く殺虫剤が湖に流れ込み、漁業資源に打撃を与えているのだという。
シェムリアップに戻って、「オールドマーケット」を見学した。雑多な店が、決して清潔とは言えない所で経営されていた。簡易食堂や惣菜店もあった。⑧⑨⑩
土産物店では、どの品物にも値段がついていなかった。

 ⑦ ⑧ 

         ⑨ ⑩

バスの中でガイドが、カンボジアの結婚について話した。
田舎の女性は、中学までしか行かずに若くして結婚する人が多い。結婚したら男性が女性の家に入り、女性の姓は変わらないという。母系制社会が続いているらしかった。親の財産は末っ子が継ぐそうである。

18;05の飛行機で今度はベトナムの首都、ハノイに向かった。3時間半バスに乗って、ハロン湾のホテルに行った。
その夜は友人と今日見たカンボジアの人々の貧しさについて、色々話し合った。東南アジアが初めての友人にとっては、取り分けショックが大きいようだった。
私は、貧困の原因は混迷した国政にあったのではと思う。

「地球の歩き方」「カンボジアに関する60の疑問」、ネットなどの資料を調べて分かったことは、フランスの植民地だった1863年~1953年の90年間は、80%を占める農民の税金が周囲の東インドシナ連邦の国々よりはるかに高く、生活は困窮を来したらしい。
そして第二次大戦後、独立運動の先頭にたったシアヌーク国王が、紆余曲折を経ながら1953年11月9日、フランスからの完全独立を果たしたが、その後1955年に王位を父に譲ってからの活動は、独裁主義的なものだったらしい。
ベトナム戦争が起きると、1970年3月に実権を握った右派ロン・ノル将軍により、カンボジアは戦争に巻き込まれた。北京に亡命していたシアヌークは「カンプチア民族統一政権」を結成して共産勢力「クメール・ルージュ」と手を結ぶが、1973年以降は内戦状態に陥って行った。ここでも、国民の生活は疲弊を極めたという。

1975年4月17日、「クメール・ルージュ」を中心とした「カンプチア民族統一戦線」がプノンペン入城を果たして内戦は終わったが、政権を握ったポルポト政権(民主カンプチア政府)は、都市の無人化、農村への強制移住政策、市場・流通の廃止、学校教育の廃止、宗教活動の禁止、人民公社の設置を断行して、それまでの社会秩序を破壊し、通貨の廃止、私財の没収、寺院の破壊、政権に反対する知識人の虐殺や無差別虐殺などに走り、正確な数字は判明していないが100万人以上が死亡したといわれている。また、地方に広く地雷を埋めた。

1977年にはベトナムとの国境紛争が起こると、1978年12月、ベトナム軍がカンボジア領内に侵攻したため、民主カンプチア政府はプノンペンを放棄してタイ国境の山岳地帯に逃走し、その後10年間、タイ、中国、英国、シンガポールなどの支援を受け続けた。
同時にタイ国境地帯には、カンボジア難民が押し寄せた。

1998年4月15日、ポルポトが死亡後も政府は存在した。1998年12月、最高幹部と数千人の兵士がカンボジア政府に投降して、崩壊したとされている。
1991年10月23日、パリで19か国の代表によって「パリ和平協定」が調印され、1993年5月に制憲議会の選挙が行われた。ラナリット殿下がひきいるフンシンペック党が勝利した後、9月23日に新憲法が公布され、24日、シアヌークを国家元首とする「カンボジア王国」が誕生した。
経済的には、1989年旧ソ連が崩壊すると援助が停止されて、財政状況がひっ迫し、インフレが加速したが、1992年以降は西側諸国からの復興援助がなされるようになって、経済も徐々に成長をし出したかに見えた。しかし、一部の華僑とカンボジア人、それに政府高官が潤う事となり、都市と地方の格差、不動産を持つものと持たないものの格差が大きくなったらしい。
その後も政情不安は続き、公務員の賃金遅配は慢性化して、カンボジア国民の大半は未だに貧しさから抜け出せないでいるのだという。

カンボジア人たちが体験して来た戦争、貧困と生存権の抹殺は、ついこの間まで続いていたと言っていいだろう。
たまたま気候が熱帯性なので、衣服、住居は簡単なものでも生きていけるし、野菜、米は生産できる。トンレサップ湖などに生息する淡水魚も、税金を納めれば取ることができる。しかし、まだ衛生的な飲み水は、買うしかできない状況だ。
政治の在り方はその国の国民が選び取るものだとしても、カンボジアに政治的にかかわってきた国々の責任も大きいと思う。
また、国際的な援助も、政府高官の汚職に結び着かず、公明盛大に使われ、願わくば最底辺の人々にまで日が当たる物になって欲しいと思ったのだった。

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ベトナム・カンボジアの旅(5)

2011年01月29日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
5日目は5時に起きてまだ夜明け前の5;45にバスで昨日見た「アンコールワット」に向かった。朝日が昇る光景を鑑賞するためだ。
早朝にもかかわらず係官が数人出勤していて、次々とやってくる人達のアンコールパスを確認していた。
私たちは西側の入り口から参道を通り、思い思いの場所で中央寺院の東に日が昇るのを待った。
私がここならいいなと思ってカメラを持ち、立っていたら、後から私の直前に数人の人がやって来て邪魔になる。仕方がないので、そのたびに少しずつ場所を変えた。
やがて次第に空が明るくなって来た。①
後ろの城壁を振り返ると、日の出を待つ大勢の人がいる。② 
いよいよ陽が昇り始めたが、残念ながらその場所はアンコールワットから外れていた。もう移動する時間がないので仕方なく陽が昇り切る前に数枚写した。③

 ① ②

              ③

前日、アンコールワットの奥の柱に日本人、森本右近大夫が書いたという文字があった。1632年、彼は仏像4体を奉納するためにアンコールワットを訪れ、それを落書きの様に記録したらしいが、今では日本人初の足跡となっている。当時江戸時代の初期は、東南アジアを「南天竺」、ここを「祇園精舎」と考えていたようだ。

ホテルに戻って朝食を食べ、少し休憩してから9時に「ロリュオス遺跡」の観光に出かけた。
途中の町には、朝の喧騒があった。④
遺跡は町の中心から東に13km程の場所にあり、9世紀初めにアンコール王朝が誕生してから1世紀の間、王都だったところである。
9世紀に築かれた遺跡だというが、修復しながら良く保存されていた。⑤⑥⑦⑧

 ④ ⑤ ⑥

 ⑦ ⑧

ところで遺跡近くに小さい子供が4人並んでいて、私たちが行くと、日本語でまるで歌を歌う様に、「おにいさん、かっこいい。おねえさん、かわいい。」と何度も繰り返すのだ。見ると箱が置いてある。お金を要求しているのだ。⑨
帰りに通った時、全員に手持ちの飴を渡して写真を撮らせてもらった。全員裸足だが、皆いい顔で写っていた。
私を見ていたツアーの男性が、「お金なら誰かに巻き上げられるけど、飴なら自分の口に入るから、子供にとっては却って嬉しいかも知れないね。」と言ってくれた。

            ⑨

カンボジアを訪れる外国人で1番多い国は韓国で、2位が日本、3位がアメリカらしい。どこへ行っても売り子(大人だけでなく、裸足の6~7歳の子供も多い)は、私たちに、「シルクスカーフ、1枚1000円」「絵葉書、10枚1ドル」等と日本語で呼びかける。
どこで韓国人と日本人を見分けるのか分からないが、生活のための彼らの必死な気持ちが伝わって来る。しかし、その都度お金を渡す訳には行かないのだ。

内戦の地雷で足を失った中年男性たちのグループが、砂ぼこりの舞い上がる道路脇で弦楽器や打楽器で演奏していた。韓国民謡の「アリラン」を演奏していたが、私たちが近づくと日本の「さくら」を演奏し出した。帰りも同じ道を通ったので、私は手持ちの2ドルを差し出した。
(ガイドに聞くと、貧しい家庭の場合、家族数人の生活費は1日0.5~1ドル程度だという。だから1か月3千円位で普通に暮らしているそうだ。先生や警察官の月給は50ドルで良い方だとも言っていた)

昼食を食べたホテルのレストランで、給仕の若い男性が料理に出た野菜の日本語名を教えて欲しいという。彼は日本語をもっと勉強して、人生に役立てたいと話していた。

食後2時間ほどホテルで休んでから、「バンテアイ・クレイ遺跡」に行った。
ここは7世王によってヒンズー寺院から仏教寺院に改修され、王国内の様々な争いを裁く場所だったらしい。⑩
     
            ⑩

夕方、「プレ・ループ遺跡」に夕日の鑑賞に行った。彫刻は見られなかったが、急な石段を上ってから⑪西側に回ると、広々とした熱帯雨林が広がり、夕日を待つ人で溢れていた。
高い所から森に沈む太陽を見るだけよりはもっと色々な写真を撮りたかったので、私は早めに降りて下で数枚、写真を撮って見た。⑫⑬
(遺跡の警備員の男性が、バッチを外して私にプレゼントをするという。慌てて断り、傍を離れた。多分、売りつけようとしたのだろうと思う)

 ⑪ ⑫ ⑬

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ベトナム・カンボジアの旅(4)

2011年01月28日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
ガイドブックによると、カンボジアの国名は「カンボジア王国」で面積は日本の約1/2、そこに1360万人(2005年世界銀行)の人が暮らしている。民族的にはクメール人が90%、華人3.7%、ベトナム人3%などである。
現在の宗教は、大半が上座部仏教を信仰しているが、キリスト教などを信仰している人もいる。現在の首都は、南部のプノンペンだ。
北西部の町シェムリアップのホテルは、部屋が広くて設備も良く、部屋付きのベランダに出ると植栽が素晴らしく整備された中庭と、そにある大きなプールが望めた。
私たちはこのホテルに3泊して、デラックスバスに乗り、3日間、ゆったりとアンコールワットの観光をした。

資料によると歴史的にカンボジアは、古くは中国の一部だったこともあるし、北部や南部がベトナムやタイに支配されていた時期もあるのだ。
9世紀から15世紀にかけてインドシナ一帯を制圧したクメール王朝は、11世紀には王位継承を巡って内部分裂を起こし、ベトナム中部チャンパ王国から攻撃を受けるなどしていたが、1113年に国内を平定したスールヤヴァルマン2世が王位に就いてからは、広大なアンコールワットの建設に取り掛かった。
およそ3万人の精鋭職人が30年の歳月を費やし、当時としては他に例を見ない一大石造建造物をアンコールワットに誕生させ、15世紀迄首都としたという。

9時にホテルを出て、先ずアンコール王朝が最も盛んだった時に建てられた「アンコールトム」(大きい城都を意味する)の遺跡に向かった。
途中で見学料を払って「アンコールパス」を取得したが、それはガイドの顔写真と見学者の顔のカラー写真が入った首から下げる立派なカードだった。2008年発行のガイドブックには、1日券が20ドル、2~3日券が40ドルと書いてあった。

「アンコールトム」は、1辺が3kmの四角形の敷地の東西南北に門が設けられているが、私たちは南大門から入って東の勝利門から出るコースを辿った。
この城の特徴は、チャンパ王国などからの侵入を防ぐための城塞も兼ね備えていて、仏教徒だった7世王が、悟りを求める者は誰でもが救われるという日本と同じ大乗仏教の世界観を現した物を造ったのだ。

南大門が近づくと大勢の観光客が詰めかけていた。門につながる橋の両側には、阿修羅と神話に基づく神々が54体づつが、太い大蛇の胴体を抱えて引きあっていた。①
門の高さは25mあり3mもの大きさの菩薩の顔が、「クメールの微笑」をたたえて4体刻まれていた。②

 ① ②

次々と「シクロー」に乗った人たちが門から入って来た③が、私たちは門の中で待っていた小型バスに乗り、中央の「バイヨン寺院」まで1kmちょっとの森林に囲まれた道を進んだ。降りるとパスの確認を受けた。
入り口に日本国政府アンコール遺跡救済チームが1999年5月~2005年4月にかけて最外周壁の崩落部材を850個修復したという立て看板が立っていた。④
見ると向こうに高さ42mの本殿が聳えていた。⑤

 ③ ④

 ⑤

第1回廊の壁画には、当時の生活が絵巻の様に掘られていて、チャンパ王国との水上決戦や地上決戦などを見る事ができた。⑥
闘鶏の場面では、耳が長いクメール人と髪を束ねた中国人の姿もあった。豚を処理して串焼きにしている壁画もあった。⑦
第2回廊に進むと、ヒンズー教の神話や伝説をモチーフにした彫刻がぎっしりと彫られていて、当時の彫刻師たちの忍耐強い精緻な芸術的表現に感動させられた。

 ⑥ ⑦

中ほどに進むと中庭があり、大きな4体の女神の顔が迎えてくれた。⑧ 上に上がって回り込んだ所にも微笑を浮かべた女神の顔が彫られていた。⑨

 ⑧ ⑨

「アンコールトム」より少し東に規模の小さい「タプロム遺跡」があった。ここは、ジャヤバルマン7世が母親の菩提を弔うために、先に建てた仏教寺院である。
ここは深い森に接しているため、長い歳月の中で自然の浸食を受けていた。野鳥が糞と共に落とすガジュマルの種が芽吹いて、やがて巨大な根を張り、遺跡を破壊し覆い尽くしているのだ。インド政府の協力で今、修復が進められているが、根を取るとバランスをかろうじて保っていた遺跡が崩れてしまう危険性もあるのだそうだ。⑩
敷地内の他の遺跡にも行ったが割愛したい。

 ⑩




昼食後、ホテルで1時間半の休憩を取ってから、いよいよ「アンコールワット寺院」の観光に出かけた。⑪
この寺院は西が正面になっていて、大きい濠に囲まれた530mの参道を歩いて行くと幾つもの頭を持つ蛇のナーガ神が迎えてくれた。
この寺院の高さ5mの回廊には、インドのヒンズー教にまつわる物語が克明に彫られていた。長さは数百メートルに及ぶそうだ。⑫
急な階段を上って第二回廊に行くと、美しい女神像が幾つも彫られていた。⑬ さらに上の第三回廊に上る階段は急だが、その日は登ることができない日だった。⑭

 ⑪ ⑫

      ⑬ ⑭

外へ出てから池に映る寺院を鑑賞した。当時の日本でここは「祇園精舎」だと考えられていたと言うが、そんな雰囲気が伝わってくるようニ思った。⑮

       ⑮




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ベトナム・カンボジアの旅(3)

2011年01月27日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
帰国してから4日目になるが、毎日朝の気温は-10~-6度と低いながら、晴天の日には陽射しにも春が感じられるようになった。
先程、雪解けを少しでも早めようと、庭に高く積もった雪の端を崩して、除雪してある玄関前にばら撒いた。しかし、まだ当分は雪が降るだろうな。




3日目はレストランで朝食を早く済ませ①、ホテル周辺を出発までの1時間、散策した。
ホテルは高い塀をめぐらしプールまで作られているので、周辺の地域とは別世界の雰囲気だが、一歩外へ出るとそこにはベトナムの人達の普通の生活があった。②
この地区にはバイク店が軒を連ね、中古のバイクを売っている店やバイクの中古部品店が沢山あった。良く見るとホンダ製のバイクが1番多い。③ 店先で修理の仕事をしていた男性に声をかけると、快く写真に応じてくれた。④ どこでも日本人には親切である。

 ① ② 

             ③ ④

時間的に物凄い数のバイクの通勤ラッシュで交差点は恐ろしい状態だったし、排気ガスが立ち込めて空気が悪く、マスクをしている運転手も多かった。1台のバイクに3人位乗っていたりして驚いた。
そんなラッシュ時の道路淵の木の下に、食器を並べて朝ごはんを食べている中年女性がいて驚いた。

この日のバスはホテルを8時半に出て北西に70km走り、ベトナム戦争時に米兵を恐れさせた「クチ」の地下トンネル見学に向かった。
背の高い熱帯の木が生い茂るジャングルの中に細い歩道があり、しばらく歩いた所に最初の落とし穴があった。1m×2mの大きさで深さは1.8m位に思われた。人が木の葉で覆ってある蓋の上に乗った途端、蓋がどんでん返しして回転し、人が落ちる仕掛けなのだ。底には25cm以上ある何十本もの鉄釘が上を向けて仕掛けられていて、戦争中は底にサソリや毒蛇も入れてあったという。⑤⑥
その傍に1人が身を隠すための25cm×35cm程の小さな穴があった。⑦ 
私も中に入ってしゃがみ、草で覆われた蓋をしてもらったが、中は結構大きくなっていた。隙間から漏れる光だけが頼りだが、戦争中は緊張して身を潜めたのだろう。出ようとしたら足場が無く、背が低くて腕の力が弱い私は、自力で出られないのだ。男性2人に引き上げてもらってやっと脱出した。

 ⑤ ⑥ ⑦

木の根元に蟻塚そっくりの粘土の塊が造られていた。実はその周囲に地下トンネルに続く空気穴が沢山開けられていたのだ。⑧
手作りの武器も展示してあったし、錆びた戦車も置いてあった。展示を見て、アメリカが落とした不発弾の火薬は手投弾に、鉄の破片は溶かして武器に加工していた事も分かった。⑨

            ⑧ ⑨

いよいよ地下トンネルに入る体験をすることになった。
私たちが入ったトンネルは地下3m位のところにあって、1人が身をかがめてやっと通れる大きさのものだった。⑩
体験トンネルの長さは10m程だったが、2か所で曲がっていて、中は真っ暗でとても恐ろしかった。場所によっては地下8mもの場所に、3層のトンネルを作ったらしい。
ガイドの話では、深くなると空気が悪く寒いし、サソリや蛇もいて、長時間入っていることはできなかったそうだ。
最終的にこのトンネルは全長250kmにも張り巡らされていて、南ベトナム傀儡政権とアメリカが敗北する大きな力になったという。遠くはカンボジアの国境にも達していたと聞いた。
私は実際にクチを訪れて見て、当時の大国アメリカと闘った人々のすばらしい知恵と、命を懸けた戦いのすざましさを、かいま見た気がした。
 
         ⑩

昼食後、サイゴン教会と中央郵便局に行った。
サイゴン教会⑪は休日で中に入れなかったが、中央郵便局⑫には土産物店が入っていて、奥にはホーチミンの写真が飾られていた。⑬

 ⑪ ⑫ ⑬

この日の夕刻はカンボジアのシェムリアップ空港に行く事になっていたので、2時間前にタンソンニャット国際空港に行った。ここは飛行機の搭乗者しか中に入れないので、ガイドと入り口で別れた。
添乗員がEチケットを集めて受付カウンターに出すと、ダブルブッキングで私たちの席が無い事が分かった。
急遽、空いているビジネスクラス席に乗ることになったが、その数にも限りがあり、数人の希望者は30分遅い便のビジネスクラスで行ってくれと言われた。私と友人は後の便で行く事を了解した。ビジネスクラスでは、まだ飛ぶ前に飲み物が出て来たし、軽食もテーブルにナフキンが敷かれ、ちゃんとした食器に入ったものだった。
添乗員は先の便で行き、シェムリアップ空港で私達を待っていてくれた。30分程度遅れただけのハプニングだったので、楽しかった。


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ベトナム・カンボジアの旅(2)

2011年01月26日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
23日にベトナムから帰宅したが、留守中録画していたTVを見終わるのに2日かかり、その間椅子に座っていたので腰も痛くなった。
今日から旅日記に取りかかりたい。今回は、できるだけ要点をまとめて見たいと思っている。

先ず1月16日成田発19;35のANAに搭乗した。ベトナム南部のホーチミン・タンソンニャット国際空港までは8時間かかるが、日本との時差は-2時間なので、到着したのは真夜中の1;25だった。
ムッとした気温の中をバスでホテルに向かった。真夜中なのに暑いためか、外に人が出ていた。
現地添乗員が、「1000年前のベトナムは、北部はベトナムだったが、中部はチャム王国、南部はクメール王国、ホーチミンはカンボジアだった。」と話した。
そして、「歴史的には、1000年間は中国の支配を受け、100年間フランスの植民地になり、50年間(1925~1975年)はアメリカの支配を受け、1975年4月30日、ベトナム戦争は終結して今のベトナムが誕生したが、300万人の人が戦死し、南部や山岳部で枯葉剤の影響を受けた子供は400万人もいる。3世代後まで影響が出ている。」という話をした。日本ではべとちゃん、どくちゃんが有名だが、まだまだ沢山の人々が、近代の化学兵器を使った戦争の犠牲になっていることを改めてベトナムで知らされたのだった。

ホテルに着いたら2時半になっていた。風呂に入り、荷物を片づけて寝たら4時を過ぎていた。




2日目は9時にホテルを出発し、75km南にあるミトーに向かった。ミトーは南シナ海に流れ込むメコン川のデルタ地帯にある人口5万人の小さい町だ。
古くからデルタ地帯で取れる米の集積地として、また米麺(日本ではビーフンという)の生産地らしい。
この辺りでは1年に3回米がとれるという事だが、丁度稲刈りをしている農家を見た。ベトナムはタイに次ぐ米の輸出国なのだが、稲刈りのほとんどは人手に頼ってやっていた。田んぼの中にお墓があった。田舎ではほとんどが土葬らしいが、先祖が見ている前で、労働に精を出しているのだった。

ミトーに着くと、まず茶色に濁ったメコン川を小舟に乗り(写真①)、 トイソン島に行った。マンゴウ、パパイヤ、ドラゴンフルーツ、ライチ②、パイナップルなどの果物がなっていた。養蜂家もあって③、蜂蜜を売っていた。バナナの葉で屋根を葺いた場所で、フルーツを食べた。④

 ① ② 

              ③ ④

いよいよ4人乗りのボートでメコン川のボートクルーズだ。私が乗ったボートは50歳位の夫婦が前後で漕いでくれた。15分位だったが、行きかうボートが多く、川辺には熱帯植物が生い茂っていて楽しめた。⑤⑥

 ⑤ ⑥

また初めの小舟に乗ってミトーの船着き場に戻ったが、船の中でココナツにストローを刺して飲むココナツミルクがサービスされた。薄い甘味のジュースだった。

その後、ホーチミンに戻り、元南ベトナム政府が置かれていた「統一会堂」を見学した。
入り口には、南ベトナム解放戦線が乗りつけて統一会堂を占拠した戦車が置かれていた。大統領執務室にはアメリカとの直通電話が置かれ、緊急時の避難口も付いていた。実際に大統領は最後に屋上のヘリコプターで逃げたのだが、屋上にはヘリコプターも置かれていた。⑦⑧⑨

 ⑦ ⑧

 ⑨

最後にホーチミン市の広大なベンタイン市場を見学したが、雑多なベトナムグッズが所狭しと積み上げられ、狭い通路は人でごった返していて、ベトナム人の勢いが感じられた市場だった。









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ベトナム・カンボジアの旅(1)

2011年01月14日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
来る16日から23日までの予定でベトナムとカンボジアに行って来る事にした。
今回の旅行を決めたのは、中国から帰った翌日だ。
北海道の冬は寒く、昼間も路面が凍結していて歩くのも危ない。(今朝は-13度。最高気温も多分-5~6度だろう)
車での外出も道路の両側に高く積み上げられた雪山のため見通しが悪くて危険だし、スピードによってはブレーキをかけてもタイヤが滑って止まれない時があり、凄く恐ろしい。
家に居ても高い電気暖房を使うだけだ。それならいっそう暖かい場所に行って楽しむのも良いのではと思う。
また、この先の人生に、何が起こるかも分からないのだから。

早速、去年、外国旅行に4回同行した友人に電話した。友人は一晩考えてからOKの返事をくれた。
そこで札幌の旅行社に申し込んだが、「すでに一月を切っているので、席が確保できるかどうか分からない。少し時間が欲しい。」という返事だった。
2日後、OKの回答があった。

次にしなければならないのは、カンボジアのビザを取得することだ。(ベトナムは要らない)
旅行社に依頼すると東京の大使館にパスポートを送るらしく、実費と手数料等で結構な金額になる。
ネットで調べたら、札幌に領事館があり、そこでもビザを発給することが分かった。必要書類は証明写真を貼った英文の申請書と3200円。
領事館の近くに住む友人が、早速直接行ってくれて、申請書を2枚貰って来てくれた。
数日後、札幌駅で待ち合わせ、それぞれが撮った証明写真とパスポートを持って領事館に行き、申請した。ネパールで経験済みなので割合簡単だった。
そして、領事館が年末の休みに入る前日、私たちのビザは発給された。

この時期は乾期だが、最高気温はベトナムのホーチミン、カンボジアのシェムリアップとも32~33℃でかなり暑いが、2月以降はもっと暑くなるので、急遽今月行く事にしたのだ。
私は服を着ていても蚊に刺されるたちなので、南国のマラリアなどを媒介する蚊についてネットで調べたら予防薬があるとわかった。
翌日、市の保健所に問い合わせ、札幌のS総合病院の感染症科に行くと良いことを知った。
(実は先のブログで書いた友人や従妹と出会った日に行った病院が、S総合病院だったのだが)

相談に応じた医師は、「マラリアの予防薬は1日1錠で800円し、行く1週間前から飲み始め、帰国後も1か月間飲み続けなければならないし、吐き気、頭痛などの副作用もきつい。」と話してくれた。虫よけスプレーやクリームをたっぷり持って行くと良いと言われたので、薬は止めて、そうすることにした。
今マラリアはアフリカで流行しているらしい。「3年前に何の予防もせず、南アフリカ、ジンバブエ、ザンビアやモロッコ行って来た。」と話したら、医師に驚かれた。
また、今の若い人たちなら、破傷風や日本脳炎の予防接種を子供の時に義務づけされているが、私たちの年代では免疫を持っていないということなので、その2つのワクチンを打ってもらった。
日本脳炎の注射は2回必要だが、今後の旅行計画も考えて受ける事にした。いずれも予防には保険は効かないので、全額自費負担だった。

本当は、狂犬病も予防するに越したことはないらしい。
日本の飼い犬には毎年、狂犬病の予防注射が義務付けられているが、東南アジアや南米、アフリカなどの国の犬は管理されておらず、ほとんどが野犬同然なのと、コウモリや鳥類からも感染するらしいのだ。
しかしこの薬は高価なので、私は止めた。すると医者は、「犬と目を合わせないようにね。」とアドバイスしてくれた。


そんな訳で急に決めて、準備も短期間だったが、何とか必要な準備ができたので行って来たい。またしばらくブログを休むのを了解頂きたい。
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