8日目泊まった高級保養地のサンタ・マルゲリータ・リグレのホテルは、海辺の避暑地向きに造られた高台のホテルだった。2人用の室に部屋が2つあって、ベッドが3つ入っていた。そしてベランダからプールにも出られるようになっていた。私と友人は初めて別室に分かれてゆったりと寝た。
9日目は、少し早起きし、海岸に出て散策した。町の様子が少しわかった。
8時半にホテル前から中型12人乗りの車に分乗して、大型バスが入れない海沿いの曲がりくねった狭い道路を6km走り、ポルトフィーノに着いた。
そこは風光明媚な小さな町で、観光業と漁業を主としていた。
自由時間がたっぷりあったので、丘の上につながる石畳の道を歩いて行った。少し行くと小さな教会があった。①
さらに細い道を進むと古い小さい城があった。入場料を払って中を見学した。庭から見下ろすと、ポルトフィーノの町が手に取るように美しく見えた。②
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海岸に降りてレストランで昼食を食べた。
その間添乗員氏は、サンタ・マルゲリータ・リグレ行きの船を手配してくれた。乗船は、昨日のチンクエテッレで船に乗れなかった代わりとなった。
船では、15分間、アメリカ人のツアー客と同席した。③
サンタ・マルゲリータ・リグレの港に近づくと、町が美しく見えた。④
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それから大型バスに乗って、210km北の町ミラノまで走った。
ミラノ中央駅の傍にあるホテルに着いたのは4時半を過ぎていた。急いで部屋に荷物を置き、希望者のみ添乗員氏の案内で地下鉄に乗ってミラノ見学に出た。
ガイドブック「新個人旅行 イタリア」によると、ミラノは、紀元前5世紀にはエトルリア人が住んでいた。紀元前4世紀にガリア人が、そして紀元前3世紀にはローマ人に征服された町である。
その後紀元300年代には多くの教会が建ち、やがてキリスト教の中心地になった。
11世紀頃、多くの自治都市(コムーネ)ができ、12世紀の初めには神聖ローマ帝国の攻撃を排除した。
町は毛織物、絹織物産業が盛んになり発展したが、16世紀にはスペインの支配下に入った。
1796年ナポレオンが入城によって、ナポレオン軍の武器、被服供給地となって繊維産業が発展した。
1866年、イタリアに統一されたが、20世紀にはフランスファッションの生産基地になった。
1980年代になると、ミラノのデザイナーが活躍し出して、イタリアのブランド発信基地となり、今も発展しているという。
ドゥオモ前の広場で解散したので、私と友人はまず規模が大きいドゥオモの内外を見学した。これは14世紀後半に着工され、19世紀末にナポレオンが完成させた。完成までに500年を要したイタリア最大のゴシック様式の教会だ。
135本の尖塔があるが、中央の尖塔には、黄金に輝くマリア像が設置されている。内部は大きく、ステンドグラスが美しかった。⑤⑥
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ドゥオモを出て、広場に続くビットリオ・エマヌエーレ2世アーケードを散策した。1878年に完成したものだが、規模が大きく美しいガラスの天井が特徴だ。⑦
私たちは十字路にある雄牛のモザイク画を探して、幸せになれるようにあけてある穴に靴の踵をつけ、一回りした。⑧
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突き当りのスカラ広場では、レオナルド・ダ・ビンチの彫像を見、⑨ 道路を渡って1778年にできたオペラ劇場・スカラ座⑩の周囲を歩いた。
夕暮れが迫るに連れ、大勢の人々や車が通行していた。傍のサン・フェデレ教会は、扉が閉ざされていた。
いよいよ暗くなって来たので、ドゥオモの横にあるラ・リナシェンテデパートに入った。地下1階~地上9階までをざっと見て、集合場所のドゥモ広場に戻った。
この自由行動で今回の北イタリアの旅は終わった。その夜は荷物整理をしてぐっすりと寝たのだった。
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実は2回目となった今回のミラノ訪問で、レオナルド・ダ・ビンチが画いた「最後の晩餐」を見たかったのだ。前売り券を買いたくて家でネット検索したが、既に10月11月分は売り切れていた。直接サンタマリア・デッレ・グラツィエ教会に行って、キャンセルした人の所に入って見る方法もあるが、限られた自由時間しかなかったのでそれも諦めたのだ。
これで今回の「北イタリアの旅」の日記を終わる。
北イタリアはどの場所も歴史が古く、古さを大切にしながらも現代の新しさも取り込んだ不思議な魅力にあふれていた。また、とても変化のある地形と自然も素晴らしかった。最後まで読んでくれた方々に感謝します。