初夏に一斉に咲いた四季咲きの薔薇が、半月ほど前からまた2度目の花を咲かせ始めた。
2日続いた雨が上がった今日の庭は、大分元気になった色とりどりの薔薇で賑わっている。
①は、1月半前に安く買って来て、この度、私の庭で初めて開花した丸弁の「イエロウエタニティ」である。この度沢山蕾をつけて、一斉に咲いてくれた。
②は濃い黄色の花が美しい剣弁大輪の「天津乙女」。植えてから3年になる。
③は、つる薔薇「バロック」。敷地の入り口に植えてあり、3年目の今年は1.5mの高さに育った。初夏の花よりも色が濃くなったように思うが、色がはっきりしないアーモンド色なので存在感は今一つだ。
① ②
③
④は亡くなった伯父の庭から掘り出して我が家に移植した薔薇なので、名前が分からない。しかし剣弁咲きの大輪は、花数が少ないが薔薇らしい気品がある。
⑤も1月半前に買った「ボータローズ」だ。透き通るようなピンク色のグラデーションがあり、優しい感じのする中輪花を沢山つけるので気に入っている。
⑥の薔薇は、昨年買って植えた「ブレーマーシュタット・ムズィカンテ」だ。長い名前だが、紫陽花の隣で中央が淡いピンク色の優しい花を次々と沢山咲かせてくれている。
④ ⑤ ⑥
薔薇を7月に植え付けるのはどうかなと思うだろうが、根がしっかりとした大苗を選んで買い、上手に植えつけるなら、心配は少ないと言えそうだ。
先週17日から本日まで、2週間に渡って行なわれたパソコン講習がやっと終わった。
今日は研修後に閉校式があり、1人々々に修了証書が渡された。
その文面には、「貴方は、平成21年度 シニアワークプログラム地域事業にもとづく技能講習 (パソコン会計補助講習) (10日間、41時間)を修了したことを証します」と、書かれていた。
この数年間、時間に縛られて何かをするという事がなかったので、毎日、びっしり4時間程度行なわれたパソコン研修では、日を追う毎にさすがに疲れが溜まって行った。(目が悪いので、ひどく肩が凝った)
しかし、1冊のテキストに基づいてExcelの基礎を1歩ずつみっちりと勉強し、新しい事を日々覚えて行けた事は、毎日が喜びだった。
また、今回研修した内容を、もしも15年位前に学習していたら、当時の私の仕事の仕方は大分違っていたのではないかと思った程だった。
(でも当時は毎日の仕事に追われていて、一部分について細切れの学習しかできなかったという現実があったのだが)
この先、普段の生活の中でExcelを使う事はないだろうが、何かの機会にこの技能を役立てたいと思う。
今は研修を主催したシルバー人材センターと、受講した1人々々に丁寧に教えてくれた講師の方達に心から感謝している。
トマトは、8本の木から一昨日と同じ位の量が今日も採れた。
一昨日はミニトマトを作っていないご近所さんに差し上げた所、大きい普通のトマトよりも味が濃くて美味しいと言われた。
(イエロウキャロットは、糖度、カロテン含有量共に最高ではないかと思う)
ミニトマトはテーブルにおいて置くとおやつ代わりにつまんで食べられるので、今日のは全部、自分で食べる積りだ。
今年私は大玉は作らなかった。今年のように天候不順でも、ミニや中玉のトマトは家庭の庭先で色づいているが、大玉はなかなか色づかないらしい。
いづれも自家採取した種から育てたトマトなので、嬉しく食べている。
モロッコは、連作を避けようとしたら狭い庭の野菜スペースに植える場所が無くなり、今年は仕方なく1列だけベランダ前の花壇に種蒔きをする羽目になった。
しかし、結構育ってくれて、この所、随分収穫できたので、ご近所さんにも差し上げて喜ばれている。
今朝も34本採れた。
煮物や油炒めだけでなく、焼肉や麻婆豆腐に入れても美味しかったので、毎日、料理を工夫しながらしばらく食べていく積りだ。(写真の皿は、直径23.5cmの大皿である)
1年半前に、町の郷土史研究会の仕事として私が請け負った原稿を、今日やっと完成させた。
それは、ある郷土の教育者の人生を調べてまとめるというものだった。
しかし、その人はすでに18年前に亡くなっているので、昔勤めた学校に行って彼が関わった沢山の校内研究文集を借りて来て読んだり、出版されている彼の教育論が書かれている数冊の本を探して、何が書かれているか調べるのに1年を要した。
また、彼の妻が健在である事を知ったので、連絡を取り訪ねて行って、在りし日の彼の家庭人としての生活振りを話してもらったりもした。
さらには、一緒に働いた事があるという人が見つかり、その人にも当時の様子を教えてもらった。
こうしてすごく時間はかかったが、やっと、公私に渡る彼の人物像を私なりに何とか捕える事ができた。
この仕事の中で、彼の父親は大正時代に流行ったスペイン風邪で亡くなった事、そのために幼少の頃、家族に連れられて樺太に移住したこと、終戦後、妻と子どもが乗った引き揚げ船が、その4日後に留萌沖で国籍不明の潜水艦に撃沈されてしまった船であったことなどを知った。
私はこの仕事を通して、日本の歴史を確認し直しただけでなく、多くの普通の人達が社会の変化やその時の国際情勢にいやおう無く巻き込まれざるを得ないということも強く教えられた。
そして昨日、何度も書き直した原稿の最終チェックを終えて印刷し、完成させる事ができた。
文字になるという事は、その文がやがて一人歩きをして、今後長い年月に渡り、多くの人達の目に触れる訳で、とても責任が重い仕事である。しかし、やっと一段落してホッとした。
先週から毎日行っているパソコンの講習も、後3日間を残すところに来た。
今日当たり、かなり疲れが溜まって来たが、もう少し頑張ろう。
朝から小雨が降り、6時の気温は17.5度。
予報で午後から風雨が強まると言っていたので、小雨の中、ダリアや薔薇の幾つかに竹を立てて縛った。プランターも飛ばされないように1箇所に固めた。
8時過ぎに家を出て講習会場へ。
8時半から12時半まで、エクセルのテキストを使った講習を受けた。
今日は表を作成し、合計、平均の算出と罫線の書き方の講習だった。
2時から映画を見る事にしたが、上映まで1時間あまりあったので、近くの農園に様子を見に行った。
すると思いがけず、小雨の畑で仕事をしている友人を発見。昨日来て、そろそろ札幌へ帰るのだと言う。
私も庭のラベンダーや都忘れなどの花殻切りを手伝ったり、畑のトーモロコシに追肥をしたりした。
友人と別れてから映画館に行き、「ナイトミュージアム2」を観た。
今回は数回観たら1回サービスされる券を使ったので無料だった。
200人は入る大きい部屋なのに、十数人しかいない。
映画が始まって暫くしたら、眠気が襲って来た。多分30分位、眠り込んでしまったと思う。
帰宅した処にパソコンを習っている近所の奥さんがやって来て、茹でたばかりのトーモロコシと干し蕎麦を戴いた。
それから玄関でエクセルやメールの話を30分程した。
今日も色々あった1日だった。
お盆が終わるとこれといった予定が無かったので、昨日から2週間の予定で始まった「会計処理補助講習」を受ける事にした。
これは、厚生労働省が経費を負担し、シルバー人材センターが主催して行う高齢者の就業のための特別プログラムである。
先ず2日間は、簿記の総論と基礎の実務を研修した。
私には初めて聞く言葉ばかりで緊張したが、講師が分かりやすく教えてくれたので、2日間、何とか着いて行けた。
例題として出された会社の企業活動に基づいて、1ヶ月間の「貸借対照表」と「損益計算書」を作成し、「決算」をするという1連の流れを体験することができた。
研修してみて、会社が出す決算書の見方が、今までよりも少し分かったように感じた。
明日からの8日間は、パソコンを使った会計の実務処理を習う。
未経験なので不安だが、頑張りたい。
次の花は「ガウラ」、別名「白蝶草」。
花が終わったら切り戻すと、また蕾が沢山できて白い蝶が舞っている様に何度も咲く強い宿根草だ。
花言葉は「負けず嫌い」だとか‥。
急に連絡したのにも関わらず、14日は、帯広に住む旧友が数人集まってくれて、楽しく近況を語り合う事ができた。
15日は、午前と午後の2回、気温が28度位ある中、2箇所で家族とパークゴルフを楽しむ事ができた。
朝9時に行った十勝清水のパークゴルフ場は、山の斜面に作られていて、遠くに雄大な十勝連峰を見渡しながら数十m下のポールを目指してボールを打つコースが2つあり、気分が良かった。
また、さくらんぼの大木が数十本植えてあって、樹間でするプレイは涼しかったが、気温が高かったのでブヨが沢山いたのが気になった。
午後は清水から33km離れた場所にある音更のパークゴルフ場に行った。
そこは平地だが木が多く、やはりブヨが飛び交っていた。
予め顔と首には虫除けスプレーを噴きつけたのだが、しなかった手首を刺されてしまった。今、刺された手首が腫れ上がって太くなっているが、顔でなくて良かった。
さすが十勝はパークゴルフ発祥の土地柄、広大なパークゴルフ場があちこちにあり、そのほとんどが無料なのだが、今回行った清水は1日400円、音更は1日200円だというので、その安さにも驚いた。
夕方、焼肉店に行き、美味しい十勝牛の網焼きをご馳走になった。
そして今朝、4時半に起きて、娘の家を5時25分に車で出発し家に向った。
標高1,020mの日勝峠(日高と十勝の間の峠)が近づくに連れ濃霧が立ち込め、視界20m位の場所もあったが、6時前の峠は晴れていた。
展望台で車を降りて、登って来た十勝側の写真を撮った。
清水側には雲海が立ち込めていた。まだ車も少なく、空気が綺麗で気温は16度、気分が爽快だった。
日高町に下る山道でもまた濃い霧が発生したので、センターラインを辿りながら慎重に運転した。
急勾配ときついカーブが続いた。
それにしても日勝峠を越える国道274号線「樹界ロード」には本当にトンネルが多い。
また、「鹿の飛び出しに注意してください」と書かれた標識も凄く多かった。
1箇所だけ「熊と鹿に注意」という標識もあった。
ひたすら走り、家に着いた時間は8時10分だったから、早朝でも2時間45分かかった訳だ。
今回の往復全走行距離は400km余り。久し振りの遠出だったが、快適だった。
懐かしい旧友にも会え、娘の日常生活を見たり、忙しい彼女の掃除の手助けもできて良かった。
家に着いてからは、私の帰りを待っていた枯れた庭の花を早速摘んだ。
1時間、庭の手入れをしたら汗だくになったが、やっといつもの庭に戻り、ホッとした。
今年の長雨と平年の40%しかなかった日照不足、低温続きによって、残念ながらじゃが芋は疫病にかかり7月の中旬に枯れてしまった。
それ以上畑に置いておいても成長しないどころか芋が腐って来るので、天気が数日続いた今日、収穫作業をする事にした。
昼近くには気温が上がるので、朝7時から作業をすることにしたため、札幌の友人には、昨日の夕方に我が家に来てもらい、1泊してもらった。
今朝は予定通り農園に行き、3人で作業を開始。
案の上、早くに病気になった芋はどの品種も育ちが悪く、小さな芋ばかりで、残念だった。
レッドムーンは、枯れた茎を持ち上げると、「もう少し大きくなりたいよ。」と言うように芋が繋がっていた。
でも芋は、姿のままで料理することは少ない。小さくても茹でたり揚げたりして食べられるので捨てたりせず、全ての芋を40分で掘り上げ、2時間、畑で風に当ててから分けた。
自分達で作った芋は、例えどんな大きさでもいとおしく思える。
友人達とは、「これにめげず、来年の気候に期待しようね。」と、話し合った。
今夜から、芋の品種に応じた料理をして食べ切るつもりだ。
写真①作業中
①
②レッドムーン
②
③北あかり ④メークイン
③ ④
最後に彼らから聞いたり、私が本を読んで知った事をいくつか書きたい。
まず大学生の学費である。
ロシアに変わってからは、日本の様に学費を払っているのだろうと思って聞いてみた。
すると国立総合大学に在籍している彼らは、「払っていない。」という。国立だけなのか、私立もそうなのかは分からなかった。
それと、彼らには毎月、奨学金が2500ルーブル(日本円で8000円位)が支給されていて、学費には困らないらしい。
6~8月の3ヶ月間もある夏休みには何をして過ごすか聞いたら、「勉強」「遊び」という。アルバイトはしないのかと聞くと、「少しの間、本屋で店員をする。」と答えていた。
留学して来ている2人の家庭は、夫婦共働きで一人っ子だから豊かな家庭らしいが、返済しなくて良い奨学金がもらえるとはさすが20年前まで社会主義国家だった影響かも知れないと思ったりした。
この間、図書館から借りたロシア関係の本を数冊読んだ。
「ロシア連邦がよ~くわかる本」(榎本裕洋著)によると、2000年以降、平均賃金が上昇しているが、半面で賃金格差が大きくなって来ているらしい。
ロシアの賃金は、労働生産性(1人の労働者が生み出す一定期間の付加価値)で決まるので、2005年では、1位燃料、2位金融、3位コークス・石油製品が突出して高い。4位燃料以外の鉱業、5位運輸・通信と続くが、女性の就業率が80%と1番多い教育、保健医療分野(医者も含む)の賃金は、全産業の平均賃金の70%以下に留まっていて、低賃金のため暮らすのがやっとらしい。そしてもっと最低なのが42%にしかならない農林業なのだという。
こんなところにロシアの経済構造の問題があると思った。
最後に社会主義時代が長かったロシアの男女は、社会的には平等なのではと漠然と考えていたが、彼らから「男性の定年は65歳、女性は55歳です。」と聞いて驚いた。
この本を読むと、建前上の男女平等はあるので労働力人口に占める女性の比率はほぼ半数(日本は41%)だというが、大企業のトップや国会議員の比率は日本と同程度で低いらしい。
2000年以降、金融保険分野、企業の経理分野で働く女性が増えだしているそうだ。
少子化は日本より進んでいるようで、面積世界1の国の将来は、決して明るいばかりではないようだ。
近くて遠い国ロシアの片鱗に触れたホストファミリー体験でもあった。
私の方は1月間、何よりも朝夕の食事作りには悩ませられたが、結局、彼らの好みに合わせざるを得ず、私としても自分を褒めたい位頑張った。
初め、野菜を食べないのは彼らだけかと思っていたが、友人が遊びに来た時、日曜日の昼に集まってしたバーべキュウについて聞いて見た。
「昨日のバーべキュウは美味しかった?何を買って来て焼いたの?」
「チキンとポテト。」
「それだけだったの?他の野菜は?」
「ない。ポテトがあれば大丈夫。」
「‥‥」
我が家の2人だけではなかったのだ。
それ以来、私は腹をくくって肉とじゃが芋の料理を毎回工夫したのだった。
ところで最後の夕食後、ロシアのダーチャ(小屋付き家庭菜園)について2人に尋ねた。
「あなた達の家にもダーチャはあるの?」
「ハイ、あります。」と、2人が答えた。
「どの位の広さ?」
「私の家の土地は○㎡だけど、それより広いの?」
「もう少し広い。」
「土地は国から借りているの?」
「いいえ。お金を出して買います。高いです。」
「何月から何月まで仕事をするの?そこでは何を育てているの?」
「5月から10月までで、週末にはそこに家族で行って仕事をして、小屋に泊まって来たりします。作っているのは、ポテト、かぼちゃ、苺、コーン、人参、それとビニールハウスでトマトとキューリもです。りんごの木もある。」
ええっ!そんなに色々作っているなら、どうしてそれらを食べないのだろうかと不思議だった。
彼らからダーチャの事を聞くまでは、極東地域では限られた野菜しか採れないし、店でも売られていないから食べられないのだろうと勝手に思っていたが、違ったのだ。
とすると彼らの極端な偏食は、気候風土の条件の悪さだけではなく、小さい頃からの家庭の食生活、食育の問題なのだろうか。
(ドイツはじゃが芋をほぼ主食の位置に置いている。またヨーロッパ全域でもフライドポテトや茹でじゃが、マッシュポテト、スープなどにして毎日沢山食べている。東南アジア、ハワイなどでも、キク芋、キャッサバ(別名タピオカ)等を多く食べる事が知られている。
生のじゃが芋100gの栄養は、水分が80%だが炭水化物が17.6%と一般の野菜よりかなり多いので、76kcalあるが、低カロリー食品と言える。またカリウムを410mgも含むので血圧抑制作用もある。そして何といっても35mgも含まれるビタミンCは澱粉に包まれているため加熱されても他の野菜のビタミンCに比べて壊れないという良い点がある。ただビタミンAは含まれないし、脂質が少ないので、やはり他の食品で補う必要がある)
話は変わるが、ロシア人の平均寿命は1998年調査で少し古いが、男性61.3歳(日本77.16歳)、女性72.9歳(日本84.01歳)である。
日本は世界1位だが、ロシアは男性が世界135位、女性は世界100位なのだ。(小林和夫著 「図解 ロシアの仕組み」による)
著者はロシア科学アカデミーの専門家の見方として、①殺人・自殺・事故・災害②心臓病が短命の原因だという。
90年代前半と比較して自殺者が増大していること、また心臓病の原因にアルコール濃度の高いウオッカなどのアルコール中毒、それと健康的な食生活の知識が不足し、油っこい肉、卵、サワークリーム、バターなどの過食を挙げている。
私の目から見て、2人共、トーストに塗るバターやジャムの量は、驚きの量だったし、学校教育では栄養や調理科学を学ぶ家庭科のような教科はないとも聞いた。(ソ連時代に旅行した時、飛行機で隣席の男性がパンに塗るバターの量も凄かった)
考えたら可哀相なのだ。色々な食材があるのに、限られたものしか食べないのだから。
彼らには私達のような食生活を楽しむという発想は、弱いのかも知れない。
まあ、日本のように世界中から札びらを切って食糧を買い漁り、一見、世界一豊かな食生活を謳歌しているのも、実は逆の色々な問題があるのだが‥。
本当に気疲れしたが、色々と考えさせられた今年のホストファミリー体験でもあった。
4日前に大学側が主催した送別会に参加した時、ホストファミリーとして順にスピーチをさせられた。
私の番になったので、「2人は大学から1番遠い私の家になったので、毎日、自転車の通学を頑張りました。
雨の日にびしょ濡れで帰って来たこともありました。お疲れ様でした。
それともう一つ頑張ったのは、日曜だけでなく普通の日の放課後も、何度も電車で札幌へ出かけ、市場調査に熱心だった事です。さすが国立総合大学経済学部の学生だと思いました。」とスピーチした。
さらに、「夕ご飯が済むと、2人とも真っ直ぐ2階の部屋に行ってしまう事が残念でした。日本語と日本文化を学びに来たのだから、もっと私と話をしたり、TVを見たりして欲しかったです。」とも話した。
1人だけでホームステイしている学生は、何かにつけて家の人と話さなければならないが、2人で居る場合は家族に関係なく自分達同士でロシア語の会話をしてしまう事が、良し悪しだと思ったのだ。
ちなみに私から見て、彼らの日本語は、1月経ってもあまり上達した様には思えなかった。
それで送別会の折、出席していた日本語の先生に、「余計なお節介かもしれないけれど、週に2回くらい家族と話をした事を簡単なレポートにさせたり、日本で起きていること、発見したことなどをレポートさせたらどうでしょう。」と話して見たが、「考えて見ます。」という返事だった。
スピーチの最後に、「留学生の皆さんにお願いがあります。これからは皆さんがロシアと日本の架け橋になってください。」と言って終えた。
聞いていた先生の1人から、私の話が1番面白かったと言われた。多分、彼らの生活の一端を話したからだと思う。
その夜、帰って来た2人に、「私の話が分かった?」と聞いたら、「あまり分からなかった。」という返事だった。悲しい‥
4週間、ロシアの男子大学生2人(共に17歳)をホームステイさせたが、今日の夕刻の航空機で帰国するので、最後にレストランに連れて行ってランチを食べさせた。
なかなか起きて来なく、朝食が9時半と遅くなったのでまだ食欲が湧かないらしく、彼らが頼んだものはミートスパゲテイだった。
「飲み物やデザートのアイスクリームは要らないの。」と聞くと、「要らない。」と言う。
それでも全部食べた後、集合場所のJR駅に送り届けた。
集まった留学生の荷物を見たら、随分増えていた。
何を買ったのか数人に聞くと、洋服、傘、色々な雑貨が多く、中には2個入りのメロンの箱を携えていた女学生もいた。(検疫は大丈夫なのかな)
ところで、朝食後、最後に使った部屋を片付けて、掃除機をかけ、フローリング部分とテーブルの上は雑巾で拭くようにと言って絞った雑巾を手渡した。
送って来てから見たら、部屋の隅にごみや綿埃が結構あり、何処に掃除機をかけたのかと思った。
また、1ヶ月間、部屋の片づけがなっていなく、折角用意したテーブルや籐椅子は次々と物置場になって行った。あまりの酷さに見かねて2度、「部屋のテーブルは、勉強したりレポートを書いたりするためだから、片付けようよ。」と言ってみたが変わらなかった。
昨夜、「ロシアの学校では、掃除は誰がするの?」と聞いたら、「親がお金を出して掃除の人を雇ってしてもらいます。」という返事が帰って来た。
私は日本の学校の掃除当番に教育的な意義があることを、改めて知らされた。
来た日に、「敷布団は毎朝押入れに片付けるように。」と言い渡した事は守られたが、夜、用事で部屋に行った時に、シーツをせずに敷布団をマット代わりにしていた事が分かったので、すぐに、「布団は洗濯できないから、必ずシーツをして下さい。」と注意したこともあった。
彼らのシーツを洗濯した時、お菓子のくずが幾つか紛れ込んでいた事もあった。
また彼らが出かける前に気づいた事だが、真っ白い壁紙の一部が紺色に染まっていたのである。
「これは自転車で雨に濡れて帰って来た日に、濡れたジーンズを籐椅子の背に掛け、その状態で椅子を壁に押し付けておいたから、ジーンズの色が落ちて壁を染めてしまったのでしょう。」と言ったが、黙っているだけで、「すみません。」の一言もなかった。
仕方が無いので、先程、洗剤を溶かした液を染み込ませた雑巾で丁寧に何度も拭いて見た。
色はかなり薄くなったが、完全とはいかない。壁紙を張り替えるとなると大ごとなので我慢しようと思う。
また何日も雨が降ったので、私の紺色の折りたたみ傘を貸した。それが1本、玄関に無いので、昨夜「何処にあるの。」と聞くと、「壊れたので捨てた。」という。
そして、「代わりの傘を傘立てに置いて来たから。」という。見たら私には使えないような紳士用の65cmの大きな傘があった。聞いたら値段は500円だったらしい。ガッカリした。(壊れた時に言ってくれたら、修理に出すこともできたのに‥)
でもまあ、基本的には悪い学生ではなかったので、少々のトラブルには目をつぶろうと思う。