7日目の朝は、最後の見学場所である世界遺産「麗江古城」に行った。
この古城の町は、宋の時代に作られ、チベットの馬と雲南・四川の茶の葉を交換する茶葉街道の拠点として賑わったらしい。
古城の入り口には大きな水車が回っていて、壁にはナシ族の歴史を示すモニュメントが作られていた。
門を入ると石畳の狭い通路や階段、幾つかの水路に沿って建てられた木造2階建ての白壁、瓦屋根の家々、広場など、その独特な雰囲気に昔懐かしい感じが湧いた。
どの屋根の四方にも角の様な飾りがついているが、聞くと鳳凰の羽根を表わしているのだという。
石段を登って展望台に行き写真を撮った。
玉龍雪山がバックにある素敵な写真がガイドブックに載っているが、その日は残念ながら山は見えなかった。
更に上へ登ると高さ33mもあるという「万古楼(ばんころう)」が聳えていた。僧侶が一人、読経をしていた。
この町の小さな店で、私はトンパ文字の入ったTシャツとストールを買った。
所で、数日前の朝日新聞に、「麗江古城では、世界遺産に指定されてから古い建物の保存が義務づけられ、家賃も上がった。すると次第に昔からのナシ族は古城の外へ出て行き、観光客目当てに商売をするその他の人たちが住み着くようになった」と書かれていた。世界遺産の明暗なのかも知れない。
長くなったが、これで今回の雲南省の旅日記は添えた64枚の写真と共に終わる事になる。
中国3回目の旅となった今回が、気候も良く、内容も1番変化に富んでいて、食事も美味しかった。
何よりも今まで知らなかった少数民族の人たちの暮らしぶりを、少なからず知ることもできた。
それと漢字がどんどん簡略化されている事も知った。
「云南」は「雲南」の事だったし本来の「麗江」の麗という字は、下の鹿が無くなっていた。「国際」の際は卩の右に示のみだ。「衛」はギョウニンベンの右にエとだけ書く。極めつけは「業」が上の冠部分だけなので、初めは北の字の略かと思った。
本当に多くの漢字がすっかり簡略化されて、意味不明の字に変えられていた。こうなるともう1字1字が意味を示す漢字ではない。
やがて本来の漢字を理解できるのは、私達日本人だけになるかも知れないと思った。
また、細切れにガイドが話してくれた話も興味深かった。
その幾つかを書くと、今まで農民は、身分証にもパスポートにも身分が書かれていたが、近々全部が「居民」と言われるようになって身分差別が無くなるという。
また政府は、農民の農業税を無くしたり、TVや洗濯機を買う場合に国が半分補助をするようになったのだという。
昨年からは地方の道路も改修し出したらしい。
今、行われている全国人民代表者会議では、地方の内需拡大が課題の一つになっていると日本でも報じられている。
3月7日のNHKTVでは、今中国では社会保障制度が後回しされているため、教育と医療を受けるのにお金がかかる。北京の公務員の平均月収は2000元(日本円で約2.8万円)だが、その内の48%(現在の日本の2倍)が将来のために貯蓄にまわされているとも報じられていた。かっての日本も生活の不安から貯蓄率が高かった。今は貯蓄したくてもできない家庭が増えているという。
(平均収入からすると、日本の100円の価値は中国では1000円以上になると思う。だから中国で日本円に換算して500円の品物は、実は5000円の価値なのだと私は思っている。田舎ではもっと差が開く)
しかし、ガイドの話では、世界的な不況を受けて、大学を出た学生は1/3しか就職できなかったり、出産後1年休んでも給料を払わなければならない女性の雇用を個人企業が嫌ったりする状況が強まっているという。
また、「国営企業は、重労働で残業代も払わない事がふえたので資本主義的経営をし出しているが、それに対して日本の企業は、残業代をきっちり払うので社会主義的経営だと言える。」などと、面白い比喩を話していた。
しかし、情報を早く知りえる立場の公務員は、うまく立ち回って多額の賄賂などで潤い、公務員と一般の人との収入格差はすごいのだと彼は嘆いていた。一般人の不満も鬱積しているのかも知れない。
バスの車窓からは、桜などの苗木を育てる農園が幾つか見られた。植樹した場所もあった。
世界で最大の人口を抱える多民族国家中国は、今後も少しづつ変わって行くだろう。私たちにとって近くて遠い国の変化を、何時かまた見に行きたいと思いながら今回の旅を終えた。
翌日の午前中は麗江郊外の観光だった。
山間の道を西へ50km下った所に長江が180度迂回する場所があり、そこに古くからチベット族との交易の中継地として発展した町がある。
町の名は石鼓鎮。町の入り口に狛犬?が4匹も鎮座する立派な門が立っていた。
高台に上がると古い町並みや木造つり橋の傍で編み物をしている女性達がいた。
少し道を戻り、バスは虎跳峡(こちょうきょう)の入り口に停まった。
高低差3000mの大渓谷の下を20kmに渡って流れる長江(金沙江)沿いに、2.5kmの遊歩道が作られていて、終点が展望台になっていた。展望台の下は虎が飛び越えたと伝えられている程、川幅が特に狭くなっている所で、豊かな水量が激流と化していて壮観だった。
川の向こう側は、チベット族が住むシャングリラ(香格里拉)地域だ。そこにも小さな何人もの人影が見えた。
往復1時間半、渓谷美を楽しみながら一生懸命歩いたため、戻った時には汗をかいていた。
バス停の近くにレストランがあり、そこで昼食をとった。私たちを目当てに数人の物売りが来たが、どこから仕入れたのか、お年寄りの女性から買った蜜柑は新鮮で香りが良く、すごく甘かった。
その日の夕食は、麗江古城に近い飲食店街でナシ族の民族料理を味わった。
沢山の野菜と豚のばら肉、ソーセージ、麺、ご飯、春雨の火鍋料理だった。ニンニク、ごま油、魚醤などで作ってあると思われるたれが独特で、体も温まって美味しかった。
食事後トイレに行った。女性用の扉を開けてびっくり。清潔な水洗トイレだったが究極の「ニーハオトイレ」だったので、私は使うのを止めた。
その夜8時頃、友人とホテルの近くのアーケード街に行き、色々な果物を買い込んだ。特にレイシー、金柑が新鮮で安く、美味しかった。
見たことの無い豆を買って来て食べて見た。黒く硬い種の周りに干し柿のような実がついていた。帰りの空港で袋入りで売られていたが、名前を見てこなかった事を反省している。ネットで調べたがまだ分からない。
とても珍しい豆なので種を蒔いて見ようと思っている。
山から戻り、晴天なら池に逆さに玉龍雪山を写す「玉泉公園」に行ったが、残念ながら山は望めなかった。しかし、観光客と市民で賑わっていた。
長江(麗江)のシャングリラ(香格里拉)地域から旅行に来たのだろうと思われるチベット族の女性達が数人、民族服で着飾って来ていたので、撮影させて貰った。全員、すらりと背がとても高かった。
ナシ族の楽隊が伝統的な楽器で演奏していた。
麗江の女性ガイドの説明では、ナシ族には母系社会の風習がが残り、男性は働かずに昼間は将棋や麻雀をして過ごすことが多いという。昔、男性は勉強する人が多かったためだそうだ。しかし、今は女性も勉強するのに、この風習は続いているらしい。また、家の中に暖房が無いので、冬でも太陽の当たる外で過ごす人が多いそうだ。
中学生らしい女生徒が、制服のジャージー姿でベンチにかけていた。(昆明でも、ジャージーで登校する子ども達を見かけた)
梅が咲き誇る寺が綺麗だった。
公園の奥に行くと、「トンパ(東巴)文化博物館」の入り口に繋がっていたので、私たちは改めて見学し直した。
入り口に「ユネスコ世界記憶遺産」に指定されているナシ族の象形文字(トンパ文字)が掲げられていた。
ナシ族が信仰するトンパ教は、太陽、月、星、山、水などの自然物を崇拝し、万物に霊魂が宿ると信じる。
また、明の時代に繁栄し、王朝から「木」という姓を与えられたため、町を囲む城壁を作ると「困」となるので作らなかったため、商業が発展したという。
博物館の日本語ガイドは、「先祖が残してくれた文字のお陰で、今の私たちが生きて行ける。」と繰り返した。
今では文字の多くが人々に忘れ去られ、現在いる継承者は極僅かだと言う。
博物館の奥に行くと、文字の継承者中第一人者というトンパ先生が、手漉きのトンパ紙にトンパ文字を書いていた。
「家内安全、幸福祈願」「安産祈願」などと筆で書き、販売していた。
私は売店で記念の絵葉書を買った。仲間の一人が買ったトンパ文字のトランプも良かった。
(その翌日私は、トンパ文字で「昨日は幸せ、今日も幸せ、これからも幸せ」と書かれてあるTシャツを、娘の土産に買った)
夕食後、数人で近くの食品スーパーに行って見た。いつもホテルやレストランで出される野菜やマントウ類、餃子などが冷凍食品として安く売られていたので、私は少しガッカリした。
5日目、昆明の空港を8時45分に離陸した国内便は、約600kmを飛んで9時20分に雲南省の北部の都市、麗江に着陸した。
麗江は標高2400mの高さにあり、人口は112万人で、少数民族のナシ(納西)族、リス族、イ族などが多く暮らす町でもある。
空港の外へ出ると、やはり昆明より気温が大分低い。
麗江にはユネスコの世界遺産が3つある。世界自然遺産の「玉龍雪山」と、世界記憶遺産の「トンパ(東巴)文化」、後一つが「世界文化遺産」の「麗江古城」だ。
空港から真っ直ぐレストランに行き、昼食をとった後、「トンパ(東巴)文化博物館」に行った。
所が間もなくガイドが慌てた様子で来て、「玉龍雪山に登るロープウエイが悪天候のため、間もなく運行を中止するという連絡が入ったので、直ぐにそちらへ向うことにしたい。」という話をした。
私たちは直ぐにバスに乗り、「玉龍雪山風景名勝区」へ向った。
玉龍雪山とは、5000m級の13の峰が一列に並んでいる姿が龍に似ているため、そう呼ばれているナシ族の聖山だ。そのため、万年雪の美しい山は人跡未踏なのだという。
途中で観光バスを降り、ロープウエイ乗り場行きの専用バスに乗り換えると、レンタルの赤い防寒着が用意されていた。
同時にガイドが取り寄せた簡易酸素ボンベ(1本40元=600円)が、希望者に販売された。
私はどうしようか迷ったが、考えたらこの数日間、標高2000m位の所にいて、高地に体が大分慣れている筈だから、さらに2500mプラスの場所なら何とか耐えられるのではと思って、思い切って買うのを止めた。
標高3356mのロープウエイ乗り場に着いた時には、すでに雲が厚く、雪も降り出し、風が強まっていた。
私は、下でこの状態なら、上に行っても何も見えないと思ったが、ガイドは明日の天気の保障はないという。
(写真は①ロープウエイ乗り場の入り口 ②順番待ち ③いよいよ乗り込む)
①②③
順番に並んで小型ロープウエイに数人ずつ分乗した。上に行くに連れ外はますます激しく吹雪出し、ガラスに氷が付いて外が見えない。
そうしている内に1150mある高度の差を、僅か15分で昇り、ついに標高4506mの終点・氷河公園に着いた。
そこには大きい建物があり、中に人が沢山いた。飲み物の売店もあった。
空気が薄いので、ゆっくり歩かなければ呼吸が苦しいし、頭も少しふらついた。友人は目の前が真っ白になったらしい。
建物の外は猛吹雪。だが思い切って木の板でできた遊歩道に出て見た。
もし晴れていたら、眼前に玉龍雪山の最高峰、5596mの「扇子トウ」が臨める筈だが、吹雪いていて全く何も見えない。
風雪で体が吹き飛ばされそうだったが、高度標識の所まで行って何とか証拠写真を撮った。そこに居られたのは数分間だけだった。
①売店 ②4506m
③下りのロープウエイにて
建物に戻って少し休んでから下りのロープウエイで下に降りた。グループの中には一時的な高山病になった人もいたが、私は大丈夫でホットした。
また専用バスで来た道を戻り、私たちのバスが待っている駐車場に着いた時、何と玉龍雪山の主峰がその姿を現した。感動して、慌てて写真を撮った。
私が今回の旅で最も期待していた玉龍雪山は、翌日、麗江郊外に行った時にも美しい姿を見せてくれた。
しかし、4506mの展望台で、眼前に白く輝く世界自然遺産の姿を確かめられなかったのは実に残念だった。
だが、この日、高血圧症の私でも、富士山よりずっと高い地点に登れたことは、人生の記念すべき出来事の一つになった。
5日目の朝、人口600万人、標高1900mの雲南省の省都・昆明のホテルを北の麗江に行くために7時に出発し、市内を通り、空港に向った。
その途中、バスの窓越しに見た朝の街角の風景を撮影した。
自転車に乗っているのはほとんどが若い学生だ。車輪のサイズが小さい自転車が目立った。大人はスクーターやバイクに乗っている人が多い。車も結構走っていて、日本車もあった。
バス停で待っている人の後ろに、大きな広告がある。携帯電話や清涼飲料水の広告の中に、バスには1列に並んで乗ろうというマナーを呼びかける宣伝もある。
道路に向って張った青いテントが点在していて、中で警察が監視しているが、彼らに緊張感は感じられない。居眠りをしていたり、下を向いていたり‥。オレンジ色の制服姿で掃除をしている人もいる。
多くの建物は5~6階建てで、1階は店になっている。アパートの窓の多くは、何故か鉄棒でカバーされていた。
バスは、空港へ行く幹線道路の途中、トイレ休憩のために道端のあるガソリンスタンドに立ち寄った。
先に行った男性達が、「とても汚くて入れない。」と言いながらバスに戻って来た。
そこで私は、急いでカメラを持って女性用のトイレを覗きに行った。
個室間の仕切りはあるが、入り口、個室共ドアは無いので難なく写真を撮れた。
しかし、本当にそのあまりの凄まじさに唖然とすると共に、これが女性のトイレかと思うと悲しくなった。どうして誰も掃除をしないのか、不思議だった。
このトイレ、今回の旅行中最悪のトイレだったので、皆、空港まで我慢したようだった。
(ついでに虎跳峡のレストランの外トイレの写真を載せる。綺麗だが、伝統的なニーハオトイレだった)
4日目の昼、昆明市内に戻って、午後から市民の憩いの場、「大観楼公園」を見た。
ユリカモメが遊ぶ大きな池の一部に、色鮮やかな黄色い龍が浮かべてあったのを見て、日本人とは異なる中国人の美的感性に驚いた。(写真下、門の奥の池に作り物の黄龍が見える)
少し離れた場所では、思い思いに木陰でのんびりと麻雀や碁、トランプに興じる男女の姿もあった。
その後、昆明の西の郊外15kmの所にある「西山森林公園」に向った。
下からリフトで標高2280mあるという山の中腹まで上がり、そこから山肌の絶壁に作られた狭く急な階段を下りながら、長い年月をかけて作られたという幾つかの石窟寺院を見た。特に色彩豊かな道教の寺院が印象に残った。
3日目は羅平周辺の自然公園・「九龍瀑布」や少数民族プイ(布依)族の村などを見学した。
この日は朝、プイ族の女性が特別ガイドとしてバスに乗り、彼女が1日ガイド役をしてくれた。
プイ族はこの辺りに4万人が住み、独自の文字は無く、農業や刺繍で生活しているのだそうだ。
年に1度、若い男女が合宿し、歌や踊りをして適当な相手を見つけるのだという。昔の日本にもあった「歌垣」に似た風習が、プイ族は今でもあるらしい。
22歳で独身だというそのガイドは、「自分は普通に恋人を見つけた。」と言っていた。
「九龍瀑布」では、先ず山の中腹までケーブルカーで上り、そこから500段程の石段を下りながら、龍が昇るように見える滝の景観を眺めるのだ。展望台から見た滝も、菜の花畑も美しかった。
駐車場に戻る道端で、女性達が小ぶりの大根や果物などを売っていた。その大根は甘みが強いらしかった。私がカメラを向けると、爽やかな笑顔を作ってくれた。
その後、200人程が暮らす「プイ族の部落」に案内された。
民家以外に、小さなホテルを経営している様な家もあった。民家は、どの家もバラック作りで貧しく見えた。
女性が外の盥で洗濯をしていた。アヒルや水牛、豚などを飼っている家もあった。
ガイドは「この部落では、多くの男は炭鉱や町へ出稼ぎに行き、女は農業をしています。」と説明した。
公衆トイレが2つあったので、その1つを覗いて見た。
男女の入り口は分けられていて仕切られていたが、入り口にドアは無く、それぞれ7㎡程の仕切りの無い空間に15cm幅程の細長い溝が2本開けてあった。人間の排泄物は、溝からすぐ裏に作られた池に滑り落ちる様に溝に傾斜がついていた。池には黒い鵜が1羽いたから、多分、飼っている魚を捕まえさせるのだろうと私は想像した。
淀んでいる池の中は見えなかったので、今でもそこで魚を育てているかどうかは分からなかったが、正に天然の有機物をリサイクルする古来からの仕掛けである事は確かだった。
このトイレは、多分、部落の人たちが共同で使うトイレなのだろうと思った。
許可を得た1軒の家の庭に入った。中年の女性が「兎に角、貧乏な生活です。」と私たちに話した。
庭先の小屋を見ると、豚が4頭飼育されていた。多分、育てて売るのだろう。
ある人が、開いていた家の中を見ようとしたら、「家の中は見ないで下さい。」と言われていた。
最後にガイドが、「お礼にお菓子か飴があったら上げて下さい。」と言った。その場で急に言われたので、何も持ち合わせが無い私は、皆の1番最後にそっとお金と、家から作って持って行った織り鶴を手渡した。
出発前に読んだ本に、『かって少数民族は長江の北側で暮らしていたが、勢力の大きい民族に徐々に南へ追いやられて、雲南省に集まった』と書かれていたのを思い出した。
石林を観光した日の午後、バスは更に昆明よりずっと東部の羅平に向った。
今のシーズンだけ菜の花畑がある農村地帯を観光するためだ。
(羅平の菜の花観光は数冊のガイドブックを探しても出ていなかった。菜種を栽培する様になって、まだ間もないのかも知れない)
3時間走る間、車窓からは鉄分が多く含まれる赤土の大地が延々と続くのが見えた。
「イ族」の村を通った。所々に独特な墓が見られた。全て土葬だ。
イ族は、死後も魂と肉体が離れない土葬が一番だと信じているそうだ。
畑では、小麦、菜種、豌豆、稲などが初夏の陽射しを受けて青々と育っていた。見ると鍬を振り下ろしながら広い農地を耕す農民達の姿があった。どこにもトラクターの様な機械は見当たらない。この辺りの中国の農民は、今でも自分の体一つで農業を営んでいるのだろう。
ガイドの話では、中国の土地は全てが国の所有で、農民は借りて耕作するのだが、死ぬと返す仕組みになっているという。今では農民が年間5元(日本円で75円)を負担すると、国が同額を負担してくれる健康保険制度もあるそうだ。
途中に炭鉱もあって、掘り出された泥炭状の石炭が野積みされていた。
ほとんどの炭鉱は個人の所有なのだそうだ。(現在の中国の会社は、1/3が国営で、 2/3が個人経営だと説明された)
炭鉱では事故が多いが、わいろが横行していて、安全管理が軽視されているとガイドが話してくれた。
いよいよ羅平に近づくと、一面に広がる真黄色い菜の花畑が目に飛び込んで来た。
私が予想していた菜の花畑は、羅平の一部だけだと思っていたが、そうではなかった。
行けども行けども、今まさに満開の菜の花畑が続いていた。小高い山の斜面にも、菜の花の段々畑が所狭しと作られているのだ。
ガイドの説明では、10月から11月に菜種の種を蒔き、今が菜の花の時期で、3月下旬から4月には菜種を収穫して菜種油の製造元に出すのだ。収穫後の畑にはタバコを植え、その葉を秋に収穫するという。
菜の花とタバコを交互に栽培している農家は、年間60万円位の収入があり、一般より豊からしい。
道路脇には、テントを張って蜂蜜を売っている人たちが沢山いた。
テントの後ろには蜂の巣箱が並べてあり、蜜蜂が飛び交っている。彼らは菜の花の咲く時期に巣箱を持って移住し、蜂に蜜を吸わせて、その場で手作業で蜂蜜を採取し、瓶に詰めて売っているのだった。
ガイドは、清潔安全を考えたら、専門店の蜂蜜を買ったほうが良いと言ったので、私たちは店の前を素通りした。
よく見ると、テントの中で寝泊りしている家族も多く、幼児が寝ているテントもあった。
観光客が多く立ち寄る景色の良い場所では、ゆで卵や砂糖きび、パイナップルなどを売る中年の女性の姿も多く見られた。
その日のホテルの夕食には、菜の花の炒め物とチャーハンが出た。花の部分は除いてあるが、綺麗な緑色の茎の料理に元気が出そうな気がした。
最初の観光は、昆明の南東82kmのところにあり、2004年にユネスコの世界地質遺産に指定された「石林」から始まった。
昆明自体が標高1800mの高原にあるためか、バスに乗っていると陽射しは強いが気温は22度前後と春の陽気だ。現地ガイドの話では、気候は1年中こうなのだと言う。
石林に向けてバスが走った道路は、ベトナム迄続く2003年に完成した高速道路だった。
所々に白い花や赤い花を咲かせた木がある。聞くと白は梨の木で、赤は梅の木だという。
石林は、2億8千万年前の大昔に海底が隆起した後、長い間、風雨にさらされ、侵食、風化されて現在の様な400k㎡にも及ぶ広大で独特なカルスト地形ができたのだそうだ。
昆明周辺の標高を考えると、当時の隆起状況はさぞかしすざまじかっただろうと想像した。
(石灰質が融けているためだろうが、私が今回泊まった雲南省のホテルの水はどこも硬水らしく石鹸が溶けにくかった。また飲料水は毎日1本配られたミネラルウオーターを飲んだ)
石林に行って見ると、先が鋭く尖った巨石がぎっしりと連なり、それが林の状態になっていて驚いた。
中には地震で崩れ落ちた石や途中で引っかかった様な危なげな石もあった。
所々に咲くブーゲンビリアの花が、無機質な石に命を与えているかに思えた。
通路は狭い迷路の様になっていたが、ガイドの誘導で主な見学場所を効率良く観光した。私達以外の日本人の姿は見えなかった。
石林のあちこちに人目を引く民族衣装で着飾った少数民族・サニ族の女性たちが居た。若い女性たちは、一緒に写真撮影を望む観光客からお金を取っていた。
広場では中高年のサニ族の男女が、フォークダンスの様な民族舞踊を繰り返しして見せていた。空気が薄い場所柄、何度もダンスをするのは大変だろうと思ったが、「石林」は彼らの貴重な収入の場になっているようだった。
帰りも予定通りには行かなかった。
27日、全ての日程を終えて雲南省北部の都市・麗江から省都・昆明に戻る国内便に乗るため、麗江空港に行った。
所が12時過ぎに飛ぶ筈の飛行機が、北の悪天候により到着しないのだ。
急遽航空会社は、搭乗手続きを済ませた旅客に昼の弁当を出した。
結局、やっと遅れて到着した飛行機が4時間近くの遅れで離陸したため、夕刻に着いた昆明で夕食を取ることになった。
昆明からは予定とは違う遅い北京行きに乗り、やっと北京に戻った時は既に28日になっていた。
待機していたバスで空港からホテルに着いたのは、真夜中の1時半。荷物の整理をして寝たのは2時半。
モーニングコールは4時50分だったから、寝られたのは僅か2時間程度だった。
ホテル出発が5時半だったから仕方がないのだが、とても良いホテルだったので、僅か4時間だけの滞在は実に残念だった。
北京発新千歳空港行きは、時間通り北京空港を8時15分に離陸した。
3時間後、上空から見た北日本は晴天で、飛行機は予定より早く、日本時間の12時25分に到着してくれた。
時計を1時間早めて飛行機を降り、スーツケースを受け取り、トラブル中、活躍してくれた添乗員と友人達に別れて帰宅した。
今回の旅行では流石に疲れたため、その夜は12時間も寝てしまった。
そんな訳で、冬場の旅行は天候異変の影響を特に受けやすいという事を、体験的に知る旅行となった。
ただ今!昨日、無事に帰国したが、今回の旅については、先ず出発した21日の状況から報告したい。
前日から大雪が続いていたので、私は早めに起きて先ず玄関前の除雪をした。
何時もならJR駅迄徒歩で行く所なのだが、その日は道路が除雪されていないのでスーツケースを持って歩けない。そこで予定より早めの10時にタクシーを呼んだ。
すると運転手が、「朝からJRは1本も動いていないので、空港に行くならこのまま真っ直ぐ向った方が良いのでは。」と言う。
私は2万円以上もかかるかも知れないタクシー代は余分に持ち合わせていなかったし、悩んだ挙句、思い切って駅で降ろして貰った。
するとやはりJRは、まだ上下共、1本も動いていないという。
しかし20分もすると「除雪が済んだので、空港行き『快速エアポート』が、各駅停車で札幌駅を出る」という駅内放送があった。
何てラッキーなのだろうか。その列車を待って、空港に無事に到着できた。
札幌から高速バスで来る予定だった友人は、高速道路が閉鎖されたため、急遽動き出したJRに乗り変えて、私より大分送れて駆けつけて来た。
(という事は、私がもしもタクシーで空港に向ったとしても、時間はかなりかかった事だろうと思った。)
遠方地域からの参加者は、前日から札幌に来ていたらしく、添乗員に聞くと全員無事に集合できたという。
新千歳空港では、出国手続きを済ませ、搭乗口の待合室で待機した。
所が2時間以上遅れていた台北行きの飛行機が欠航を決めたという放送があり、多くの人がガッカリしながら出て行った。残った私たちも、不安な気持ちで待機し続けた。
すると私たちの乗る中国国際航空機は、雪が止んだ3時間後、北京に向けて17時に飛んでくれたのだ。
これが2つ目のラッキーになった。
3時間半後、広大な北京空港に着くと係員がつきっきりで誘導してくれ、入国審査、荷物受け取り、国内線への移動(これが長距離で大変だった)、改めて荷物預け、搭乗安全審査と全てを30分程でこなし、本来なら間に合わない筈の雲南省の省都・昆明行きの国内線にやっと搭乗することができた。
これは3つ目のラッキーだった。
昆明に着陸した時刻は、日本とは時差1時間の現地時間22日1時になっていた。何と家を出てから16時間が経っていた。
ホテルに着いてベットに横になれたのは2時半頃。正直疲れ果てたが、3つのラッキーが重なって気分は幸せだった。
(写真①雪が止んだ滑走路の除雪風景 ②北京空港ではシャトルに5分間乗って、国際線から国内線に移動する ③真夜中の昆明空港荷物受け取り場。世界遺産の大きな写真が掲げられていた)
① ② ③
1回目は、十数年前の8月に北京、西安、大同などへ行き、万里の長城、故宮、兵馬俑坑、龍門石窟、雲こう石窟等を巡る旅行をした。詳しくはこのブログのカテゴリー「私の外国旅行体験」の2007年2月の記事参照のこと。
2回目は、一昨年6月、四川省へ行き、九寨溝、成都郊外のパンダ研究保護センター、都江堰、峨眉山、楽山などと、上海を訪れた。(去年起きた大地震で四川省は大きな被害を受けたが、私が行って来た場所の被害の大きさを知り、とてもショックだった)詳しくは「私の外国旅行体験」2007年6月の記事を参照のこと。
今回は3回目の中国旅行となるが、行き先は前から行きたかった雲南方面だ。
広い中国の中でも最も西南に位置し、ミャンマー、ベトナム、ラオスと国境を接する地域である。
中国は、漢族を始めとする55民族からなる多民族国家だが、雲南省はタイ族、ハニ族、イ族、ミャオ族など、22もの少数民族が生活する地域である。
丁度、菜の花が咲き乱れる時期だという羅平地区と昆明、麗江といった古い都市を巡り、さらにナシ族の聖山5596mの玉龍雪山を望む公園では、4506mの地点までロープウエイで上る予定だ。
高い所と言えば、四川省で4007mの峠に行った経験が1度だけある。その時はそこで15分程散策したが、酸素が薄いので息苦しくなり、バスに戻って携帯の酸素ボンベを吸った。
今回は更に500mも高い地点なので、本当にそんな所まで私でも行けるのかどうか自信がない。
しかし色々と事前勉強したせいか、私には3回目の旅行となる今回が、期待が一番大きい。
今回は、H旅行社札幌支店主催のツアーなので、新千歳空港から北京まで直行便で中国に入り、そこで国内便に乗り換えて雲南の昆明に行く事になっている。
今、最も心配なのは、今日、明日と大荒れの天気予報が出ていて、もしも明日、新千歳空港が閉鎖されたら、行くことができなくなる事だ。
しかしそんな時でも、成田集合のツアーではなく、主催者側が地元の会社で、集合も新千歳空港なので、全て対処してくれるものと安心はしているのだが。(そんな訳で、冬場の旅行は地元の旅行社に限ると思っている)
今回の同行者は登山友達の古い学友だ。
順調に行けば21日から28日まで行って来ます。
今回の旅行を通して私が強く感じた点を一言でいうと「中国という巨大な国は、これから何処に行くのだろうか」という疑問である。
お金と物、情報が解放され、農村からの人口の流動現象が続き、平均的な現金所得が上がると、人々の物に対する欲望が肥大する事だろう。すでに農産物や工業製品などは、グローバル化の波にももまれている。
政策の大転換によって国営企業が減少し、外資企業や合弁企業が増え、農民も土地を離れて勤労者になる人が多くなるにつれ、今まで中国には無かった資本主義的・個人主義的な考え方が、当然の様に人々の間に強まって行くだろうと思う。
そして私は、今の中国が、四十数年前の高度経済成長時代の日本にそっくりな社会経済状況になって来ている様に思ったのだった。
トウショウヘイは「資本主義は集団主義だ」と言って幹部を説得し、改革開放路線へと政治の大転換を計ったのだが、経済の変動は社会構造や思想、人間関係までも変えるに違いないと思う。
そして、今度はオリンピックだ。国際的な交流が大々的に進められるので、やはり大きな影響を受けることだろう。そしてオリンピックが終わった後、中国はどういう方向に向かうのだろうと思う。今後も、できればまた行って見たいと思った。
そんな思いを抱いて帰国の飛行機に乗り、一週間振りで一日遅れの毎日新聞と日本経済新聞を機内で読んだ。
日経新聞には、「少年ら強制労働 大規模摘発」「中国、全国で調査へ」「中央政府への批判も高まる」という見出しで、中国山西省のれんが工場で誘拐された多数の少年少女の強制労働が摘発されたことが写真入りで報じられていた。そこには「ネット上で上層部の責任追及や政治体制を批判する書き込みも目立ち始めた」と書かれていた。
毎日新聞では、「中国虐待工場 経営者父は党村幹部」「警察に口止め料払う」という見出しだった。
このように今の中国では、体制内部からもこうした違法行為が増えているらしい。
人口12億の中国が抱えているという幾つかの矛盾は、やがて何をもたらすのだろうか。素晴らしい自然と文化遺産に触れながら、一方ではそんな事が気になった8日間の旅だった。
私が中国を訪れたのは今回で2回目である。
初めての旅は今から10数年前だった。前回は北京、洛陽、大同と西安だったので、場所も全く違ったが、今回の旅で新しく感じた事もあったし、前と比べて中国は変化したと思った点もあった。
先ず、変化したと思った点である。
第一は、生活水準である。
自転車の数は相変わらず多いが、見た所、随分車が増えた。
ガイド氏の説明では、一番売れているトヨタの○○は、去年から現地生産される様になり、関税が100%から50%に下がったのだという。人民元で20万元(330万円)もするそうだが、買える人が増えているのだ。そのため上海や成都などの大都市では、高速道路も整備されたが、一般道路では渋滞が起きている。
また、どの都市でも、近代的な高層ビルの建設があちこちで盛んに行われていた。
ところが一方では、改革開放政策が行われるようになってから、都市と農村の所得格差、都市内の所得格差が広がっているらしい。農村は農産物価格が安いので生活が苦しくなり、若者はどんどん都市に出稼ぎに出て来るのだという。
上海では2200万人の人口の内、500万人が農村からの出稼ぎ者だと説明された。農村地帯で車窓から見た家は、ほとんどが数十年前に作られた様な暗くて設備の悪そうな前近代的な家だった。
上海のガイド嬢の説明によると、1980年代に比べて給料は3倍になったが、都市の土地代が10倍になり、物価も高くなったのだという。
そのため最近の女性はマンションを持っている男性と結婚したがるが、それもなかなか難しい。また、結婚すると、働く女性の負担が大きいため、中国でも日本と同じように晩婚化が急速に進んでいるらしい。
一般道路では、自転車にリヤカーをつないだり、大きな竹製の籠をつけて物品を運んでいる人が多く見かけられたが、バイクで二人乗りをしている人達も凄く多い。車とバイクと自転車と、所得格差が一目瞭然に分かるようだった。
また、私達にお金をくれと手を出す子ども、老婦、障害者の乞食もいた。ガイド氏に「社会主義中国にも乞食がいるのですね」と言うと、「最近社会が変わってきたから」という答が返ってきた。
人々の服装も随分と良くなった。
前に行ったのは8月だったせいか、上半身が裸の男性ばかり目に付いたし、シャツを着ていても、茶色っぽい着古した物が多く見られた。
女性も25℃を越える真夏なのに、汗を吸わない合成繊維のブラウスやワンピースを着た人が多く、汗疹ができないだろうかと心配したものだ。
今回は、多くの男性や女性が私達とほとんど変わらないTシャツやYシャツの服装をしていた。成都やその郊外で裸の男性も見かけたが、極一部分の人だった。
第二は、マナーである。
一番感じたのは交通マナーである。
以前行った時は、北京の高速道路が建設中だった。それもヘルメットを被った上半身裸の男達が、砂利やコンクリートの破片をもっこに入れて肩に担いで運び上げるといった人力頼りで作っているのを見てすごく驚いたものだ。
そして、首都北京でも信号機が少なく、あっても車は無視して走るし、その前へ平気で出てくる自転車や人が大勢居た。そのため車が渋滞して身動きできなくなる光景があちこちで見受けられた。
今回行って見たら、上海ばかりでなく、内陸の成都でも高速道路が整備されていたし、町の中にも信号機が増えた。大都市では交通整理をしている人がいて、大体の人や車は信号を守って通行していた。(高速道路を平気で横断している人達がいたのが中国らしかった。)
また、公安警察の車が、ラッシュ時には見張っているのを見た。しかし、日本の様に誰もが交通ルールを守る様になるのには、まだまだ時間がかかりそうに思えた。
次は、ゴミのポイ捨てが少なくなった事である。
朝、バスから見ていると、オレンジ色の服を着た交通庁の職員らしき人が、成都でも、峨眉山に向かう山岳道路でも、竹箒とちり取りを持ってあちこちで道路掃除をしていたし、道路にはゴミが少なかった。しかし、相変わらず、所構わずつばを吐く人がいたのは不快だった。人々の意識はまだまだだろうが、確実に環境は国際水準を目指してきれいになりつつある様だった。
峨眉山に行く道路には「全国衛生山」という標識があり、国中の山を綺麗にしようというキャンペーンが掲げられていた。オリンピックを前にして、国を上げてマナーの向上に取り組んでいる事が良く分かった。因みにトイレは「衛生間」である。
第三は、見学施設とその周辺の整備状況が格段に良くなったことである。
前回行ったのは文化大革命の後で、多くの文化遺産が江衛兵によって破壊された後だった。その時色々な場所を見たが「兵馬俑博物館」以外はどこも薄汚く埃を被っていて、文化財がきちんと管理されている様には見えなかった。
しかし、今回訪れた場所の中で、世界遺産に指定されている所は、国の予算を1/3と世界○○基金からの援助1/3を受けているらしく、どこも入り口から出口まできちんと整備されていた。中国の変化を見て、世界遺産の指定は、人類の遺産を後世に残すための素晴らしい取り組みだということを強く感じた。
反対に、文化大革命と、それを支持した毛沢東の評価が、今、どうなっているのかが気になった。
第四は、反日感情をあまり表に出さなくなった様に見えた事である。
前回行った石窟寺院のある郡部の大同では、ガイドから「戦時中、日本軍がいた町なので、安全の確保のため外出を禁じます」と言われた。
今回は四川省の奥地まで行ったが、何の問題も感じなかった。多分、オリンピックの開催を契機として、中国人の意識が変わって来ているのかなと思った。しかし、内面には、きっとまだ、根強い反日感情はあるに違いない。
七日目 ホテルから真っ直ぐ「四川パンダ繁育研究センター」に行く。
ここは1983年に6頭のパンダの保護のために設立され、昨年8月、世界遺産に登録された所だ。
そこでは36万k㎡の広大な竹林の中で、現在は43頭のパンダが飼育されていた。入り口から特別バスに乗って行くと、大人のパンダ数頭が竹を食べている場所に着いた。
そこで写真を撮って更に行くと、パンダの成育写真や赤ちゃんパンダの保育器が置かれている展示館があった。
その傍の施設で生後8ヶ月位の子どものパンダ数頭が飼育されていて、丁度、竹を食べたり木登りをしたり、遊具に登ったりして遊んでいた。食べているパンダは2頭いたが、仰向けのスタイルで食べていた。こんなに生き生きと自由に行動しているパンダを見たのは初めてだった。
ガイドの説明では、パンダは2000m以上の高地に生息していて、四川省には全体の80%が生息しているとの事。平均寿命は25年、一日の内、65%の時間は食べ、30%は寝ているそうだ。
繁殖力が弱く、毛皮目的で密漁されて来たパンダは、すっかり数が減ってしまった。だから研究センターの究極の課題は、人口繁殖させたここのパンダを自然に帰すことだそうだが、かなり難しいらしい。
2万円を寄付すると、パンダを抱いて自分のカメラで写真を撮る事ができる。私達のツアーでは、二人が応じた。私は入場料30元(510円)もパンダの繁殖と保護に役立つ筈だと思った。
研究センターの特別バスに乗り合わせた高齢の元気な女性と話しをしたら、彼女は台湾から観光に来た人だった。日本語が凄く上手いので、どうしてか聞くと、小学校5年生の時、1年間だけ台湾で国民学校に入って、日本語教育を受けた事があると答えた。日本へはテニス協会の旅行で数回行った事があるらしい。思いがけない場所で思いがけない歴史の生き証人に会った気がした。
次いで「三星堆博物館」を訪ねた。
1986年、二つの祭祀跡が見つかり、研究の結果、新石器時代末期から殷にかけて存在した3000年程前の古蜀国の都だとわかり、独特の目玉が飛び出し、耳が大きな仮面を持つ高度な文明の存在が世界に知らされた。
博物館は10年前に作られたのだが、行ってみると広大な場所の中に二つの展示館が作られていて、数多くの出土品やコピーが展示されていた。(写真上の右)
太くて長い象牙も沢山出土したが、ガイドは、当時の気候が今よりもとても熱くて、この辺りにも象が居たのかもしれないし、あるいはインドなどの南方から来たのかも知れないと言っていた。
私自身、札幌の展示で仮面の幾つかは見ていたが、高さ2.6mの青銅の立人像には圧倒された。
ところで、その文明は突如として消えてしまったというが、理由は何なのだろうか。日本語の専門ガイドは、ある日、近くの川で大洪水が起こり、死んだり、別の場所に移って行ったのではないだろうかと話した。私は伝染病に感染した事なども考えられるなと興味をそそられた。
世界遺産「都江堰(とこうえん)」見学
道教発祥地の「青城山」に行き、山の中腹にある寺の山門から中に入った。
入るとすぐに展望台があり、そこから下を見ると、中州のある幅の広い川が流れていた。みん江だった。急な石の階段を下りて山肌に建てられている幾つもの寺の建物を抜けながら下に行くと、みん江の巨大な川の傍に出た。
みん江は、その昔、何度も氾濫を繰り返したらしいが、紀元前256年に洪水を防止するために李氷親子が指揮ををとって作ったのが古代水利施設「都江堰」なのだ。
大きな川の中州で分かれた水流が、作った堰で調節されて計画的に流れていく仕掛けになっていて、現在も使われているのだという。日本では弥生時代に入り、縦穴式住居に住み、稲作が開始したころといわれる紀元前の古代に、現代まで利用される大規模な水利施設を作ったこの国の当時の人々の知恵と指導力に思いを馳せ、感嘆させられた。
川には長さ200m以上の吊り橋が吊ってあった。1列になって中州まで渡っていったが、結構揺れたので落ちないように真剣に渡った。
成都へ戻り、唐の大詩人杜甫が4年間住んでいたという「杜甫草堂」を見学した。
記念館の入り口を入ると、やせ細った晩年の杜甫の青銅像が迎えてくれた。彼はここで240編のリアリズムに溢れた詩を作ったのだそうだ。彼が住んだことがあるという草堂を見学した。(何度か建て替えられているそうだ。)
竹林の中の赤い塀に囲まれた杜甫の散歩道だったという所を通って外へ出たが、杜甫の様には、詩は思い浮かばなかった。
三国志で有名な諸葛孔明(181~234)を祀った「武侯祠(ぶこうし)博物館」に行く。4世紀初めに建てられたという釘を全く使わない大きな建物の中に、三国志の代表的な人物を形取った大きな人形が祀られていた。私は三国志に余り興味が無いため、ガイドの説明も受け流した。
夜6時の飛行機で、成都空港から上海に向かい、着いたら8時40分だった。気温は27℃で酷く蒸し暑く、一気に汗が流れた。バスで町の中心に行き、上海のネオンで飾られた夜景を見た後、船上のレストランで遅い食事を取った。
夜景を見る場所に偽ブランド品を持った女性が数人いて、かなりしつこくつきまとって来た。
八日目 個人の所有物である「豫園庭園」(写真下)を見学した。狭い場所に観光客が一杯だった。
ガイド嬢は、この庭園が造られたのは男尊女卑時代だったので、廊下や部屋を男女別にしてあるなど、建物に色濃くその影響が現れていることを力説していた。また、初代の庭園造成主の息子が遊興三昧の末、広かった庭園の一部を売り、相続した孫もまた売却して、現在は当初の1/3になってしまったと説明していた。
その後、傍の豫園市場を30分、自由に散策した。最後に参加者が要望した食品店に案内して貰い、30分間、自由に買い物をした。私は慌ただしく菓子と干し果物を買ってバスに戻った。
バスで上海空港に向かい、14時20分の千歳空港行きに搭乗した。
機内で出た軽食は、日本で積んだ懐かしい味の冷やしうどんだった。
3時間弱で千歳に着いた。時計を1時間進めて日本時間に戻し、荷物を受け取ってからJRで我が家に帰った。
中国は一番近い隣国だが、今回は西域の四川省まで行ったので、流石に疲れていた。これからは8日間を超える海外旅行は、体力的に無理かも知れないと思ったりした。