≪猛吹雪に見舞われる≫
昨日、1週間ぶりに伯母が待つ岩見沢に向かった。出かける時は気温はー8~9度だったが太陽が輝く晴天だった。ところが30分程走ったところで警察官に通行止めをされた。聞くと大型車が数台絡んだ事故が起きて、その処理をしている最中だというのだ。路面凍結によるスリップ事故かも知れないと思いながら2~3km迂回してからいつもの道に戻った。
すると雲行きが怪しくなり、やがて雪が降り出した。風も強まり猛吹雪になった。3m先の前のトラックさえも瞬間的に見えなくなる。勿論道路の端も分からない。
幸い前のトラックに付いて走ることにした。脳裏に昨年猛吹雪の吹き溜まりで前進できなくなり、凍死した人達の事が浮かんだ。
ガソリンが残り少ないことも気になった。やはり冬の外出には入っているガソリンに余裕をもたせ、毛布やスコップを積んでいないと駄目だと再確認した。通勤していた時はそうしていたのに、最近は冬の遠出を滅多にしないので、気が緩んでいたのだ。
30分程目を大きく見開いてゆっくりと必死でトラックに着いて走り、ようやく岩見沢市に辿り着いたが、吹雪で交差点が見えず通り過ぎてしまった。慌ててUターンし、やっと伯母の高齢者専用賃貸住宅に到着した。
部屋に入ると、伯母が「危険を冒して、よく無事に来てくれたね。」と涙ぐみながら迎えてくれた。
今回は伯母に頼まれた野菜類と私が育てている開花し出した「香り椿」を持参した。とても喜んでくれた。
2時間ほどお喋りをしている内に、雪が止んだので急いで帰宅した。本当に昨日は危なかった。
≪バターリャの「サンタマリア修道院」≫
その後、北西の「バターリャ」の町に向かった。
「戦い」という意味の「バターリャ」は、1385年8月14日、近郊の「アルジュバロータ」で「ジョアン一世」が王位を狙って攻めて来た3万の「カステーリア」軍を向かい撃ち、奇跡的に勝利した歴史的な町だ。これは隣国スペインからポルトガルの独立を守った戦いだった。
1388年ジョアン一世は、聖母マリアに感謝して修道院の設立を始めたが、それは2世紀に渡り、7人の王と15人の建築家に引き継がれた。
しかし途中でジョアン三世が、リスボンの「ジェロニモス修道院」建造に全力を注ぐために建築の中止を決定した。
その後、1755年のリスボン大地震と1810~11年に起きたナポレオンの支配に反対するスペイン独立戦争で被害を受けた。また1834年に所有していたドミニコ修道会が追放されて廃墟になったが、1840年、フェルナンド二世が修復を決定したことで、20世紀初めまで修復が続き、現在は博物館となっている。
正式名「勝利の聖母マリア修道院」は、1983年、ユネスコ世界遺産に指定された。
この修道院も巨大な規模だった。様式は「ゴシック様式」と「マヌエル様式」で建てられている。その他の特徴として、鐘楼が無く、国内最初のステンドグラスが飾られた所だそうだ。
(最初の写真は、ランチを食べた傍のレストランから撮った)
聖堂には「ジョアン一世」と王妃の立派な石棺が置かれていた。また墓の間には、「ペドロ王子」「エンリケ航海王子」「フェルナンド王子」の墓がある。
天球、天使、ロープ、円、木の切り株、クローバー型のアーチという「マヌエル様式」が強く見られたのは、回廊と「未完の聖堂」だった。
回廊の角に豪華な「洗盤」があって、水が流れ落ちていた。
一室が柱が1本も無い広い「参事室」となっていて、第一次世界大戦時の「無名戦士の墓」が設けられ、衛士2人が守っていた。
「未完の聖堂」は「ドゥアルテ一世」が自分とその一族を祀る霊廟を目的に1437年に着工したものだが、未完成に終わり、現在は彼とその妻の石棺が安置されている。
未完成で天井部分が無いとはいえ、物凄く豪勢なマヌエル様式の聖堂が残されていた。
まだ他に観光した場所が幾つかあるが、割愛したい。民謡「ファド」を聞く機会は3回もあったし、これで今回のポルトガル旅行記を終えることにする。長文を読んでくれた方たちにお礼を申し上げたい。
遠い国ポルトガルに、少しか興味を持ってもらえただろうか。(完)
報告が前後しているが、ポルトガル観光3日目は、海沿いの「ナザレ」のホテルを友人と早めに出て、傍の朝市に行った。
新鮮な海産物や野菜が売られていた。2人で少しのバナナと味見にクッキー1個を買った。(バナナは美味しかったが、クッキーは胡椒が利いていて好きになれなかった)
豊かな魚介類が獲れる海産国でもあるため、毎日一度は魚料理が出、味も美味しかった。
≪「ファティマ」のバジリカ≫
その日は先ずバスで「ナザレ」から北東55kmの町、「ファティマ」に向かった。
「ファティマ」は第一次世界大戦中の1917年に3人の子どもの前に聖母マリアが出現したという奇跡の町だ。何も無かった農村地帯に、現在は広大な敷地を有するU字状の「バジリカ」と「出現の礼拝堂」、奥に「三位一体教会」が建ち、キリスト教の聖地になっている。
多くの信者達が遠くからもやって来て、礼拝堂まで膝まづいた姿勢のまま歩き、礼拝堂にろうそくを捧げ、祈っていた。
1981年5月13日、前ローマ法王「ヨハネ・パウロ二世」がバチカンで狙撃された日は、偶然にもこの地に聖母マリアが現れた日と同じ日だった。回復した法王はマリアの加護があったとして、1982年にこの地を訪れ、その際、「ベルリンの壁」の一部を持って来た。それが敷地の片隅に保存されていた。
私自身は奇跡などは信じられないが、何人かの立て膝の姿勢で進む中高齢者を見ると、信仰の力を感じさせられた。
科学者・平和主義者だった前ローマ法王が持参した「ベルリンの壁」は、ガラスの建物に入れられていた。この土地の人たちへの素晴らしい土産だったと思った。
夕方「ナザレ」のホテルに戻ったが、途中の展望台から「ナザレ」の町を見下ろした。真っ青な海と綺麗な砂浜が続く海岸は、実に美しかった。
ホテルの傍にスーパーマーケットがあったので、夕食前に行って土産になる食品を少し買った。
昨日まで2日間は最高気温が0度前後と暖かかったが、今は-9度だ。晴天なので、気温は最高ー5度まで上がるらしい。
≪天正遣欧少年使節団が滞在した古都、世界遺産「エヴォラ」≫
ポルトガルの5日目は、朝、首都「リスボン」のホテルを出て130km西に走り、「テージョ川」の「彼方」の意味だという「アレンテージョ」州の中心都市「エヴォラ」に行った。この州の面積は、現在のポルトガルの国土面積の1/3を占める程広い。
途中、目の前に広々とした耕地が開け、次第に「コルク樫」の木が目立ち始めた。「コルク樫」の皮を10年ごとに剥いて作るコルクは、ポルトガルの名産品の一つで、軽い上に断熱性、通気性があり、世界中に輸出されている。写真の木の幹も、良く見ると上の方で細くなっている部分があるが、剥いたのだろう。
傍にオレンジの木もあった。
「エヴォラ」の町も城壁で囲まれていて、城壁内には2~3世紀に造られたローマ時代の神殿や12~13世紀に建てられた教会がある。
ルネッサンス期には「エヴォラ大学」もあり、学問、文化の中心地だったようだ。
かって日本からはるばるヨーロッパに行った「天正遣欧少年使節団」の4人が、1584年9月に8日間滞在している。
この町からは、国境を越えてスペインに行くバスも1日2便出ているらしい。
高台にそのローマ時代の「ディアナ神殿」が残っていた。規模は小さいが、当時、ここを支配していたローマが、月の女神「ディアナ」を祀るために建てたものである。ローマやギリシャ、シチリア島などに比較すると、こんな小さな建物が1700年以上の長期に渡って保存されて来たことに驚いた。やはり神殿への信仰を集めたのだろう。
地区の高台から見下ろした町は、静かで落ち着いた様子に思われた。
「ディアナ神殿」の周りに「ロイオス教会」「美術館」「カテドラル」が並んで建っていたが、自由時間が限られていたので、あと5分で閉まるという「カテドラル」に入場料1.5ユーロ払って入り、急いで見学した。時間があるなら「カテドラル」の展望台にも登りたかったが残念。
この「カテドラル」は、12~13世紀に建てられた聖堂で、外観からは要塞の様に堅固な造りに見えた。
入り口を入ると左上部にパイプオルガンがあったが、暗過ぎてはっきりと見えない。これが430年前に「天正遣欧少年使節団」が来て、初めて目にし、音色を聴いたというパイプオルガンらしい。
私は、彼らと時代を超えて同じ場所に来たことに、少なからず感銘を覚えた。
「カテドラル」を出ると、途中にみやげ物店が並んでいて、外に飾られた陶器の絵柄が華やかだった。1つの店で「コルクの絵葉書」と「コルクのワイン栓」を見つけて買った。絵葉書は鍋敷きとして使えるし、ワイン栓は飲む時にどっと出ないので安心して注げる。また他の大きな醤油瓶などにも使えそうに思ったからだった。
バスの駐車場まで15分程歩いて戻り、また「リスボン」のホテルに帰った。
最後に「天正遣欧少年使節団」について、改めてネットで調べた事を書いておきたい。
それによると、1582~1590年、九州のキリシタン大名(大友宗麟、大村純忠、有馬晴信)の名大として13~14歳の少年4人がローマに派遣された。
派遣目的は、日本宣教の精神的経済的な援助を要請すること、西欧のキリスト教世界を見聞し、帰国後の布教に役立てることだった。
しかし、彼らの旅行中の1587年、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出したため、大名達の目論見は頓挫する。
使節団はグーテンベルグ印刷機を持ち帰った。それを使った活版印刷が日本で初めて行われている。
≪リスボンの世界遺産「べレンの塔」と「ジェロニモス修道院」≫
リスボン市内観光の日は朝から小雨が降り続いていた。
テージョ川の川岸にヴァスコ・ダ・ガマの世界一周を称えて、マヌエル一世の命で1520年に完成した四角い塔が立つ。それが灯台の機能を果たすと共に、聖母マリアに航海の安全を祈り、また、川を通る船を監視し、通関事務をするために建てられた「べレンの塔」だ。
雨が激しくなって来たので、塔の傍まで行かずに写真だけ撮影した。
その後、1km下流にある「発見のモニュメント」と「モザイクの世界地図」を見てから、500m程北側に建つ「ジェロニモス修道院」に行った。
ここもまたエンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの絶大な功績をたたえ、マヌエル一世が建設を決め、1502年から100年間を掛けて、ブラジルなどから持ち帰った莫大な金を使って完成させたものである。
間口が300mもある巨大な建物は、写真に納まらなかったが、私達は南門から「サンタ・マリア教会」に入った。
(写真中央にある入り口が南門。その右側が教会となっている)
天井が高い大規模の教会の入り口、左側には、「ヴァスコ・ダ・ガマの石棺」が安置されていた。石棺の壁にインド航路を発見した時に乗った帆船が描かれていた。
また入り口の右側には彼の偉業を詩で謳いあげた詩人「ルイス・デ・カモンイスの石棺」もあった。
「ヴァスコ・ダ・ガマの石棺」が置いてある側の壁に、「懺悔室」の扉が5箇所造られていた。聖堂を出て反対側の廊下に出たら、神父が懺悔室に入る扉が並んでいた。
55m四方もある回廊の一部を通り、二階に上がった。入り口の丁度上に広い聖歌隊席が設けられていて、柱に隊員の方を向けて十字架に掛けられたキリスト像が掲げてあった。
ポルトガルの海洋交易、植民地化というかっての栄光を記憶に留めるための「ジェロニモス修道院」も、私には莫大な資財を贅沢に塗り込めたような建築物に見えたが、インド航路の開拓などでは、協力な武器大砲で相手国を脅して交易を迫るなどしたらしく、双方に死者も多く出したようだ。
インドから帰還した時、4隻の船は2隻になり、出航時150人弱いた船団員は1/3に減っていたらしい。
そして何よりも植民地から得た多くの富は、産業を興したり、国民の生活の向上には使われず、王室や貴族、一部の貢献者の私物にされたという。
従って当時、スペインと世界を二分するまでに世界に進出したポルトガルだったが、その後、国力が高まることは無かったという。私達は歴史から政治経済を学ぶ事ができそうだ。
≪城壁に囲まれた小さな町「オドビス」とユーラシア大陸の西端「ロカ岬」≫
ポルトガル4日目は晴天に恵まれた。この日は宿泊した美しい砂浜の海岸がある漁村「ナザレ」のホテルを出て、バスで33km西南、人口僅か800人程だと言う海辺の町「オドビス」に向かった。
この町はローマ時代に海岸線からの適の侵入を防ごうと、全長1.5kmの城壁を築いて町を囲んだのだという。
40分程散策したが、5箇所に城壁に上れる階段があるので、その一つを上って見た。外部にはのどかな田園風景が広がっていた。壁の傍に陽射しを受けて山茶花やアロエの花が咲いていた。
町は狭い小路を挟んで、小さなみやげ物店が沢山並んでいた。その一軒で厚地の壁掛けにする綿織物の柄が気に入り、買った。
サクランボ酒(ジンジャ)が特産品だったが、時間が無くて試飲できなかった。
「オドビス」から「シントラ」に向かい、そこで「かっての王家の夏の離宮」を見学したが、私には余り興味が持てなかったので割愛したい。
再びバスに乗り、「リスボン」近郊の「ロカ岬」に向かった。
その途中で、大きな水車が立ち並ぶ光景が見えた。海からの風力を利用して発電しているのだろう。
「リスボン」に近づいたためか、郊外にも関わらず住宅地が次々と続きだした。
(次の写真は走るバスの中から撮ったので、一部にガラスの光が反射している)
岬に近づくに連れて大きな岩がごろごろとする大地が続いた。現地ガイドに聞くと、このあたりは岩石でできているという返事だった。
岬はユーラシア大陸の最西端の場所で、灯台と記念碑があるが、記念碑には詩人カモンイスの詩の一節「ここに地が果て、海がはじまる」と刻んである。この先の海の向こうを夢見て、勇者達は航海に出たのだと思った。
以前来た時も1月だったが、風が強くてゆっくりと散策などできなかったのだが、今回は風もなく20分間ほど眺望を楽しめた。ただし残念なことに西日が射していて良い写真が撮れなかった。
≪世界遺産・「トマールのキリスト修道院」≫
「コインブラ」を出たバスは、南方106km離れた町「トマール」に向かって走った。その町の世界遺産「キリスト修道院」を見学するためだ。
この修道院は、1147年にリスボンの北東、サンタレンをキリスト教の「テンプル騎士団」が戦ってイスラム教徒から奪還したレコンキスタの功績に対し、アフォンソ一世から与えられた土地に「テンプル騎士団」が建てた城砦と聖堂が始まりだった。
しかしその後、「テンプル騎士団」が禁止されると、建物は「キリスト騎士団」が引き継ぐことになり、エンリケ航海王子他王室から団長を迎えたという。
ここはポルトガル国内最大の規模を誇る修道院で、12世紀から16世紀まで5世紀にも渡って次々と増改築された。そのため建物には、各時代の建築様式が見られる。
バスを降りて歩いて行くと、オレンジ色のアロエの花の向こうに大きな石造建造物が見えて来た。これが「キリスト修道院」なのだった。私達は南門から中に入った。
木が植えられた中庭を囲んで大きな回廊が作られていた。エンリケ航海王子が増築したもので、修道士達の墓が作られているそうだ。
次に絢爛豪華な聖堂に入った。そこが最初に造営された「テンプル騎士団聖堂」なのだった。歴代聖人の絵が額に入って壁に並べられていた。
次いで天井が高く質素な細長い部屋に入った。そこが「テンプル騎士団」が禁止されてから、この修道院を受け継いだ「キリスト騎士団」の「聖堂」だった。
壁には飾りは少なかったが、天井が見事だった。良く見ると赤い十字架が書いてあった。
二階に広い場所があったが、かってはパイプオルガンが置かれていたらしい。
暫く長い廊下を歩いて行くと、修道士達の食堂があった。その傍に大きい鍋が幾つも乗ったかまどがある調理室があった。ここで最高200人近い修道士が生活していたそうだ。
小さな庭に出た。正面に今まで見た事が無いような凝った装飾を施した外壁があった。これが「マヌエル様式」で飾られた場所だった。
透かし彫りの大きい窓が造られているが、その周囲の装飾が「マヌエル様式」だと言うのだ。
上部に「キリスト騎士団」の「マルタ十字」と国の紋章が施してあり、窓の周りに船のロープ、鎖、海中の珊瑚、海草などを飾りつけてあるのだ。
また他の装飾を見ると、水の泡や南方にいる動物や植物も装飾として付け加えられているのだ。正に大航海時代に起こった建築芸術なのだろう。
この修道院の一部には、エンリケ航海王子が1420年から40年間も暮らした建物もあったそうである。
外に出て下を眺めたら、「トマール」の静かな佇まいと夕方の景色が見えた。
最後に言うと、ポルトガルでは1910~1926年の第一共和制の時期にカトリック教会と国家は分離され、1976年の共和国憲法でも政教分離を確認している。
しかし実生活では国民の90%がカトリックの信者であって、社会や文化にローマ・カトリック教会の影響は大きいらしい。本によると、近年では若者の宗教離れが進んでいると言われている。
≪漁村「アベイロ」と大学町「コインブラ」≫
ポルトガル観光の2日目は、ポルトの南方65kmの漁村「アベイロ」に向かった。
運河沿いでばすを降りて40分程散策した。
彩が豊かなタイル画が目に付いた。また小さな橋の欄干に飾ってある青銅製?の猟師の彫刻も生活観を表していた。
独特の模様を黒と白の石で描いた石畳は、かってポルトガルの植民地だったマカオの広場で見たのに似ていた。
ガイドブックによると、1173年、リスボンの守護聖人サン・ヴィセンテが2羽のカラスに守られてリスボンに運ばれたことから、死とカラスを意味する黒、彼の純粋性を象徴する白をリスボンのシンボルカラーにしたそうだ。
橋に近い傾斜のある路地を昇るとアズレージョが美しい教会があった。路地では屋台を出して、女性達がちょっとした手作りの作品を観光客向けに売っていた。のどかな田舎の町の雰囲気を感じた。
バスが駐車している運河には、沢山の観光クルーズボートが停留していた。
バスに戻り、東南61kmの内陸の町「コインブラ」を目指して1時間走った。
「コインブラ」はポルトガル第三の都市で、ヨーロッパで最古の大学の一つとして有名な「コインブラ大学」が丘の上に立つ町だ。
この大学は1290年に創設された時にはリスボンにあったが、その後1537年に現在地に落ち着いたという。
1911年にリスボン大学ができるまで、「コインブラ大学」は、国内第一の大学として学問研究の中心だった。
男子学生は黒いマントに身を包んで町を歩いていたらしい。
大学の古い図書館が有名だが、外部は良いが内部の写真撮影はできなかった。金をふんだんに使ったゴシック調の装飾がされていて、天井まで古書がぎっしりと積み上げられていた。今も手続きをすれば借りることができるそうだ。
ポルトガルがブラジルの征服を本格的に開始したのは1530年以降だ。初めはブラジルから砂糖を大量に運んでいたが、やがて内陸の金鉱を発見してからは、大量の金をポルトガルに運ぶことになった。この図書館をごてごてと装飾してある金も、ブラジルから搾取したものだとガイドが説明した。
図書館の前が下町を望む展望台になっていた。
「モンデゴ川」がゆったりと流れ、オレンジ色の瓦屋根が乗った町並みが美しかった。
大学から急な階段を下りる途中に、「ファド」を聴かせる店があった。男子学生が出て来て「コインブラ」を歌った。
実は40年近い前になるが、シャンソン歌手・岸洋子の歌うこの歌を私が気に入り、それ以来ずっとコインブラの町をいつの日か訪れたいと思って来たのだった。その思いが今回の旅行になった訳だが、たまたま立ち寄った店でその歌を聴く事ができて、すっかり感激してしまった。
尚帰宅後読んだ本に、同じ「ファド」でもリスボン当たりで歌われているのとコインブラで歌われているのとは少し異なると書いてあった。コインブラの「ファド」は男性、(それも学生や大学卒業生が大半らしい)が、優しく歌い、テーマも女性を愛したり、懐かしんだり、女性との別れを歌ったりするのが多いらしい。それに比べリスボンでは、男女の歌手がいて、歌も豪快なものから人生や運命を悲しむものまで様々だそうである。
大学の下町地区も世界遺産になっているそうで、急な階段を下り切ったところに広がる商店街を20分程散策した。菓子店に昔「カステラ」と共にポルトガルから日本に伝えられた「金平糖」が売られていたが、見ると角が無かった。
頭に荷物を乗せて歩いている女性を見かけた。「アベイロ」のタイル画にも描かれているが、ジブラルタル海峡のすぐ南はアフリカ大陸なので、古くからの影響なのかも知れない。あるいは現在も、旧植民地だった国からの移民が伝えているのかも…
自分の目で見たかった「コインブラ」を見られて、嬉しかった。
≪初代国王の誕生の地「ギマランイス城」≫
昼食後、「ポルト」の北東45kmにあるギマランイスに向かった。初代のポルトガル国王「アフォンソ・エンリケス一世」が生まれた城「ギマランイス城」を見学するためだ。
町の入り口に「ここにポルトガル誕生す」と書いてあった。今は北部の静かな町だが、バスが止まったところにあった市役所は歴史を感じさせる建物だった。街中の古い教会も目立っていた。
「ギマランイス城」は廃墟になっていたが、往時を偲ぶことができた。
城の城壁の一部に王のレリーフが嵌め込まれていた。また傍に小さな教会が残されていて、その入り口に王が誕生した後、多分洗礼を受けただろうと思われる水盤が残っていた。
また、「ノッサ・セニョーラ・ダ・オリベイラ教会」はロマネスク様式とゴシック様式が混ざった古い教会で、その前には1340年にジブラルタル海峡の制海権を巡ってムーア軍と戦い勝った記念碑が造られていた。1342年に造られたという。
教会前の小さな広場を囲む古い家並みは、木組みでできた美しいものだった。
(ネットで調べた「ムーア人」とはー
ローマ時代に北西アフリカの住民(ベルベル人)をマウハリムと呼んだことに由来する。マウハリムはフェニキア人の言葉で「西国の人」を意味する[要出典]。
7世紀以降には北アフリカのイスラム化が進み、イベリア半島に定着したアラブ人やベルベル人は原住民からモロと呼ばれるようになる。次第にモロはアラブ、ベルベル、トルコを問わずイスラム教徒一般を指す呼称となり、レコンキスタ以降は再び北西アフリカの異教徒住民を指すようなる。)
さらにギマランイスから25km西北の町「プラガ」に行った。祈りの町といわれる「プラガ」のカテドラルに向かった。
ここは4世紀にムーア人に破壊された教会の跡地にアルフォンソ一世の両親が12世紀に建てた教会だという。
≪ドウロ川クルーズ≫
私達は「サンデマンぶどう酒製造所」見学後、目の前の船着場からチャーターした中型船に乗り込み、ドウロ川を大西洋とは反対側に向かって1km程上り、Uターンしてまた船着場に戻った。
その間、船は、最初に「ドン・ルイス一世橋」の下をくぐり抜けた。
この橋は、1889年のパリ万博に合わせて建造された「エッフェル塔」(高さ312.3m)の建設者ギュスターヴ・エッフェルの弟子の一人、テオフィロ・セイリグが設計し、1886年に完成した二重橋である。
上層部は395mの長さがあり、下層部は174mの長さになっていて、現在上層部はメトロと歩行者が、下層部は自動車と歩行者が通行している。
下船後、私達は下層部を歩いて渡ったが、堅牢でしかも美しい橋だった。
その先にも2本の橋があったが、様式が違っていて興味深かった。
川を挟んで南北の町の雰囲気はまるで違っていた。
≪エンリケ航海王広場≫
「ドウロ川」クルーズを終えてから、バスで「エンリケ航海王」広場に行った。
彼は、1394年にアヴィス王朝を開いたジョアン一世の第5子に生まれた。「エンリケ航海王」と呼ばれるようになったが、自分では航海をしなかった。しかし、探検家の航海士たちのスポンサーとして活躍し、1419年には、モロッコ沖の「マディラ諸島」を発見して植民地とする事に貢献した。
また、1420年にキリスト騎士団の指導者となり、その莫大な資金をキリスト教の布教と、当時まだ未知だったアフリカ西岸を航海させるスポンサーになって、引き続きシオラレオーネ当たりまでの大西洋航海の道を開いたと言われている。
1460年に彼が死んだ後、ポルトガルが喜望峰を回ってインド航路を開発し、香辛料や莫大な金を得る事になったその基盤を作った王子なのである。
銅像は傾斜地の広場の真ん中にあった。傍に赤と白の山茶花が咲いていた。
≪発見のモニュメント≫
ついでに観光最後の日に行ったリスボンの「発見のモニュメント」に触れたい。
首都リスボンの大西洋に流れ込む大河、「テージョ川」の川岸にある巨大建造物が、1940年に国際博覧会を記念して建てられた「発見のモニュメント」である。
しかし、当初の物は軟弱な造りだったため、エンリケ航海王子の500回忌を記念して1960年にコンクリート製に造り直された。
この記念碑は高さが52mあり、左右に30名の大航海時代を支えた英雄達が彫刻されている。
先頭が「エンリケ航海王」と言われているが(近年、3人目ではないかと言う疑問が出て来ているらしい)、その他にインド航路を発見した「ヴァスコ・ダ・ガマ」、喜望峰を回りインド洋に到達した「バルトロメウ・ディアス」、ブラジルを発見した「マゼラン」、日本に1549年来てキリスト教を伝えた「フランシスコ・ザビエル」、「アルフォンソ5世王」、科学者、芸術家、船長、歴史家たちである。これは正にポルトガルの過去の栄光を示す碑なのである。
と同時に、天文学、航海術、船舶建造学、地球科学、海洋学などの面で、人類の科学技術の開発発展に確かな足跡を残した記念碑でもあるのだが。
25年前に私が初めてリスボンを訪れた時は、この碑を見たいがためだった事を思い出すが、「発見された」側から見ると、太古の昔からそこで人々は生活していたのに、世界の中心はここだと言われているような変な気がしたのを覚えている。
モニュメントの背後の地面に、世界地図と発見年のモザイク画が描かれているが、1960年に南アフリカ共和国が贈呈したものである。
日本が「発見された年」として1541年とあるが、これはポルトガル船が豊後に漂着した年である。
1543年のポルトガル商船の種子島漂着は記されていないが、この時、日本に初めて鉄砲が伝えられている。
この日は雨が降っていて、傘を差した大勢の観光客が次々にやって来るので、写真を撮るチャンスがなかなか掴めず苦労した。
成田からフランクフルト行きの機内で隣席だった女性は、リスボンで「大航海時代の遭難船」を研究しているという人だった。
彼女の話によると、5隻に1隻は途中で遭難したらしく、その現地調査もしているのだそうだ。たまたまそんな話を聞けて幸運だった。
旅行1日目は、ポルトガルへの直行便がないため、12時に全日空機で成田を出発し、先ず中継地であるドイツのフランクフルト空港を目指して12時間15分飛んだ。機内では映画「ダイアナ」他を観た。彼女の《死ぬ前の2年間の真実》だという映画は、ダイアナの苦悩と恋が描かれていて興味深かった。
ドイツとの時差は8時間なので、到着したのは16;15だった。
フランクフルト空港では、ポーランドの「ポルト」行きのルフトハンザ・ドイツ航空機の出発時刻まで4時間50分待った。
21;05発の中型機に乗り換えた頃には、眠気が襲って来て、どうにも起きていられない。それもそのはずで、日本にいたらとうに明け方なのだから。
飲み物とサンドイッチが出たらしいが、全く覚えていない。
首都「リスボン」から300km北にある「ポルト」には、現地時刻で22;50に着いたが、日本との時差は9時間に増えたので、日本時刻では朝の7;50ということになる。
スーツケースを受け取って送迎バスに乗り、ホテルに着いたら現地時刻23;45だった。1日目の24時間+9時間=33時間という本当に長い1日が終りかけていた。
部屋の鍵を受け取ってシングルルームに入ったがべっどが大きい。その部屋は、2つのベッドを合わせたとても洒落たダブルルームだった。
≪「ポルト」の世界遺産「歴史地区」≫
2日目は、7時のモーニングコールで起こされた。朝食を済ませた後、バスで世界遺産「ポルト歴史地区」に向かった。
ポルトは「ドウロ川」の北岸の丘隆地に築かれた町だが、ここは遥か昔のローマ時代に「カーレ」州に属する「ポルトゥス」(港)だったので、「ポルトゥス・カーレ」つまり「ポルトガル」の語源となった町だそうだ。
先ず行ったのは、今は使われていないという「サン・レーム駅」だった。
小さい駅だが、外観の白いタイルに青色で絵が描かれた「アズレージョ」が特徴の美術品のような駅だった。
ホームに行く階段があったので、降りて1番ホームに行き、「サン・レーム駅」の後ろ側も見た。丁度そこに列車が入って来た。ヨーロッパの駅は、このように自由に出入りができるところが多いようだ。恐らく切符は、車内でチェックされるのだろう。
次に行ったのが現在使われている「サン・ベント駅」だ。
1930年に製作されたポルトの歴史を描いた絵柄タイル、「アズレージョ」が駅の待合室の壁を豪華に飾っていた。
次に「ポートワイン」のワイナリーの一つである「サンデマンぶどう酒製造所」に行った。
この町は、ローマ帝国が衰退した後、8世紀にイスラム教徒に支配されたが、やがて11世紀に国を取り戻した貴族がフランスから葡萄の苗を移植して美味しいぶどう酒「ポートワイン」の生産地になって行ったのだという。「ドウロ川」が製造所の目の前に流れているので、重いワインを運搬するのに適した場所でもあり、現在、いくつもの伝統的なワイン製造所があるらしい。
一通り製造工程を見学した後、「ポートワイン」の赤と白を試飲した。今まで飲んだ事が無い濃厚な味で格別に美味しかった。
しかし、ぶどう酒は重いし、割れ易い。手荷物にできないので、私は買うのを止め、日本で同じものが見つかれば買うことにした。
最後の写真は「サン・ベント駅」の前で焼き栗を売っていた女性だ。どこの町に行っても焼き栗屋があったが、この栗は大きくて美味しい栗だった。
≪無事帰国した≫
予定通り、16日夕刻、ポルトガルから無事、成田空港に帰国した。
そのまま国際線に乗り継いで新千歳空港に20;50頃到着し、家まで戻った。
機内のアナウンスによると、新千歳空港の気温はー9℃とあったので覚悟をしていたが、やはりかなり寒かった。
ポルトガルは気温が6℃~18℃と温かかったので、この差はこたえる。
(ポルトガルのオドビスでは、北海道で4月初めに咲く「雪の下」が咲いていた)
スーツケースがいつもよりも重いので、JR駅を降りてからタクシーに乗った。旅行中雪はほとんど降らなかった様ですんなりと玄関に入る事ができた。
しかし9日間、全く火の気が無かった家は冷え切っていて、居間の寒暖計を見たら6℃。慌ててストーブに火をつけたがなかなか温まらない。
翌朝、心ばかりの土産を近所に差し上げながら話を聞くと、雪は降らなかった代わりに、毎日冷え込んでいたという。
今のところ室内はまだ十分には暖まっていない。
振り返ると、今回の旅行は美味しい食事と天候に恵まれた。一度も体調を崩すことも無く、元気で楽しい旅ができた。1年ぶりの旅友との再会も楽しかったし、彼女とはお互いに写真撮影したりして助け合った。
また、今回ドイツのフランクフルトまで利用した航空機は全日空機だったが、機体が新しくゆったりとしていた。座席を倒すと後方にではなく、前方に座面がせり出す形式だったので、前に取り付けてあるTV画面が動かない。それでとても見やすかった。食事も美味しくなかなか良かった。窮屈な座席では疲れが溜まるばかりだが、今回はエコノミー席でも本当に快適だった。
初めて持参した電子辞書は、買い物時に商品に書いてある文字を調べたりするのに活用できた。また、「美味しかった」というポルトガル語が「ご馳走さん」という日本語にそっくりなことを発見したりして面白かった。さらに乗り継ぎの待ち時間などに、四文字熟語を勉強するなど活用できた。
新年の挨拶に書いたが、いよいよ今日、午後のJALで新千歳から成田空港に飛び、成田のホテルで1泊して、明日、昼のANAで「ポルトガル」に向けて出発することになった。旅行は8日間だが、私は9日間になる。
今回は、一昨年の12月に「エジプト旅行」で仲良くなった友人と同行するのだが、成田のホテルで落ち合い、明朝一緒に成田国際ターミナルに向かう。
彼女とは1年振りに会って一緒に旅をするのを凄く楽しみにしている。
しかし、旅行中のホテルは、それぞれ気を使わずにゆっくりとしたいので、シングルの部屋を予約した。
当地の一昨日の最低気温はー18℃だったが、今朝は一転して0℃と温かい。
大雪で飛行機が欠航した場合の保険が見つかったので、念のために掛けて置いたが、今日は欠航の心配はなさそうなのでホッとしている。
日本から「ポルトガル」への直行便がないので、今回は往復、ANAでドイツのフランクフルト空港まで行き、そこでルフトハンザ・ドイツ航空機に乗り継ぎ、ポーランドの北の玄関口「ポルト」空港に降りる事になる。
ところが、フランクフルトでの待あわせ時間が5時間近い事、そして帰りは南の玄関口「リスボン」から出発するが、帰りもフランクフルトでのANA便への待ち合わせ時間は4時間20分だ。
この待ち合わせ時間をどう過ごすかだが、今回は初めて電子辞書を持参するので、色々と楽しみながら時間を潰せそうだし、図書館で借りた新書版の本も持って行く。
結果的に観光する時間は正味5日間しかないが、それだけ「ポルトガル」という国は、ヨーロッパの最西端に位置する日本から遥か遠くの国なのである。
以前に行った時も1月だった。この時期は少し底冷えがする事があるので、服装も重ね着をし、薄いコートも持参する。雨が降りやすい季節なので、傘も忘れてはならない。
為替相場は、これまでの所、徐々に円が安くなって来ていたが、一昨日あたりからドル安傾向が見られるらしい。
「ポルトガル」はEUに加盟していて、通貨はユーロだが、私は以前円が高かった頃に買ったユーロやドルがまだ残っているので、それを持参する。
成田への帰国は、16日の夕刻だ。私が新千歳に戻る頃は、かなり遅くなる。
留守中、大雪が降らないことを祈りながら出かけて来たい。
それまでブログを休むので宜しく。
《観光最終日は、ロンドン市内観光②》
その後、11時半から始まる「バッキンガム宮殿」の衛兵交替式を見に行った。
この宮殿は1703年にバッキンガム公爵邸として建てられたが、1837年のビクトリア女王の統治時に王家の居城になった所だ。(正面広場にある金色の展死像はビクトリア女王記念碑)
人が大変多い中、衛兵の交代式の前半部分、つまり交代する側の衛兵の行進だけを見た。これも私が前に来た時に見た場所と全く違っていて、肝心の交代式を見ることができず残念に思った。
昼食後は「テムズ川クルーズ」をした。
「ウエストミンスター」から「ロンドン塔」までという短時間の乗船だったが、私には初めての経験で、『ビックベン』の時計塔がある『国会議事堂』の壮大な建造物全体を真近に見られて良かった。
エリザベス女王在位60年祝賀のためだと思うが、河畔に若き日の女王一家の巨大な写真が展示されていた。
船を下りて傍の『ロンドン塔』に入場した。
ここは、1066年にフランス・ノルマンディー公ウイリアム1世がイングランドを征服した後、20年かかって外敵を防ぐために建てた要塞だった。
やがて国王の宮殿となったが、1282年からは身分の高い政治犯の監獄ともなり、テムズ川から船に乗ったまま扉の内側に着いた者は二度と生きて出られなかったらしい。
今でもロンドン塔の中庭の一角に処刑の場所だったところがあり、王族で死刑になった人達の名と執行年が表示されていた。
幾つかの建物があるが、世界最大のダイヤモンドをあしらった杖や宝石でちりばめられた王冠などが展示されている場所がある。以前はその前では立ち止まらないようにと注意する係官がいたが、今回入って見ると展示物の前だけ『歩く歩道』がついていた。これでは絶対に立ち止まってじっと見ることはできない。
テムズ川に架かる『タワーブリッジ』(1894年に建設された美しい跳ね橋)は、『ロンドン塔』内の通路から最も近くに見ることができたので、最後にカメラに収めた。
その後2時間の自由時間があったが、私は『ナショナルギャラリー』に行き、レオナルド・ダ・ビンチ、ボッティチェルリ、ミケランジェロ、ルノアール、ラファエロ、ブリューゲル、ルーベンス、モネなど、65もある展示室を回ってイギリスが所有する名だたる画家達の数多い貴重な絵を鑑賞した。
部屋ごとに案内人がいて、画家の名を言うと案内してくれた。今回は旅行の最後にこんな時間が持てたことが嬉しかった。
因みにここも入場料は無料。ただ、日本語のフロア案内を1パウンド(131円)で買った。
これで英国周遊10日間の観光は全て終わった。
翌日、ロンドン・ヒースロー空港発13;30のブリティッシュ・エアウェイズで帰国の途に着き、成田空港には11時間35分後の6月12日9;05に到着した。私は14;45発のJALで北海道新千歳空港に乗り継ぎ、16;25着陸した。
今回の旅も短いながらも有意義な内容だった。
それに前回から間を置かずに行ったのに、何事も無く、元気で無事に帰宅することができて幸いだった。同行した友人にも感謝している。
今回も長い報告になったが、私のブログを訪れた方々、コメントを書いてくれた方々にお礼を言います。
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《観光最終日は、ロンドン市内観光①》
『ストーンヘンジ』を観光後、バスは一路140kmの道のりを最終目的地の東北東のロンドンに向かって走った。ホテルはケンジントン地区にあり、スーパーマーケットも傍にある賑やかな場所だった。
観光7日目は、ロンドンの市内観光だった。
朝バスで、先ず「リージェンツ・パーク」の南にある『クイーンメアリー・ローズガーデン』に行った。
土地は王室の土地なので、門に紋章が付けてあった。
中は宿根草の花壇が少しあるが多くは薔薇の花壇だった。今まで見て来た庭より薔薇が沢山植えてあったが、花が終わって枯れた薔薇もそのままになっていたので、手入れをあまりしていないように思われた。
私の場合は、終わった花殻は全部切って、株が疲れないように、また見苦しくないようにしているのだが、そこではあくまでも自然のままの「 natural garden 」を目指している様だった。
1つ参考になったのは、つる薔薇を高い位置に太いロープを張って誘引している事だった。こんな簡単な方法でつる薔薇を這わせるのも良いな~と思えた。
ガーデン内に滝が造ってあったし、リスが薔薇の中をちょろちょろ遊んでいた。
次は『大英博物館』の展示物鑑賞だった。
行く直前のTVで、大英博物館を2時間で見る回り方をやっていたが、今回は現地ガイドに連れられて何と僅か38分の見学に過ぎなかった。
エジプト、メソポタミア、ギリシャの遺跡から出土した貴重な展示品と、出口にあったエジプトから出土した『ヒエログリフ』(古代のエジプト文字など3種類の文字で書かれた墓碑)を駆け足で見た。
私は以前に個人で2日間行ってじっくりと見ているのだが、大英博物館は無料なので、「ちょっと覗いただけ」という旅行会社のやり方を疑問に思った。
(最後の写真は、ギリシャのパルテノン神殿から持って来たレリーフの中の一部、三角形の屋根下部分のレリーフだ。30年以上前からギリシャが返還を要求しているが実現していない)
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《世界遺産、ストーンヘンジ》
「バース」を出たバスは田舎道を58km東に向かって走った。着いたところが有名な『ストーンヘンジ』だった。
人が土を盛り上げて作ったような小さい丘が幾つかある以外は広大な平原に『ストーンヘンジ』があるだけなのだ。少し違和感を感じてしまった。
次々と色々な人種の人達がやって来たが、周囲にはロープが張られているので、観光客はその外周を巡るように歩いて、かなり離れた場所から見るのだ。
中には歩道に紙を広げて絵を画いている人もいた。
ガイドブックによると、ドルイド教信者が今でも聖地にしているため、彼らの祖先が造ったのではと思われていたが、研究の結果、今から5000年昔の新石器時代に造られた事が分かったと言う。
最初は紀元前2600年前に重さが4トンもあるブルーストーンが385km離れた場所から幾つも運ばれ、さらにそれから200~300年後になると、30kmも離れた場所から25トン以上ある茶色のサーセン石が運ばれて今のような形になったらしい。
誰が何の目的で、どのような手段でそんな大昔にこの石組みを作り上げたのだろうか。
しかし紀元前1600年頃からは、石は建設用石材として持ち去られたりしていた。また100年前までは巨石を砕いて道路建設にも使われたらしい。
そこで1918年に国が所有して調査と保護が始まり、1986年には世界遺産に指定された。
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