5日目は5時に起きてまだ夜明け前の5;45にバスで昨日見た「アンコールワット」に向かった。朝日が昇る光景を鑑賞するためだ。
早朝にもかかわらず係官が数人出勤していて、次々とやってくる人達のアンコールパスを確認していた。
私たちは西側の入り口から参道を通り、思い思いの場所で中央寺院の東に日が昇るのを待った。
私がここならいいなと思ってカメラを持ち、立っていたら、後から私の直前に数人の人がやって来て邪魔になる。仕方がないので、そのたびに少しずつ場所を変えた。
やがて次第に空が明るくなって来た。①
後ろの城壁を振り返ると、日の出を待つ大勢の人がいる。②
いよいよ陽が昇り始めたが、残念ながらその場所はアンコールワットから外れていた。もう移動する時間がないので仕方なく陽が昇り切る前に数枚写した。③
① ②
③
前日、アンコールワットの奥の柱に日本人、森本右近大夫が書いたという文字があった。1632年、彼は仏像4体を奉納するためにアンコールワットを訪れ、それを落書きの様に記録したらしいが、今では日本人初の足跡となっている。当時江戸時代の初期は、東南アジアを「南天竺」、ここを「祇園精舎」と考えていたようだ。
ホテルに戻って朝食を食べ、少し休憩してから9時に「ロリュオス遺跡」の観光に出かけた。
途中の町には、朝の喧騒があった。④
遺跡は町の中心から東に13km程の場所にあり、9世紀初めにアンコール王朝が誕生してから1世紀の間、王都だったところである。
9世紀に築かれた遺跡だというが、修復しながら良く保存されていた。⑤⑥⑦⑧
④ ⑤ ⑥
⑦ ⑧
ところで遺跡近くに小さい子供が4人並んでいて、私たちが行くと、日本語でまるで歌を歌う様に、「おにいさん、かっこいい。おねえさん、かわいい。」と何度も繰り返すのだ。見ると箱が置いてある。お金を要求しているのだ。⑨
帰りに通った時、全員に手持ちの飴を渡して写真を撮らせてもらった。全員裸足だが、皆いい顔で写っていた。
私を見ていたツアーの男性が、「お金なら誰かに巻き上げられるけど、飴なら自分の口に入るから、子供にとっては却って嬉しいかも知れないね。」と言ってくれた。
⑨
カンボジアを訪れる外国人で1番多い国は韓国で、2位が日本、3位がアメリカらしい。どこへ行っても売り子(大人だけでなく、裸足の6~7歳の子供も多い)は、私たちに、「シルクスカーフ、1枚1000円」「絵葉書、10枚1ドル」等と日本語で呼びかける。
どこで韓国人と日本人を見分けるのか分からないが、生活のための彼らの必死な気持ちが伝わって来る。しかし、その都度お金を渡す訳には行かないのだ。
内戦の地雷で足を失った中年男性たちのグループが、砂ぼこりの舞い上がる道路脇で弦楽器や打楽器で演奏していた。韓国民謡の「アリラン」を演奏していたが、私たちが近づくと日本の「さくら」を演奏し出した。帰りも同じ道を通ったので、私は手持ちの2ドルを差し出した。
(ガイドに聞くと、貧しい家庭の場合、家族数人の生活費は1日0.5~1ドル程度だという。だから1か月3千円位で普通に暮らしているそうだ。先生や警察官の月給は50ドルで良い方だとも言っていた)
昼食を食べたホテルのレストランで、給仕の若い男性が料理に出た野菜の日本語名を教えて欲しいという。彼は日本語をもっと勉強して、人生に役立てたいと話していた。
食後2時間ほどホテルで休んでから、「バンテアイ・クレイ遺跡」に行った。
ここは7世王によってヒンズー寺院から仏教寺院に改修され、王国内の様々な争いを裁く場所だったらしい。⑩
⑩
夕方、「プレ・ループ遺跡」に夕日の鑑賞に行った。彫刻は見られなかったが、急な石段を上ってから⑪西側に回ると、広々とした熱帯雨林が広がり、夕日を待つ人で溢れていた。
高い所から森に沈む太陽を見るだけよりはもっと色々な写真を撮りたかったので、私は早めに降りて下で数枚、写真を撮って見た。⑫⑬
(遺跡の警備員の男性が、バッチを外して私にプレゼントをするという。慌てて断り、傍を離れた。多分、売りつけようとしたのだろうと思う)
⑪ ⑫ ⑬
早朝にもかかわらず係官が数人出勤していて、次々とやってくる人達のアンコールパスを確認していた。
私たちは西側の入り口から参道を通り、思い思いの場所で中央寺院の東に日が昇るのを待った。
私がここならいいなと思ってカメラを持ち、立っていたら、後から私の直前に数人の人がやって来て邪魔になる。仕方がないので、そのたびに少しずつ場所を変えた。
やがて次第に空が明るくなって来た。①
後ろの城壁を振り返ると、日の出を待つ大勢の人がいる。②
いよいよ陽が昇り始めたが、残念ながらその場所はアンコールワットから外れていた。もう移動する時間がないので仕方なく陽が昇り切る前に数枚写した。③
① ②
③
前日、アンコールワットの奥の柱に日本人、森本右近大夫が書いたという文字があった。1632年、彼は仏像4体を奉納するためにアンコールワットを訪れ、それを落書きの様に記録したらしいが、今では日本人初の足跡となっている。当時江戸時代の初期は、東南アジアを「南天竺」、ここを「祇園精舎」と考えていたようだ。
ホテルに戻って朝食を食べ、少し休憩してから9時に「ロリュオス遺跡」の観光に出かけた。
途中の町には、朝の喧騒があった。④
遺跡は町の中心から東に13km程の場所にあり、9世紀初めにアンコール王朝が誕生してから1世紀の間、王都だったところである。
9世紀に築かれた遺跡だというが、修復しながら良く保存されていた。⑤⑥⑦⑧
④ ⑤ ⑥
⑦ ⑧
ところで遺跡近くに小さい子供が4人並んでいて、私たちが行くと、日本語でまるで歌を歌う様に、「おにいさん、かっこいい。おねえさん、かわいい。」と何度も繰り返すのだ。見ると箱が置いてある。お金を要求しているのだ。⑨
帰りに通った時、全員に手持ちの飴を渡して写真を撮らせてもらった。全員裸足だが、皆いい顔で写っていた。
私を見ていたツアーの男性が、「お金なら誰かに巻き上げられるけど、飴なら自分の口に入るから、子供にとっては却って嬉しいかも知れないね。」と言ってくれた。
⑨
カンボジアを訪れる外国人で1番多い国は韓国で、2位が日本、3位がアメリカらしい。どこへ行っても売り子(大人だけでなく、裸足の6~7歳の子供も多い)は、私たちに、「シルクスカーフ、1枚1000円」「絵葉書、10枚1ドル」等と日本語で呼びかける。
どこで韓国人と日本人を見分けるのか分からないが、生活のための彼らの必死な気持ちが伝わって来る。しかし、その都度お金を渡す訳には行かないのだ。
内戦の地雷で足を失った中年男性たちのグループが、砂ぼこりの舞い上がる道路脇で弦楽器や打楽器で演奏していた。韓国民謡の「アリラン」を演奏していたが、私たちが近づくと日本の「さくら」を演奏し出した。帰りも同じ道を通ったので、私は手持ちの2ドルを差し出した。
(ガイドに聞くと、貧しい家庭の場合、家族数人の生活費は1日0.5~1ドル程度だという。だから1か月3千円位で普通に暮らしているそうだ。先生や警察官の月給は50ドルで良い方だとも言っていた)
昼食を食べたホテルのレストランで、給仕の若い男性が料理に出た野菜の日本語名を教えて欲しいという。彼は日本語をもっと勉強して、人生に役立てたいと話していた。
食後2時間ほどホテルで休んでから、「バンテアイ・クレイ遺跡」に行った。
ここは7世王によってヒンズー寺院から仏教寺院に改修され、王国内の様々な争いを裁く場所だったらしい。⑩
⑩
夕方、「プレ・ループ遺跡」に夕日の鑑賞に行った。彫刻は見られなかったが、急な石段を上ってから⑪西側に回ると、広々とした熱帯雨林が広がり、夕日を待つ人で溢れていた。
高い所から森に沈む太陽を見るだけよりはもっと色々な写真を撮りたかったので、私は早めに降りて下で数枚、写真を撮って見た。⑫⑬
(遺跡の警備員の男性が、バッチを外して私にプレゼントをするという。慌てて断り、傍を離れた。多分、売りつけようとしたのだろうと思う)
⑪ ⑫ ⑬