花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

伯母の家の仏壇を始末

2007年11月26日 | 高齢期の生活全般
 昨日行った時に伯母から、奥の仏間にある年代物の立派な仏壇を始末するために、お寺さんにお経を上げて貰って仏壇の魂抜きをする必要があるのだと聞いていたが、先程、電話が来て、今日、無事に済んだといっていた。
 そのお布施はどの位包むと良いかが気になったので、数日前に若い僧侶に聞いたら、「お気持ちで結構です。」と言われたと言って、伯母は困っていたが、幾ら包んだのだろうか。
 仏壇は後から仏壇店が引き取り、お焚き上げをするそうだ。こちらにもお金がかかると言っていた。

 私のような不信心の物には良くわからないが、お骨は納骨堂にあるので、家の仏壇は家族にとって便宜的に設置した祭壇だと思っていたのだが、そうではなく、面倒なものなのだと初めて知った。
 でも、伯母はこれで家の片づけは終えたことにして、まだ残っている衣類や家財道具、寝具類の片づけは、一切、業者に委託すると言っていた。建ててから50年近くになるいわゆる農家の本家の大きな家屋を処分するには、そんな方法しかないのだろうと思う。
 モルタル作りの大きな物置も、農作業道具と共に潰して処分してしまうのだろう。日本の農家の縮図の一つに思えてくる。
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一週間振りに伯母に会いに行く

2007年11月25日 | 高齢期の生活全般
 今日は朝から晴天なので、急いで洗濯を済ませ、リンゴジャムを作って伯母のホームに出掛けた。
 たまたま、伯母の妹さん(多分80才位だと思う)も来ていて、2時間ほど3人でお喋りをした。

 妹さんは普段から赤い色の洋服を好んで着る方なのだが、今日も真っ赤なトレーナーに、コートも真っ赤だった。彼女の「誰にも遠慮せずに、自分の着たい物を着る」という考え方は今の高齢者には珍しく、私は自分の意志をしっかり持っている素敵な人だと思っているのだ。
 色々な話をしたが、中でも特に「高齢者には、健康とお金が大切だ。それさえあれば、子どもや人の世話にならずに済む。」と言っていた言葉が記憶に残った。
 私も伯母にはよく、「現代は一番大切なのは命、二番目はお金だよ。」と言っている。これからの高齢者は、自分の意志で自由に使えるある程度のお金がなければ、ヘルパーさんを頼むことも、適当な施設に入ることもできないからだ。子どもは大抵、自分の生活で精一杯だから、高齢者自身がしっかり金銭管理をする必要があるのだ。

 伯母は旅行の疲れはほとんど出なかったらしく、今は雪が降ったので、毎日施設の階段を上り下りしたり、各階の長い廊下を歩き回ったりしているのだという。
 私には伯母が前より元気になった様に見えて嬉しかった。それで「今度は忘年会に、何処かへ出掛けようか。」と誘ってみた。

 ひとしきりお喋りをしてから伯母と別れ、同じ町にいる娘の所へ行って一緒に寿司屋に行き、ランチを食べながら話をした。
 娘からは、一昨日、韓国の俳優、パク・シニャンが夕張に来たので、ファンミーティングに行って来た、という話を聞かせて貰った。私が韓国ドラマを見る様になってから、娘も見るようになったのだが、パク・シニャンのファンだったのだ。
 彼は夕張を励ますために自ら私費で来日し、自分が出演した映画を持って来て、無料で上映もしたそうだ。娘の話では、モスクワの演劇学校に留学するなど、韓国の俳優としては異色の人なのだと話してくれた。会場には本州からも女性ファンが沢山、駆けつけて来ていたらしい。
 
 それから食品スーパーで買い物をしたのだが、つい今日は自分の物の他、娘にも色々な食材を買ってしまったので、それを別れ際に渡した。
 元気に、また明日からの仕事を頑張って欲しいという親の願いが伝わったかな、と思いながら、日没を眺めながら家に急いだ。
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伯母に写真を送る

2007年11月19日 | 高齢期の生活全般
 昨日は雪がちらつく中、車で伯母を送ったのだが、今朝カーテンを開けてびっくり。気温は氷点下7℃で世界が真っ白くなっていた。
 朝日が昇ったら直ぐに雪は溶けるだろうと思ったが、気温は一日中零下のままで、ついに氷も薄雪もそのまま残り、富士山の5合目より寒い一日だった。やはり北海道だとしみじみ思った。

 昨夜、伯母から改めてお礼の電話があったが、その時、老人ホームの人達から、「6日間も居なかったので心配していたよ。」と言われた事、「旅行に行っていた。」と話したら驚かれた、という話しを聞かされた。
 それで私は、伯母の旅行の説明が、他の人達に良く分かるように、急いで写真をプリントして送ろうと決意したのだ。

 今朝、プリンターで印刷開始。前に色調が変だったのに不思議なことに直っていて、伯母が写っている旅行の写真21枚と、先週、伯母の家の庭で撮した写真4枚をプリントした。
 こちらは、伯母が精魂込めて育て、真っ赤に色づいたドウダンツツジ、真っ赤な実を一杯つけた梅もどき、真っ白に咲き誇っていた菊、大きく育ったシャクナゲの木の傍にそれぞれ伯母を立たせて、シャッターを押したものだ。
 その庭も年末には人手に渡るので、私はどうしてもそこで伯母を撮してやりたかったのだ。

 急いで郵送したので、明日には伯母に届くだろう。今から写真を見た伯母の電話が待ち遠しい気分になっている。

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先程、無事に帰宅

2007年11月18日 | 「北海道内旅行」登別・定山渓・洞爺・函館・道東・三笠・旭川・道北・奥尻島他
 14日~17日迄3泊4日で伯母を伴って参加した旅から、先程(23時半)無事に帰宅した。

 今回は4日間共晴天に恵まれ、雪を抱いて光り輝く富士山を駿河湾でフェリーの上からと、5合目までバスで登って心行くまで鑑賞できた。(写真①)
 また、北海道の紅葉は一気に色が変わる場合が多いが、愛知県の香嵐渓(写真②)、山梨県の河口湖畔(写真③)他で本州の徐々に色を染めていく美しい紅葉を堪能したり、伊豆の浄蓮の滝、三保の松原、箱根の関所跡や長野県の諏訪大社を見学したりと、本当に伯母と一緒の思いでの多い旅ができた。
 ① ②


 ③ ④


 また、木曽山脈に添って下った所での妻籠宿散策(写真④)では、観光客が溢れていたがタイムカプセルに入った様な感じを受けた。
 柿や蜜柑がたわわになっている様子や軒下の干し柿の風情などに、北海道では見ることができない伝統的な日本人の生活を感じる事ができた。
 さらに標高1500mの長野県茅野市車山高原温泉街から見た2530mの蓼科山の美しさ(写真⑤)、険しい木曽山脈の雄大さを間近に見たことも貴重な経験だった。

 ⑤

 しかし、腰の曲がっている伯母には思っていた以上に歩くことが難しく、私が常に腕を支えながら、ある時は伯母の身体を引きずるようにして歩いた。(伯母の体重が40kg以下だった事が、今回、私には幸いだった) 後半、腰が痛いし足が前に出ないと情けない顔をする事もあったが、時々休ませながら、それでも、ほとんどの見学場所をみんなの最後になりながらも、伯母はよく頑張って歩いてくれた。
 それに普段の老人ホームに比べてホテルの食事が伯母には美味しかったらしく、私が驚く位、常に私よりも多く食べていたので、4日間、体力が持ったのだと思う。
 行く前は大丈夫だろうかと不安もあったが、ツアー参加者の中で最高齢だったので注目もされ、他の参加者を勇気づけた面もあった。最後の日には「88才と高齢なのに、参加して頂いたから」と、ガイドさんからプレゼントを貰ったりもした。
 私が夜中に目が醒めた時は、隣のベットの伯母がちゃんと息をしているかどうかが気になった旅だったが、先ずは何事もなく無事に帰宅できてホットしている。

 帰りの飛行機の中で「予想外だった事があったかい。」と、伯母に聞くと、返事は「ホテルと食事が素晴らしかったこと」「ガイドさん他、みんなが優しく接してくれたこと」だったと言っていた。また、「色々な素晴らしい所を見られて、まるで夢のような毎日だった」とも話してくれた。
 明日、伯母を老人ホームに送り届けた時に、今回の私の責任は終わりとなる。

 また今回、名古屋に住むメル友と中部国際空港と香嵐渓から電話を掛けて話ができた。
 この友は、現在、乳癌が再発・転移しているのだが、実に客観的に自分を見つめ、自己実現のために病気と戦いながらも前向きに頑張って生きて行こうと努力をしている方なので、私はいつも励まされるのだ。メールとは違って声を聞いたら、何かもっと通じ合うものを感じる事ができて嬉しかった。彼女には、身体を大事にしながらこの先もずっと元気でいて欲しいと願った。

 こんな訳で、少し大変だったけれど、今回は意義深い楽しい旅ができて本当に良かったと思う。
 
 

 

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晩秋の最後の庭仕事後、伯母を連れて来る

2007年11月13日 | 「北海道内旅行」登別・定山渓・洞爺・函館・道東・三笠・旭川・道北・奥尻島他
 今朝の気温は3℃で晴れなので凄く暖かく感じた。一昨日ホームセンターを覗いたら球根が全部3割引になっていたので、ピンク色のカサブランカ5球と薄いピンク色のチューリップを20球買って来たのを植えることにした。
 カサブランカは全部まとめて、チューリップは3~4球ずつかためて木の根本に植えた。
 チューリップは、来春、どのような咲き方をしてくれるか楽しみだし、カサブランカも初夏の庭に良い香りを漂わせてくれるだろうと期待した。これで冬を前にした最後の庭仕事が済んだ。

 今日は農家を止めた伯母を我が家に連れてくるため、迎えに出掛けた。二人で明日、「富士7景」を見に行くツアーに出掛けるためだ。
 老人ホームに入ってからすっかり意欲が無くなっていくように見えたので、目的を持たせたいと思って誘ったのだ。
 伯父が亡くなった後、しばらく鬱病の様な症状に陥っていたが、ようやく目の色にも力が出てきて、最近は旅行を前にして気温の低い中、毎朝散歩に前向きに取り組んで来ていたのだ。
 腰が曲がり、杖をついて歩くので、グループの人には迷惑を掛けるかも知れないと心配だが、今回が伯母の最後の旅行になるかも知れないので、私は精一杯ケアーしながら、一緒に西日本の紅葉や富士山の景観を楽しんできたいと思っている。
 
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老健施設の叔母が弱って来た

2007年11月11日 | 高齢期の生活全般
 今日は午後から雨の予報なので、家にいても仕方がないと思い、亡くなった母の妹にあたる叔母の慰問に行った。
 老健施設に入って2年半、一切外出させてくれないし、ディサービスにも行けないので、籠の鳥と同じ生活をしているのだが、案の定、叔母の体力は次第に弱くなって行く。
 私が行った時は必ず連れ出して外の空気を吸わせ、歩かせる様にしてきたが、今日の叔母は私の腕につかまってやっと歩く状態だった。

 今日も近くの大型スーパーマーケットに連れて行き、ファミレスの片隅に座らせ、私が行きがけに土産に買ったフルーツケーキを差し出した。「こんなに美味しいケーキは久し振りだ」と言いながら平らげてくれた。

 しばらくお喋りをしてからスーパー内を歩いた。5分位で「疲れてもう歩けない」と言うので驚いた。無理強いしても仕方がないので、予定よりずっと早く部屋まで送った。まだ84才なのにと哀れに思った。
 
 叔母はまだ私に居て欲しいらしかったが、雨で暗いし、日暮れが早いからと別れた。駐車場に戻って部屋の窓を見上げたら、叔母が何時までも手を振っていた。
 施設まで車で往復3時間かかるので道路が良くても一月に一回がやっとだし、これから雪の季節になれば、車が渋滞してもっとかかるので、思うように行ってやれないのが残念なのだ。
 それにしても、どうしてわたしのまわりの高齢者は、理不尽な生活をしなければならないのだろうと思う。
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私が好きなもう一人のピアニスト

2007年11月08日 | TV・映画・音楽・美術

私の好きなもう一人のピアニストは、「スタニスラフ・ブーニン」である。
彼は1985年のワルシャワのショパン・コンクールで躍動するピアノを弾いて、堂々優勝した人だ。その時、彼はまだ18才だった。
 

私が彼を応援したいと思ったのは、ピアノ演奏の表現力の豊かさに感動したのは勿論だったのだが、他の理由もあった。
先ず彼が、当時のソヴィエト政府によって演奏の自由を制限されていたことを知ったことだ。
そればかりではなく、私もミーハーの部類に入るかも知れないが、彼の生い立ちを知ったことも大きい。

彼は、父音楽大学のピアノの教授を父親とし、ピアノ講師を母親として生まれたのだが、夫母は愛人関係にあり、父親には正式の家族がいたのだ。
父親はブーニンが生まれる前に母の元を去った。

母親は驚くことに、生まれてきた男の子に父親と同じ名前を付けた。そしてピアノを特訓したのだ。母の子育ては、まさに父親に対する女性としてのプライドをかけた必死の子育てであり、教育だったのだろうと私は女性の一人として思ったのである。
 
「ブーニン」が優勝後も、ソヴィエト政府は正式な結婚をしていない母子に冷たかったらしい。
狭いアパートでレッスンをすると、まわりから煩いと苦情が来る。防音装置のついた部屋を要求しても聞き入れて貰えない状況の中で、苦労したらしい。
先月29日の朝日新聞夕刊の記事によると、彼は優勝後の革命記念日にクレムリンで演奏する事になり、その前に文化省の大臣から何を弾きたいか質問されたらしい。

「勿論ショパンです。」と答えたら、「ショパンみたいなブルジョアではなく、誰かソ連の作曲家の曲は弾かないのか。」と言われたのだと言う。音楽芸術への無理解ぶりに若いブーニンは幻滅したのだろう。
また、世界的に有名になり、外国に出入りするようになったブーニンは、ソ連政府から監視され続けたのだ。
彼が優勝した翌年の夏、私がソヴィエト旅行をした際に、彼のCDを買いたいと思って探したが見つからなかった。店の人はブーニンの名を告げても知らない様子だった。
 
当時のある雑誌の記事だが、その頃、仲良くしていたガールフレンドが、夜、ブーニンの家を辞した直後に車に轢かれて死亡するというショッキングな事も起きたらしい。
 
1988年6月、ブーニンと母親は西独に亡命した。
1991年12月にソ連が崩壊した時、私はブーニン親子が3年早すぎた亡命を悔やんでいるのではないかと思ったりしていたが、今考えると、やはり自由のない中では、芸術家として一刻も生きられなかったのだろうと思っている。
朝日新聞によると、時速160kmの車で国境を越えたらしい。

その後、日本のブーニン支援者の助けを得て、「洗足学園大」の客員教授に迎えられ、日本女性と結婚し、全国で何度も演奏会をし、日本のファンに熱狂的に迎えられたのである。
私も2度、演奏会に行った。CDも数枚買って、数え切れないほど聴いた。

以上が私が彼を応援する理由である。
 
彼が優勝してから23年が経ち、41才になったブーニンは、現在日本で1年の1/3を過ごすという。今月、東京、大阪、仙台、札幌などで演奏ツアーをするというので、円熟した彼の演奏を多くの人に聴いて欲しいと思う。
 

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フジ子・ヘミングの演奏に感嘆

2007年11月08日 | TV・映画・音楽・美術
 先日子どもと食事をした時に「フジ子・ヘミングの奇跡」のCDを渡された。帰ってから聴いてみたら凄い!!

 彼女の半生は何度もTVでドキュメンタリーとして放映されているので、知っている人は多いと思う。
 レナード・バーンスタインに演奏力を認められながら、パリの極貧生活で風邪をこじらせて突然耳が聞こえなくなり、その結果演奏会で失敗する。
 そんな体験を乗り越えたからこそ、心に訴えかけるような強い響きの演奏ができるのだろうと思った。

 彼女の得意な「ラ・カンパネラ」が最初に録音されているが、素晴らしい。
 「ハンガリー狂詩曲」も「革命」も、彼女のような力強く哀調を帯びた演奏にはなかなか出会えないと思った。そんな訳でここ数日、ずっと彼女の演奏に聞き惚れているのである。
 ピアノ曲が好きな方には、是非一度、聴いてみて欲しい。
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伯母の畑に行く

2007年11月04日 | 高齢期の生活全般
 実は伯父夫婦が3代目として営んで来ていた農地を、春に伯父が90才代で亡くなり、伯母も老人ホームに入ったので手放す事になったのだ。それでこの間、広い庭や畑から、私が引き継ぐ事ができそうな庭木やアスパラガスの根を頂いて来ていたのだ。
 今日は秋晴れの下、一週間振りに伯母をホームから車に乗せて家に連れて行った。

 立派な根太長ネギが80本位植えてあったのを収穫して、半分は小分けにして縛り、段ボールに縦に入れて蓋をしてきた。残りの半分は私が頂いて来て、ご近所にも差し上げた。これで畑の始末は全部済んだ。

 蝦夷紫ツツジを掘り出して持って行って欲しいと言われた。植えてから30年位経っているらしく、何本もの太い幹があり、背も高い。車で運べるように丈を50cm程切り、小枝も剪定した。根も張っていたが、やっとの思いで掘り上げて持ってきた。来年の花は駄目だろうが、強い木なので、何とか私の庭で生きて欲しいと思う。

 最後に真っ赤に色づいたドウダンツツジや咲き誇っている菊、赤い実が鈴なりになったウメモドキの木の前に伯母を立たせて、数枚、写真撮影した。
 嫁入りして以来60数年、この家と農地で苦労を重ね、唯一の慰めが庭いじりと花木の観賞だったのだろうと思ったからだ。その全てが人手に渡る事をどう思うか聞いたら、「肩の荷が下りてホットした。」と答えてくれた。私の予想とは違った答えだった。 

 帰りに和食レストランに寄って生寿司定食を食べた。伯母は「久し振りで美味しかった。」と言ってくれた。
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造園アシスタント講習終わる

2007年11月02日 | ガーデニング・家庭菜園
 昨日と今日の二日間は、剪定・整枝・移植・増やし方の講義を受けた。
 梅や葡萄などの果樹類から桜や松、紅葉、つつじ、シャクナゲ、萩、紫陽花などまで、様々な庭木の管理の仕方を習った。
 さらに取り木、接ぎ木、挿し木のやり方も、この道50年と思われる方の講義は具体的で、聞いていて興味が持てた。
 参加者の中には広い樹園を持っていたり、実際に剪定を職業にしている人も居て、次々と質問が飛び交ったが、講師はその全てに答えてくれた。人を指導するためには、この様な幅広く豊かな経験と実績を重ねた人でなければこうは行かないと、私はしみじみ思った。

 5日間の講習で学んだ事は余りにも多すぎて、なかなか私の身に付きそうにないが、この先、庭仕事をしながら、少しずつ経験を積み上げて行きたいと思っている。本当にあっという間の意義深い講習会だった。
 
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