今春は雪解けが遅かったことに続き、かなり気温が低い日が続いたので、草木の生育に気を揉む日々だったが、6月の中旬以降、気温が上がって来て、大分遅れを大分取り戻してくれた。
ところが昨日、今朝と早朝の気温は12℃程度、最高気温も15~18℃と低い。今日は22℃ほどに上がるようだ。
最近の庭の様子である。
≪ヒンズー教総本山・ブサキ寺院≫
4日目「平和記念館」見学の後、ヒンズー教総本山「ブサキ寺院」に向かった。
この寺院はバリ島の東部、最高峰「アグン山」(3142m)の麓にあり、バス停から寺院に向かって急勾配の坂道を500m上った所にあった。
バイクの男性が「上までバイクに乗らないか?」と誘って来るが、「5000で良い」と言われた人が、5000ルピアなら60円位かなと思って乗ると、最後に「5000円だ。」と言われたとかガイドに聞かされたので、皆頑張って自力で徒歩で上った。
私は杖を用意していたが、グループの女性が「腰が痛くて歩けない。」と辛そうにしているのを知り、杖を彼女に貸した。とても楽だと喜ばれたが、結局私は杖なしで頑張る事になった。
坂の両側には、似たような安物の生地や服を売る店がぎっしりと並んでいた。
この寺院は30もの寺院で構成された複合施設だ。一番大きい寺院が「風の神」を祀った寺院だが、その傍に「火の神」「水の神」を祀った寺院もあった。
ここで行われる祭礼は、1年が210日の「サカ暦」で行われ、年間55回もの祭礼があるそうだ。
ここでもちょっとした事があった。
どの寺院にも許可が無ければ入れないのだが、私一人でグループと少し離れたところで写真を撮っていたら、「ここまで来て写していいよ。」と手招きする若い男性がいた。5m程階段を上ると寺院の正面が見えたので写真を写した。するとその男性が「あなたをここで写して上げる。」と言い出した。不審に思ったので断って階段を下りた。すると上からその男性が、「お布施!お布施!」と言って来た。私はちゃんと寺院の賽銭箱に入れるならOKなのだが、彼のポケットに入るならNOだと判断して、「ご免、小さいお金を持っていないから。」と言って走って去った。危ない、危ない。
その時写した1枚が下の写真だ。
階段下の広場でバナナ売りの女性に会った。インドネシアの女性は、頭の上に乗せて物を運ぶ様だ。
最後の日、マッサージに行った。マッサージは初めての体験だったが、疲れて肩がこっていた体が楽になったような気がした。
午後からは買い物をし、夜、バリ空港から帰国の航空機に乗った。
最後に田舎のレストラン傍の棚田風景を載せてインドネシア旅行記を終る。
長かった記事を読んで頂いた皆さん、コメントを下さった方々に感謝します。 (完)
≪平和記念館とインドネシアの歴史≫
バリ島の第一の都市「デンバサール」市内観光の日、最初に行ったところが「平和記念館」だった。
高さが45mもある石造りの記念館で、ここにはオランダの植民地だった時代の生活などがジオラマで展示されているらしい。
私達はそれを取り巻く周囲の広大な緑地公園を歩いて記念館の正面が見える所に行き、写真を撮っただけで戻った。
記念館に行く途中には、造園業者の園地が沢山あり、色々な熱帯の植物が植えられている静かな地域が続いた。
果物などを売る露店が出ていたので、バスから撮影した。
小学校もあって、子ども達が教室の外に出ていた。白いシャツに茶色のスカートという制服を着ていた。
現地ガイドによる歴史についての説明はほとんど無かったので、ガイドブックやネットでインドネシアの歴史を調べた。
それによると、ジャワ島中部の「サギラン村」から1936年にオランダ人の古生物学者が発見した化石が、猿人と現代の霊長類ヒト科への進化の途中という事が判明した。この「ジャワ原人」は、100万年程前に直立歩行し、ジャワ島に生存していたらしい。
紀元前5世紀位からインドネシアにはマレー半島やベトナム、ミャンマー、カンボジャ、中国の沿岸部から、多くの人々が渡って来た。その結果、現在のインドネシアは多民族国家で、多数の言語と文化が民族の数ほどあるという。
紀元前2500~1500年には中国西南部から移住して来た民族によって水稲耕作が行われていたらしい。
また打楽器「ガムラン」はベトナム北部が起源だし、様々な伝統的な手工芸も多方面から来た移住者達が伝えたとされる。
紀元前後には、「香辛料」を求めに来たインドやペルシャとの交易も盛んになる。その中で仏教国だったインドネシアに「ヒンズー教」が伝えられ広まって行った。
8世紀頃、仏教を信仰する王国が「ジャワ島中部の北岸」に栄え、「ボロブドール遺跡」を建造した。
一方で「ジャワ島中部の南岸」に栄えた王国はヒンズー教を信仰していて、「ブランバナン遺跡」を建造したと言われている。その後、「ヒンズー教」の中心地はバリ島に移っていった。
香辛料を求めに訪れていたヨーロッパ諸国の中で、オランダが1602年、ジャカルタのコタに「東インド会社」を築き、少しずつ植民地を広げて行った。そしてポルトガル領だったティモール島東部以外を第二次世界大戦時の日本軍進攻までには植民地にしてしまっていた。
この間、オランダはプランテーション経営をして人々の搾取を強めた。
1908年、医学生が中心となった「民族一体運動」が起きた。
1942年には日本軍が進攻して、オランダの統治は破綻した。
日本は「緩和政策」を取り、最終的には独立させるという方針を決め、民族主義運動で投獄されていたスカルノらを解放。迫害されて来たイスラム教の活動も解禁し、インドネシア語の他に、オランダ語に変わって日本語を教育に取り入れた。
1945年、独立準備委員会を発足させたが、日本が敗戦してしまう。
その後再び植民地化を計ろうとしたオランダとの間で「独立戦争」が起きた。これには2000人の元日本軍人も加わったという。
1947年に初代スカルノ大統領が独立宣言文を読み上げた。再度植民地化を画策したオランダは世界的な非難を受けて諦め、1949年12月のハーグ円卓会議にて「インドネシア連邦共和国」として独立が認められた。
≪ライステラス(棚田)≫
島国のインドネシアは、かっては主食の米が不足し、輸入していたが、1985年から国が増産を促したために、今では自給率を達成したという。
バリ島の「デンバサール」から西の山岳地帯では、バトゥール山(標高1717m)の噴火でできたカルデラ湖バトゥール湖が「バリ島の水がめ」となり、火山灰質の豊かな土壌に恵まれた南側傾斜地を利用して米を栽培している。
米の栽培は全て「神事」として、「人と神、人と人、人と自然」の3つの関係が大切だと考えるヒンズー教の信仰と深く結び付いているらしい。
どの農家の敷地にも「家神様」が祀ってあり、農事や結婚、出産などの儀礼をその前で行うという。
貴重な水資源は、先祖から代々組織され、守って来た水利組合「スバック」が管理し、地域の灌漑に責任を負っているのだ。
これらの事を含めてこの地域の棚田は、2012年、「ユネスコの世界文化遺産」に登録された。
年間平均気温が27度と高いので、雨期(10~3月)に米の植え付けをする。植えつけた米は4~6ヶ月で収穫できるので年に3期作もできるが、最近は2期作をした後の田にじゃが芋やトウモロコシなどを栽培する「輪作」が行われていた。
「輪作」の方が土壌の地力が回復し、同時に野菜の残渣を土壌に漉き込むことができるので、それが堆肥となり、良いらしいのだ。
6月半ばの田んぼでは、多くの人が集まって稲刈りをしている現場や、畑や庭に脱穀した米を広げて乾燥している様子、米の後に野菜が生育している畑を見ることができた。
日本で売られている黒米や五穀米に混ざって入れてある黒米のほとんどは、インドネシアから輸入されているという。それに日本は関税を778%掛けるので、結果的にとても高価な米になってしまうのだ。
私は最後の日スーパーでの買い物で、「黒もち米」の500gパック2個を買った。2個1kgで確か440円だった。
白米に少しずつ混ぜて、繊維たっぷり、ポリフェノールたっぷりの薄赤色になったご飯を炊いて食べるつもりだ。
≪インドネシアの民族ダンス・野生の猿≫
今回の旅行中、2つのダンスを鑑賞した。
その一つは「バロンダンス」で、もう一つは「ケチャダンス」だった。
バリ島のウブド地区は芸能の中心地で、幾つもの舞踊集団があるそうだ。
3日目の朝見に行った「バロンダンス」は、民族に伝わる民話を元にしたストーリーを、打楽器ガムランと太鼓の演奏をバックにして演じる舞台劇だった。
野外の舞台には、悪魔と王と王妃、その姫が次々と出て来て会話をしながらダンスを繰り広げるのだが、入場の際に日本語で書いた紙をもらったのに、言葉も分らず、ストーリーも今一つ良く分らなかった。
また海沿いのジュンジュンガ村で行われている「ケチャダンス」は、小さな円形劇場の中央に焚かれているかがり火の周りに、腰布だけをまとった70人程の男性が口から発する「チャッ、チャッ」という音をバックにして日没寸前から始まった。
これはヒンズー教の創世神話に基づくストーリーを演じていたが、やはり私が理解するのは難しかった。
二つのダンスを見て、指の使い方や足裁きなどがカンボジャやタイのダンスに似ているように感じた。
所でこの会場に行く途中に野生の猿がいるのだが、グループの1人の男性が、入り口でいきなり猿に眼鏡を取られてしまったというのだ。聞くと何が起こったのか分らない程の早業だったという。眼鏡はついに戻らず、被害者の男性は「良く見えない」と言って困っていた。旅行保険で賠償されるが、帰国後に眼鏡を作るまで不便だと嘆いていた。
ところで私も、その前日「モンキーフォレスト」という所に行った時、ガイドから「猿には目を合わせないこと」「猿は興味があるものを取ろうとするので気をつけるように」と言われていたのに、ちょっとした事件に見舞われた。
「モンキーフォレスト」で自由行動の時に、私は一人で美しい渓谷の写真を撮る場所に向かった。撮り終ったので帰ろうと1歩後ずさりしたら、突然『ギャッ』という声がした。直ぐ傍に猿がいるのを知らなかった私は、何と大きい猿の脚を踏んでしまったらしいのだ。
素早くその猿は私の足に噛み付いて来たが、幸いな事にジーンズの裾布が噛まれただけで済んだ。
しかし猿はその後も歯をむき出して私に飛び掛ろうとしたので、私は驚きの声を上げた。
すると突然、数匹の猿がその猿目がけて飛び出して来て、その猿を追い払った。
お陰で私は助かったのだが、何故、数匹が目ざとく駆けつけて来て私を助けてくれたのか、今でも分らない。
≪プランバナン寺院遺跡群≫
ここは5k㎡に渡って856年に建てられたヒンズー教の寺院遺跡が点在しているところだ。
しかし、1584年に火山が噴火した際、小寺院224棟が倒壊し、現在もそのままになっていた。
その中央が「ロロ・ジョングラン寺院」だった。
高さ47mもの炎が燃え上がっているかの様な天に聳える形の寺院は、古代インドのラーマヤナをモチーフに造られた「シヴァ神殿」である。ヒンズー教寺院としての規模は東南アジアで最大だそうだが、その巨大さに圧倒された。
また「シヴァ神殿」の左右には、高さが少し低い「ブラフマ神殿」と「ヴィシュヌ神殿」があった。
「ロロ・ジョングラン寺院」の見学を終えて入り口に戻る頃には、夕闇が迫って来ていた。
皆さんに暑さと強行軍だった旅行のための疲れを心配させたが、時差が-2~-1時間と少なかったのと、帰りは機内で5時間程寝られたのが良かったのだろうか。
それで今回は思った程の疲れは出なかったので、午後に帰宅後、夕方まで3時間程1週間分の庭の草取りに精を出した。
やはり欧米などの旅行よりも、時差が少ない東南アジアの旅行は、体に優しいと思っている。
出かける前日に開花した「ボタン」は、留守中に満開となってしまっていたので、全て花を摘み取った。
今は「琉球つつじ」と「ジャーマンアイリス」「都忘れ」「除虫菊」が、咲き揃っている。「さつき」も咲き始め、ようやく庭が賑やかになった。
薔薇がいない間に花芽を沢山付けたので、嬉しいが、部分的に油虫がつき出したので手で潰している。
昨日は4箇所支柱を立てた。
「ほうれん草」「小松菜」「春菊」が食べ頃を迎えたので、近所に差し上げたり、おひたしにして食べている。
翌日は農園にも行って、草取り、じゃが芋の芽欠きなど、溜まっていた畑仕事を1日がかりで全てやり終えた。
この後は、少しゆっくりと過ごせるのではと思う。
≪世界遺産 ボロブドール遺跡≫
インドネシアでの2日目は、睡眠時間5時間でモーニングコールが鳴り、起きて支度をした。
レストランが開く前にホテルの玄関に出て見たら、丁度朝日が昇った所だったので写真を撮った。
ホテルはジャワ風で大きい中庭を囲むように客室が配置された5階建てのホテルだった。
朝食にはパイナップル、赤と黄色のスイカ、マンゴーなどの南洋の果物がたっぷりと出ていたが、バナナが無かったので不思議だった。
7時半にバスに乗り、「ジャワ島」の「ジョグジャカルタ」を基点に「ボロブドール遺跡」と「プランバナン遺跡」の観光に向かった。両者とも世界遺産に指定されている。
「ジョグジャカルタ」の朝は、日本車とバイクで溢れていた。バイクは1台に付き大人2人子ども2人の4人まで乗ることができるという。国道沿いには古い家が多かった。
先ず「ボロブドール遺跡」に向かった。
この遺跡が建設されたのは824年らしいが、その直後に火山灰で埋められて1000年もの間、存在が知られなかった。
1814年、ジャワを占領していたイギリスの総督ラッフルズがジャングルの中から掘り出したという。
高さが23cmのブロックを100万個積み上げてできていた。回廊には釈迦の誕生や男女それぞれの悪行など、仏教に関するレリーフが沢山彫られていた。ガイドの説明では、2500面、1万人を超える人のレリーフだという。
また釣鐘形をした小中大のストーパがあるが、下の段のひし形の窓があるストーパは「歪んだ心」を、中段の正方形の窓のストーパは「安定した心」を表し、最上段の窓が無い大ストーパは「完全な無の境地」を表すと言われているらしい。
私は、1000年前にこの地に生きた人々の信仰とそれを現す彫刻技能の高さに思いを馳せた。
≪無事に帰国した≫
昨日午後、インドネシアから予定通りに無事帰国した。
インドネシアは、予想通り、赤道の傍の暑い国だったが、4~9月は乾期の筈なのに今回は湿度が高く、気温は28~32度あったので蒸し暑かった。
強い直射日光で紫外線もきつかった。私は日光湿疹になり易いタイプなので、日焼け止めクリームを塗り、帽子を被って綿のマフラーを首に巻いていたが、顔や首が痒くて困った。
もう一つ心配していた虫刺されだが、夕日が沈む頃から野外で行われた「ケチャダンス」の会場に蚊やブヨがいた。
持参したネット(手作り)をすかさず被り顔は防護したが、サンダル履きの素足は刺された。
最後に体調だが、旅行日数は6日間と短かったとはいえ、ホテル出発が7時半~8時半、ホテルに戻る時間は21時~22時と信じられない程のハードなスケジュールだったので、睡眠時間は連日5~6時間しか取れなかった。
しかも昼は長距離移動が少なく、見学箇所が多いからバス内で寝ることもできず、その上、結構急な段差がある寺院の階段や斜面の移動も多かったのでとても疲れた。70歳代と思われる方が大勢だったので、皆大変だったと思う。
(1人の女性が、バリでの最終日に免税店で倒れ、暫く動けなかったという出来事もあった)
私は何とか無事に終えることができて良かった。
島が13,000以上もあるインドネシアだが、最初に「首都ジャカルタ」がある「ジャワ島」に行って観光し、次に「バリ」がある「バリ島」に飛行機で行って観光しただけだった。
「ジャワ島」で行った「ボロブドール寺院遺跡群」と「プランバナン寺院遺跡群」の二つの世界遺産は、特に見応えがあった。
食事は、香辛料を少ししか使わないので、どれも美味しく食べることができた。
また、熱帯の果物が豊富で美味しかった。
そんな訳で、ハードだったが、思い出が多い良い旅になった。
次回から旅日記を書くが、今回は幾つかの主な場所に絞って書く積もりなので宜しく。