花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

庭の新顔

2008年08月24日 | ガーデニング・家庭菜園

一昨日の朝は12度しかなくて本当に寒かった。昨日、今日も14度程度で8月だとは思えない気温が続いている。
庭の花も次々と主役が交代している。

①は「ユーホルビア」。一昨年蒔いた花の種がこぼれて、毎年この時期に咲いてくれる。といっても、中央の小さなのが花みたいだ。背丈が60cmもあるので邪魔だが、この色合いは捨てがたい。
②は、ようやく咲き始めた「蝦夷菊」だ。去年春に種を蒔き、秋に色々な色の花が咲いたが、私の好きな白色とピンク色の種だけ取って置いたのを春に蒔いたのである。
③は「ガウラ」。一度切り戻したら、株が大きくなって、また沢山咲いてきた。一つ一つの花の形が何とも素敵である。

 ① ② ③

また昨日は、近くの町で収穫祭があったので行ってみた。100円で「人参の詰め放題」をしていたので挑戦した。
14cm×20cmの小さなビニール袋を渡された。人参は今の時期のまだ大きさが中くらいの物だった。
初めに数本逆さにして入れる。できたその透間に次は人参を立てて差し込むように入れていくのだ。
帰ってから数えたら、何と23本もあって驚いた。しばらくの間、大いに活用したい。

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ゆすら梅のジャム作り

2008年08月22日 | 社会・事件・ニュース

昨日、農園に友人が来たというので2週間ぶりに行って見た。
長ネギ、玉葱がさらに生育したのに驚いたし、先月10日に種蒔きをした秋大根の葉が大きくなっていたのにも感動した。
インゲン豆『モロッコ』は、ぎっしり付いたさやが育っていて、友人だけでは食べきれないと言われたので、私も摘んでかなりな量を頂いた。

昨年、採ってジャムを作ったゆすら梅(山桜桃)の木に、今年も直径6mm位の真っ赤な実がぎっしり付いていた。
友人は面倒なのでそのまま放置すると言うが、私はもったいないと思ったので、頼んで一緒に小さな実を摘んでもらった。
二人でそれぞれざるを持って摘んだので、15分程度で摘み終わった。
「同じ職場で働いていた頃、まさかこの様にして一緒にゆすら梅を採るなんて想像もしなかったよね。」と言って二人で笑った。

帰宅してから夕食後、早速ジャム作りに取り掛かった。記録の意味でレシピを書いておくことにする。

①先ず良く水洗いをし、ごみと痛んだり未熟な実を除いた。計量したら1.2kgもあった。
去年は560gだったから2倍採れた事になる。去年、収穫後に小枝を剪定して、お礼肥えをやったからだと思う。

②ゆすら梅をホーロー鍋に入れ、水を加えて火に掛け、沸騰後10分中火で煮た。湯が綺麗な赤紫になった。
(この時、水の量が多過ぎたらしく、煮詰める段階で時間がかかる事になった)

③②を大きめのボールの上に置いたざるに移し、水分はボールに落とした。
実をざるに入れたままの状態でポテトマッシャーで潰し、取れた果肉を下に落とした。ざるに残った種は200gだったので、果肉の重量は1kgだった事になる。(写真は用いた道具と残った種)
(去年は、裏ごしに掛けたので時間がかかったが、このやり方では30分でできた)

④再度、果肉の溶けた水を鍋に移して火に掛け、沸騰後は弱火で水分を蒸発させた。
途中で40%(400g)の砂糖を加え、時々木べらで混ぜながら煮詰めて行った。
去年の倍の量だったのと水分を多く入れすぎたので、結局、煮詰めるだけで2時間10分もかかり、完成したのは10時を過ぎていた。ずっと立っていたから腰が痛くなった。でも計量したら960g、去年の2倍以上もできた。

⑤できあがった甘酸っぱいジャムを、煮沸消毒をした空き瓶数本に詰めた。来週、友人に上げたら何というだろうか。楽しみだ。

 ① ③ ④

 ⑤ 

今朝、トーストに付けて食べて見た。去年よりも美味しくできた様に感じた。無添加で、原材料100%本物のジャムができた。

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中国人留学生のこと

2008年08月20日 | 日記

ロシアの短期留学生が先月、我が家にホームスティする前に、大学側が通学のための自転車を2台届けに来たのだが、その時、担当者に案内されて自転車を運転して来たのが、4月に入学したばかりだという中国人男子留学生2人だった。
彼らは大学近くのアパートで共同生活をしているとのこと。日本の一般家庭に入ったことがないというので、我が家に上がってもらってお茶を出し、少し話をしたのだった。
私から、中国では野菜を沢山食べるのに、この食料品や野菜の価格高騰で、自炊も大変だろうと聞いたりした。彼らは、明るくまじめそうな学生で好感が持てた。

今日午後、ロシアの学生が帰国した後も預かったままの自転車をこれから取りに行くという連絡が来たので、私は急いで庭からトマト、インゲン豆、サラダ菜、小松菜を沢山採って待っていた。
所が今回、担当者が連れてきた学生は、女学生2人だった。
聞くと、彼女達も4月に中国からやって来て、アパートで共同生活をしているというのだ。
私は、「今日も前の2人が来るとばかり思って野菜を用意したのだけれど、これはあなた達にあげるから。」と言って渡した。
すると、「今年入学した私達はとても仲が良いので、みんなで一緒に食べますから。」という返事が返ってきた。

家に入ってスイカを食べて貰いながら30分程話し合った中で、彼女達のアパートには畑にできるような空き地があるので、大家さんの許可が出れば何か植えたいのだけれど、という話が出た。
日本で勉強するために、今しているアルバイトだけでなく、野菜栽培までしようという彼女らの意欲に私は痛く感心させられた。
それで、ついまた担当者に、「お手伝いしますよ。」などと言ってしまったのだ。

先程、大学の担当者に電話をかけた。
先ず、大家さんに借りられるかどうかを早く聞いて欲しいこと、来年春に種を蒔くなら、秋の内に1度スコップで耕して、石など拾っておく方が良いと思うこと、栽培するには、種の他に道具類、石灰や肥料が必要だということも学生達に伝えて欲しいと頼んだ。

また新しい仕事が一つ増えそうだが、私が若い留学生達の手助けに少しでもなるなら良いと思っている。
それにしてもあの担当者は、私の思考パターンを予想して別の留学生を連れてきたのかも知れないと思ったりした。
 

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一日、美術作品を堪能

2008年08月16日 | TV・映画・音楽・美術

今日は朝まで降っていた雨も上がったので、札幌に行き、美術巡りをすることにした。
一人ではつまらないので、従姉妹を誘って近代美術館で待ち合わせた。
従姉妹への土産に庭のキューリ、トマト、インゲン豆、サラダ菜、シシトウを大急ぎで摘んで、持参した。

先ず、そこで公開されていた『レオナード・藤田展』を、1時間半掛けて堪能した。
彼は1986年に東京に生まれ、東京美術学校卒業後フランスに渡ってピカソやルソーらと親交を深め、その影響を受けながら当時のエコール・ド・パリの代表的な画家として活躍したのだった。
やがて、日本画の筆を使ったり、陶器の肌のような乳白色の絵画表現でヨーロッパで有名になる。
数枚の自画像や裸婦の絵には猫も書き込まれていて、独特な雰囲気を醸し出していた。大型キャンバスに描かれた多くが裸の男女の群像は見ごたえがあった。

晩年、彼はフランス国籍を取り、キリスト教の洗礼を受け、最後の仕事とした協会建設を手がけた。内部の壮大な壁画、ステンドグラスには、彼の画家としての集大成を見ることができた。

私は、こんな素晴らしい作品を残した日本人画家が居たのかと感動した。
しかし、当時の日本社会では、彼の様な自由奔放な絵画表現は許されない風潮があった時代だったと思うし、とりわけ戦争中、日本の軍部に依頼されて書いた軍人の群像画が、戦後非難を受けた事もあったらしく、彼が言うところの『日本に捨てられた』画家としての苦悩と人生が理解できる思いがした。
どの絵も荘厳な人間の存在と精神に満ちていたが、笑顔は一つも描かれず、生きる幸福感を感じさせられる絵はなかった。
最後に私は、彼が建築家と作り上げた協会の説明文の中に、『戦争や広島の原爆という悲惨な出来事が、世界から無くなる事を神に祈る』ための場として協会を建てた、と言う様な意味の事が書かれていたのを見つけたのだった。

美術館を出てバスに乗り、次に見に行ったのは無料で展示されていた『墨描・中国人強制連行図絵』展だった。
「人として忘れてはならない歴史がある」として、当時の中国人の強制連行の実態を墨で大判十数枚の絵に書き上げたのは、太平洋戦争末期、北海道岩内町(現在共和町)にあった鹿島組玉川事業所で管理人をしていた志村墨然人さん、85才だ。
彼は、その事業所で実際に見た自分の記憶を、そのまま絵に表したのだ。

絵は、数百人の中国人が列車で岩内駅に着いた所から描かれていた。
2日間の身体検査の後、初めてさせられたもっこ担ぎの絵、過酷な作業現場、集団逃走、捕らえられてからの拷問場面、過酷な労働と栄養失調で死んだある中国人の解剖場面図、その火葬の図、日本人囚人を使ったたこ部屋の作業場面などが、次々と白黒の墨による圧倒的な迫力で当時の実情を訴えて来るのだ。
日本は戦時中不足した労働力を、このようなすざましい非人間的なやり方で補ったのだという。見ていると辛くなった。

会場の片隅で画家の志村さんは取材を受けていたため、声を掛けたかったができなかった。それで私は記名帳に「有難うございました」と一言書いて出て来た。
戦後63年、もっともっと、当時の歴史的な事実を知ることが大切だと思った。

その後、二人で遅いランチを食べながら絵の感想や近況報告などおしゃべりをしてから帰宅した。
今日は全く異なる作品に触れる事で、それぞれに感動したり、考えさせられた一日になった。

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今の庭の花

2008年08月15日 | ガーデニング・家庭菜園

今日も暇なので、もう少し、庭の花を紹介したい。
①は「ペチュニア」だが、見て欲しいのは植えてある容器が昔の火鉢だと言うところだ。
昨年秋に伯母が家を処分する時、捨てるというので貰って来たのがこの火鉢。今年はこんな感じで玄関先に置いてあるが、来年はできればつる薔薇でも植えて見たい。ただ、底に水抜き穴を開ける事ができないので、それが問題なのだが。
②は低く作った塀の上に植えた「ラベンダー」と「ベコニア」だ。

「ラベンダー」は、去年の夏に挿し芽で更新した苗が元気に育った。
ベコニアは秋に室内に上げて、これも挿し芽で増やし、冬越しさせたものだ。
北海道の庭つくりの一番の課題は、寒さに弱い植物を10~4月の寒さと雪からどう守るかという対策である。
③は、やっと花の色が濃くなって来た「クレマチス」。買った時のラベルのイメージに近づいて来たので、嬉しい。

 ① ② ③

最後に昨日の出来事を一つ。
何気なく窓の外を見たら、庭に面した歩道上の電線が真っ黒な事に気づいた。小鳥の群れらしい。
慌ててカメラを持って外に出た。私を見た近くの鳥はさっと飛び去ったが、何とか残った鳥を写して見た。すずめの倍くらいの大きさだが、電線が余りに高すぎて、何という鳥か判らない。数百羽が電線上にどこまでもずっと並んで停まっているのだ。
写し終わって下を見たら、歩道が鳥の糞だらけだった。

 


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今の庭の花達

2008年08月10日 | ガーデニング・家庭菜園

6月から7月にかけて庭で次々と咲いて北国の初夏を楽しませてくれた薔薇や百合、紫陽花の花も、今は盛りを過ぎた。丁度お盆になる所だが、仏壇にお供えする花が少なくて残念だ。
それでも今朝、幾つか写真に撮ったので紹介したい。

①は、去年植えた「クレマチス」だ。2年目でようやく咲き出した。安かった所為か苗に付いていた写真よりも色が薄いのが気になる。
②は、高さが1mもある黄色の「ディリリー」だ。花は名前の通りわずか1日しか咲かないが、1ヶ月以上毎日次々と咲いて、爽やかな姿を楽しませてくれた。だが、それも残り僅かだ。
③は、1m以上に伸びて今大きな花を咲かせている「黄色カサブランカ」と、70cm位の丈になった「オリエンタルリリー」だ。二つとも花が大きすぎて気味悪い。「カサブランカ」は、強い良い香りを放っている。


 ① ②  

④は、床下で冬越しさせた去年の球根を春に植えた「ダリア」の一部である。育つかどうか心配したが、上手く咲きだしてくれた。このまま秋まで楽しめそうだ。
⑤は、3月初めに室内で種まきした「クリサンセマム」だ。陽が出ないと花は開かない。塀の上に数株並べてあるが、結構大きな株に育った。
⑥は、2度目の花をつけ出した薔薇「ダークムーン」だ。思っていたより明るい色なので、名前と違うと不思議に思っている。
 
 ④  ⑤ ⑥ 

⑦は白色つる薔薇「ケント」だ。縦横に広がる小枝に直径3cm程の可愛い花が沢山咲く。背の高い赤いダリアの前に植えてあるが、今日は虫と小蜘蛛が客に来ていた。
⑧は、宿根の「アルストロメリア」だ。離農した伯母の庭から分けてもらった花の一つだ。
⑨は、冬は鉢に上げて家に入れる「フクシャ」。春先、庭に下ろしてから一度すっかり葉を落としたが、いつの間にか元気に花を咲かせてくれたサプライズ・フラワーだ。
⑩は、昨年植えた薔薇「バロック」だ。四季咲きなので、秋まで地味な色合いを楽しめそうだ。

 ⑦ ⑧ ⑨

 ⑩



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庭の野菜とその花  

2008年08月10日 | 家庭菜園・市民農園・借り上げ農園

ずっと低温が続いていた北海道もここ1週間、夏らしい晴天が続いている。5月初めに種を蒔いた大根や蕪、小松菜は収穫を終え、今は先日蒔いた二番手の成長を待っている所だ。

窓辺のプレートに3月に種を蒔き、5月14日に庭に下ろした中玉トマト①4本が、先週から色づき出し、毎日収穫できるようになった。5月21日に種を蒔いたインゲン豆「モロッコ」②は、大量に取れ始めた。
同じ日にプランターに種まきして、一月後に移植した初めて栽培したサンチュ(つみサラダ菜)③が予想外の生育で、毎日柔らかく新鮮な外側の葉を摘んではサラダにしたり、近所にも差し上げている。
6月21日の環境博覧会でもらったこれも初めてのルッコラの種も成長して、毎朝摘み取っては食べている。

 ①

市販の苗は、茄子④、キューリ、カラーピーマン⑤、ミニトマト各1本ずつとシシトウ⑥4本を買って植えたが、これらも元気になって来た。キューリは既に大きなのを6本採ったが、カラーピーマンはまだなかなか色づいてくれない。
他に家の東南側に種まきした虎豆、花豆の生育も最近、良くなってきている。

豆の傍に植えてある3本のブルーベリー⑦は、まだ3年目で35cm位の高さだが、沢山花が咲き、それが皆、可愛い実になった。ヨーグルトを食べる時、熟した実を摘んで来ては混ぜて食べたが、そんな時、幸せを感じた。もう実は残り少なくなったが、この木は大事に育てようと思っている。

 ④ ⑤ ⑥ 

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留学生のホストファミリーを初体験

2008年08月07日 | 日記

昨年、留学生を寄宿させるかどうかで悩んだが、結局、所用ができて取りやめたという経過があった。
今年も大学側から要請の依頼があった時、特別な用事がなかったので了解した。
1ヶ月以上パソコンが壊れていたため、今日まとめて、その簡単な体験報告をする。

留学生は、7月初め、ロシア国立S大学から地元の私立大学日本語学科に1ヶ月間の短期留学のためにやって来た。その中の2名の受け入れを2週間だけ、承諾したのだ。

10日程前にあった説明会で、我が家には引率教諭と女子学生がやって来る事が分かった。
担当者からは、「彼らは日本語と日本文化を学びに来るので、特別な事をするのではなく、普段の家庭の生活をそのまま体験させて欲しい。」と強く言われた。同時に「して良いこと、悪いことを、最初に説明して分からせて欲しい。」とも言われた。また、門限も決めて置くようにと依頼された。

私は、考えを巡らした結果、門限は夜10時、朝食は7時10分から、夕食は6時半頃からとした。
基本的に、朝はパン食、夜は和食その他とした。
現在の日本の食生活は、ご飯食を基本としながらも、洋食や中華、インドやイタリアの食事が混在していて、主食のご飯とバランス良く組み合わされているという特徴があるので、その様に毎日違う献立を予め立てた。

先生は何でも食べてくれたが、学生は油類、マヨネーズ、味噌、醤油が苦手で、塩だけの味付けを好んだ。だから、砂糖と醤油で味を付けた和風煮物やマヨネーズで和えたポテトサラダ、油炒めした野菜などには手を付けてくれなかった。
結局、彼女はピーマン、キューリ、トマトなどの生野菜のスティックなどをそのままかじるか、塩茹でしたジャガイモ、南瓜を食べていた。また、キューリだけの一夜漬は食べたが、キャベツや蕪も加えて作ると食べなかった。
私は予め庭で小松菜やホウレンソウ、蕪などを育てて置き、野菜料理に備えたのだが無駄だった。
付け合せやデザートのキウイ、苺、さくらんぼ、パイナップルは良く食べた。

数種類の刺身を出した時、蛸は一切れしか食べなかった。
海老の天ぷらやフライは気に入ったらしいので、2度作った。また、腕によりをかけて作ったビーフカレーは、国の味と違って美味しいと言い、沢山食べてくれた。

信じられない事に、ロシアでは魚は鮭しか売られていないらしい。鮭のムニエルや焼いた塩鮭は食べた。シシャモを焼いたが、2匹しか食べなかった。朝の卵料理はよく食べた。
このことから、私の二人の子供達が大抵の食品は一通り食べられるように育ってくれた事に改めて感謝した。
初めて使う箸は使えるようにと頑張っていたが、急ぐ時はフォークを渡した。

夕食は、できるだけ仕度と片付けを手伝って貰いたいと初めに告げたので、帰りが遅くなった日を除いては、食事の後片付けはほとんどやってくれた。

室は一人に1室づつを割り当て、洗面、トイレは2階を専用にするので掃除はしてほしいこと、また、ベットは無いので、寝具は毎朝片づける事も要求した。
洗面所の使い方が荒かったが、最後は綺麗に掃除をしてくれた。

夕食の後は、居間で適当にくつろいで貰いたいと話した。
引率の若い女性教諭は、日本語は8割方理解し、快活でユーモアに溢れ、学生思いの魅力的な方だった。
女子学生は年齢的には日本の高校生と同じだった。
ロシアでは、小学校は3年間、中学校は4年間なのだという。彼女はまだ思うようには日本語を話せないので、先生が通訳をすることが多かった。

三人で毎晩、夕食の後、デザートを食べ、お茶を飲みながら、実に色々な事を話し合った。
(玄米茶を入れたら好きだと言うので、その後はほとんどそれを出した。日本の菓子類の味付けは、甘さがきつくないので美味しいと言っていた。毎日、違う和風デザートを用意した。)
私自身が21年前の夏に、小樽からロシア船に乗り、ナホトカからはシベリア鉄道で1昼夜過ごし、ハバロフスクからは空路でモスクワ迄8時間飛び、旅行した経験があった事も交流に役立ったと思っている。

また、昔、大学でロシア語を少しかじったことがあり、ロシア語の辞典を引くことはできたが、何よりも日本語を勉強している先生が来てくれた事が、話し合いの力になった。言葉が分からなくなると、お互いに簡単な英語を使った。先生は分からない私の言葉があると、その都度ノートにメモして、和露辞典で調べていた。

2週間は意外に早く過ぎた。普段、気ままな一人暮らしをしている私には気苦労もあったが、総じて楽しく刺激的な日々だった。
最後の晩餐の時、慌てて手作りして用意した和風手提げ袋をお土産として二人に渡した。また、小さな折り紙の本と和紙の折り紙、庭の薔薇や百合の花をバックに撮影した二人の写真を10枚づつプリントして記念に渡した。

今は、来年も私の体調がもし変わらなければ、また2週間位なら草の根の国際交流に一役買うため、ホストファミリーを引き受けても良いかなと思っている所である。



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