今日は真夏日の晴天の下、ある登山グループの「樽前山登山」に参加した。
「樽前山」は支笏湖の傍に位置する活火山である。
直径が450m、高さ100mあるという黒色で荒々しい姿の溶岩ドームは、明治42年の大爆発でできたそうだ。今でも溶岩ドームの傍の噴気孔からは噴煙が立ち昇っている。数年前から火山活動が激しくなって以来、外輪山には行けるが、噴火口の内部への立ち入りは禁止され、ロープが張られている。また、去年9月に行った時には気づかなかったが、外輪山の一部には噴火を報せる観測装置も付けられていた。
私達は今朝、車に分乗して出発し、7合目の駐車場(既に660mある)に車を止めた。そこが登山口である。土日は駐車場に入りきらない車が狭い道路の片側に長い列を作るのだが、今日は火曜日のまだ早い時間なので余裕があった。
比較的新しい感じのトイレで用を済ませ、簡単な準備体操をしてから9時35分に登山を開始した。
10分も昇ると支笏湖を見渡す展望台に到着。晴天なので、空の色を映した支笏湖が静寂な美しいたたずまいを見せていた。
さらに少し昇ると、そこはもう樹林限界になり、ざらざらの火山礫の道になる。しかし、そんな道の脇の所々に樽前草(いわぶくろ)が薄いピンク色の花を咲かせ、千島桔梗が小さな薄紫の花を付けていた。花が終わった磯つつじやコメバツガザクラなども見たが、乾き切った火山礫の土にしがみついている様子だった。また、苫小牧方面にかけて広がる大原生林を一望できた。
私達を追い越した若いカップルが、水の一本も何も持たずに身軽な格好で登って行ったのには驚いた。
リーダーの指示でゆっくりと登ったが、1時間余りで西山方面と東山方面へ別れる外輪山の稜線分岐に着いた。風があり、良い気分だ。何時見ても溶岩ドームには威圧的で異様な印象を受け、地球の凄い営みの一つを見せつけられる。
私達は、稜線分岐から「東山のピーク」(1023.8mとガイドブックにあるが、看板は違うようだ)へと更に一登りした。(写真)
東山から見た支笏湖も幻想的な美しさを見せていた。(写真)
きちんとリュックをしょった別の若いカップルが楽しそうに昇って来たので、東山のピークで二人の写真を携帯で撮って上げた。
私達はそこから外輪山の稜線を一度、西北側に下り、更に風不死岳の隣に位置する「932m峰」へ登った。(写真左端の山が「932m峰」、右の大きな山は「風不死岳」1102m、その背後に支笏湖が覗いている)
私が「東山ピーク」からそのルートを辿るのは初めてだったが、頑張って百メートル位登っただけあって、「932m峰」から見る溶岩ドームを鳥の頭に見立てたら、東山ピークと西山ピークが、丁度広げた鳥の両翼の形に見えるのだ。その巨大な鳥の形は実に優美で、火山の爆発によって偶然にできたとはいえ、自然の造形美を感じされられた。(近すぎて一部分しか写真に納まらなかった) また、樽前山とは反対側の遥か遠くには、うっすらと「羊蹄山」「尻別岳」も臨むことができた。
20分程めいめい好みの岩に腰掛けて、眼前の「樽前山」を眺めながら昼食を摂った。
その時、8人の中高年女性と男性ガイドのグループが「932m峰」へ登って来た。どこから来たのか聞くと、「東京から今朝、来た」という。多分、千歳空港に着き、そこから近い「樽前山」に真っ直ぐ来て、登って来たのだろう。「涼しい山だ」と私達に言って急いで下りて行った。
北海道は本州より緯度が高いため、1000mの山の植生や気温は本州の2000mの山に匹敵するそうだ。その良さを判って欲しいと思った。明日はどこの山に登る予定なのかを尋ねなかったのを残念に思った。
下山は「風不死岳」へのルートを通った。この下山ルートの前半は細かな火山礫の急な道なので、私は杖を使って滑らないように注意しながら下りた。下の方に行くと黒っぽい溶岩流が冷えて固まり、大きな岩の様になった所も沢山あった。さらに下りると平坦な道路が長々と続き、疲れたためか登山口まで遠く感じた。
登山開始から終了まで全部で4時間かかったが、休憩時間を除くと3時間ちょっと歩いた事になる。木が無いので日射しはとても強く、すっかり日焼けしたが、微風があったので登山中は快かった。
途中、支笏湖の国民休暇村で温泉に入り、更衣した。この温泉の湯は薄茶色で肌がつるつるした。
今回は私にとって、「932m峰」に登る新しい経験ができ、簡単に登れる活火山の魅力をさらに深めた登山となった。
少し認知症が出てきている方なので、去年からディサービスにも行っているらしい。
旦那さんが亡くなってから、かれこれ十数年になるらしいが、庭仕事などはずっと旦那さんの仕事だったので、元気な時は自分でも草取りをしたが、この数年は全く手を付けずに放置していると話してくれた。
見ると、草丈が随分のび、折角の立派な庭木も埋もれていて、80坪位はあると思われる広い庭が荒れ放題なのだ。聞くと、泥棒に2回も入られたのだという。
先日行った時に、私から「良かったら手伝いたい」といってあった。昨日は朝から曇りで、私の予定は無し。庭仕事には好条件なので、午後、長靴、手袋、帽子を持参して押しかけた。
4時間程仕事をしたら、随分庭に明るさが戻って来た。抜いた草や、切った枝は、大きなゴミ袋5つに入り切らず、木の陰に更に山が二つできた。
夕食を食べて下さいと言われたが、辞退したらお土産を持たせられた。帰ってから見たら、鶏肉、玉葱、白滝、漬け物、ペットボトルのお茶だった。Aさんらしいと思った。
昨日の草取りは、家の前庭と道路際しかできなかったので、その内、裏庭の草取りも手伝いたいと思っている。
服を脱いで見たら草の種が沢山付いていて、取るのに苦労した。疲れたけれど、身体を動かしたので気分の良い半日だった。
亡くなった私の母の妹に当たる83歳の叔母は、私の家から車で1時間半の所にある老健施設の2階の4人部屋にいる。一人息子は数年前から本州へ単身赴任しているので、滅多に会えない。また、息子の奥さんは近くにいるのだが、家が広くても同居とは行かず、叔母は以前、ちょっとの期間入院した後、この老健施設に入り、2年以上暮らしているのである。
老健施設は、本来は病院に入院していたお年寄りが、家庭生活に適応できるようにするリハビリのための施設で、基本的には6ヶ月間ということになっている様だが、実際には叔母のように「社会的入所」(何らかの理由で家庭に帰れず、そこに居続ける事)をしている人が多い様だ。
今日は途中で妹も誘って乗せ、11時に施設に着いた。叔母には、今日行くと連絡してあったので、すでに外出するスタイルをして嬉しそうに出迎えてくれた。
外出届けを書き、施設の昼ご飯をキャンセルして叔母を外に連れ出した。
この施設の玄関は、外部からの訪問者などは入る事ができるが、内部からは事務室の人に電気錠を解除してもらわないと開かない様になっているのだ。入所者の安全確保のためだろうが、実は誰か家族が連れ出さない限り、入所者は一歩も外へ出ることができないのである。
さらに安全のためか、エレベーターしかないので、叔母は最近では歩くことも覚束ない有様なのだ。(それでも叔母はまだ何とか伝い歩きができるが、入所者の大半の人は車椅子を使っている。昼間でもトイレと食事以外は、ベットで横になっている人が多いのである。)
私は月に1度位の頻度で叔母の所に行くのだが、その度に3時間位は外へ連れ出し、公園や大型スーパーマーケットに行って歩かせたり、食事をしながらお喋りしたり、買い物をさせたり、またある時は海を見にドライブしたり、我が家に連れて来たりもして来た。
叔母の施設の食事では、生もの、果物などは一切出ないので、私は大抵、果物を土産に持って行き、適当な場所を見つけてはそこで食べさせてきた。
今日は妹と3人で、まず昼食を食べに回転寿司屋に入った。叔母の好きな寿司を注文して食べさせたら、美味しいと喜んでくれた。
そこを出てから、札幌の東区にある百合が原公園に連れて行った。薔薇の良い時期は終わっていたが、ラベンダーと百合が見事に咲き誇っていた。
広い公園内を花を目当てにして、足が覚束ない叔母を支えながらゆっくり歩いたら、結構な距離を歩いてくれた。景色の良い所で記念撮影もした。
センターホールでアイスコーヒーを飲ませて水分補給をしたら、叔母は美味しそうに飲んだ。
その次に何時も行く大型スーパーに連れて行った。
ソフトクリームが食べたいというので軽食コーナーで食べさせた。そこで1時間程、他愛ないお喋りをした。
外出届けを夕方までとして来たので時間はたっぷりあるのに、叔母は何度も時間を気にするのだ。毎日の施設の生活を、決められた時間通りにしているからなのだろうか。
最後に叔母は、同室の人達に外出土産を買った。いつもの事なのだが、叔母だけが時々こうして外出できるので、同室の人達にはせめて何か買って帰りたいと言うのだ。見ていたら、今日は和菓子とトマトを買った。
施設に送り届ける途中、「早く死にたい。」と言うのだ。私は、「また何処かに連れて行くから、歩けなくなったらだめだよ。元気でいてね。」と言ったが、返事がなかった。
妹と帰りの車の中で、「これからも時々連れ出してやらないと、本当に歩けなくなりそうだね。」と話した。
老健施設はリハビリのための施設なのに、次第に叔母の身体が弱って行く現実に、私はいつも矛盾を感じるのである。
3時間余り、食事をしながら近況報告を兼ねたお喋りをした。
庭仕事に精を出している人、300坪の畑で本格的な農作業をしている人、登山を楽しんでいる人、水泳やフラダンス、○○語を習っているという人、コンテストに出す様な写真撮影をしたり、手芸を楽しんでいる人、国内外の旅行に何度も出掛け見聞を広げているという人など、それぞれに自分なりの生活の仕方を楽しんでいる様子だった。中には認知症気味の親を抱えて苦労が始まった人も居た。
一人だが、まだ働いている人も居た。口では疲れ気味だと言っていたが、毎日、緊張感を持ち続けているためか、他の人よりは生き生きしているように思えた。
みんなの話を聞きながら、60代は、健康なら十分体力もあり、やりたいこともできる。しかし、70代、80代になってからも今の健康を維持して生活を楽しめる人は、自分を含めてどの位いるのかなと思った。
私の近況報告の番が来たので、過ぎた2年9ヶ月間の私の病気体験を率直に話した。
前回2年前のクラス会では、まだまだ私自身が精神的に落ち込んでいて話すことができなかったが、今回初めて話すことができたのは、私自身が病気と向き合い、心の整理ができたからだと思う。
「これから私は、日々を大切に、充実して生きていく努力をしたいと思っている。」と話したら、皆は納得してくれた様だった。
私の話がきっかけになって、民間の医療保険の善し悪しや国民健康保険が高すぎる事、医療費の年末調整の事、遺産相続のことなど、実に色々な話しが出た。
子どもに遺産を多く残したいと言った人には、そんな必要はないのではという意見が出た。
また、友人でがんになっている人がいるのだけれど、という相談もされたりした。
本当に思い切って今日は、自分の事を話して良かったと思った。
来年は私も幹事になったので、ちょっと工夫を凝らしたクラス会を企画したいと思いながら帰宅した。
昨年、「夕張岳」に登ったメンバーで今年は「富良野岳」に行く事にした。
登山前日、友人の車に乗り合わせて、午後、札幌を出発し、夕方「富良野岳」の登山口にある十勝岳温泉Rホテルに着いて一泊した。
このホテル自体が一番高い1350mの所に建っているので、1912mの「富良野岳」頂上との標高差は662mになるのだ。
日没前、座敷のまどから「三峰山」と「十勝岳」の頂上を見ながら夕食を食べた。
しばらくすると、「日没が素敵なので玄関先に出ては」と、ホテルより連絡が来た。食事を中断して出て見ると、既に30人程の宿泊客が浴衣姿でベンチに座っていた。徐々に沈む太陽を見ながら、ビールの影響もあってか皆さんはしゃいでいた。
翌朝4時に起き、前日の夜、ホテルに作って貰ったお握りを食べ、玄関前で簡単なストレッチをしてから5時に登山を開始した。天気予報は晴れ。空気は冷たく爽やかで、風通しの良い場所では寒い位だった。
登山開始後30分で、1857年(安政4年5月)の大噴火後、今も噴煙を上げている「安政火口」の60m位手前に着いた。安政火口の後ろ側は、茶色い土がむき出しになった荒々しい山肌が屏風のように切り立った崖状になっている。その頂上は「三峰山」という名が付けられているが、古い昔の噴火を思い起こさせる光景だった。(写真左、日が昇る前なので暗い)
下の数件のホテルは、この火口の傍から湧く温泉水をパイプで下に引いているのだという。温泉の湯は茶色で不透明、かなり温度が高かった。
前に来た時には無かった溶岩流の監視カメラが左手の崖の上に設置されていた。
安政火口を左に見て、涸れ沢のヌッカクシ富良野川(写真右、下山時に撮した)を対岸に渡ると、そこはもう「富良野岳」への登山道だ。
岩だらけの道を登る事1時間程で、ハイマツが群生していた。さらにしばらく登ると、雌阿寒キンバイやエゾルリソウ、高嶺ナナカマドなどがぎっしりと咲くお花畑に着いた。
そこから頂上までは、登山道の両側に短い夏を精一杯謳歌する様に咲き誇る名の知らない花々を楽しみ、写真も時々撮りながら登った。(写真)
急な道では息が切れそうになって休んだが、間もなく頂上に着いた。時計を見たら8時、私達は、丁度、3時間で登ったのだ。
頂上の丸太で作られた「富良野岳」の標識は立派だった。早速、その横に立って記念写真を撮った。
360度、何処を見ても息を飲むような素晴らしい大自然だ。
南西方向はるか遠くに、去年登った「夕張岳」が霞んで見えた。
反対側に頂上が尖って、山肌が茶色い山は「十勝岳」2077mだ。見ると時々、形を変えながら白い噴煙を噴き上げている。
「十勝岳」は安政の噴火後も明治20年、大正15年、昭和37年、昭和63年と4回の噴火を繰り返した山だ。本によると大正15年(1926年)の大噴火では、最初の爆発とその40分後の爆発で発生した泥流が硫黄鉱山事務所を飲み込み、一気に谷を下って、25分で25km離れた下の上富良野原野に到達し、二つの町を埋めて144人が死亡、372棟の建物と多くの家畜や鳥を失ったと書かれている。
「十勝岳」の向こうには「美瑛岳」2052m、さらに奥には「オプタテシケ山」2013mと続き、一番遠くに筋状に沢山の残雪を見せ、青白く浮かぶのが「トムラウシ山」「旭岳」などが連なる大雪連峰だ。(写真)
あまり広くない頂上に、続々と登山者が登って来て、すぐに20人を超えた。山開き後の晴天の日曜日ということで、私達のような登山者が沢山来るのだ。
頂上では友人が簡易コンロで湧かしてくれたお湯で、スープとコーヒーを頂き、簡単な食事をした。私はバナナと菓子パンを食べた。
下りは、眼前に十勝岳、遠くに大雪連峰、足元に咲き誇る高山植物を見ながらのすごく贅沢なものだった。
私と一人の友達が膝が弱いので、ゆっくり慎重に下ったら3時間かかった。下る途中、ツアーらしいグループやタンクトップ姿の外国人家族、小学生の子どもを連れた家族、単独登山者などとすれ違った。
登山口に戻って時計を見たら、丁度12時だった。頂上での40分の休憩を入れて、往復7時間かかった事になる。
泊まったホテルの温泉で汗を流し、上がる前に冷水を足に何度も掛けてほてった足を冷やした。こうすると翌日の筋肉痛が軽くて済むようなのだ。着替えてから昼食を食べた。
「富良野岳」は、岩がごろごろしている気の抜けない道が続くが、見晴らしも高山植物も素晴らしい良い山だった。疲れの中にも充実感を感じながら札幌に向かった。着いたのは夕方だった。
札幌から車で1時間程の所にSビール工場とKビール工場があるが、今日は妹とKビール工場へ初めて行ってみた。
丁度、昼過ぎだったので、まずレストランに入った。レストランは、ジンギスカンのスペースと一般メニューのスペースに別れていたが、ジンギスカンスペースでは学生風の服装の人など、沢山の人達が食事中だった。
私達は一般メニューのテーブルに落ち着き、コーヒーとガーリックピザを注文した。結構美味しかった。
それから工場見学をした。午前中は沢山のグループが見学に訪れたらしいが、その時間は私達だけだった。
説明案内役の女性が、よどみなく、分かりやすく、ビールが仕込まれて熟成し、瓶や缶に詰められる迄の過程を、二階の廊下から生産ラインを下に見学する形で、30分程かけて説明してくれた。
生産ラインでは、丁度、瓶詰めと缶詰の製造が行われていたが、次々と素早く詰められ、シールが貼られて箱詰めされる様子が面白かった。機械はコンピューターによる管理がされているので、設備の巨大さに比べて人の姿は少なかった。
最後に試飲コーナーに案内された。できたてのビールを試飲するのだが、私は車を運転して行ったので、「運転手」のバッチをつけられ、清涼飲料水を渡された。妹はビールを美味しいと言いながら飲んだ。
私達が飲んでいる間を利用して、案内嬢が美味しいビールの注ぎ方「三度つぎ」を実演講習してくれた。
最初はある程度の高さから勢い良く泡が立つように、コップの半分位まで注ぐのだ。泡が少し落ち着くのを待ち、次は静かに一杯になるまで注ぐ。またしばらくの間、泡が落ち着いてグラスの上が空くまで待ち、最後にグラスの上端から泡が持ち上がるまで静かに注いで飲むのだ。
私は試飲できなかったが、妹がグラスのビールを飲んで見て、まろやかで美味しいと言っていた。しかし、「三度つぎ」は、飲むまでにかなりの時間がかかることが難点で、せっかちさんはきっと待てないだろうと思った。
工場見学の案内嬢は、案内説明した上に、ビールの注ぎ方実演まで、1時間近くを一人で担当した。実にテキパキとにこやかに、私の意地悪質問にも真っ正面から適切に答えてくれ、さすがにプロだと感心した。ご苦労様でした。
小規模な家庭菜園を作るための講習会なので、私は、本格的な農薬を使わずにできる方法の講習かな、と思って出掛けたが違った。
農薬メーカーの方が来ていて、パンフレットが配られ、今、国が使用を認めている農薬を、使用方法を守って使えば、安全で収穫量が上がり、さらに省力化を図れるという説明だった。
そして、国の10項目の農薬登録基準が環境大臣によって定められ、その内、①作物残留 ②土壌残留 ③水産動植物への毒性 ④水質汚濁の4項目が以前に比べて厳しくなっていて、それらの基準値を満たさなければ登録が保留されるという話しなどがあった。
また、大半の病気の原因であるカビの害を防ぐために、①予防剤と②治療剤があるが、最近ではこの両方の効果が期待できる農薬があるとして、その会社が販売している農薬が紹介された。
さらに新しい除草剤では、草の光合成を阻害して草を枯らせるものが出ていて、人間や動物は光合成をしないので害はないのだとか、昆虫の脳のシナプス(神経連絡細胞)に作用して昆虫を死なせる新しい殺虫剤も出て来たのだそうだ。
質問はないかと問われたので、「農薬の許可、生産、販売が法律に基づいてきちんとされても、実際に使う農家が、果たして使用基準を完全に守ってくれているかどうかという不安が消費者にはあるが、その点はどうなのか」を聞いてみた。
最近は、『ポジテブリスト』といって、その作物に使用が認められている農薬だけではなく、全農薬の検査がされるようになり、どこかの畑から風で飛んできてかかってしまった農薬が検出されて、販売ができなくなったりする場合もあるそうだ。だから農家は、かなりきちんと農薬を管理して使用するようになって来ているのだという。
また、農薬使用の経歴を記録する『トレーサビリティ』も増えて来ているという話しだった。
私は、日本はまだ、過渡期にあると受け取った。
さらに「使わなくなった農薬の処分の仕方」を質問した人には、農協に行って聞くように、という答えがあった。
「古い農薬は使えるかどうか」という質問には、保管の仕方にもよるが、全く効き目がないとはいえない、ということだった。
今回の講習内容は、私には初めて知る事も多かったが、家庭菜園での農薬使用は、やはり最低にしたいと思った。収穫物を売って生活するわけではないので、多少、虫に食べられようが、収量が落ちようが良いと思っている。
それに、多品種を少しずつ作る場合が多くなるが、作物ごとの農薬を買っていたら経費も嵩むし、素人なので管理も難しくなるはずだ。そう思っていたら講師から、多品種に効く農薬もあるといって、その農薬のパンフレットが配られた。
説明の後、実際に農薬を希釈し、玉葱に散布して見せてくれた。
散布者は、手袋、マスク、長袖の服を着て、晴れた風のない時に農薬の登録内容内のものに散布するようにと言われた。
私は、家庭菜園はほとんどが小規模なので、毎日こまめに見回る事で適切な対処を取りやすい所が長所だと思っているが、講習を受けて、病害虫対策は永遠の課題だと改めて思った。