花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

やっとパソコンが届いた

2020年03月28日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

昨夜、パソコンを注文したY電気店から、入荷したという知らせがあった。それで今日、買ってから2ヶ月経って、やっと届いたパソコンを受け取りに行って来た。「新型コロナ」の影響で、中国で生産していたパソコンの多くが生産できなくなっていたためなのだ。

このパソコンは、画面の表示が今までのと変わっているところが多く、慣れるのに日にちがかかりそうだ。多分、私の年齢を考えたら、このパソコンが人生の最後になると思う。大事にして楽しみたい。

北海道では先月末から「新型コロナ」の感染防止の対策で「不要不急の外出を避けて、自宅で待機をする」という緊急事態になって1ヶ月になる。この所、全国的には爆発的な感染は抑えられているが、東京、関西で感染者が急増していて、予断を許さない状況である。

私も自分のできることを考え、「手作りマスク」を作って、普段お世話になっている近所の方たちに差し上げたりして来たが、マスクの材料に必要な「ガーゼ地」や「細いゴム紐」を置いてある筈の店を数軒回っても全く見つからないので、マスク作りは暫く休むことにした。

昨日は庭の雪が溶けて消えたので、待ちに待った庭仕事を少しずつ始めた。

花畑のゴミを集めて埋めてから、バラや牡丹、葡萄の木の根元に、牛糞堆肥、油かす、化成肥料を施して、発芽を促す春一番の作業をした。木の数が多いので結構時間がかかったし、途中で堆肥などのストックが無くなり、ホームセンターに買いに走ったりもした。

肥料をやりながら思った事は、今の特別な時期に、私には自宅にいてもする仕事や楽しめることがあって良かったということだ。そうでなければ、他に何か時間つぶしをして楽しむことを見つけなければならないと思う。

高齢者が自宅でジッと動かずにいたら、確実に筋力が衰え、認知力も低下して行くらしいから、年齢的には尚更、注意しなければならない所だった。

この度外務省は、世界中の国々の危険情報を2に変えた。

外国へ行きたくてもしばらくは航空機など渡航手段が大幅に制限されると思うので、この際、家でできることを探して、意味ある毎日にしたいものだ。今休館している市立図書館が、4月1日には開館するというので、本を借りて来て読んだり、TVで映画やドラマも見たい。

余談になるが、先月行った「インド」の外出禁止のニュースを見た。違反者を警察が棒でたたいたり、強制的にスクワットや腕立て伏せをやらせていた。13億の人たちを取り締まるのは大変な事なのだと思う。それに、多くのホームレスの人たちが今、どうなっているのかがすごく気になる。

 

 

 

 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手作りマスクに挑戦してみた(3)

2020年03月20日 | 日記

まだ「手作りマスク」の話が続く。

実は昨日、100円ショップにマスク用のゴム紐を捜しに行ったが、幅が細いゴムは品切れだった。保育所や幼稚園、小学校の子供がいる母親は、きっと可愛い色柄の木綿布を買って来て、マスクを作っているのだろうなと思った。

その店で色物のマスクをしている女性を見かけた。「そのマスク、手作りされたんですか?」と聞くと、嬉しそうに「そうです。今日はゴム紐を買いに来ましたが、無いですね。」と言っていた。

ふと、手芸用の布地が下がっている場所を見たら、色々な色柄の布地があった。綿100%でベージュ色の無地の布地があったので、2つ買って来た。1つ45cm×90cmで110円だった。

娘が毎日働いているので丁度良いのではと思い、朝、水につけてから乾かし、アイロンを掛けた。

そして先ほど1枚の布地から何と5枚のマスクを作った。布地を細長い筒状の形にしてから2つに折って作る簡単な方法で、あっという間に布地が4枚重なった「平面マスク」が出来上がった。1枚当りのマスクの生地代は、僅か22円にしかならない。ゴム紐代を入れてもたかが知れている。(但し、私の手間賃は高い筈だが…)

娘が来た時に、今まで作った「立体マスク」と合わせて、これだけの布地マスクを渡す事にした。毎日取り替えながら働くと気持ちが良いのではと思うが、果たして使ってくれるかな?

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手作りマスクに挑戦してみた(2)

2020年03月20日 | 日記

一昨日は、縫うのが困難だった「二重のタオル生地」の残りは、タオルとしては使えなくなった。勿体無いので、昨夜、再挑戦して見た。

今度は表裏共タオル地の「2枚重ね」にしたものを作って見た。厚みが増してかなり縫い難い。しかし、できて見たらソフトな感じだ。

さらに「表だけをタオルで、裏はガーゼにして」縫ってみた。こちらの方が縫いやすいし、使うタオル生地は半分で済む。作りやすさを考えると、私の技能ではこちらが向いていると思った。

友人のタオル1本で、大人しい花柄のマスクが4個できた。まだ1枚分生地があるので、それも縫い上げたい。友人にも差し上げよう。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手作りマスクに挑戦してみた(1)

2020年03月18日 | 日記

この所、外出する際はマスクを着けるのを忘れないようにしているし、外で出会う人達も、律儀にほとんどマスクをしている。

ところが「化学繊維」でできている「使い捨てマスク」は、吸湿性が無いのでマスク内に呼気の水蒸気が溜まり、べたべたする上に息苦しい。

その点、昔からあった「ガーゼのマスク」は通気性が抜群で、気分良くつけていられるが、家には2個ほどしか買い置きがない。今では薬局やスーパーでも、マスク自体が棚から消えていて、勿論ガーゼ製もいつ入荷するか分からないという。

また、私と同様、手作りしたい人達が増えているらしく、ガーゼの生地もゴム紐も品薄だ。

以前ベトナムに行った時、オートバイが多く排気ガスで大気汚染がすざましい中、オートバイの運転手とそれに同乗している1~3人は、色も柄もとりどりのマスクをしていたのを見た。

その頃、日本ではマスクと言えば白が定番で、それ以外は売られていなかったので、私も白以外のユニークなマスクをして見たくなり、生地を物色したりした事があったが、その時は緊急性がなかったので、結局作らなかった。

今回は、「コロナウイルス」による感染の危険性がいつ収束するかが分からない。気分良くマスクをしていたいので、いよいよ自分で手作りする事にした。

一昨日の夜、箪笥の中を探したら、33cm幅の「ガーゼ」の生地が2m程出て来た。「晒し木綿」も同じ位あった。どちらもマスクの「裏地」として使える。「表生地」を探したら、木綿の「ネル地」でできた寝具の新しい「襟掛け」があった。色は青で、ボーダーの花柄がついているが、使えそうだ。

違う生地同士を表裏にしてマスクを作りたいので、昨日朝、生地の全てを地直しするため、2時間ほど水を吸わせて繊維を収縮させてから、干してアイロンを掛けた。

次に「マスクの型紙」が必要だが、家にあった立体的に作られている「使い捨てマスク」の形が気に入っていたので、それを参考にして自分で簡単な型紙を作成した。この形は、折りたたみ式のと違って、生地が少ししかいらないマスクだ。

いよいよ「ネル地」と「ガーゼ地」を中表にあわせ、その上に型紙を置き、印をつけてから縫い代分を付けて2枚一緒にカットした。

反対側の生地にも簡単に印をつけて、縫い合わせて行った。

初めの1枚は完成させるまで時間が掛かったが、2枚目からは30分前後で完成できる様になった。また、裁ち方を少し変えると、サイズも大中小のものができた。

結局、昨日は9個、今日は7個で、計16個を作った。「ネル地」の使う場所によって、色々な花柄になった。

それに昨日買って来た細目のゴムひもを通して完成させ、半分は近所へもお裾分けした。(無地にできたマスクは、男性も使えるかもしれないと思って差し上げた)

すると友人が、「二重ガーゼ」でできた「タオル」が使えないかと届けに来てくれた。

早速作ってみたが、生地が厚過ぎて私のミシンでは上手く縫えないのだ。何とか2個縫い上げて見た。なかなか着け心地良いマスクにはなったが、縫いづらく時間も掛かるので、それ以上作るのは一旦諦めた。

久し振りのミシン踏みで、肩が凝って来た。それに細かな仕事をし続けたので、眼も凄く疲れた。

当面、手元に9個残っているので、暫くは洗いながら大切に使おうと思っている。

マスクは色々な形の物があるので、その内また、別の色や柄の生地を見つけて、作って見たいと思っている。

(窓ガラスに張っているシールの絵柄が、型紙に反射してしまった)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不要不急の外出を控えて…

2020年03月16日 | 高齢期の生活全般

とに角一日中、「コロナウイルス」のニュースが耳に入る。中国・日本から、今は感染がヨーロッパ各国とアメリカに拡大した。経済への影響も世界的に深刻になって来ている。今後どうなって行くのか、不安である。

私自身、感染拡大の隙間を縫って「インド」へ行って来たが、数日遅ければ、インド入国ができなかったり、帰国時に日本の成田で足止めされていたかも知れないと思うと、ホッと胸を撫で下ろしている。

「不要不急の外出を控えよ」と行政から指示されているし、自覚症状が無くても、ひょっとして私が旅行先から「コロナウイルス」を持ち帰っていたら大変だと思い、念のために帰国後2週間、自宅にいた。体温を測ってもずっと36℃以下だったし、うがい薬でうがいもしていた。

帰国後、特にする事が無いので、「大型ゴミ」を市の回収車に出す事にした。

先週は古くなって最近調子が悪い「ステレオコンポ」を4つに分けて出した。今は無い「コロンビア」製のもので、音が良いのが気に入ってたいまいはたいて買った物だ。

持ち上げて見たら「アンプ」も「スピーカー」も物凄く重い。この「コンポ」を買って以来引越しを3回したので、過ぎたこととは言え、運んでくれた業者の方の苦労を思った。

毎日、朝の支度をしながらラジオを聞いたり、好きな音楽を掛けて十分楽しんだので、買った時は高価だったが、元は取ったと思っている。

また、もう乗らないと思う「自転車」も思い切って出した。知人の女性2人が自転車で転倒して骨折したことも、自転車をやめる理由だ。眼もバランス感覚も少し悪くなって来ているので、捨て時だと決心した。

そして今日は、「木綿わた」が入っている「掛け布団」2枚と「敷き布団」2枚を出した。

「掛け布団」はまだ比較的新しいが、「羽毛布団」を愛用し出したら、「木綿わた」の布団は重く感じて駄目なのだ。また、「敷き布団」は、ベランダの柵に掛けて日干しする際、持ち上げるのが大変だったからだ。

これで物置と押入れに少し隙間ができて良かった。

また、日差しが強くなって来たので、少し早いかなと思ったが、一昨日は、「ジニア」と「ニゲラ」の種を買って来てポリポットに蒔き、日が当る南の窓辺に置いた。

昨日は、昨年の余り種の「レタス」と「茎ブロッコリー」を蒔いた。

今年のガーデニングが始ったのだ。どれも発芽するのが楽しみだ。

  

          

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「インド・ラジャスタン州」(11)

2020年03月15日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

旅の6日目の昼食後は、一旦ホテルに戻って3時間程休息を取った。暑い地域なので、昼間の高温になる時間帯は休むのだろう。

3時半にホテルからバスで「タール砂漠」に向った。途中は民家が何も無い砂漠地帯が続いた。

初めて村があった。休憩しているラクダと老人達がいた。トイレを借りてから今にも壊れそうな「ジープ」に分乗し、砂漠に向った。

      

町外れにコンクリートでできた「水汲み場」があって、女性が2人、水汲みをしていた。飛んで来る砂を防ぐためか、顔もスカーフで覆っていた。30mは離れていたと思うが、走る「ジープ」からシャッターを切った。インドでは水汲みの仕事は子供と女性と決まっていて、水汲みの為に学校へ行けない子供も多い。また、ここで野生の鹿や孔雀も見たが、走り去ったのでカメラでは撮れなかった。

「ジープ」は、砂丘が登りになっている場所ではギアを下げて一気に駆け上がった。ドアがないので、振り落とされるのではないかと心配だった。

    

ラクダのいる場所に着いた。希望者は1人確か3000円を払って30分ラクダで散策していたが、私はラクダに触れたくなくて乗らなかった。

      

このラクダ引きは子供だ。面と向かって写真を取っても良いか訪ねると、チップをくれるならと言われた。

静かに「タール砂漠」に夕日が沈んで行った。薄明かりの中を、また「ジープ」で村に戻り、ホテルに帰った。これで今回の「インド旅行」の全ては終わった。

     

翌朝は8時半にホテルを出て、バスは「ジョードプル」まで6時間走った。「デリー」行きの航空機は1時間遅れて16時に離陸。「デリー」からの「成田」行きも1時間15分遅れて出発したため、「成田国際空港」には1時間遅れて、3月1日の9時過ぎに到着した。北海道への乗り継ぎ便は、少し余裕を見た時刻で予約をしていたために無事に間に合った。

前夜から昼にかけて雪が降ったらしく、帰宅して見たら玄関前の雪を隣家の人が撥ねてくれていた。早速伺い、お礼をした。

私が旅に出られるのも、ご近所の協力があっての事なのだと改めて感謝した。それから2週間になるが、「コロナウイルス」対策で食料品の買い物以外では外出をしないようにしている。

また、日本人の入国を禁じた国が多数あり、「コロナ」が収束しないと次の旅行は考えられないと思う。

これで長かった「インド・ラジャスターン州」の旅行記が完成した。今回も記憶力の低下に愕然とさせられている。

今回は写真をできるだけ大きく掲載してみたが、どうだっただろうか。もしも中に、私の記憶違いがあれば、気づいた方は是非とも指摘して欲しい。

                                    (完 成)

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「インド・ラジャスタン州」(10)

2020年03月15日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

「ジャイサルメール」は、隣国「パキスタン」との国境まで100kmほどしかなく、「タ-ル砂漠」の真ん中にある人口約8万人の町だ。

この町は、「ラージプート」の王「ジャイサル」が東西貿易の要所として12世紀に築いた都市国家だが、スエズ運河が開通し、「パキスタン」がインドから分離独立すると次第に貿易が衰退して、今では観光以外の収入が少ない貧しい町になってしまったという。

朝、バスで「カディサール湖」の船着場に行った。この湖も貯水池として造られたものだ。入り口に立派な門が立つが、上には「クリシュナ寺院」がある。

世界遺産「ジャイサルメール城」は黄色い砂岩で築かれていて、今でも旧市街には大勢の人達が暮らしている。

インド中で色々な動物が野生で暮らしているが、中でも牛が一番多い。資料によると、インドの牛乳・乳製品は品質が良く、生産量も世界第2位だというが、牛を飼う土地がない酪農家が多いので、放し飼いにされてしまうのだそうだ。雌牛は役立つが、牡牛は農耕以外は役立たないので捨てられることが多い。確かに見ると野良牛の大半は牡牛だった。(ヒンズー教では牛は神様なので殺したり食べたりはしない。多分、表向きだろうが)

路上で「ラクダの骨」を削って、人形の体を作っている人。布地の服を着せて売る。

      

「絨毯店」の入り口で、古い衣類や絨毯から使える部品を取り出してリサイクルしている年配の女性達。

女性の傍で、カーテンにタグを縫い付けている男性。

見晴らしが良いレストランで昼食に出された定食「ターリー」

          

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「インド・ラジャスタン州」(9)

2020年03月14日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

前後するが、3日目の午後は、「ラクナプール」の壮大な「ジャイナ教寺院」を見学した。

私にとってこの宗教の寺院を見るのは初めてだった。寺院には靴を脱いで入る。中は写真撮影は禁止されていた。壁面にびっしりと宗教の教義をあらわす彫刻が掘られ、芸術的に見ても価値のある者だった。

次は「ウィキペディア」から、「ジャイナ教」をコピーしたものだ。

【ジャイナ教(ジャイナきょう、サンスクリット語: जैन、英: Jainism)は、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の禁戒を厳守するなど徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。「ジナ教」とも呼ばれる。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。】

この宗教は、一切の殺生を禁じ、菜食主義を守る。小さな虫も殺さないし、卵も食べない。西洋の緩い菜食主義とは異なる。

5日目の午前中は、「ジャスサント・タダ」という霊廟を見学した。こちらは湖の傍の小高い丘に建っていて、規模は小さいが、マハラジャの「ジャスワント・スイン」を偲ぶために大理石で1899年に建造された。

どこで見ても、掃除をしたり水を汲んでいるのは女性だった。

しかも夏には50℃を越える気温になるというのに、女性だけは常に頭にスカーフを被っていなければならないし、民族服の巻き衣「サリー」は、体に巻くだけなので着崩れし易いだろうし、どう考えても日常着、労働着には相応しくないように私には思えた。しかも上流階級の女性は、汗を吸ってくれる涼しいコットンシルクの生地のサリーを着ていたが、貧しい階層の女性達は、汗を吸わないが価格が安いポリエステルなどの化学繊維を身に纏っていた。男性は下着やコットンの半ズボン、シャツ、また足はサンダル履きや裸足姿で活動的であり、涼しそうだった。

昨夜読んだ明石書店出版「現代インドを知るための60章」には、インドの伝統的な家族は「ヒンズー合同家族」だと書いてあった。息子達は親が決めた女性と結婚しても、財産を分ける事無く、親や兄弟姉妹、場合によっては親戚一族などと同居し、経済的にも合同の生活を続ける。

娘は相手家族に「持参金」を支払って結婚すれば、親の家を出て夫の親達と合同の家族の一員になるというものだ。だから家族人数は多く、いわゆる「嫁」は、夫とその親に服従し、夫の兄弟姉妹にも従わねばならないそうだ。その上、夫以外の男性がいる部屋や場所では、常にスカーフを被り、髪を隠さねばならない。

しかし近年、慣習的にカースト制はあっても中等学校を出たり、中にはカレッジやユニバースティなどに進む男女もいて、そうした高等教育を受けて経済力を持った若者の中には、恋愛をして親家族とは別に独立した家庭を持つ人達も増えて来ているそうだ。かっては無かったIT産業や医療関係などの職業につけば、「カースト制」があってもそれに縛られずに生きることができるので、IT教育、医学教育を受ける希望者が多いが、それには大変な高倍率を突破することが必要で、実際に進学できる人は限られている。今ではインドは、世界的にも有数の受験競争社会なのだ。

(この本は国別にシリーズで出版されていて、既に70冊を越えていると思う。どれも大学で専門に研究している教授たちが執筆しているので、内容は信頼できる。私は旅行先が決まったら図書館から借りて来て、事前に読むようにしている。)

          

「ジョードプル」見学後は、この州内では最西端の砂漠の町「ジャイサルメール」まで西方約287kmの距離を5時間半かけて走り、ホテルに着いた。

          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「インド・ラジャスタン州」(8)

2020年03月13日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

5日目は「タール砂漠」の入り口にある「ジョードプル」の旧市外にある「メヘラーンガル砦」と「ジャスサンド・タダ霊廟」に行った。

「メヘラーンガル砦」、1475年に「ラートール家」の王「ジョーダ」が、「マールワール王国」の首都として建造した町で、10kmの城砦が町を囲む。

高さ130mの岩山の上に、更に高さ36mの要塞が築かれている。今はマハラージャの所有だが、一部が博物館として公開されている。オーデオガイドを借りて見学した。

贅沢に飾り付けられた部屋。

屋上から町を見渡すと、「ジョードプル」が「青い町」と言われる訳となった青く塗られた壁の家が点在していた。

凝った装飾が施された吹き抜けの部屋。

その後、急な石畳の坂を下の「旧市街」まで下りた。斜面の道は狭く汚く、家々が斜面の両側に隣同士くっ付きあって建っていた。

そして、色々な商売を営む店が雑然と並んでいた。この狭い路地で風船を持った2人の7~8歳位の裸足の少女に「ピクチャー、ピクチャー」と声を掛けられ、ずっと付きまとわれた。写真を撮らせてチップを要求しているのだ。

ようやく平地に下りた。少し行くと広場になっていて、高い塔が立っていた。その場所から少し前に見学した「メヘラーンガル砦」が見えた。

 

広場の周りにまさにぎっしりと商店が軒を連ねていた。北インドは昔から織物産業が発達していた地域だったらしく、大小の絨毯やシルク製品の店が多く目に付いた。

広場を出て振り返ると、広場の入り口には立派な門が立っていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「インド・ラジャスタン州」(7)

2020年03月12日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

3日目は、「ウダイプール」のホテルを8時半に出てからバスで約100kmの距離を2時間半、、東北東の隣町「チットールガル」まで走った。この町を治めていた王が築いた「クンバルガー城」を見学するためだ。

出発後、町の人々の朝の風景に出会った。走るバスから見て写した一瞬の写真なので、何をしているところかは定かには分からなかった。

途中の山裾に豊かな小麦畑があり、4月の収穫を待っていた。小麦は年に2回収穫される。

8時近くに「クンバルガー」に到着した。そこでバスから降りて、オートリク車に乗り換えた。城まで7km乗るという。

細い道を暫く走ると、リク車から下ろされた。そこが「クンバルガー城」の撮影スポットだと教えられた。城は高さ150mの小高い山の上に建っていた。

この城砦は、「チットールガル城」が陥落した後、王「ラーナー・クンパ」は「ウダイプール」に逃げ落ち、そこを首都に決め、1443~1458年にこの城を建てて統治した。

オートリク車で登ったところに最初の分厚い「城門」があり、その前でオートリクシャーから降りて門内に入り、さらに私達は勾配が急な坂道を徒歩で暫く登った。

最初の門の「ラーム・ポール門」

少し登ると、水道が設置されてあり、右側に「シバ神の寺院」が建っていた。今も使われているようだった。

 

そこから上の城を見上げた。ブーゲンビレアが咲いていた。

更にツヅラ折に傾斜している道を登るとようやく山の頂上に出た。

  

廃墟の入口には、雨が少ないこの地方で、雨水を溜める装置があった。

  

     

小さい中庭に沿って、贅を凝らした居室があった。

      

更に城の屋上に上がると、遥か下に私達が通った道が見えた。

見学し終わり、城を出た時、中学生らしい一団が登って来た。見学に来たというより、体育の授業で軽登山をしているように思えた。

見学後、「ジョードプル」に戻り、ホテルに向った。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「インド・ラジャスタン州」(6)

2020年03月12日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

3日目、ボート遊覧を終えてから、世界遺産「チットールガル城」の見学に行った。

「チットールガル駅」周辺に小さな町があり、そこから「オートリク車」に乗って高さ150mの山に登った。そこに東西800m、南北2.5kmという広さに「チットールガル城」の遺跡とジャイナ教の寺院などが点在していた。

「チットールガル」は1567年までは「メーワール王国」の首都だった。しかし、14~16世紀に3度、イスラーム教徒軍に攻撃され、最後は女性達が名誉の自殺をし、兵士達も次々と倒れて行き、敗戦した。

女性達が下の町まで行くための近道だったという。

         

上から下を見下ろすと、数台のオートリク車が私達を待っていた。

「ストリンガー・チョーリ寺院」はジャイナ教の寺院だ。

「チットールガル城」から1kmほど離れた平地に1448年に建てられた9層、高さ37mの「勝利の塔」が立っていた。周りにはぐるりと繊細な彫刻が施されていた。

また、傍の崖下に貯水池も造られていた。この場所には野生の猿が沢山いた。

      

      

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「インド・ラジャスタン州」(5)

2020年03月12日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

2日目は朝、「ビチョラー湖」に行き、ボートで遊覧した。

前にも書いたが、この湖は16世紀に直ぐ隣の町「チットーガル」を追われた王「ウダイ・スイン」が川を堰き止めて造った15k㎡ある人造湖だ。

私達は救命胴衣をつけて1艘の遊覧船に乗った。ほとんど波の無い穏やかさで、昨日見学した「シティパレス」を右に見ながらボートは北を目指した。

やがて湖の中に建つ「タージ・レイク・パレス」の周りを遠巻きに回った。ホテルの宿客者か、ホテルの端で水浴びをしていた。

  

            

やがて湖の南方にある小さな「島の宮殿」の桟橋に辿り着いた。そこで20分程休憩したが、この島でもお金持ちの結婚式の準備をしていた。

         

遊覧を終えて、私達は元の桟橋に戻った。

街中の昼食場所では、庭に大勢の外国人観光客が集っていて、ビュッフェスタイルのインド料理が提供された。日本人は私達だけだった。

     

昼食を終えてバスに乗ると、直前に沢山の人を乗せた軽トラックが走っていたので写真を撮った。インドでは、こんな乗り方は当たり前のようだった。バスもドアが開いたまま走っていた。

              

 

暫く行くと牛が走って来た。インドの牛はこういう体型をしているのが多かった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「インド・ラジャスタン州」(4)

2020年03月10日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

前回書いたように、15k㎡の広さがある人造湖の「ビチャラート湖」の湖畔に、壮大な宮殿「シティパレス」が旧市街を見下ろして建っていた。大理石と御影石でできていた。数世紀に渡って「マハーラーニー」が住んでいたが、現在は一部が博物館に、また一部はホテルとして利用されているという。

博物館部分の数十箇所もの各部屋とベランダは、贅を凝らした作りになっていて、歴代マハラージャの権力と財力が伺えた。

この日は翌日この会場を借りて行われるという地元名士の結婚式があるという事で、飾りつけや電気の配線、舞台設置、楽団員達と大勢の労働者などが忙しく立ち働いていた。国内線の飛行機で近くに座っていた品の良い女性3人組も来ていた。インドの結婚式は数日間続き、富裕層は結婚式に大変なお金を掛けるのだそうだ。

(一方インドには、結婚する女性は一生分の「持参金」を相手の家族に渡さねばならず、そのために女性の親は家を売るなどしてお金を用意する習慣がある。ガイド氏の話では、それで悲しいかなインドの貧困層では、女児が産まれるとその場で殺してしまうことが多いと言う。妊娠中に女児だと分かると中絶もしていたが、数年前に法で禁止された。そのため、産まれた子供の男女比は、女児が極端に少ない。この時私は、「持参金」が少なかった花嫁の女性が再度「持参金」を期待する親族の人達によって殺された話が日本の本に出ていたと話した)

「ビチャラート湖」の傍の駐車場でバスを下りてから、傾斜する坂を上って「シティパレス」の入り口に行った。入り口の湖とは反対側には高い塀が築かれ、下に象の彫刻が配されていた。

入り口を入ると更に傾斜した道路が右に折れ、登るとそこは素敵な庭が作られていた。

      

大理石の建物に入るといくつもの部屋に分かれ、廊下のあちこちが飾られていた。

        

        

上層階には王の周りで暮らしていた大勢の女性が住んでいた部屋や広い庭、水浴びをする大きなプールがあった。

私は今までスペイン、トルコなどでも似た様な場所を見て来た。どこの国でも時の権力者によって多くの女性が自由を奪われ、辱められ、子供を産ませられて一定の場所から出る事ができなかった歴史の一場面を、また一つ眼の前に見た)

そして各部屋の窓からは、下にウダイプールの市街やビチョラー湖が眺められた。

国内外の王や高官を招いた時に使った広間の繊細な彫刻は、遠くヨーロッパやペルシャから職人を集めて造らせたそうだ。道理で私には、イスラーム建築の様式を思わせるようにも見えた。

 

                       

その日のホテルでスーツケースを部屋に届けてくれたポーター氏には笑わされた。50代前後と思われる男性のひげが、素晴らしくユニークだったからだ。ガイド氏に聞くと、このあたりの男性のお洒落の一つなのだそうだ。

            

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「インド・ラジャスタン州」(3)

2020年03月10日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

2日目は、バスで再度空港に行く前に、ホテルの4階自室の裏側と玄関前で写真を撮った。

入り口には守衛が2人いて、写真を撮らせてくれた。前庭の花壇にはマリーゴールド、タチアオイなどが咲いていた。

ホテル前の道路は広い幹線道路らしく、乗用車バストラックの他にバイク、リキシャ、オート三輪などが客を乗せて走っていて、カメラを向けると手を上げてくれた。何回も見たいつもどおりのインドの光景だった。

              

2日目、「ニューデリー」の空港に戻って国内線のカウンターに行き、540km南西に位置し、ラジャスタン州の南端にある「ウダイプール」まで13時20分発のチケットを買った。搭乗時間は1時間15分。機内では、パックに入ったサンドイッチとオレンジジュースが出た。

「ウダイプール」到着後、新しく来た20人乗りの中型バスに乗り込んだ。インドのバスは、運転席と客席の間が仕切られていて、若い助手が1人乗っていた。私達の人数では十分な大きさだった。高速道路の中央分離帯には赤い「ブーゲンビレア」の並木が続いていた。たまに放し飼いの牛がいて、クラクションを鳴らされていた。

資料によると、この町は16世紀にムガル帝国の攻撃を受けて「チットーガール」からここへ郡を移したメーワールの王「ウダイ・スイン」が開いた山間の町で、彼は山間の多くの川を堰き止めて人造湖を作り、乾いた大地に灌漑をもたらした王だった。また彼はインド共和国成立まで独立を守り通した。

バスで「ウダイプール」の旧市街を通り、郊外にある「シティパレス」まで走った。バスから見た午後の旧市街は、以前に行った時とそれ程変らない市民の生活が見えた。

   

インドでは古来よりある厳格な身分制度「カースト」は法律上は廃止されたが、社会生活的にはまだまだ色濃くその影響が続いているという。そのためか貧富の差がとても激しい。

かっては日本の人口と同じ「1億人のホームレス」がいたというが、近年、最貧層には政府から助成金が出るようになったらしく、今回は前ほど多く見かけなかった。しかし、人が大勢行き交う路上の隅や郊外の水辺にそれらしい人達を見かけ、胸が痛んだ。今でも1日1ドル以下で暮らす人が1/3いるそうだ。

テント下で暮らす男性

この写真は、4日目「ジョードプル」に向う途中でバスから写したものだ。草原で敷物と囲いのビニールがあるだけで屋根はないところで大勢の家族が暮らしているらしかった。農村では多くの「季節労働者」を雇うというが、彼らもそうした家族なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「インド・ラジャスタン州」(2)

2020年03月09日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

「何もする事がない」、というよりは、新型コロナで外出もママならなず「何もできない」ので、まだ使っている手元のパソコンに「インド旅行」の続きを書くことにしたい。

1日目の夜6時(日本時間では9時半)に、10時間飛行した「エア・インデァ機」から降り、飛行場に向った。見たことが無いような大勢の人の群れに、改めて驚いた。人口13億人の国に降り立ったのだ。

先ず1人1人額に小型の体温計を向けて熱を測られた。無事に通過したので、入国管理場に向った。

今回のツアーは日本から添乗員が着かないツアーだった(その分、費用が少し安い)ので、どこに並んだら良いかが分からない。10箇所程ある場所には「インディア」の表示があり、そのどこもすでに数十人の人が並んでいる。「ジャパニーズ」の標示はどこかと探しながら数百人のインド人の後方をうろうろしていたら、「日本人はあっちだよ。」と誰かが言ってくれた。

周りを見渡すと、ガラス越しに「ビザ」と書かれたゲイトが見えたので行って、無事に入国を済ませた。(インドに入国するには6ヶ月有効な「ビザ」を取る必要があり、今回は参加者が自分の顔写真と個人情報の資料、パスポートを旅行会社に送ると、後は旅行社が取ってくれて、後日ビザが張られたパスポートが書留郵便で送られて来た。前回は自分で取ったが、これが結構大変だったのを思い出した)

その後、預けたスーツケースを受け取り、出口を出たら、インド人の現地ガイド氏が声を掛けてくれて合流できた。1番だったのだ。しかし、他の参加者がなかなか現れない。1番遅かった人は40分程も待ったが、聞くとごった返す「出入国管理場」にずっと並んでいたそうだ。

ガイド氏から、18人の予定だった参加者が最終的に10人を切った人数になったと聞かされた。多分「新型コロナ」の影響だろうと思った。今回は夫婦1組以外は、全て女性の1人参加だった。

暗くなったインドの首都「ニューデリー」をバスで20分程走り、「ウエルカムホテル ドワリカ」に到着。

このホテルは、円形の高層ホテルで、入り口は全て内側の廊下について居て、部屋は外側に配置されている造りだった。スーツケースはガイドに任せて、部屋に入った。部屋は4階で、広く清潔だった。

ホテルのレストランでインドで初めての夕食を食べた。「ナン」と「カレー料理」だった。

               

その夜は時差のために途中で目が覚めないように催眠薬を半分飲んでぐっすりと寝た。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする