花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

中国江南の旅(9)

2010年12月30日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
7日目(12月17日)は、上海の市内観光だった。
この日も朝から晴天で心地よい陽気だった。
立派な高層マンションがひしめき合う様に立っている場所でも、また古い低層アパートでも、晴れの日を待っていたかの様にベランダに洗濯物を干している家が多く見られた。
ガイドはそれを見て、「万博前から上海では、洗濯物を外に干さないようにと呼びかけているが、家が狭いので室内に干す場所がない家が多い。しかし、下着を堂々と干すのは恥ずかしいから止めて欲しい。風が強い日にパンツが飛んできて通行人の顔にぶつかった事もある。」と話した。立派なマンションのベランダに干されていた古そうな布団を見て、ガイドは「1億円のマンションに住む人が寝ている布団には見えない。恥ずかしい。」と、しきりと嘆いていた。

最初、伝統的なデザインの建物が多い豫園市場①の混雑を抜けて、明代の1577年に建設された名園、「豫園」に行った。
ここは四川省の役人、潘允端が父親のために建築した私邸なのだ。私がここに来るのは2回目だったが、大きな龍が上を這う壁②、太湖石の庭など、当時の美意識を改めてあちこちに見る事ができた。さざんかが咲いていて、庭に華やかさを添えていた。③

 ① ② ③ 

豫園を見てから上海博物館に行った。ここは1996年12月にオープンした4階建ての近代的な博物館だった。④
中国古代青銅館、古代彫塑館、絵画館、古代陶磁館、古代玉器館、少数民族工芸館、歴代印鑑など、テーマ毎の部屋に分かれていた。
私が目を見張ったのは、仏像の展示⑤と民族服の展示⑥だった。1時間半があっという間に過ぎた。

 ④ ⑤

 昼食は小龍包と点心料理で美味しかった。中国の人達も沢山食べていた。
(ガイドブック「地球の歩き方」に、「レストランの中には中国人向けと外国人向けのメニュー表が別々に作ってあって、同じ料理でも価格が異なる事も多い」と書いてあったのを思い出した)

その後、浦東地区にある上海ヒルズに行った。この地区には、まるで未来都市さながらに超高層ビルが立ち並んでいて、上海経済の高度成長を見せつけていた。⑦
上海ヒルズは、地上98階建ての492mのタワー状の建物⑧である。(近くで撮ろうとしたが、余りに高くて上まで入らなかった)
高速エレベーターで94階の展望台に上がり、360度、上海を上から見下して写真を写した。⑨
丁度クリスマスを前にして数本のツリーが立てられていて、それに下げるカードを自由に書けたので、私も「また上海に来られて幸せです。JAPAN、○○」と書いて下げて来た。従妹もその友人も何か書いて釣っていた。

 ⑦ ⑧ ⑨

最後にお茶屋と100元ショップに連れて行かれた。
お茶屋では高価なお茶ばかりだったので、誰も買わなかった。100元ショップは、日本の100円ショップにヒントを得て、開店したと店長が説明してくれた。100元は日本円で1300円だが、貨幣価値が違うので、3000円以上の商品を取りそろえているように見えた。ここの価格は手頃だったし、同じ品物で今まで行った店よりも安いものもあったので、何人かがお茶やクッキーなどを買い求めていた。

夕食はホテルで食べたが、変化に富んでいて最後の食事にふさわしいものだった。




翌朝ホテルを5;15に出発し、不味い朝食の弁当をバス内で食べて上海浦東国際空港に行った。現地ガイドと別れ、8;15発の飛行機に搭乗する手続きは個人で済ませて、中国東方航空機の新千歳空港行き直行便で帰国した。
今回の旅行は、全体を通して見ればホテル良し、食事良し、観光良しで良い旅だった。
ただ、天候は悪かったが、これは仕方ない。帰国後の上海は、毎日晴天続きらしかった。
来年は、また数度目の中国のどこかに行きたいと思っている。 
つたない旅日記を読んで下さった皆さん、有難うございました。皆さんは中国江南地方にどのような感想を抱いただろうか。できればコメントをお願いします。 (完)




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中国江南の旅(8)

2010年12月28日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
6日目(12月16日)は、幸いに晴れていた。
予定より1時間早い8時半にホテルを出て、浙江省の首都で人口800万人の杭州市内観光のために、また、昨日走れなかった高速道路を2時間かけて杭州に向かった。

バスの中で、今の「1人っ子政策」について、上海や北京では、両親とも1人っ子なら、2人まで生むことができるし、農村では1人目が女児ならもう1人生んでも良いとガイドが説明した。違反したら、40万~100万円の罰金が科せられるそうだ。
それを聞いて私は、金持ちだけは自由に子供を持てるのかと思った。罰金が払えなくて、社会的に隠し子になってしまう子供もきっと多い事だろう。
また、土地や国営のマンションは、国から70年間、借りる契約を結ぶのだとか。
土地の私有が認められない中国人は、私有することと投資に魅力を感じて、最近、日本の山野や住宅を買い漁っているのではとも思った。
ネオンサインで飾られたような高層マンションは、上海の郊外では1㎡25000元(32万円)以上しているので、1坪では100万円を超す価格で販売されているそうだ。
さらに物価も最近は月5%も値上がりしているので、庶民の生活は苦しいが、値上げしないものもある。ガイドは、バランスが大事で、大事な費用を重点的に支出すると言っていた。

まず西湖の岸辺でバスから降りて、写真を写した。昨夜まで降った雪が木々を飾り、美しい雪景色に変わっていた。①
それから高台にある印鑑の販売店に案内された。さざんかが咲いていて美しかった。②
誰も高価な印鑑は買わなかったら、先日、刺繍研究所で言われたのとほぼ同じ言葉を言われて、また、私たちは不愉快になった。
私は、高齢者の旅行団体には、もう印鑑は売れないのにと思った。
販売店のトイレは中国式のニーハオトイレだったが、私は思い切って実験的にグループの女性と並んで使ってみた。別に大騒ぎするほどの事は無かった。③

 ① ② ③

それから西湖の40人乗りの遊覧船に貸切で乗った。④ 中国に来て初めて晴天になったので、気温はまだ低かったが気分が良く、湖畔の景色も墨絵の様だった。⑤
中国の定年は、男性60歳、女性58歳だというが、65歳以上の高齢者は西湖で無料で釣りを楽しめるのだそうだ。

 ④ ⑤

向こう岸で降りて、2.5km程バスに乗り、浙江省第1の大河、銭塘江の畔に建つ「六和塔」に行った。⑥
この河は、旧暦8月の中秋節の頃、海の海水が逆流する海嘯現象が見られる事で有名だが、970年にここを治めていた呉越王が、銭塘江の氾濫を鎮めるために古代レンガと木で建てた高さ60mの塔を建てたのだ。それが六和塔なのである。
自由時間が25分あったので、私達3人は1人10元を払って上の展望台まで上ることにした。
階段は急で、数えたら230段もあった。途中で休みながら、何とか10分で上に着いた。外観は八角13層に見えるが、内部は7層になっていた。
展望台からは銭塘江とその周辺の景色が手に取るように見渡せ、大満足したのだった。⑦

 ⑥ ⑦

昼食後、バスは一路180kmの距離を、3時間かけて上海に向かった。郊外には超高層マンションが天を衝くように建てられていた。⑧
上海に入って直ぐに高反発素材、ラテックスの店に立ち寄った。そこは日本人のための店で、日本人スタッフが説明をしてくれた。生ゴムでできたラテックスのマットレスと枕に客を試験的に寝せて試させた後、販売をした。枕は1つ、6500円もしたが、大勢の人が次々と購入したのには驚いた。

 ⑧

四川料理の夕食を終え、ホテルへ向かう頃にはラッシュになっていた。上海の道路は車がとても多く、バイクや自転車も結構走っていた。
ホテルには18時についた。夕食後、従妹と友人は、オプショナルの「上海雑技団」の公演に行くためバスで行った。
私は前に見ているので、のんびりと風呂に入り、先に寝た。



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中国江南の旅(7)

2010年12月25日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
5日目(12月15日)、目が覚めてカーテンを開けると昨夜までの雨が雪に変わっていた。
何故か出発時間が10時半と遅かったので、昨夜、ホテルの近くにあると聞いた市場に朝食後3人で行って見た。
かなり大きな市場で、杭州市民の台所らしかった。
様々な活魚が売られていた。女性たちが肉を大胆に切って売っていた。①
何度か料理に出たアヒルの血を固めて作った豆腐もあった。② 豆腐や油揚げも売られていた。③
野菜は山積みにされ、私が見たこともないものもあり、とにかく市民が沢山買いに来ていて活気に満ちていた。

 ① ② 



10時半に集まり、雪が降る中、バスで70km先の紹興まで行った。
昼食を済ませてから、魯迅ゆかりの立派な「魯迅故居記念館」に行った。④
入り口を入るとホールで魯迅(本名、周樹人)の像が出迎えてくれた。⑤

展示を辿りながら、官吏の子として生まれた魯迅には、子供時代、遊び友達がいなかった事、難関の科挙の試験を受ける事に成った時、孫を合格させようと試験官に金を渡した役人の祖父の不正が見つかって捉えられ、祖父は死刑になった事、間もなく父も病死して、地主だった実家は没落してしまったことなどを、ガイドが説明した。
さらに私が調べた所、その後魯迅は、政府から多大な奨学金をもらって日本に留学し、1909年、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に入学した。
しかし、そこで中国人が殺される日露戦争のニュース映像を見て心を傷め、医学より文学による精神改造が中国人には必要だと考え、1年半で退学し、文学者になって、最初の小説「狂人日記」を書いたという。(私は読んだことがないので、今度図書館から借りたいと思う)

その後、近くにある魯迅が子供時代に学んだ私塾の「三味書屋」を見学した。
三味とは、経典が米や穀物、歴史がご馳走、芸術が肴の意味らしい。魯迅はここで12~17歳まで学んだ。
建物も教室も、ほぼそのまま保存されていた。⑥ 1度遅刻をして叱られてからは、2度としなかったという魯迅のエピソードが残されていた。

 ④ ⑤

 ⑥

次いで、紹興名物、紹興酒の製造元⑦に行って、製造工程を見学した。写真撮影は禁止された。
紹興酒の製造は、2500年前に始まったという。
当時、男の子が生まれたら豚1匹、女の子が生まれたら紹興酒1壺が、祝いとして王様から与えられたそうだ。
最後に事務所の2階に通され、5年物と10年物の紹興酒を試飲させて貰ったが、10年物の方がまろやかな味だった。欲しい人は買ったが、私は味が好きではないので買わなかった。

いよいよ杭州に戻る頃、雪が激しくなって来た。こちらの車は、夏タイヤしか履いていないという。高速道は事故で通行禁止になったらしく、バスは普通道路を戻るしかなかった。
夜になった。降りしきる雪の中でスリップして追突し、ストップした車を何台も見かけた。警察のパトカーも走っていた。
バスがやっと杭州のホテルに着いたら、22時近くになっていた。駐車場の車にも雪が積もっていた。⑧
私はバスから降りる時、夏タイヤで頑張った運転手さんに、心からありがとう(謝謝)と言った。 
 ⑦ ⑧
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中国江南の旅(6)

2010年12月24日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
4日目(12月14日)は烏鎮の観光に行くため、ホテルを9時に出た。この日もやはり雨が降り続いていた。
烏鎮は蘇州から80kmあり、杭州との中間にある水郷の町として宋代に発展をした。多くの商人の他、文人も集まった所だという。
運河には色々な形の橋が架かっていた。火事の際の類焼を防止するために立派な『うだつ』を上げた古民家もあった。①②③

 ① ②

 ③

最初は、烏鎮出身の作家、「茅盾故居」の見学だった。
農民の出身だった茅盾(ぼうじゅん)先生(1896~1981年)④は、北京大学に合格した英才だったという。しかし、大学を中退し共産党に入党した。
国共合作が崩壊してからは、農民の貧しい状態を改善するには小説を書いて啓蒙するのが1番だと気づき、作家活動に専念して多くのリアリズム小説を発表した。
1928~1930年には日本に亡命もした。1949年、新中国が成立してからは文化相の職に就いた。
このようにして現代中国文学の代表作家の地位を築いた後、死の直前に本人が申請して党籍が回復され、葬儀は国家葬だったという。
私には全く知らない人だったので、ガイドが熱を入れて説明をしてくれたのに対して、多少違和感があった。「茅盾故居」は、北京にもあるという。

その後、運河沿いの古い街並みを歩いて行くと、運河で洗濯をしている女性を見た。⑤
また、今は営業をしていない藍染工場があった。染めた布が、降る雨の下で濡れていた。⑥
木彫り陳列館を見たり、最後は昔の薬屋だったという店を覗いた。
白壁と黒瓦という独特の雰囲気を残す烏鎮も、ボートが浮かぶ古い街並みの保存を計画しているのだという。

 ④ ⑤ ⑥

観光が終わり、杭州迄の100kmを1時間ほどで走る途中、道路工事をしている場所で、無錫の女性ガイドの話を思い出した。
この時期に都市で工事に携わっている人たちの大半は、農閑期の農民たちなのだという。
その話をした後、彼女は続けて、『結婚相手に求める中国女性の条件 』を教えてくれた。
牛の様に働く事、犬のように忠実な事、羊の様におとなしい事、豚のように何でも食べる事、もう一つあったが忘れた。
私はその言い方のエゲツナサに驚いたが、中国女性の本音なのだろうと思った。

ホテルに着いたのは4時前だったので、5時半の夕食までホテルの近くを3人で散策した。
傍に4階建ての衣料品のデパートがあったので、入って見た。数年前迄の中国の衣料品とは明らかに違うモダンな感覚にデザインされた衣料品やスポーツ用品、バッグ類、靴などが沢山並んでいた。
考えて見たら不思議な事ではないのだ。中国は今や、日本を始めとする世界中の国々から生産を請け負って輸出する国になったのだから、デザインも生地も縫製も、その全部をすでに自分たちの物にしてしまったのだ。

果物を綺麗に並べた屋台が並んでいた。しかし私たちは、安心して買いたかったので横の果物屋に入って金柑とぶんたんを買った。どちらも新鮮でとても美味しかった。⑦
柑橘類は寒い北海道にはないので、検疫がなければぶんたんを2~3個買って帰りたいくらいだった。
軽食店に入りコーヒーを頼んだ。出てきたのは砂糖がたっぷり入ったミルクコーヒーだった。

                     ⑦



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中国江南の旅(5)

2010年12月23日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
3日目の12月13日は、蘇州の市内観光だった。この日もやはり朝から雨で、気温も低かった。
私達3人は前日に続き、雨合羽を着用し、中に重ね着をして暖かくしていたが、他の人から「どうして合羽なんか持って来たの?」と聞かれた。「ネットで上海の1週間の天気予報を調べて来たら雨続きだったから。」と答えたら、驚いていた。

この日は、先ず唐詩に詠われた「寒山寺」へ行った。
この寺は6世紀初めに創建された臨済宗の寺だが、火災等で現存するものは清代のだそうだ。①②
日本でも知られている張継の詩『楓橋夜泊』は、この寺を詠んだそうだ。詩が刻まれている石碑を見た従妹が、詩吟を詠い出したので驚いた。③

 ① ② ③

次に江南随一の名園と言われる「留園」を観光した。④⑤
太湖の底から取り上げた穴が沢山開いている白い独特の太湖石で飾られている庭もあった。⑥

 ④ ⑤



それから「虎丘斜塔」に行った。小高い丘の上に建つ高さ47mの塔は丁度工事中だったが、宋代の961年に建てられたそうだ。
400年前から地盤沈下の影響で傾き始め、現在は15度も傾いているらしいが、ガイドの説明では、後400年は持つという。雨が降りしきる中で写真を撮った。⑦

その後、「中国蘇州刺繍研究所」を訪れ、両面刺繍の作業と作品、それを張った額縁や衝立の商品を見せられた。
どれも恐ろしく高価(数十万円~百数十万円)なものだったが、私たちの生活様式には合わないようなものだった。
誰一人として関心を示さなかったので、説明、販売をした男性は、「中国人は今、沢山日本に行って、みんな高額なお金を使い、品物を買って帰るが、日本人は中国に来ても、見るだけで何も買わずに行ってしまう。みんな年金生活者なんだろう。」という言葉を吐いた。とても聞き難かった。

蘇州は昔から桑畑が多く、養蚕が盛んな地域だという事で、続いてシルクの寝具や衣料品、服飾品を売る店に行って見学と買い物をした。
店の一部に、まゆから絹糸を取り出す作業が見学できるようにしてあった。⑧ 
蘇州の繭は、日本のよりも大型で黄色い種類だ。ほどいて絹糸を取るよりは、繭を熱湯で潤かしたらそのまま3~4人で引っ張って広げて行くのだ。だからそこの1番の商品は、そうして取った絹の真綿の布団だったが、私たちは別の場所に行って、手ごろな価格のシルクのスカーフを買った。

 ⑦ ⑧

帰路、バスはガソリンスタンドに立ちよって給油した。ガイドの説明では、近年、経済成長が続いているので大型トラックが増え、国内のガソリンが足りなくなってきたため、バスには1度の給油で300元(約4000円)分しか入れてくれないのだと言っていた。ガソリンの値段は、1L100円だそうだ。
また、高速道路の料金は、農産物を輸送する車は無料なのだといったいた。
これを聞いて私は、日本も生活必需品の税金や輸送経費をもっと安くして欲しいなと思った。

夕方、蘇州のホテルに着いたが果物が食べたくなったので、ホテルのフロントに、「水果店」と書いた紙を見せて果物屋が近くにあるか聞いた。
教えられた方角に歩いて見たがなかなか見つからない。途中に菓子屋や饅頭屋があった。覗いて見たが、とても食品を扱っている環境とは思えなかった。中国の郡部の商業事情は、まだまだだった。
やっと小さな水果店を見つけ、ミニトマトと金柑を買って部屋で食べた。安くて新鮮で美味しかった。
この経験から、今回、旅行会話・中国語を持って行って良かったと思った。
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中国江南の旅(4)

2010年12月21日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
2日目は、予報通り朝から雨だったが、無錫の市内観光からスタートした。
現地ガイドの40代の女性がバスに乗り込み自己紹介した。
自分は如何にベテランガイドか、今はお金のためではなく全くの趣味で時々ガイドをしている、普段は毎日エステに4~5時間通っているなどと話し、私たちの反発を買った。

まず「三国志」のドラマのロケ地だというセットを見学した。①
次に、琵琶湖の3倍の面積だという太湖の遊覧船乗り場に行った。
雨が降っていたので、船着き場まではほろの付いた軽トラックに乗った。往復で1人20元(280円)だった。「赤壁の戦い」のロケで使ったという木造の遊覧船は、中国人で混雑していたが、雨にけぶる太湖を30分程遊覧した。②

その後、現地ガイドに太湖で烏貝に核を植えつけて淡水真珠を養殖販売している店に案内され、店長から真珠を取り出すところを見せられた。③ 淡水真珠は1個の貝から20~30個も採れるが、形がいびつな真珠だった。
誰も真珠は買わなかったが、私達女性は真珠を粉にしてから作ったという高価な真珠クリームを少しずつ分け合って買った。
 
 ① ② ③

午後は水郷の里「同里」の見学だった。
雨が止まないので、バスの駐車場からは、また20元でほろ付きの軽トラックに乗って、明・清時代の古い街並みが残る「明清街」迄往復した。
中国では、400年前に建てられた木造の街並みが良く保存されていた。
中でも世界遺産に指定されている「退思園」は、清代の庭園形式の邸宅で、中庭を中心に2階建ての回廊が巡らされ、庭も中国風の東屋が建つ豪華な家だった。④⑤

 ④ ⑤

同里の水路にはたくさんの石橋がかかっていて⑥、運河の船から直接荷物を各家々に荷揚げできるようになっていた。
狭い道路を挟んだ両側には土産物店が並んでいた。私には、大きいガチョウの卵が珍しかった。⑦ 
食事に中華風茶碗蒸しが出る度に、私は多分大きいガチョウの卵を使っているのだろうと想像した。

 ⑥ ⑦

そこからさらに西塘に行き、「西塘古鎮」を散策する頃には夕闇が迫って来た。
運河沿いに数百年~千年前の低い木造家屋がぎっしりと並んでいて、そこで今も人々が生活していた。
日が沈んだ古鎮で、赤い提灯に電気が灯されると、何か懐かしい光景に出会ったような感じがした。⑧

 ⑧


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中国江南の旅(3)

2010年12月20日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
旅の1日目(12月11日)は、新千歳空港発13;30の中国東方航空機に乗り、上海浦東国際空港に行く事から始まった。
新千歳空港の新しい国際線ターミナルビルができてから行くのは初めてだったので、国内線ターミナルからかなり離れた場所迄辿り着くのに少々疲れた。
私が乗ったJRが遅れたため、同行する従妹とその友人は既に来ていた。

今回は添乗員無しという旅だったので、受付で旅行会社の係りからEチケットを受け取ってからは、3人で判断して行動した。
飛行機は左右に3席ずつある150人乗り程度の中型機だった。
東シナ海に面した上海空港に着いたのは25分遅れの16;20分だったが、日本との時差が1時間なので実際の飛行時間は3時間50分だった。

上海浦東国際空港は大きく、外はまだ明るかった。入国審査では顔写真を撮られた。
荷物を受け取って出口に出たら、現地ガイド氏が旅行社名とコース名を書いた紙を掲げて待っていた。
そこで初めて参加者全員10名が顔を合わせ、中型のバスに案内された。
17;10にバスが出発する頃、日が沈んだ。

バスは空港から上海市を抜け、145km西北西にある無錫(むしゃく)市まで走ったが、途中、25~30階建て新築高層マンションが立ち並び、その多くがイルミネーションで飾られていたのには驚いた。勿論、商店街やホテルのイルミネーションに至っては、日本ならさしずめパチンコ店を思わせるような華やかさだった。私は、それが中国人の美的感覚を表していると思った。後でガイド氏に聞くと、年中ネオンを光らせているらしかった。

無錫市は、古くから青銅器の製造に欠かせない錫の埋蔵地で「有錫」と呼ばれていた所だったそうだが、採掘し尽くしたので無錫と名を改めたそうである。
途中、レストランで初めての中華料理を食べ、20;20ホテルに到着した。中国のホテルにもクリスマスの飾りつけがしてあった。
翌日の準備をし、風呂に入って寝る頃は、24時を越していた。

   



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中国江南の旅(2)

2010年12月19日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
昨日12時半に上海空港から新千歳空港に帰国したが、千歳の気温は-3℃。滑走路は雪で真っ白で、数台の除雪車が走り回っていた。
空港職員に聞くと、昨日までは晴れていたのに、今朝見たら雪景色だったと言っていた。
家に着くと、誰かが玄関前を除雪してくれていた。大きいスーツケースを持って玄関に入る際、有難かった。後で近所の方がしてくれた事を知った。

今回の旅行は写真①の様なコースだったが、旅行前にネットで調べた天気予報の通り、2日目から4日間、上海周辺は毎日雨に見舞われた。
私は持参した雨合羽を着たので問題はなかったが、景色が雨で霞み、残念ながら良い写真は撮れなかった。
(今回の旅は、日本からの添乗員はいなくて、上海空港に着いたら現地のスルーガイドが待っているという旅行だった。
上海でガイドに会った時に、早速私から、「明日から数日間は雨続きで、最後は雪になる予報が出ていますね。」と言ったら、「上海は大丈夫ですよ。」なんて言われたのだった)

5日目は上海の西南180kmにある杭州のホテルから、バスでさらに東南25kmの紹興に向かう日だったが、気温が2~3℃に下がり、天気予報よりも1日早く、朝からずっと雪だった。
紹興の観光後、午後3時過ぎに杭州のホテルに向かったが、向こうの車は、夏タイヤしか履いていないので、あちこちで渋滞やスリップ事故が起きていた。
高速道路も車10台が絡む大型交通事故が起きたという事で閉鎖されたため、私たちのバスは一般道を数時間かけてやっとホテルに戻り、着いたら22時近かった。バスに乗っている間も、滑って事故に遭わないかと、はらはらのしどうしだった。(写真②)

6日目は雪も上がり、雪景色の西湖遊覧などは実に趣があって、不幸中の幸いだった。
7日目は、やっとこの時期本来の江南の天候に戻って、明るい日差しの中、暖かな上海の観光を楽しめた。

そんな訳で、天気にはあまり恵まれず、雨と雪の中国江南から、雪の札幌に帰って来た旅となったが、昨年2月以来となる万博後の上海に行って見て、林立する高層ビル群を初めとする町の変化には驚いた。
世界1の人口を抱える中国だが、世界の工場として今後の経済発展が確信できた旅にもなった。

 ① ② 
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中国江南の旅 (1)

2010年12月10日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
やっとネパール紀行のまとめが終わった。
書き始めは、いつも簡単にしようと思うのだが、性格もあると思うが、最近特に忘れっぽくなってきた自分の記録としてもきちんと残して置きたいと思う様になり、結局、長い文になってしまう。
それで8日間の旅行なら、書くのも8日かかることになって疲れるのだが、仕方ない。

今度は近場の中国江南を巡る旅で、今年の旅仕舞をすることにした。
昨日は札幌近郊の私の所で、最低気温が-2度、そして最高気温も-1度までしか上がらず、真冬日だった。いよいよ本格的な冬の到来である。
そこで選んで置いたのが、九州に近い気候の土地、中国の上海近郊のコースなのだ。
蘇州、杭州などの水郷地帯を回って来る。

また、雪の季節に入ったので、こちらが大雪で飛行機が飛ばない事も出て来るため、飛行機は新千歳空港から上海空港への直行便が便利な中国東方航空を使うこちらの旅行会社のにした。

また今回は、従妹と彼女の友人が一緒である。私より5歳年上の従妹は、4年前に1度、イタリアに同行しているが、2人共外国旅行の経験が少ないので、私がアドバイス役を引き受ける事とした。
11日午後に発ち、18日までの8日間の旅だ。
しかし、ネットで気になる天気予報を見たら、残念な事に3~4日間は雨になりそうだし、雪が降る日もありそうなのだ。ヒマラヤの方でできた雲が流れて来るのかも知れない。
それでまた、登山用のゴアテックスの合羽を持って行く事にした。しっかりセーターも持つ積りだ。

気になっていた年賀状のデザインも、自分のと家族のを、先日、仕上げたので、心おきなく楽しんで来る積りだ。
では、また少しの間、留守にするので宜しく。
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ネパールの旅 (9)

2010年12月08日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

ダルバール広場の一角に木造の大きい建物があった。女神クマリの化身が住むクマリの館だった。①
クマリは、ネワール族の僧侶、カーストの金細工師サキャの家族の中から、怪我や病気をしていない美しい少女が選ばれ、親と別れて初潮が始まるまでこの館に住み込むのだ。
ガイドの話では、生き神様なので、泣いたり、笑ったり、怒ったり、大きい声で話したり、走ったりしてはいけないのだという。
普段は姿を見せないのだが、私たちのグループが行ったために30秒程、中庭の3階の窓(3つの窓の真ん中)から顔を見せた。②
写真撮影は禁じられているので撮れなかったが、化粧を施したまだ7歳という痩せた無表情の少女だった。

クマリが去ってからガイドに言われて、各自お布施を箱に入れた。
ネワール族の人達のクマリ信仰は根強いらしいが、幼少期からずっと館に閉じ込められたクマリが、初潮後一般人になっても、社会でうまく生きて行くことが難しいらしい。その内、国際社会から人権問題として指摘される日が来るのではと、私は思った。

 ① ②

ダルバール広場を後にする頃には、夕日が傾いて来た。
一層混みだした狭い路地を、人混みを掻き分け、大きい道路の信号がない交差点では車に轢かれないようにゆっくり渡り、1km以上歩いてバスに戻った。道路にはごみが散乱していた。
ガイドは、「本当は、この辺を見せたくはないのだけれど。」と話した。しかし、これも今のネパールの現実だった。

夕食は、ネパール料理店ポーザングリハで食べた。アルコール度が55度というネパールの酒が1人に20cc程出たが、私は気が付くと飲んでしまっていた。




6日目の11月24日の午前中は、オプショナルツアーで小型飛行機に乗り、ヒマラヤ上空を遊覧飛行する予定だった。
私は事前申し込みはしていなかったが、今まですっきりとしたヒマラヤ山脈に出会っていないので申し込んだ。
オプショナル代は、25000円+17ドルだった。

ホテルを6;20に出て、遊覧飛行の飛行場に行った。手荷物を検査され、身体検査も3回受けた後、やっと飛行機に乗り込んだ。③
左右に1列ずつ座席がある18人乗りの小型機だった。④

 ③ ④

いよいよ飛び立ち、上空の雲の上に出ると、横のまどからヒマラヤ山脈が見えだした。⑤
しばらくすると1人ずつ女性アテンダントに招かれて、交代で操縦室に入り、前方の窓から景色を見たり、写真を撮らせてくれるのだ。
中には操縦士に山の写真を撮ってもらった人もいた。
そこには座席から見るのとはまるで違う景色があった。最高峰のエヴェレスト、8848mの三角形の頂上が目の前にせまった。⑥
私は3回操縦室に入って、全部で32枚の写真を撮ることができた。⑦
飛行時間は55分間だったが、まるで夢のような時間だった。

 ⑤ ⑥

 ⑦

これでネパールの旅は終わった。
ホテルに戻って休憩してから、スーツケースを積んだバスでカトマンドゥー空港に行き、13;50発のバンコク行きに乗りこんた。
バンコクで同じタイ国際空港の22;35に乗り換えたのだが、タイ空港では男女別に身体検査を4か所で受け、手荷物も最後は全部中まで開けて見せて、やっと搭乗することができた。
バンコクから5時間40分かかって成田に着き、成田からは新千歳空港行きに乗り換えて、予定通りの時間に、無事、帰宅できた。




今回のネパールの旅は、天気が悪くて展望台から目指す山が見えなかった事を差し引くと、80点位だったかなと思っている。
今まで良く知らなかったネパールという国を知ることができたのは旅の何よりの収穫だったし、憧れの世界の最高峰も飛行機から見る事ができたからだ。

しかし、1953年に世界最高峰のエヴェレストが初登頂されてから、ネパールは観光国になったが、現在、まだ人口の8割は農村部に住んでいる。
2008年5月28日、選挙で選ばれた議会が王制廃止と民主連邦共和制を決議して王制は廃止されたが、ガイドブックによると、インド系民族の南部タライ地方に住む「マデシ」は、カースト制の低位に置かれて住民証を得られず、差別され続けているのだという。
人口の4割を占める彼らは、ネパールからの分離独立運動をしているともいう。
今後ネパールの民主化が進み、経済が発展して治安が安定すれば、国民の生活水準も徐々に上がって行くだろう。
その時はネパールが、世界の人々の憧れの地になるのではないだろうか。いや、そうなって欲しいと思った今回の旅だった。
(映画「2012」では、地球の大変動が起こった時、最後の砦はヒマラヤの高地と南アフリカだとして描かれていたのを思い出す)
この記事を読んでくれたみなさんは、ネパールにどんな感想を持っただろうか。(完)


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ネパールの旅 (8)

2010年12月06日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

フェワ湖の小島から足こぎボートで戻った後、ポカラの町に行き、坂を上って丘の上にある小さなヒンズー教の複合寺院・ビンドゥバシニ寺院を見学した。①
殺戮神ドゥルガー、繁栄神ヴィシュヌ、笛の神クルシュナが祀られていて、ドゥルガー神の洞では、毎朝、羊や鶏が生贄にされているという。
決まった屠殺場がないので、ここで祈りを捧げながら屠殺して売ったり、家庭で食べたりするのだろうと思った。人が生きるために動物の命をいただくという現実がすっかり遠くなってしまって、何も考えずにスーパーから買って来る私達との違いを考えさせられた。
この丘にブーゲンビレアの大木があった。② 丘の下を見ると白っぽい桜の花が咲いていた。③
桜は先日の山道で何度も見たし、真っ赤に色づいたポインセチアの大木やハイビスカスの木もあちこちで見かけた。標高は高くてもネパールはやはり南国だと思った。

 ① ②

 ③




5日目の11月23日は、ポカラ空港から、10;10の小型飛行機に乗って、また標高1300mのカトマンズに戻った。
今度は来た時と逆の左の窓側にヒマラヤ山脈が見えるはずだとして航空機の座席のくじを引いたが、私は当たらなかった。しかし、飛んでみると、先日と違って左の人にも山は霞んで見えなかったのだ。

10;45にカトマンドゥー空港に着き、直ぐにバスで市内にある世界遺産の観光に向かった。
最初に行ったのはカトマンドゥーの東北6kmにあるボダナートだ。
ここは昔からチベット仏教徒の巡礼地として栄え、1960年代以降、中国のチベット武力併合後は亡命チベット族が住み着いた場所だという。
ここには、15世紀に再建されたネパール最大のストゥーパ(仏塔)があった。④ 
台座やドームなどは、地、水、火、風、空という宇宙の5大エネルギーを表わして建てられていて、四方にある知恵の目は世界を見ているという。
ストゥーパの周りには、土産屋、仏具店などが取り巻いていて随分賑わっていたが、⑤ その中にタンカの書き方を教える学校があったので、写真を撮らせてもらった。⑥
その後、チベット料理店で昼食をした。「ギャコク」という火鍋が出たが、日本の鍋ものに似ていた。⑦

 ④ ⑤ ⑥

 ⑦

またバスに乗り、今度は中心街に向かった。
バスを降りてから少し歩くと、ダルバール広場に着いた。
午後2時を過ぎた狭い広場は人波でごった返し、⑧ 前に書いたが、その中を大きな荷物を背中に乗せて運ぶ荷役が次々と現れたので驚いた。1つ30kgもの重さがあるそうだ。
壁際に並んで野菜を売る女性たち、水牛の乳で作ったヨーグルトを売る屋台⑨、ろうそくや線香を売る人達もいた。
若い女性数人が、ポシェットを20個で1000円と言って私に付きまとって来た。要らないと言ってもずっと離れない。最後には30個1000円という売り子もいた。

 ⑧ ⑨

喧噪の広場の隅にガルーダ像があった。⑩ シヴァ寺院の階段では人々が休んでいた。⑪
12世紀に建てられたというカスタマンダプ寺院は、昔は巡礼宿だったとか。⑫

 ⑩ ⑪ ⑫

18世紀に建てられた木彫りの装飾が美しいシヴァ・パールバーティ寺院の上の窓からは、シヴァ神とその妃パールバーティーの人形が行き交う人々を見下ろしていた。⑫
シヴァの化身・カーラバイラヴの色鮮やかな像があった。この神は恐怖の神で、昔はこの前で嘘をつくと死ぬと信じられていたそうである。⑬ 
像の前もごった返していた。そこで露天を出している男女がいたが、「こんな所で商売をするのは禁じられている。」とガイドが話した。しかし、そのすぐ横が警察署なのだった。

 ⑫ ⑬









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ネパールの旅 (7)

2010年12月05日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

4日目となる11月22日は、早朝に起きて、まだ暗い5;30にバスに乗り、ポカラの北東、標高1600mの丘・サランコットに向かった。
駐車場でバスを降り、さらに100m程登ると土産屋の展望台があった。
ガイドは写真を広げて、これから朝日が昇ると見えるかも知れない光景を説明した。中央に尖がった形のマチャプチャレ6993mがあり、その両側にアンナプルナ山群7219~8091mが見えるのだという。①
マチャプチュレはネパールのマッターホルンといわれる山である。標高が高い山が低く見えるのは、遠くにあるからだと言われて納得した。
しかし、20~30分、丘は雲海に包まれていた。②

 ① ②

太陽が昇った。
しばらくすると遥か遠くの雲の中からマチャプチュレが姿を現した。
私は数度シャッターを切ったが、残念ながら私の小型カメラでは山を捉える事が出来なかった。僅か10分程でマチャプチュレは、立ち込める雲に覆われてしまったが、私は空にピンク色に輝いた神々しい山の姿を忘れないようにしたいと思った。

土産屋から写真を2枚300ルピー(約390円)で買って、バスに戻る事にした。
若夫婦の傍で2人の子供が手伝いをしていた。鶴の折り紙を上げたら喜んでくれた。③

ホテルで朝食を食べた後、自由時間が1時間半あったので、友人とホテルの周囲を散策した。
道路が広く、両側には軒を連ねて各種の商店が続いていた。
みかんやトマトなどを売る荷車も、何台もあった。登校途中の姉妹が来たので、写真を撮らせてもらった。④

 ③ ④

そのうち「日本語文化センター」の看板を見つけたので探して行って見た。⑤
中に入って、日本語を教えているという青年と話をした。今は6人の学生が習いに来ているらしかった。
その近くには、今まで見たことがないような綺麗な住宅が幾つも建っていた。⑥ ガイドブックで調べると、昔からポカラは貴族たちのリゾート地として人気がある町だと書かれていた。多分今もネパールの富裕層が好んで暮らす街なのだろう。

 ⑤ ⑥

11;30、再びバスでホテルを出発し、タシリン・チベット村を訪れた。ここは1959年のチベット動乱の時に、中国からネパールへ逃れたチベット難民が造った村なのだ。⑥
敷地内に、寺院、学校が併設されていた。小さな寺院には、巨大なマニ車と立派な壁画があった。⑦

 ⑥ ⑦

その後、パタレ・チャンゴという所にも寄った。フェワ湖から来る水が深い地中に吸い込まれる際、滝のようになっている場所だ。
説明の看板の傍で、揃いの制服を着た男子中学生が、引率教師らしい人に写真を写してもらっていた。ネパールにも日本の様な見学旅行があるのかもしれないと思った。

その後、フェワ湖の湖畔に行き、店で買い物をした。私は本屋に入り、来年のカレンダーを2つ買った。
1つはエヴェレスト山脈のだ。もう1つはチベット仏教の芸術的な仏画「タンガ」を描いたものだ。⑧ 2つで1200ルピー(約1560円)だった。
カレンダーは使い終わっても、写真で旅の思い出を振り返ることができるため、私は時々、行った国のを買ってくる事にしている。

それからレイクサイドから7人ずつ2艘の足こぎボートに乗って、小島のレストランに行った。
動力源は人力なので、完全エコなボートなのだが、片道15分を1人で漕ぐのは大変そうだった。私も5分程漕がせてもらったが、次第に疲れてきて足の付け根に力が入らなくなった。⑨ 私たちのボートの漕ぎ手だった若者に聞くと、18歳の青年だった。
小島に着くと、3年前から営業しているというレストランでランチを食べた。⑩ 
晴天の日には、ここからもアンナプルナ山群が美しく見える場所らしかったが、霞んでいて見えなかった。ゆったりした時間が流れた。

 ⑧ ⑨

 ⑩










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ネパールの旅 (6)

2010年12月03日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

しばらく町の裏どうりを歩いてから①、パタンの王宮があるダルバール広場に行った。②
広場は観光客や地元の人が大勢行きかい、石で造られたクリシュナ寺院(②の左の寺)などの建物が渾然一体となって立ち並んでいた。

 ① ②

12世紀に建立され、本堂が金箔だというゴールデンテンプル③は修復中だった。
ビシュワート寺院には子供の僧侶がいた。僧衣はぼろぼろになるまで脱いではいけないそうだ。④
マチェンドラナート寺院では、猿などの像も手を合わせて寺院にお参りをしていた。⑤

 ③ ④ ⑤

1500年代に3世代の親子が数十年かけて作ったというマルボーダ寺院は、30mの高さの塔に仏像が数千体掘ってあって、建立者親子の執念を感じた。今のは1934年の大震災後に修復したものだ。⑥
次の寺に行く途中、建物の外壁に面白い絵が描かれていた。ガイドの説明では、悪い夫を売りに行く妻の絵だそうだ。⑦
パタンの王宮の一部は、博物館になっていた。⑧

 ⑥ ⑦ ⑧

ざっと見てから路地を歩いた。サリーの布地を売る店⑨が目に留まった。サリーには普通5.5mの布地が必要である。
数人の中学生に会ったが、制服を着ていた。⑩ 高校生位の学生も、皆制服姿だった。

 ⑨ ⑩

パタンを観光後、日本料理店で幕の内弁当の食事を済ませてから、カトマンズ空港へ向かった。
40人乗りの小型飛行機に30分乗ると、標高880mの高原にあるポカラの町に着いた。途中、私が座った山側の窓からは、遠くにヒマラヤ山脈が見えた。10分程写真を撮ってから隣席の人に席を代わってあげた。











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ネパールの旅 (5)

2010年12月02日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

バクダプルの観光を終えてから、バスで山道の悪路を北東へ50分登り、標高2100mの丘にあるナガルコットのホテルに向かった。
ここはヒマラヤ山脈の展望台で、ホテルが幾つもあり、夕日を浴びて赤く染まるエヴェレストやアンナプルナが見えるはずだった。①
ホテルのベランダに上って見たが、その日はガスが深く立ち込めていた。
暫くして僅かにガスが切れた時、幾重にも重なる山の彼方に、夕日に染まる標高7246mのランタンの姿を仰いだだけだった。②
私は持って来た双眼鏡でも覗いて見た。ランタンの雪に覆われた山肌に幾つもの筋と穴のようなへこみが見えた。

翌朝はまだ暗い早朝に起きて、気温が3~4度とかなり低いホテルのベランダに上って日の出を待ったが、霧が深く、遂に山は姿を見せなかった。

 ① ②




3日目は、7;40にバスに乗り、ナガルコットの丘から昨日上った山道を下って、カトマンドゥーの南の古都・パタンに向かった。急なカーブが続くため、気分が悪くなった。途中の狭い交差点で私たちのバスと車が接触したが、互いに何もなかったように別れた。
バスが止まっている時、角の物売りの様子を写した。シートの上にビニール紐、櫛、練り歯磨き、シャンプー、ヘアーピン、マニキュアなどを並べていたが、本当にこれで商売になるのだろうかと訝った。③

昨日通ったバクタブルを通った。橋に差しかかると河原にバラック小屋が立ち並んでいた。④
ガイドが、ミャンマーから来た難民たちだと説明した。ヒマラヤの雪解け水で川が増水すれば危ない場所なのだと言っていた。私はこの川には比較的きれいなヒマラヤの山の水が流れて来るのだろうが、危険な場所なのだと思った。

 ③ ④

道路工事をしていた所を通った。手袋も長靴も着けずに働く人たちが沢山いた。⑤⑥(バスから撮ったので、窓ガラスの光が反射した)
写真の車に「SUZUKI」という文字があるが、フロントガラスの上部にも大きく入っているのである。ネパールでは、どこの車かが直ぐ分るように大きく表示しているみたいだった。

 ⑤ ⑥

パタンは、チベット語で「美の都」を意味するラリトプルとも呼ばれて来た所で、ダルバール広場を囲むようにマッラ王朝時代の旧王宮や沢山の寺院が立ち並び、ネワール族の仏教徒が多く住む町として発展した。
また、ネワール族は古くから工芸や絵画に優れた才能を持つ人々で、町中には繊細な金細工を施した仏具や仏像を売る店、チベット仏教の仏画「タンカ」を売る店が幾つも目に付いた。
初めに1392年に建てられた五重の塔を持つシバ神を祀るクンベシュワール寺院に行くと、丁度、七五三のお祭りがおこなわれていた。⑦
裕福そうなインド系住民の子供たちが、着飾った晴れ着姿でお参りに来ていたのに出会ったので写真を撮らせてもらった。この子たちは幸せそうに見えた。私の心も一瞬満たされた。⑧
寺の入り口でお供えを売っていた。500ルピー(約650円)でヤシの実、バナナ、色づいたポインセチアの花、水牛のバターがバナナの葉で作った皿に載せられていた。⑨

 ⑦ ⑧ ⑨









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