花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

中国四川省の自然と世界遺産に触れた旅(6)

2007年06月23日 | 海外旅行「中国Ⅰ」四川省・雲南省

 今回の旅行を通して私が強く感じた点を一言でいうと「中国という巨大な国は、これから何処に行くのだろうか」という疑問である。
 お金と物、情報が解放され、農村からの人口の流動現象が続き、平均的な現金所得が上がると、人々の物に対する欲望が肥大する事だろう。すでに農産物や工業製品などは、グローバル化の波にももまれている。
 政策の大転換によって国営企業が減少し、外資企業や合弁企業が増え、農民も土地を離れて勤労者になる人が多くなるにつれ、今まで中国には無かった資本主義的・個人主義的な考え方が、当然の様に人々の間に強まって行くだろうと思う。
 そして私は、今の中国が、四十数年前の高度経済成長時代の日本にそっくりな社会経済状況になって来ている様に思ったのだった。
 トウショウヘイは「資本主義は集団主義だ」と言って幹部を説得し、改革開放路線へと政治の大転換を計ったのだが、経済の変動は社会構造や思想、人間関係までも変えるに違いないと思う。
 そして、今度はオリンピックだ。国際的な交流が大々的に進められるので、やはり大きな影響を受けることだろう。そしてオリンピックが終わった後、中国はどういう方向に向かうのだろうと思う。今後も、できればまた行って見たいと思った。
 
 そんな思いを抱いて帰国の飛行機に乗り、一週間振りで一日遅れの毎日新聞と日本経済新聞を機内で読んだ。
 日経新聞には、「少年ら強制労働 大規模摘発」「中国、全国で調査へ」「中央政府への批判も高まる」という見出しで、中国山西省のれんが工場で誘拐された多数の少年少女の強制労働が摘発されたことが写真入りで報じられていた。そこには「ネット上で上層部の責任追及や政治体制を批判する書き込みも目立ち始めた」と書かれていた。
 毎日新聞では、「中国虐待工場 経営者父は党村幹部」「警察に口止め料払う」という見出しだった。
 このように今の中国では、体制内部からもこうした違法行為が増えているらしい。
 人口12億の中国が抱えているという幾つかの矛盾は、やがて何をもたらすのだろうか。素晴らしい自然と文化遺産に触れながら、一方ではそんな事が気になった8日間の旅だった。

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中国四川省の自然と世界遺産に触れた旅(5)

2007年06月23日 | 海外旅行「中国Ⅰ」四川省・雲南省

 私が中国を訪れたのは今回で2回目である。
 初めての旅は今から10数年前だった。前回は北京、洛陽、大同と西安だったので、場所も全く違ったが、今回の旅で新しく感じた事もあったし、前と比べて中国は変化したと思った点もあった。

 先ず、変化したと思った点である。
 第一は、生活水準である。
 自転車の数は相変わらず多いが、見た所、随分車が増えた。
ガイド氏の説明では、一番売れているトヨタの○○は、去年から現地生産される様になり、関税が100%から50%に下がったのだという。人民元で20万元(330万円)もするそうだが、買える人が増えているのだ。そのため上海や成都などの大都市では、高速道路も整備されたが、一般道路では渋滞が起きている。
 
 また、どの都市でも、近代的な高層ビルの建設があちこちで盛んに行われていた。
 ところが一方では、改革開放政策が行われるようになってから、都市と農村の所得格差、都市内の所得格差が広がっているらしい。農村は農産物価格が安いので生活が苦しくなり、若者はどんどん都市に出稼ぎに出て来るのだという。
 上海では2200万人の人口の内、500万人が農村からの出稼ぎ者だと説明された。農村地帯で車窓から見た家は、ほとんどが数十年前に作られた様な暗くて設備の悪そうな前近代的な家だった。

 上海のガイド嬢の説明によると、1980年代に比べて給料は3倍になったが、都市の土地代が10倍になり、物価も高くなったのだという。
 そのため最近の女性はマンションを持っている男性と結婚したがるが、それもなかなか難しい。また、結婚すると、働く女性の負担が大きいため、中国でも日本と同じように晩婚化が急速に進んでいるらしい。

 一般道路では、自転車にリヤカーをつないだり、大きな竹製の籠をつけて物品を運んでいる人が多く見かけられたが、バイクで二人乗りをしている人達も凄く多い。車とバイクと自転車と、所得格差が一目瞭然に分かるようだった。
 また、私達にお金をくれと手を出す子ども、老婦、障害者の乞食もいた。ガイド氏に「社会主義中国にも乞食がいるのですね」と言うと、「最近社会が変わってきたから」という答が返ってきた。
 
 人々の服装も随分と良くなった。
 前に行ったのは8月だったせいか、上半身が裸の男性ばかり目に付いたし、シャツを着ていても、茶色っぽい着古した物が多く見られた。
 女性も25℃を越える真夏なのに、汗を吸わない合成繊維のブラウスやワンピースを着た人が多く、汗疹ができないだろうかと心配したものだ。
 今回は、多くの男性や女性が私達とほとんど変わらないTシャツやYシャツの服装をしていた。成都やその郊外で裸の男性も見かけたが、極一部分の人だった。

 第二は、マナーである。
 一番感じたのは交通マナーである。
 以前行った時は、北京の高速道路が建設中だった。それもヘルメットを被った上半身裸の男達が、砂利やコンクリートの破片をもっこに入れて肩に担いで運び上げるといった人力頼りで作っているのを見てすごく驚いたものだ。
 そして、首都北京でも信号機が少なく、あっても車は無視して走るし、その前へ平気で出てくる自転車や人が大勢居た。そのため車が渋滞して身動きできなくなる光景があちこちで見受けられた。
 今回行って見たら、上海ばかりでなく、内陸の成都でも高速道路が整備されていたし、町の中にも信号機が増えた。大都市では交通整理をしている人がいて、大体の人や車は信号を守って通行していた。(高速道路を平気で横断している人達がいたのが中国らしかった。)
 また、公安警察の車が、ラッシュ時には見張っているのを見た。しかし、日本の様に誰もが交通ルールを守る様になるのには、まだまだ時間がかかりそうに思えた。

 次は、ゴミのポイ捨てが少なくなった事である。
 朝、バスから見ていると、オレンジ色の服を着た交通庁の職員らしき人が、成都でも、峨眉山に向かう山岳道路でも、竹箒とちり取りを持ってあちこちで道路掃除をしていたし、道路にはゴミが少なかった。しかし、相変わらず、所構わずつばを吐く人がいたのは不快だった。人々の意識はまだまだだろうが、確実に環境は国際水準を目指してきれいになりつつある様だった。



 峨眉山に行く道路には「全国衛生山」という標識があり、国中の山を綺麗にしようというキャンペーンが掲げられていた。オリンピックを前にして、国を上げてマナーの向上に取り組んでいる事が良く分かった。因みにトイレは「衛生間」である。
 
 第三は、見学施設とその周辺の整備状況が格段に良くなったことである。
 前回行ったのは文化大革命の後で、多くの文化遺産が江衛兵によって破壊された後だった。その時色々な場所を見たが「兵馬俑博物館」以外はどこも薄汚く埃を被っていて、文化財がきちんと管理されている様には見えなかった。
 しかし、今回訪れた場所の中で、世界遺産に指定されている所は、国の予算を1/3と世界○○基金からの援助1/3を受けているらしく、どこも入り口から出口まできちんと整備されていた。中国の変化を見て、世界遺産の指定は、人類の遺産を後世に残すための素晴らしい取り組みだということを強く感じた。
 反対に、文化大革命と、それを支持した毛沢東の評価が、今、どうなっているのかが気になった。

 第四は、反日感情をあまり表に出さなくなった様に見えた事である。
 前回行った石窟寺院のある郡部の大同では、ガイドから「戦時中、日本軍がいた町なので、安全の確保のため外出を禁じます」と言われた。
 今回は四川省の奥地まで行ったが、何の問題も感じなかった。多分、オリンピックの開催を契機として、中国人の意識が変わって来ているのかなと思った。しかし、内面には、きっとまだ、根強い反日感情はあるに違いない。

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中国四川省の自然と世界遺産に触れた旅(4)

2007年06月23日 | 海外旅行「中国Ⅰ」四川省・雲南省

 七日目 ホテルから真っ直ぐ「四川パンダ繁育研究センター」に行く。
 ここは1983年に6頭のパンダの保護のために設立され、昨年8月、世界遺産に登録された所だ。
 そこでは36万k㎡の広大な竹林の中で、現在は43頭のパンダが飼育されていた。入り口から特別バスに乗って行くと、大人のパンダ数頭が竹を食べている場所に着いた。
 そこで写真を撮って更に行くと、パンダの成育写真や赤ちゃんパンダの保育器が置かれている展示館があった。
 その傍の施設で生後8ヶ月位の子どものパンダ数頭が飼育されていて、丁度、竹を食べたり木登りをしたり、遊具に登ったりして遊んでいた。食べているパンダは2頭いたが、仰向けのスタイルで食べていた。こんなに生き生きと自由に行動しているパンダを見たのは初めてだった。

 ガイドの説明では、パンダは2000m以上の高地に生息していて、四川省には全体の80%が生息しているとの事。平均寿命は25年、一日の内、65%の時間は食べ、30%は寝ているそうだ。
 繁殖力が弱く、毛皮目的で密漁されて来たパンダは、すっかり数が減ってしまった。だから研究センターの究極の課題は、人口繁殖させたここのパンダを自然に帰すことだそうだが、かなり難しいらしい。
 2万円を寄付すると、パンダを抱いて自分のカメラで写真を撮る事ができる。私達のツアーでは、二人が応じた。私は入場料30元(510円)もパンダの繁殖と保護に役立つ筈だと思った。



研究センターの特別バスに乗り合わせた高齢の元気な女性と話しをしたら、彼女は台湾から観光に来た人だった。日本語が凄く上手いので、どうしてか聞くと、小学校5年生の時、1年間だけ台湾で国民学校に入って、日本語教育を受けた事があると答えた。日本へはテニス協会の旅行で数回行った事があるらしい。思いがけない場所で思いがけない歴史の生き証人に会った気がした。

 次いで「三星堆博物館」を訪ねた。
 1986年、二つの祭祀跡が見つかり、研究の結果、新石器時代末期から殷にかけて存在した3000年程前の古蜀国の都だとわかり、独特の目玉が飛び出し、耳が大きな仮面を持つ高度な文明の存在が世界に知らされた。
 博物館は10年前に作られたのだが、行ってみると広大な場所の中に二つの展示館が作られていて、数多くの出土品やコピーが展示されていた。(写真上の右) 
 太くて長い象牙も沢山出土したが、ガイドは、当時の気候が今よりもとても熱くて、この辺りにも象が居たのかもしれないし、あるいはインドなどの南方から来たのかも知れないと言っていた。
 私自身、札幌の展示で仮面の幾つかは見ていたが、高さ2.6mの青銅の立人像には圧倒された。
 ところで、その文明は突如として消えてしまったというが、理由は何なのだろうか。日本語の専門ガイドは、ある日、近くの川で大洪水が起こり、死んだり、別の場所に移って行ったのではないだろうかと話した。私は伝染病に感染した事なども考えられるなと興味をそそられた。

 世界遺産「都江堰(とこうえん)」見学 
 道教発祥地の「青城山」に行き、山の中腹にある寺の山門から中に入った。
 入るとすぐに展望台があり、そこから下を見ると、中州のある幅の広い川が流れていた。みん江だった。急な石の階段を下りて山肌に建てられている幾つもの寺の建物を抜けながら下に行くと、みん江の巨大な川の傍に出た。
 みん江は、その昔、何度も氾濫を繰り返したらしいが、紀元前256年に洪水を防止するために李氷親子が指揮ををとって作ったのが古代水利施設「都江堰」なのだ。
 大きな川の中州で分かれた水流が、作った堰で調節されて計画的に流れていく仕掛けになっていて、現在も使われているのだという。日本では弥生時代に入り、縦穴式住居に住み、稲作が開始したころといわれる紀元前の古代に、現代まで利用される大規模な水利施設を作ったこの国の当時の人々の知恵と指導力に思いを馳せ、感嘆させられた。
 川には長さ200m以上の吊り橋が吊ってあった。1列になって中州まで渡っていったが、結構揺れたので落ちないように真剣に渡った。

 

 成都へ戻り、唐の大詩人杜甫が4年間住んでいたという「杜甫草堂」を見学した。
 記念館の入り口を入ると、やせ細った晩年の杜甫の青銅像が迎えてくれた。彼はここで240編のリアリズムに溢れた詩を作ったのだそうだ。彼が住んだことがあるという草堂を見学した。(何度か建て替えられているそうだ。)
 竹林の中の赤い塀に囲まれた杜甫の散歩道だったという所を通って外へ出たが、杜甫の様には、詩は思い浮かばなかった。

 三国志で有名な諸葛孔明(181~234)を祀った「武侯祠(ぶこうし)博物館」に行く。4世紀初めに建てられたという釘を全く使わない大きな建物の中に、三国志の代表的な人物を形取った大きな人形が祀られていた。私は三国志に余り興味が無いため、ガイドの説明も受け流した。

 夜6時の飛行機で、成都空港から上海に向かい、着いたら8時40分だった。気温は27℃で酷く蒸し暑く、一気に汗が流れた。バスで町の中心に行き、上海のネオンで飾られた夜景を見た後、船上のレストランで遅い食事を取った。
 夜景を見る場所に偽ブランド品を持った女性が数人いて、かなりしつこくつきまとって来た。

 八日目 個人の所有物である「豫園庭園」(写真下)を見学した。狭い場所に観光客が一杯だった。
 ガイド嬢は、この庭園が造られたのは男尊女卑時代だったので、廊下や部屋を男女別にしてあるなど、建物に色濃くその影響が現れていることを力説していた。また、初代の庭園造成主の息子が遊興三昧の末、広かった庭園の一部を売り、相続した孫もまた売却して、現在は当初の1/3になってしまったと説明していた。



 その後、傍の豫園市場を30分、自由に散策した。最後に参加者が要望した食品店に案内して貰い、30分間、自由に買い物をした。私は慌ただしく菓子と干し果物を買ってバスに戻った。

 バスで上海空港に向かい、14時20分の千歳空港行きに搭乗した。
 機内で出た軽食は、日本で積んだ懐かしい味の冷やしうどんだった。
 3時間弱で千歳に着いた。時計を1時間進めて日本時間に戻し、荷物を受け取ってからJRで我が家に帰った。
 中国は一番近い隣国だが、今回は西域の四川省まで行ったので、流石に疲れていた。これからは8日間を超える海外旅行は、体力的に無理かも知れないと思ったりした。
 

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中国四川省の自然と世界遺産に触れた旅(3)

2007年06月23日 | 海外旅行「中国Ⅰ」四川省・雲南省

 五日目 朝、起きたら、顔が数カ所、ムラになって赤く日焼けしていた。昨日、日焼け止めクリームを塗らないで3000mの所で止まったバスの外に3時間以上も立っていたからだろう。慌ててたっぷりと日焼け止めクリームを塗った。

 再び高地の九歳溝空港まで登り、飛行機に乗ってまた成都に戻った。
 空港からバスで郊外の楽山に行き、そこで川の合流点に向かって船舶の安全祈願のため岩に掘られた大仏としては世界一大きな世界遺産「楽山大仏」(台座から頭頂まで71m)を観光した。
 唐代の713年から90年間かけて作られたそうである。船に乗って船上から見た岸壁の「楽山大仏」は、流石に大きかった。(写真)



 午後はもう一つの世界遺産、天下の名山「峨眉山」(中国仏教四大聖地の一つ)の頂上3099mにあるホテルまで、途中、専用バスに乗り換えて2時間半、ロープウエーで3分間掛けて行った。
 所が2000m過ぎから霧が濃くなり、前方10m程しか見えない。ピンキングカーブの続く狭い山道を凄い早さでバスが走るので、事故にならないかと冷や冷やした。
 やっと着いたが、残念ながら山頂も霧に包まれ、夕日は見えなかった。ホテルには暖房が入っていた。
 予定では山頂の散策だったが、前日から腸を壊して絶食していた私は、その時間、部屋で休むことにした。

 六日目 予定では5時に起床し、6時に峨眉山山頂でご来光を見る筈だったが、霧雨で中止された。
 私は昨夜、散策できなかったので、朝食に行かず、その時間を一人で幾つもの階段を上り下りして、霧の中、頂上に建つ華蔵寺を目指した。行って見ると、階段の両側に真新しい金ぴかの大きな象が向かい合って並べられ、階段上の広場には巨大な金色の普賢菩薩像があった。(写真上はその台座の象)昨年5月に作られたばかりなのだという。私には、何か聖地とは似合わない様な気がした。
 華蔵寺には3体の優しい顔をした大きな真新しい金色の菩薩が並んでいた。普段は無信心の私だが、霧雨の中で出逢った菩薩に思わず手を合わせた。その途端、旅行中忘れていた病気の事を思い出し、「もう少しの間、元気で旅ができますように」と願った。そして、2年半前には全く想像もできなかったこんなに遠くの高山迄、元気で来れたかと思うと急に胸が熱くなった。横で寄進を受け付けていたので、寄進帳に名前を書き、僧侶に10元差し出した。
 
 相変わらず霧雨が降る中、ロープウエーで薄暗い峨眉山を後にして、バス乗り場で待っていた専用バスで、来た道を戻った。雨で勾配のきつい道路が滑りやすいので、運転手に特に安全運転をお願いしてくれるよう私からガイドに頼んだ。中腹から霧が晴れたのでほっとした。
 楽山に戻り、ツアーのバスに乗り換えて、また成都に向かった。
 高速道路で立ち寄ったトイレは真新しい綺麗なトイレだが、仕切はあってもドアが付いてなかった。中国ではやっぱりまだ、こんなトイレが作られているのだと知り、写真を撮った。(前に楊貴妃の墓の傍でトイレを借りた時、ドアは無かったし、隣との仕切もせいぜい50cm程だった事を思い出した。それに比べたら立派なものだと思った。)





 成都では四川料理店で麻婆豆腐などの辛い昼食が出たが、私は豆腐を2~3切れとスイカを一切れ口にするだけにした。
 料理店の前に桃売りが3人来た。(写真上右) 初めの人は売り子の言い値通り、3個10元(170円)で買った。次々と仲間の人が値段の交渉をし始めた。10元で4個になった所で数人の人が買った。一段落して誰も居なくなった所へ私が行き、6個10元と言ってみた。初めは渋っていたが「良いよ」と言われて交渉成立。そのやりとりを後ろで見ていた人から、「上手いね」と感心された。中国の桃は日本の水蜜よりも小さくて硬めだが、凄く美味しいのだ。その夜から数日間、味を楽しむ事ができた。

 その夜は、四川名物の「川劇」を見に行った。有名な変面の場面では、10人位の仮面を被ってマントを着た男性が出て来て、次々と瞬時に数回、仮面を変え、最後には素顔を見せるのだ。片手を上げる瞬間に仮面が変わるのだが、どんな仕掛けなのか不思議だった。(写真)


 

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中国四川省の自然と世界遺産に触れた旅(2)

2007年06月23日 | 海外旅行「中国Ⅰ」四川省・雲南省

 三日目 ホテルから15分歩いて「九さい溝」観光の乗り合いバスの発着場に行く。
日曜日なので中国人が大勢来ていたが、欧米人は少ししか居なかった。日本人は私達を含め今日一日で300人だそうである。私達は一台の専用バスになった。
 「九さい溝」は、民山山脈からの湧き水が、カルシウム、マグネシウム、銅を多く含む独特の土質によって濾過されて澄んだ緑色の水になり、100以上もの透明で美しい湖や池、川、大小の滝が720k㎡もの広い地域に散らばっていて、世界遺産に登録されている。
 入り口は標高1990mだが、最も高い場所にある「長海」は標高3150mの地点にあるのだ。万歩計を持っていた人によると、私達は一日で2万歩の距離をハイキングした事になったそうである。
 私は持参した登山用の杖を使い、弱い方の膝にはサポーターを巻いて上り下りしたので、何とかみんなについて行けた。かなり足腰が疲れたが、二つの大きな滝を含む景観は、どこも息を飲むほど素晴らしかった。(写真は底の石が透けて見える湖)

 

 四日目 7時半に弁当持参でバスに乗り、午前中、棚田の様に湖沼が連なる世界遺産「黄龍」のハイキングの予定だった。
 しかし、行く途中で交通事故が原因の交通閉鎖となり、3時間半、バスは立ち往生させられたままだった。
 何十台ものバスや車が渋滞する前方1km程の所で事故は起きたようだ。
 あるバスの前を歩いて渡ろうとしたチベット族の20歳の男性が轢かれて死亡し、老人が大けがをしたらしい。事故の解決のため、チベット族の集落の人達大勢と家族が集まり、話し合いをしたがもめ、ついには武装警察と軍隊まで出動したが事故処理に時間がかかったらしいのだ。私達は中国の少数民族の立場を思いやった。(下は、バスが動いた時にバスから撮影した事故現場の軍隊の写真。バスの反対側には武装警察がいた。)
 ガイドから、交通事故死の場合の国の保障は、人民元20万元(日本円で330万円)だと説明された。バスから見ていても、自転車、バイク、歩行者は、車を余り気にしている様には見えない。バイクの運転手にはヘルメットの義務は無い。ガイドは「中国は勇気優先」だと言った。しかし、滞在中、私達は何度も交通事故の現場に出逢った。

 私達がバスを降りて立ち話をしていた時、どこからともなくチベット族の男性が数人、石の置物やヤクの切り取ったばかりに見える角、薄汚れた巻物などを手にして売りに来た。石の置物は偽物のガラス細工らしかった。
 また、前に止まっていたボンゴ車の若いチベット族らしい運転手が、段ボールのゴミを車外に捨てた。それを見た私は、他の人を誘ってドアを開き、「ゴミを拾うように」とその運転手に抗議した。なかなか拾おうとしなかったが、大きな声で何度も言っていたら、私達のガイドがバスから降りて来て、「世界遺産を汚すな」と中国語で言ったら、彼はやっと拾った。私はホットした。私は、中国人が当たり前のマナーを身につけるのには、まだまだ時間がかかりそうだと思った。

 3時間近く止まっていたら、私達の後ろのバスの乗客達が、飛行機に間に合わないので1時間半歩き、町から別の車に乗ると言って、ぞろぞろトランクを引っ張って前方へ歩き出したので驚いた。(写真)



 この3時間半の渋滞のため、私達は仕方なく「黄龍」行きを諦めて、レストランで昼食後、「黄龍」の手前の4007mの峠までバスで行き、そこから5588mの雪宝頂を臨んだ。
 峠の一部はチベット族の聖地となっていて、旗や紙銭で飾られていた。峠にはチベット族の女性と男性が小さな馬を引いて、写真撮影する人を募っていた。ブルーのポピーと黄色い花が咲いていた。
 私は15分程上の方を散策したら息苦しくなり、バスに戻って携帯用酸素ボンベを借りて吸った。ガイドが用意してあった11本の酸素ボンベは、みんなで回しながら使ったら直ぐに空になった。頭痛を訴える人も居たが、私はそれ程でなかった。


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中国四川省の自然と世界遺産に触れた旅(1)

2007年06月23日 | 海外旅行「中国Ⅰ」四川省・雲南省

 6月15日~22日の8日間のツアー旅に参加した報告をしたい。
 先ずは日程順に、それから現代中国をかいま見た私なりの感想を書く事にする。ツアーの人数は30人、添乗員一人だった。

 一日目 新千歳空港19時25分離陸して上海空港に、2時間40分かけて行った。(上海泊)
 中国東方航空の機内は左右3列ずつ、機内食が出たが、味が無く、不味くて食べられなかった。
 機内で「入国カード」「税関申告書」「健康検疫カード」の3枚のカードを作製した。「健康検疫カード」は、過去7日間に家禽や鳥と接したか、鳥インフルエンザの患者と接したか、性感染症・エイズ・精神病・肺結核などに罹っているか、などの調査項目があった。
 上海空港に着いた所で、日本との時差1時間分、腕時計を遅らせる。全乗客がリムジンバスに乗っても、公安の車が来て機内を点検するまで、かなりの時間、バスは機体の傍に止まったままだった。上海国際空港は凄く大きな空港だが、さらに国内便の空港を統合する工事がされていた。
 ホテルの水は黄色っぽく、消毒の臭いだろうが変に黴くさかった。部屋にはミネラルウオーターが2本「贈品」と書かれて置かれていた。

 二日目 上海空港から成都空港まで3時間かけて飛ぶ。千歳から上海までよりも時間がかかった。
 上海空港までの車窓から見た所、数カ所で大規模な街路樹の植樹をしていた。オリンピックを控えて緑化をしているのだろう。広いゴミ捨て場で何人かの大人がゴミを拾っている姿も見た。

 成都は人口400万人の四川省の首都で、中国四大都市の一つであり、高層建築や高層アパートがぎっしりと建ち並んでいたが、その中にかなり古いアパートもあり、住宅格差を思った。



 成都空港は標高450m程だそうだが、私達はそこから更に乗り継いで、標高3500mの九さい溝空港まで45分かけて飛んだ。
 その空港は、4000m前後の山々が連なる高地に2003年に作られた空港だという。(空港が無かった時は、成都からバスで11時間かかったそうである) 高地で空気が薄く、酸素が少ないので、歩くだけで胸が苦しくなった。気温がかなり低い場所なので、私は毛のカーデガンの上にゴアテックスの上着を着た。飛行場にはダウン入りの防寒ウエアーの売り場があった。(写真)




 私達は空港からバスに乗り、標高1500mの九さい溝の中心地にあるホテルまで1時間15分かけて山道を下った。
 所々にチベット族の集落や家が見えた。独特の模様と色彩を施してあり、何本もの経文を書いた長い旗が立てられていた。(写真)  
 彼らはヤク、山羊、馬を放牧して暮らしているそうである。
 飼育役の男性は、家畜を夏は高地に連れて行き、秋に低地に戻る生活をする。家族は昔から『一婦多夫』が多く、夫同士は互いに競争して良く働き、子どもはどの父の子か分からないため、夫全員の子として育てるそうだ。(かなり前にNHKTVでも放映された。その時の夫は兄弟二人で、遊牧地から交互に妻がいる家に帰って来ていた。) ヤクの糞は燃料として使うそうである。
送電線が走っていたが、今では電気がつき、山岳地帯なので衛星放送を受信しているとの事だ。私は、新しい情報はチベット族の若者に影響を与えずにはおかないと思った。
 次の日、チベット族の人が経営する土産物店に行ったが、まだ50代になっていない様な経営者は、去年の収入は私が一番だったとえばっていた。空港ができ、道路が整備され、電気が通って観光客がどんどん流入するようになると、それまでの伝統的な少数民族の生活スタイルは、きっと大きく変化するだろうなと私は感じた。

 途中に石造りの町があった。地元で採れる石を重ねて、内部に木材を使っているというホテルや住宅が沢山建っていた。
 やっとホテルに着き、夕食後外を見たら、中国の西の端なので、夜8時になってもまだ薄明るい状態だった

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旅行中の庭管理

2007年06月13日 | 家庭菜園・市民農園・借り上げ農園

 明後日から8日間、念願の中国旅行に出掛ける予定である。
 ここ数日、一気に気温が上昇して、今朝9時ですでに22℃。今日は29℃までなるらしいし、天気予報ではしばらくの間は晴れマークばかりだ。

 それでトマトの苗が焼けたら困るので、囲ってあったビニールを外して竹の棒を立て、手を作った。
 見ると、ビニールの中でぐんぐん伸びて既に花を咲かせ出していた。ご近所から「種類は分からないけれど良かったら植えて下さい。」と頂いた苗だが、ミニトマトと分かるもの以外の脇芽を摘んだ。(ミニトマトは摘まなくても良いと習ったので)

 ミックスサラダ菜、水菜は毎日摘んで食べて来たが、多すぎる位育ってきた。小松菜も間引き菜を胡麻和えにしたが、食べきれないので、ビニール袋に一つ分ずつ、差し上げた。ついでに、留守中、なった豌豆や菜物を採って下さいとお願いした。

 接ぎ木のスイカの苗を2本植えてあるが、ツルが出始めたので、スイカ作りの指導をお願いしてあった方に、留守の間の管理もお願いした。

 花の水やりを申し出て下さった方には、日照りが続いた場合だけ、して下さるようお願いした。
 
 ちょっとの間の留守だが、植物の管理を快く引き受けて下さる郊外ならではのご近所の存在を、本当に有り難いと思っている。必要な時に手を差し伸べあえる近所付き合いを、今後も大切にしたい。

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私の病気と死生観・生活観の一端(3)

2007年06月12日 | 医療・健康・食生活・衣生活

 どこかに書いたが、私は両親との縁は短い方だった。父は私が8歳、母は28歳の時に亡くなった。だから若い頃から、命のはかなさは良く分かっていたので、何事も今を大事にした生活を心掛けて来たつもりだ
 したいことは我慢せずにする。それには大抵、経済的な裏付けが必要なので、自分ができる仕事をしっかりとやり続け、安定した生活を目指す努力をして来た。
 保育所の無い地域で小さな子どもを抱えながらフルタイムで働いた時は苦労したけれど、子どもは5年経てば小学生になり、楽になると考えて頑張った。

 考えてみると、確かに私が乳癌になったのは、不幸な事だったと言える。
 しかし、必ずしもそうばかりではなかったのだ。
 命は有限で、人は誰もがその人の寿命の終わりに向かって、一日々々確実に進んでいるのだということを実感できたからだ。
 だから、今日の一日、明日の一日を生きられる事が嬉しい。
 そして、いつ私の死がやって来るかは分からないけれど、それまでの間、精一杯、自分なりの満足できる生き方を目標にして充実した生活をしたいと、一層、強く思うようになった。
 そして、例え、平均寿命よりもずっと人生が短くても、一年を人の1.5倍、いや2倍、意味ある様に生きればそれで良いと思うようになった
 もし病気にならなければ、私はきっとこんな考え方を持てずに、漫然と毎日を過ごしていただろうと思うと、病気から大きなプレゼントを得たと思っている。

 話しは変わるが、退職後はマンション住まいに見切りをつけて、戸建てで庭いじりをしたいと思い、数年前に今の宅地を買って置いたのだが、予想外の病気によって家を建てるかどうかも、随分、悩んだ。
 医者にも相談したが、「自分で決めて下さい」と言われ、それならまだ少しは元気で生きられるのだと受け取った。
 そして、数年間元気でいられるなら、そこに家を建てて、私が一番したかった庭仕事をしようと考え、実行したのだ。だから、お金はすごくかかったけれど、私が寝込んだ時の事を想定してバリアフリーの家にしたのである。(詳細はブログの「私が建てたバリアフリーの家」参照)

 お金も物も、生きている間に有意義に使うべきだと思う。死んだら何一つ持って行く事はできないのだから
 二人の子どもには自立できる教育をしたので、財産など残さなくても良い。それでも結果的には不動産など、少しは残ってしまうだろうが。
 また私は、もう一般の生命保険には入れないが、病気になった時はこれまでの少しの蓄えと公的な医療保険で何とかやって行けると思う。(この間の6日間の入院と手術、通院治療費を合計すると、3割負担分だけで80万円近く払った。幸いに、もし70歳になれたら、医療費も今よりは安く済む筈だ…と考えている)
 
 旅行で見聞を広げる事も趣味なので、元気な内に行きたいと思っている。年に2回位の外国旅行もしたい。
 後何年、元気で居られるだろうと考えると、やりたい事が一杯なのだ。今、それらをやれる幸せを噛みしめて暮らしている。

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私の病気と死生観・生活観の一端(2)

2007年06月12日 | 医療・健康・食生活・衣生活

 手術自体には恐れは全く無かった。
 麻酔がかかってから先ず受けた脇のセンチネルリンパ節精検の結果、幸いな事にリンパ節には転移していなかったので、がん組織を完全に除去するだけの手術で済んだ。
(少し前までは、手術の際、必ず脇のリンパ腺も切除していたが、術後の副作用が大きいため、事前にリンパ節に転移しているか調べて、転移していなかったら切除はしないという治療法がセンチネルリンパ節精検。その病院では、私の手術の1週間前からこの方法を採るようになったと聞き、幸運な巡り合わせだった。)
 しかし、手術後初めて病院に行った時、医者から、摘出した組織を検査した結果、私の場合、再発・転移しやすい質の悪いがん細胞だと告げられた。

 手術は乳房温存手術だったので、手術から1ヶ月後に6週間余りの期間、放射線治療に通院し、その後、抗癌剤治療を受けた。

 いずれもきつい副作用があった。
 特に最初の抗癌剤を投与されてから2週間後に、僅か3日間ですっかり脱毛してしまった時は、覚悟をしていたとはいえやはり凄いショックだった。その内、眉毛も抜けて容ぼうも変わったが、丁度、冬だったので、外出の際は毛糸の帽子を深めに被って過ごした。
 (頭髪が生えてくるまでの半年以上、家の中でも常に自分で作ったキャップを被っていた。髪が生えそろうのには1年数ヶ月かかった)

 こうして一通りの術後治療は終わったので、現在は3ヶ月毎に検査のために通院している。
 肺のレントゲン検査で転移の有無を調べたり、視触診検査、超音波検査、マンモグラフィー検査、血液検査などで再発・転移していないかどうかを調べるのだ。その結果は約10日後に郵送で通知される。

 この病気の切ない点は、「完治した」という事を10年以上経たないと言えない事だ。
 (他の部位のがんなら5年再発・転移が無ければ完治というそうだが、乳癌は一般に進行が遅いので10年になっている。また、10年後でも再発・転移する人もいる) だから、身体に何かちょっとした異変を感じても不安になってびくびくするし、通知の封を切る時も毎回、凄く緊張するのだ。
 前回の検査では異常がなかったが、「これから再発などし易いので、何かあったら直ぐに来て下さい」と注意された。

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私の死生観・生活観の一端(1)乳がんの宣告を受けて

2007年06月12日 | 医療・健康・食生活・衣生活

 人間が健康に長生きする事って難しい事だ。
 この2年8ヶ月間、実は私も人の命の有限性について思い知らされて来た。
 それというのは、2年8ヶ月前の2004年10月に私は全く思いがけず乳癌であることが分かり、手術を受けたからだ。(発見したのは自分だったので偉いと自画自賛しているが…)

これまでブログの記事では、敢えてこの事には触れないようにして来た。先入観を持って記事を読んで欲しくなかったし、がんを患っていると言えば、それだけで普通の人として見て貰えないかも知れない等と気にしたからだ。
 でも、今の日本でがん患者は増え続けているので、きっと自分が知らないだけで、回りにも普通の生活をしている何人もの患者達がいるのかも知れない。
 そんな患者の一人として、今まで書いた私の記事に少なからず影響を与えている私の乳癌とその治療経過、そして、その結果としての私の死生観・生活観を今日は思い切って書いてみたい。少し長文になる事を了解して欲しい。

 手術の3週間前に医者から「細胞検査の結果はがんだった」と宣告された時、もしかしたらと、半分覚悟はしていたつもりだったのに、診察室から出た途端に涙が溢れて困った。

 それからの3日間位は、「来年、私は生きていられるのだろうか」という不安な思いに襲われ、夜も熟睡できず、どん底の精神状態に陥った。
 (実は、痼りを発見した翌日、家の近くの有名な乳腺専門病院で検査を受けたのだが、その時、「ほぼこの痼りはがんに間違いないと思うが、あなたの場合は既に肺や骨に転移しているかも知れない。その場合、ここでは乳腺以外の治療はできないので、最初から他の総合病院に行って欲しい。」と言い渡されたのだ。
 それで、今罹っている病院を選んで最初から検査をやり直し、針精検を受けた経緯があったので、悪い方へと考えが行ってしまい、ショックは大きかった。
《針精検とは、注射針の太いのを患部に射して組織の一部を吸出し、精密検査をすること》

 また、初めの頃は病気に対する知識もほとんど無く、がんに罹ったら死ぬものだという認識位しか持ちあわせていなかった事もあった。
 少し気持ちが落ち着いてからは、図書館から数十冊のがん関係の本を借りて読んだり、インターネットで病気の情報を調べたりした。
 何よりも治療の経過を体験的に書いてあった幾つかのブログの記事が役に立ち、後の見通しを持てるようになった事は良かった。ブログの管理者には大変、感謝している。)

 幸いな事に、当時の私は、38年間働いた職場を退職した後、新しい職場でパート労働に就いていたので、気心が通じていた同僚に励まされたり、パートでありながら、治療に先立ち、仕事面で上司の温かい配慮を受けたりして、徐々に病気に立ち向かう気持ちが生まれて行った。

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藻岩山に登った

2007年06月05日 | 軽登山・登山・軽スポーツ


  今朝は何故か3時半に目が醒めたので、掃除、洗濯を済ましても、まだ6時半。明日は久し振りに雨の予報なので、急遽、札幌の南区にある「藻岩山」に登ることに決めた。
 急いで食事をして、簡単な準備をし、7時半に家を出た。
 
 「藻岩山」は標高が531mの山でスキー場があり、山頂までは年中、北側からのロープウエーが運行しているし、南側からは有料の観光道路も整備されている市民の山だ。

 登山道は北側の慈恵会病院からのコースが最も一般的で夏木立の中を登るのは気持ちが良いが、その少し西側にある旭山公園からのコースはアップダウンを楽しめる。また、西側にある小林峠からのコースでは、登山というよりも静かな原始林の中を散策する様な雰囲気の登山道がしばらく続き、途中で慈恵会コースに合流するのである。
 私は最近、最も時間を短縮して登れるスキー場コースを利用する事が多い。東側にあるスキー場の駐車場まで車で上がれるので、その分、結構、登りが楽なのだ。

 人通りのほとんど無いスキー場の入り口に差し掛かった時、リュックをしょって日焼けした顔で歩いている男性を見かけた。
 車を止めて、「上の駐車場に行くなら、どうぞ乗って下さい。」と声を掛けた。車なら5分でも、歩くと20分位はかかる、結構、きつい上りなのだ。
 その人はリタイア組の私と違って、まだ若く見えたので、駐車場で登山靴に履き替えながら、「ウイークデイに来られて良いですね。」と話し掛けた。すると、「自営業なので適当に暇ができると、3年前から登山をするようになりました。」という答えが返って来た。そうなのかと納得した。
 10分程一緒に登ったが、私とはスピードが違うので先に行って貰った。

 それから少し登ると鶯の透き通った鳴き声が聞こえだした。歓迎してくれているようで嬉しかった。
 そう言えば前に来た時には、この辺りで雉に出逢ったな、等と思い出しながらゆっくり登って行った。間もなく、前を歩いていた男性の姿が見えなくなった。
 
 7合目辺りに行くと、山菜を採っている人達に出逢った。ある夫婦は採ったばかりのわらびをレジ袋一杯持っていたし、大分伸びたウドを採っている人達もいた。山菜採りが好きな人は、一石二鳥の登山をしているのだろう。

 頂上まで上りは1時間かかった。さっきの人が私が着くのを待っていてくれた様で、10分位登山の話しをしてから別れた。彼はスキー場とは反対側の慈恵会病院へ下り、それからまた、1時間で登れる丸山に登ってから帰ると言っていた。やはり若いし、私とは気力が違うなと思った。
 まだ時間が早かったためか、霞がかかっていて、札幌の街も、遠くの山並みもぼんやりしていた。東側の山並みの向こうに見える残雪がある山は、多分1、488mの「余市岳」だ。(写真) このような景色は、頂上でしか見ることはできないと、登山をするといつも思う。



 45分かかって下山した。
 
 家に向かう途中、時々利用する回転寿司屋が見えて来た。寄って昼を食べるかどうか迷ったが、時計を見るとまだ11時過ぎだった。昼には早すぎると考えて素通りし、帰宅してから携帯食に持参した餡パン一つとチーズに、冷蔵庫の牛乳を加えて食事を取った。何と私は節約家なのだろうか。
 今日は、とても満足した午前中を過ごせたので嬉しい。
 
 
 

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