花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

農園仲間とランチする

2007年09月29日 | 日記
 昨日は9年目の車の車検を受けるため、9時半に検査場に行った。
 前々日に友人と約束して、車検を受けている間の時間、農園仲間で会ってランチした。
 この機会にと、私は収穫した小豆を煮て、朝、赤飯を炊き、持参して二人に渡した。
 凄く小粒なえりも小豆なのに、煮たら3~4倍の大きさになった。素晴らしい!!(でも正直な所、選別にかなりの時間を要したが)

 また、最後になってきた庭先の野菜(ピーマン、トマト、オクラ、パセリ、茄子、青紫蘇、いんげん豆)を収穫して詰め合わせ、土産に持参した。私の野菜は、新鮮さと無農薬であることがキャッチフレーズだ。

 札幌の中心街にあるビルの上で和食と飲み物を頂きながら3人で2時間くらいお喋りをした。半年の農作業は楽しかったと改めて確認し合えた。みんな、農園で出逢う雰囲気とは少し違っていて、珠には賑やかな札幌での食事も良いと思った。(私も友人達も服装が農作業時とは違っていた。当たり前だけど…)
 
 レストランを出て、一人と別れ、農園主の友人のマンションに初めて行ってパソコンメールの仕方を指南した。
 夜、その友人からメールが来たので、先程、おめでとうメールを返信した。折角パソコンがあり、インターネットに繋いでいるのだから、大いに活用してセカンドライフを楽しんだ方が良いのだ。

 5時過ぎに修理と車検が完成した車を引き取りに行った。1600ccのトヨタカローラ・ツーリングワゴンの車検金額は、締めて106,000円だった。来月からはガソリン代がまた上がるらしい。私には、もう、こんな大きな車は必要ないので、小さい車に替えたいのだけれど、でも、買い換えるよりは乗り続けた方がやっぱり経済的なような気がするがどうだろうか。それに、堆肥や土を運ぶには、新車でない方が気が楽かも知れないし。
 
 そんなこんなで色々あったが、昨日は充実した一日だった。

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垣間見たモロッコ 《4》特異な自然と生活が映画の撮影舞台に

2007年09月21日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ
「モロッコに行かないかい。」と娘に誘われた時、正直、その国の正確な場所も様子も良く分からなかったが、まず、かなり以前にTVで見た映画「カサブランカ」という題名が思い浮かんだ。その次が意味は分からないが「カスバ」という言葉だった。
 今回モロッコに実際に行って見て私が一番感動させられたのは、太古の昔から変わらずにあっただろう実に雄大な独特の自然とサハラ砂漠、そして、まるで私には中世に迷い込んだように感じられたカスバなどの泥の家の集落、それから想像する人間の絶えることのない逞しい営みだった。

 ②

 これらの事は世界的に随分前から知られていて、モロッコの大地で撮影された映画が幾つもあったのだ。
 「アラビアのロレンス」のロケ地はワルザザートにあるカスバ「ティフルトゥト」(写真①)だ。
 カスバとは、四角い泥の家の四隅に見張り場を造ってある要塞を指すとの説明があった。
 モロッコに詳しい添乗員さんは映画の撮影場所として選ばれる理由として、1.独特な風土であること 2.人件費が安いこと 3.雨が少ないので予定通りに撮影が進むことの三つを挙げていた。

 何でもこの「ティフルトゥト」のカスバの元々の持ち主は、依頼主のマラケシュの隊商からお金を取って、サハラ砂漠を通る時にその隊商を盗賊の被害から守る仕事をしていたそうだ。ところが依頼を断った隊商に対しては、逆に盗賊になって襲ったというのだ。
 それで財を築いた彼の一族は、植民地時代には宗主国フランスにも協力した。それで独立後は地域に居られなくなり外国に逃亡したため、現在このカスバは国の管理の元に置かれているという。
 聞いていて、まるで映画のストーリーになるような話しだと思った。このカスバにいた沢山の女性は、外部から見えないように二階で暮らしていたという。

 この町から少し離れた草原に映画の撮影所があった。そこでは撮影と映画の仕事を教える学校の様な事もしているとの説明があった。

 トドラ渓谷を見た後、ワルザザードに向けてしばらく走ると、カスバ様式の家がズラリと建ち並ぶ「カスバ街道」があった。
 また、世界遺産の「アイト・ベンハッドゥ」(写真②)は、アカデミー賞受賞映画「グラディエーター」の背景になった所だった。実際に「アイト・ベンハッドゥ」の下にセットを組んで撮影したらしい。私はこの映画を、たまたま帰国した翌日の夜、BSで見た。
 これ以外にも、幾つもの映画がモロッコで撮影されているのだった。

 サハラ砂漠はアフリカ大陸の1/3の面積を占める世界最大の砂漠である。大昔、海の底にあり、2億年位前に砂漠化したそうだ。そのため、今でも岩が多い岩砂漠からは、当時、海底に棲んでいたアンモナイトや三葉虫などの化石が発見されるのだ。
 私達はサハラ砂漠に日の出を見に行った帰り、化石探しを体験した。本当に岩の中に幾つかの化石が潜んでいた。岩の表面はとても硬かったので、私は現地の方が割って取り出した小さなアンモナイトを頂いた。

 サハラ砂漠(写真③は、日の出直後の朝焼けの砂漠を撮影したもの)、広大な不毛の大地とオアシス(写真④)などツアー中、毎日変わる光景は、本当に新鮮で驚きの連続だったし、地球の数十億年の営みを感じずにはいられない感動的なものだった。

 ③ ④

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垣間見たモロッコ 《3》暮らしぶり

2007年09月18日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ
 数日間滞在しただけでその国の人々の生活を知ることはまず難しいが、生活格差、収入格差が日本よりもずっと大きい様に感じられた。
立派な屋敷を持ち、輸入車(国産車はない)に乗っている人も沢山居れば、道端で乞食をしている大人も沢山見かけた。ゴミ捨て場を漁っている大人も見かけたし、何処へ行っても昼間から道端にしゃがんでいたり、ぶらついている人達が沢山いた。高齢者以外の人達は、きっと失業者なのだろうと思った。
 交通手段についていうと、鉄道は一部分を走っているが、1~2時間に1本なので通勤には使えない。乗用車は大変高価なので、普通の人達は自転車かオートバイに乗っていた。オートバイはかっての日本の50ccよりは大型だが、自転車にモーターを付けたような独特のものだった。添乗員さんの説明によれば、タクシー料金が安く、通勤にも利用する人が多いのだそうだ。

 世界文化遺産になっているフェズなどの旧市街地区を三カ所歩いたが、給排水が無いような地域もあり、道幅が1.5m位と狭いため車が入れず、未だにロバや馬、荷車、リヤカーが物資の運搬に活躍していた。私達は何度も荷物を運ぶロバと鉢合わせになり、ぶつからないように壁際に避けなければならなかった。
 タダでさえ風通しが悪い迷路状のその町で、それら動物の糞尿と臭い、加工場の煙や臭い、騒音、そして人々の生活臭が渾然一体となっていて、私は気分が悪くなりそうだった。
 また世界遺産なのに、狭い通路には所構わず色々なゴミが散乱していた。私は今の中国の様に国を挙げて清潔な環境作りのキャンペーンをした方が良いと強く思った。(写真①丘の上から臨んだフェズのメディナ ②極端に狭い迷路状の通路)

 ① ②

 靴屋、洋服仕立て屋、洋服屋、鍛冶屋、馬具屋、金属加工場、鋳物屋、木工場、パン屋、菓子屋、肉屋、食料品店、なめし皮工芸など、ありとあらゆる零細な規模の店や工ばが所狭しと連なり、中には一坪にも満たない空間で1~3人で手仕事をしている工ばもあった。まさに中世の家内工業と暮らしが、そのままの姿で数百年間、受け継がれている様に見受けられた。
 衛星放送のアンテナを上げているアパートも近くに沢山あったので、ここの人達は世界的な情報も得ているらしいのだが、それと自分達の暮らしとは別だと考えて居るのだろうか。極端な悪条件下でも一生懸命に汗を流している人達の姿を見ながら、私は複雑な思いに捕らわれた。
 なめし革の加工現場を革製品の店の最上階から見下ろしたが、シャツ一枚着ただけの男達が、炎天下で悪臭が立ちこめる中、薬品や染料で皮を処理する重労働をしている姿に胸が痛んだ。
 町はずれの陶器やタイルを焼いている焼き物工房も見学したが、そこではオリーブ油の絞りかすを燃料にしていて、公害となっているに違いない独特の臭いがする真っ黒い煙が、もくもくと立ち上っていた。また、イスラム模様の複雑な絵タイルを、根気強く一つ一つカットして組み合わせて造る作業は実に厳しそうだった。
 (写真③一坪程で営む生きた鶏屋 ④貴重な共同水道の前のサボテンの実売り。サボテンの実に水道水をかけていた。 ⑤なめし革の染色作業を店の4階から撮す)

 ③ ④ 

 ⑤

 田舎に行くとウイークデイなのに、学齢期と思われる女の子どもが幼児をおんぶして歩いていたり、男の子どもが遊牧の手伝いをしていたりする姿に出逢った。義務教育は小学校までで無償だという。しかし、家庭の事情や学校が遠すぎるために、学校に行けない子どもが田舎ほど多いようだった。
 また、奥地のトドラ渓谷に行く途中で川で洗濯をしている大勢の女性達に出逢った。川で洗濯するというのは今の日本なら昔話の世界にしかない光景だと思った。(写真⑥)

 ⑥

 モロッコは昔、アラビア半島から来た人が住み着いた事からできた国らしいが、長いこと幾つかの国の(最後はフランスの)植民地だった歴史を持ち、自主的な経済、政治の発展が遅れている事は否定できない。
 しかも、雨が少なく、鉄分と石灰岩を含んだ赤土の大地には植物が育ちにくく、計画的な植林もまだまだ足りないように感じた。
 水産業、農業、牧畜業が主で、鉱山からは燐鉱石が採取されるのだという。
 近代的な工業製品のほとんどを輸入に頼っているので、国の経済収支は大変なのだろう。

 添乗員さんの説明によると、この国の平均収入を計算することはあまり意味がないのだと言う。理由は80%の人が貧困層に入るからなのだ。大金持ちの収入を足して労働人口で割ったら、多分1ヶ月当たりの平均収入は、日本円にすると4~5万円になると思うが、と言っていた。
 ODAの経済援助額2位の日本ではあるが、本当に必要な所に私達の税金が行っているのだろうかと思った。
 サハラ砂漠の近郊の町を通った時、日本の青年海外協力隊の人が来ていて、製造業の指導をしていると聞いた。看板には日の丸の絵とその事が書いてあった。

 日本はモロッコからの輸入額も2位である。蛸や海老、マグロなどの海産物が多いらしいが、日本の商社や水産会社は安く買いたたくことなどせず、適正価格で輸入しているのだろうか。私はそんな事も考えさせられた。




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垣間見たモロッコ 《2》気候、風土、服装、家屋

2007年09月17日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ
 旅行社から事前に送られたパンフレットによると、北緯34度(日本の伊豆半島の位置)にあり、面積は日本の1.2倍の国であるモロッコでは、地域により気候が異なり、9月の気温は一番高いマラケシュで19.6~36.3℃、フェズで16.7~25.2℃となっていたので、暑さを覚悟して出掛けた。しかし、行ってみたら先週までは40℃あったらしい最高気温は30℃を切っていて、朝夕は涼しい位に感じた。

 旅行中、私は下はジーパンを履き、上は半袖のTシャツを下着代わりに一枚着て、さらにその上に長袖の綿シャツを重ね着して過ごした。
木立が少なく、赤土や石がむき出しの大地を歩くことが多かったし、また標高2000mを越す峠やサハラ砂漠が近くなって来ると日射しがかなり強くなるので、帽子、サングラスは手放せなかった。
 世界遺産、アイト・ベンハッドゥのカスバ散策では、傾斜のある滑りやすい砂利道を上り下りしたので、安全のために手袋も履いた。普段登山に使っている軽量杖も役立った。但し、杖などを持って行ったのは私だけだったが…。

 男性は私達と同じ様な服装の人が多いが、中には帽子付きの長袖ワンピース式民族服、「ジェラバ」を着て、その帽子を被っている人もいた。足にはバブーシュという皮でできたスリッパを履いている人も多く見かけた。

 女性の大半は、イスラム教の「肌を人前で見せてはいけない」という戒律を守り、服の上にワンピース「ジェラバ」をはおり、頭にはスカーフを被っていた。
 都会ではジェラバもスカーフも色々な色を見せていたが、田舎へ行くとジェラバの色は黒となり、目だけしか出さない頭巾を被っている女性が目だった。(写真左は、田舎の水曜市場を撮した)
 飛行場でも黒ずくめの女性に大勢出逢った。驚いた事に、顔中すっぽりと目も黒い頭巾で覆って歩いている女性もいた。若いと思われる女性の大半は、出している目にクレオパトラの様な濃い化粧を施し、目を強調していた。
 夏は可成りの気温になるのにも関わらず、現代でも女性はこの様な蒸し暑い重ね着をしていた。(写真右は、旅行中、中流家庭でお茶のサービスを受けた時の男女の服装)

  

 大人に比べ、子ども達の服装は自由に見えた。

 モロッコの大地を一言でいうと、むき出しの赤土が多く、植林されている場所と潅漑農業をしている特定の場所、森林や林は、極、限られた場所にしか見当たらなかった。
 比較的温暖な気候のカサブランカやラバトなどの海岸地域では、小麦、とうもろこし、野菜、果樹、オリーブ、胡椒、コルクの木などが栽培されていたが、バスが東部のアトラス山脈に近づくに連れて不毛の大地となり、標高が上がるに連れて僅かに生えている草を頼りに山羊、綿羊、牛の牧畜が行われていた。あちこちで男性の遊牧民が一人で十数頭から数十頭の家畜を管理する光景に出逢った。(写真左) 彼らの遊牧中の簡単な小屋も点在していた。
 アトラス山地に入ると、川を利用した潅漑農業を行っているオアシスの村が幾つかあった。潅漑農業ではナツメヤシ、とうもろこし、ニンニク、玉葱、オリーブなど色々植えられていた。家は泥造りの家だ。(写真右)
 また、山中には養蜂業の巣箱も数カ所見かけた。

 泥作りの家は、木が貴重なので赤土にわらなどを混ぜて日干し煉瓦を作り、それを重ねて壁にして作られていた。大都市には近代的な鉄筋コンクリート建築も見られたが、大半は長年変わらず作り続けられている日干し煉瓦の泥の家だった。
 家を窓の少ししかない外壁で囲み、中庭を造って、そこから屋内に光を取り入れる方式が多いようだった。田舎では、中庭が家畜の飼育場になっている様だった。外観を見ただけでは、中世の町に迷い込んだ様な不思議な錯覚に捕らわれた。
 お茶を頂いた家は、フェズの旧市街の建物が密集した地域にあったが、中庭が無い代わりに居間を天窓にして明かりを取り入れていた。雨が降るとシートを掛けて雨が落ちないようにしているのだと聞いた。
 高さの半分くらいまではイスラム模様に装飾されたタイルが貼られ、その上は漆喰の白壁造りだった。大抵の家の内部は、これに似ていると説明された。(下写真左)

   
 
  

 しかし、この泥の家は、壁が結構厚く、窓が小さいので断熱性があり、防暑には効果的らしいが、家の中は暗く見えた。
 また、砂漠近くの町のホテルでは、部屋の窓が外側はガラス、内側は木製の扉式二重窓になっていて、砂と熱の侵入を防ぐ作りになっていた。この作り方は、まさに寒冷地の分厚い断熱戸に通じると思った。(写真右)

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垣間見たモロッコ 《1》カタール航空を利用して

2007年09月17日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ
 今回私は、9月8日から16日迄の9日間の日程で、参加者12人というツアーに加わりモロッコに行って来た。私にとっては初めてのアフリカ旅行だったので、欧米や東南アジアなどとは違った国の様子を見聞できて有意義な旅行になった。ここに、体験を整理し、感じたことをまとめて置きたい。

 《1》カタール航空を利用して
 今回初めて「カタール航空」に乗った。
 関西空港を17;35に離陸し、カタール国のドーハに着いたのが22;55分だった。カタールは日本との時差が6時間遅れなので、実際には6時間を足した11時間20分乗った事になるわけだ。
 さらにドーハで別のカタール航空の飛行機に乗り換え、リビア・アラブ国のトリポリ空港に降りた。この間5時間30分掛かった。トリポリから乗る人を待つ間、私達はそのまま1時間、飛行機の中に居た。
 トリポリを9日の7;50に立ち、モロッコのカサブランカに着いたのが8;35だった。モロッコは日本との時差が9時間あるので、時計を更に3時間遅らせた。この間、飛行機には3時間15分乗っていた事になる。
 結局、私達は、関空からカサブランカまで24時間かかって行った事になる。
 しかし、私自身は千歳空港を8日の12;00に出発したので、それを足すと全部で29時間35分かかった訳だ。本当に長い往路だった。

 ただ、ドーハで乗った飛行機の私の前の座席に居た体格の良い男性グループが、揃いのスポーツウエアを着ていたので話しかけたら、モロッコのサッカーのナショナルチームだという事が判った。以前、日本チームとの試合で1:1の引き分けになった時の監督やゴールキーパーがいて、写真を撮ったりサインをしてもらったりというハプニングもあった。

 帰りはリビアには寄らなかったが、カサブランカを15日9;00に離陸し、カタール航空の飛行機を2つ乗り継いで関空には16日15;55に着陸した。この間、時差9時間を引くので、実際には21時間55分掛かったことになった。更に千歳行きに乗り継ぎ、到着したら20;40だった。
 アフリカの西の端、モロッコ往復という長旅の疲れからか、私は帰りの大半は寝ていた。

カタール航空は、去年4月から関空からの便を就航させた飛行機だが、添乗員さんの説明に依ると価格が安いので大変人気があるらしい。道理で関空で搭乗手続きをする時に見たら、横の団体はヨーロッパに行くツアーグループだった。
 また、この飛行機は、日本のJASとコードシェアしているので、JASのポイントにする事ができる点も利点だ。
 実際に初めて乗ってみたが、飛行機が新しく、座席は比較的ゆったりしていて、食事も日本人の口に合うメニューを揃えているし、座席毎に小型TVが付いていて、映画、音楽と幾つものビデオから選べる様になっていて快適だった。今後、ヨーロッパに行く時にでも、また利用しても良いと思った。

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明後日、旅に出る予定

2007年09月06日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ
 久し振りで、と言っても3ヶ月振りで旅に出る予定。というのも、今近づいている強力そうな台風9号が、出発日に北海道に上陸する予定なので、出発できるかどうか、少し不安なのである。

 しかし、今後、風雨が強まる事を考え、先程、庭のダリアや蝦夷菊など、倒れやすい植物を竹で囲った。
 それと、毎朝花殻を摘んでいた満開のカモミール5本と弱ってきた沢山のビオラを抜いて処分した。しばらく摘めなくなって汚くなるのが嫌なのだ。

 パスタ用のトマトがどっさり採れた。これもトマトソースを作ってしまうつもりだ。茄子やピーマン、オクラ、シシトウ、とまとなどは、留守中、ご近所に採って頂くようお願いしよう。

 先程、警察署に電話を掛けて、留守中の警邏をお願いした。
 1階の窓ガラスは防犯ガラスになっていて、窓一枚ごとに警報装置も付けてあると話したら、「それなら大丈夫でしょう。出掛ける時に、慌てずに鍵を確認して下さい。」と、言われてしまった。前回の私の失敗(窓を開けたまま出てきたと勘違いして、見回りをお願いした事)を知っている方だろうかと思った。

 今回の旅先はアフリカのモロッコだ。日本との時差9時間遅れの国で、一日の気温差が大きく、場所にもよるが16~36度だという。全く参ってしまいそうだ。本当は晩秋か冬の方が気候が良い国なのかも知れないが、同行する娘がこの時期しか行くことができないらしく、私は仕方なく同意したのである。

 千歳空港から関空に行き、そこからカタールのドーハ経由でモロッコのカサブランカ空港まで、3つの飛行機を乗り継ぐのだが、飛行時間は何と20時間を越し、待機時間も入れると24時間に近い。正直、考えただけでもうんざりである。しかし、それだけの時間を掛けなければ行けない場所なのだから仕方がないのである。

 下調べをしたら、モロッコは独立前はフランスの植民地だった国で、現在もフランスとの関係が深く、貿易高1位はフランス、2位が日本で、日本は蛸などの水産物を大量に輸入しているのだ。
 おまけにODAの援助額でも1位はフランス、2位が日本らしい。9割以上の人がイスラム教の信者で、女性は目だけ出している人も多いという、そんな遠いアフリカの西端の国に行って来る。

 明日は歯医者に行き、数日前から傷む歯茎を、もう一度、診て貰う事にしてある。
 中国では腸を壊したので、今回はそうならないように薬もしっかりと持つつもりだ。
 帽子、手袋、サングラス、目薬、それに砂漠で砂が飛んで来るので、カメラなどを包むビニール袋が必要だという。添乗員さんに聞いたら、杖もあるといい場所があるそうなのでトランクに入れていくことにした。
 また、現地では日本円より弗の方が良いらしいので、現地通貨の他は弗の小銭を持って行くつもりだ。

 帰国するまでしばらくの間、ブログを休むことになるが、帰国後、また、宜しく。

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「食育フェア」でボランティア

2007年09月01日 | 医療・健康・食生活・衣生活
 今日は、○○市が主催し、農水省が後援して、年内に全国数カ所で開かれるという「食育フェア」にボランティアとして参加した。
 会場となったある大学の屋内体育館では、食育に関する様々なワークショップが開かれ、ステージでも次々とセレモニーが行われていた。 
 今、日本人の食生活が様変わりし、国民の健康に様々な影を落とし始めている。特に未来を担う子ども達の食生活は深刻で、国を上げて食育の大切さを見直そうとしている。今日のフェアは、そのための一つの取り組みなのである。

 私は朝9時から仮設テントの下で、芋団子づくりの手伝いをした。
 既に昨日、農協女性部のメンバーが地元産の南瓜と芋「北あかり」で下ごしらえを済ませてあったので、今日の私はそれを切り分けて丸め、茹でてきな粉をまぶす作業をした。私の隣では、焼いた南瓜団子作りが行われ、両方の団子を一個ずつ組み合わせて試食として無料で提供した。美味しいという評判で、午前中に用意した団子は品切れになった。(写真①)

 一方、女性部では手作り豆腐を使った手作り味噌のみそ汁も試食として出していた。こちらも美味しいと言われていた。
 私は、テントの下で簡単な道具を使って豆乳を搾り、にがりを入れて固め、豆腐を作っていたのには感心した。(写真②は豆乳を搾っているところである)

 暇になってから屋内のワークショップを覗いて見た。
 ある小学校の生徒は、総合学習で取り組んだ南瓜の栽培学習の体験を発表していた。
 ごみの分別の仕方を体験して指導して貰うコーナーがあったり、地産地消の野菜を取り入れた学校給食の取り組みを紹介し、同時に夏野菜カレーの販売も行われていた。(写真③)
 その他色々と工夫を凝らした展示が行われていたが、私はAED(自動体外式除細動器)の体験コーナーがあったので救命処置の実地指導を受けて見た。短時間で初めての体験だったので、使い方が身に付いたとは決して言えないが、何かの時に少しは役立つかも知れないと思った。(写真④)

 今日は予想外に面白い経験と学習ができた一日だった。帰りにボランティアへのお礼なのか、地元の南瓜を一つ頂いた。

 ①  ②  

 ③  ④


 このイベントは、来年も全国の幾つかの町で行われるとの事なので、もし、近隣で開催されたなら、是非、参加して見て欲しい。
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