ネパールではカトマンドゥー盆地とブッダの生誕地ルンビニ、サガルマータ国立公園、チトワン国立公園の4つが世界遺産に登録されているが、カトマンドゥー盆地は急激な都市化によって、2003年危機遺産に登録された。
私たちは今回、主にそのカトマンドゥー盆地の世界遺産を観光した。
首都カトマンドゥーには、タイのバンコクから航空機で3時間半かけて昼過ぎに着いた。
ネパールは4~9世紀のリッチャビ王朝、13~18世紀のマッラ王朝、18世紀~2008年のシャハ王朝と、長い間、インドからチベットにかけての交易の中継地として栄えた王国が続いた。
空港で迎えの小型バスに乗り、現地添乗員に会って、カトマンドゥーから1.2km東にあるマッラ王朝時代の首都だったバクダプルに向かった。
そこには建てられてからすでに300~500年経つネワール文化の遺跡と町並みが残っていた。
ダルバール広場に案内され、旧王宮①、バコダ②を見てから、30mの高さがある五重の塔を持つニャタポラ寺院③を見学した。階段はわずかだが急だった。
広場に面した古い3階建てのカフェには、大勢の人がくつろいでいた。④ 私は今にも崩れそうだと心配になった。
① ②
③ ④
タチュパル広場に行くと、1427年に建てられたダッタトラヤ寺院⑤があり、広場を大勢の人が行きかっていた。
また、今朝、動物が生贄にされた場所を掃除する男性を見た。今ではここは、食べるための家畜を屠殺する場所になっているらしかった。⑥
⑤ ⑥
バイラブナート寺院⑦の傍の15世紀の建物に、ネワール彫刻の最高傑作といわれる木彫りでできた孔雀の窓があった。⑧
⑦ ⑧
その後、バクダプルの裏通りも歩いた。石畳の道路が狭く入り組んでいた。人々は赤茶けたレンガつくりの古い建物を大事に受け継いで暮らしていた。
インド亜大陸は1億年以上昔はアジア大陸から離れていて、その間には広い海があった。しかし、7000万年前に両大陸が接近してぶつかり、徐々に接点の陸地が盛り上がった。そして2500~1000万年前には今のヒマラヤ山脈が作られたというのだ。
ネパールは、まさにこの太古からの地球の営みを感じ取れる国なのだ。
現在は、周囲を6000~8000mの山々に囲まれたカトマンドゥー盆地にある首都カトマンドゥーの標高は1350m、直ぐそばのバクタブルの標高は1400m、カトマンドゥーから直線距離で150km西にある都市、ポカラの標高は880mといずれの町もかなりの高地にある。
そのため日本の沖縄と同緯度でも、気候はほぼ北海道に近かった。
また、6~9月が雨期、10~5月が乾期で、山々がすっきり見えるという乾期の方が旅行には良いと言われているが、今回は飛行機の窓以外からは山が余り見えなくて残念だった。
写真はカトマンドゥー空港からポカラ空港まで飛ぶ機内から写したヒマラヤ山脈である。遠いので良く写らなかった①②
① ②
乾期が続く盆地のせいだと思うが、町の中はひどく埃っぽい。
おまけにスピードを出して走るオートバイや車の排気ガスが充満していて空気も悪いので、私たちはマスクをして歩いた。現地の人の中にもマスクをしている人が見られた。③ 白ではなく色つきのマスクをしている人もいた。また、オートバイタクシーもとても多かった。④
③ ④
米は、カトマンドゥーでは年1回とれるらしい。インドとの国境に近い南のタライ平原では、年2回とれる所もあると聞いた。
米を収穫した後には、秋まき小麦を植えるのだとか。
平地が少ない山岳地帯では、段々畑を作って土地を有効に利用していた。写真⑤は、バクダプルの標高1800m近い丘の斜面だ。
気候が比較的良いため農産物が良く育ち、穀物の食糧自給率は100%に近いらしい。(日本は40%を切ってしまった)
古都バクタプルの町中で、道路傍のちょっとした空き地を利用して、脱穀した米を乾燥している老人を見つけた。⑥
また、道端では水牛がのんびりと草を食べていた。⑦ 水牛のミルクは成分が濃厚なので、ヨーグルトやバターにすると美味しい。
食糧事情だけは良いので、他に何もなくても暮らして行ける所がネパールの良い所なのだが、逆にこれが原因となって人々の労働意欲が高まらない問題があるのではと私は思う。
ガイドブックによると、外国からの援助金はネパールの年間予算の40%にも上るという。その多くは首都カトマンドゥーに投資される。山間部に住む人々には行き渡らないため、道路の整備すら進んでいないらしい。
現地ガイドは、仕事をしない男性が多い事をしきりと嘆いていた。
⑤ ⑥
⑦
予定通り7日間の旅を終えて、25日午後、帰宅した。
成田~バンコクの航空機は、往復満席だったので驚いた。
では先ず、ネパールの旅の概要から。
ネパールの国土面積は147000k㎡で北海道の1.8倍程度だ。首都はカトマンドゥー。
そこに36の民族・2530万人(2005年)の人々がヒンズー教や仏教を信仰しながら、異なる50とも100とも云われる種類の言語で暮らしている。
日本人にそっくりな顔立ちの人もいれば、インド系の彫の深い顔立ちの人もいる。またチベット系と分かる顔つきの人も多い。
洋服を着ている人、サリーを纏っている人と服装も様々だ。履物を履かずに裸足で暮らしている人も沢山見かけた。
経済的には世界の貧困国の一つであり、失業者が多く、国連や外国の援助に頼っている国だ。
身分差別があるらしく、貧富の差も目に付いた。
しかし、町を歩いていると、ぶらぶらしている男性の姿がやたら目に付いた。
観光客が集まる世界遺産の寺院で、昼寝などをしている男性が沢山いたし①、昼間からあちこちでカードゲームなどに興じているのにも驚いた。
しかし、カトマンドゥーの狭い道で色々なものを運搬する沢山の荷役の男性に出会ったが、その仕事は実に大変そうだった。②
老人が少しの卵を道端で売っていた。③ また小さなバザールの隅で、靴を修理する老人もいた。④
① ② ③
④
反面、明るく一生懸命に働く女性の姿があった。
都市では野菜や果物を商売している人の大半が女性だった。大勢の人が行きかうごみごみした固い石造りの道端にシートを敷いて、野菜などを売っているのだ。⑤
また、石の階段を並んで磨いている姿も見かけた。⑥
現地ガイドの話によると、山岳地帯で暮らす人々の湧水を汲んで家まで運ぶ仕事も女性の仕事だと言っていた。
イスラム教の国では女性が外で働いている姿はほとんど見かけられないので、その点、この国の遠い将来には期待できるかも知れないと思った。
日没近くに行った世界遺産の寺院では、7~8歳の女児が煉瓦を切り揃える仕事をしていたのを見て胸が痛んだ。少女はサンダル履きだったが、傍にいた男性は革靴を履き、良い服装をしていた。父親なのだろうか。⑦
⑤ ⑥ ⑦
11月19日~25日の予定で、ネパールの旅行に行って来る。
先日の記事に書いたように、ネパールは、入国時のパスポート残存期間が6か月以上なければならないというので、まだ来年の4月まで有効だったパスポートを捨てて、9月にパスポートを取直したし、ビザも必要だというので自分の力で頑張って9月末にそれも取得したのだ。
北イタリアの旅から帰ってからは、雨の日を除いて毎日、庭の花木の冬囲いと庭の片づけに精を出した。
冬囲いは済ませたので、先日は畑に残っていたからし菜と茎ブロッコリーを収穫して、ざっと茹でて冷凍にしたし、菊の花を刈り取って整理した。種から育てた長ネギも全部抜いて少し乾燥させて保存した。
そんな訳で、いよいよネパールである。
ツアーを主催する会社は、先に「アメリカ西海岸巡り」「北イタリア」と同じCT社である。
そして今回の私の同行者は、山友達のYさんである。
Yさんは昨年2月にも「中国雲南省の旅」に同行し、羅平の菜の花畑、石林、麗江の古城、玉龍雪山を観光して来た人で、気心が知れた旅仲間である。
今回は幸いなことに前後泊が要らない日程だ。その代りネパールのカトマンズに行くためには、往復共タイのバンコクに泊まることになる。
新千歳~成田の往復航空券は各自で取るように言われたので、町の旅行社に取ってもらった。明日朝は、7時前に家を出て新千歳8;10のJALに乗る。(ここからだと成田への直行便が限られるので、早朝だが仕方がない)
成田出発は17;15、タイ航空だ。成田~バンコクは約7時間である。
ネパールの気温は、最低が10度位、最高が20度程度というので、過ごしやすいのではと思っている。(ただし泊まるバンコクの最高気温は32度だという)
しかし、添乗員からの電話では、ナガルコットで夜明け前にホテルを出て、朝日が昇る光景を見に行く時とても寒いので、防寒着を用意するように言われている。さてどんな事になるのやら…
今回はトレッキング抜きの行程にしたので、8000m級の山々をじっくりと眺め、写真を撮って来たい。
また、旅行社のパンフレットに、「食事が口に合わない場合も考えられるので、何か食品を用意することを勧めます」と書いてあった。
こんな連絡は初めてだし、私は油っぽい料理が苦手なので、取り敢えず保存性のあるカップ麺や菓子類、味噌汁、チーズ蒲鉾などを買い込んだ。
添乗員の話だと、湯沸かし器は1つのホテルを除いて室に設置されているらしいので、自分で持って行かなくてもいいらしい。前回のイタリアで毎日活躍した小型魔法瓶と緑茶のティーパックはもちろん持つ。
これからスーツケースを出して、荷物を詰める。しばらくの間留守になる事を了解願います。
1月からプリンターの調子が悪くなって以来、年賀状印刷までにはどうにかしたいと思っていた。
この度娘から話があり、10か月前に買った中古のプリンターを安く譲ってくれる人がいるという。
その人は、最新型を購入したいのだとか。
私は最新型でなくても良いし、安ければ尚良いので、分けてもらう事にした。
先日、娘が持って来た。今まで使っていたと同じCanon製で、コピー、スキャナー機能もついていて使い易そうだ。
プリンターができたので、今月末には年賀状を作成したいと思っている。
勿論娘には代金の他に交通費も支払った。
(尚、娘がエコポイントが無くなる前にと先週TVを買ったと言うので、特別助成金?として私から2万円を渡した)
8日目泊まった高級保養地のサンタ・マルゲリータ・リグレのホテルは、海辺の避暑地向きに造られた高台のホテルだった。2人用の室に部屋が2つあって、ベッドが3つ入っていた。そしてベランダからプールにも出られるようになっていた。私と友人は初めて別室に分かれてゆったりと寝た。
9日目は、少し早起きし、海岸に出て散策した。町の様子が少しわかった。
8時半にホテル前から中型12人乗りの車に分乗して、大型バスが入れない海沿いの曲がりくねった狭い道路を6km走り、ポルトフィーノに着いた。
そこは風光明媚な小さな町で、観光業と漁業を主としていた。
自由時間がたっぷりあったので、丘の上につながる石畳の道を歩いて行った。少し行くと小さな教会があった。①
さらに細い道を進むと古い小さい城があった。入場料を払って中を見学した。庭から見下ろすと、ポルトフィーノの町が手に取るように美しく見えた。②
①
②
海岸に降りてレストランで昼食を食べた。
その間添乗員氏は、サンタ・マルゲリータ・リグレ行きの船を手配してくれた。乗船は、昨日のチンクエテッレで船に乗れなかった代わりとなった。
船では、15分間、アメリカ人のツアー客と同席した。③
サンタ・マルゲリータ・リグレの港に近づくと、町が美しく見えた。④
③
④
それから大型バスに乗って、210km北の町ミラノまで走った。
ミラノ中央駅の傍にあるホテルに着いたのは4時半を過ぎていた。急いで部屋に荷物を置き、希望者のみ添乗員氏の案内で地下鉄に乗ってミラノ見学に出た。
ガイドブック「新個人旅行 イタリア」によると、ミラノは、紀元前5世紀にはエトルリア人が住んでいた。紀元前4世紀にガリア人が、そして紀元前3世紀にはローマ人に征服された町である。
その後紀元300年代には多くの教会が建ち、やがてキリスト教の中心地になった。
11世紀頃、多くの自治都市(コムーネ)ができ、12世紀の初めには神聖ローマ帝国の攻撃を排除した。
町は毛織物、絹織物産業が盛んになり発展したが、16世紀にはスペインの支配下に入った。
1796年ナポレオンが入城によって、ナポレオン軍の武器、被服供給地となって繊維産業が発展した。
1866年、イタリアに統一されたが、20世紀にはフランスファッションの生産基地になった。
1980年代になると、ミラノのデザイナーが活躍し出して、イタリアのブランド発信基地となり、今も発展しているという。
ドゥオモ前の広場で解散したので、私と友人はまず規模が大きいドゥオモの内外を見学した。これは14世紀後半に着工され、19世紀末にナポレオンが完成させた。完成までに500年を要したイタリア最大のゴシック様式の教会だ。
135本の尖塔があるが、中央の尖塔には、黄金に輝くマリア像が設置されている。内部は大きく、ステンドグラスが美しかった。⑤⑥
⑤
⑥
ドゥオモを出て、広場に続くビットリオ・エマヌエーレ2世アーケードを散策した。1878年に完成したものだが、規模が大きく美しいガラスの天井が特徴だ。⑦
私たちは十字路にある雄牛のモザイク画を探して、幸せになれるようにあけてある穴に靴の踵をつけ、一回りした。⑧
⑦ ⑧
突き当りのスカラ広場では、レオナルド・ダ・ビンチの彫像を見、⑨ 道路を渡って1778年にできたオペラ劇場・スカラ座⑩の周囲を歩いた。
夕暮れが迫るに連れ、大勢の人々や車が通行していた。傍のサン・フェデレ教会は、扉が閉ざされていた。
いよいよ暗くなって来たので、ドゥオモの横にあるラ・リナシェンテデパートに入った。地下1階~地上9階までをざっと見て、集合場所のドゥモ広場に戻った。
この自由行動で今回の北イタリアの旅は終わった。その夜は荷物整理をしてぐっすりと寝たのだった。
⑨
⑩
実は2回目となった今回のミラノ訪問で、レオナルド・ダ・ビンチが画いた「最後の晩餐」を見たかったのだ。前売り券を買いたくて家でネット検索したが、既に10月11月分は売り切れていた。直接サンタマリア・デッレ・グラツィエ教会に行って、キャンセルした人の所に入って見る方法もあるが、限られた自由時間しかなかったのでそれも諦めたのだ。
これで今回の「北イタリアの旅」の日記を終わる。
北イタリアはどの場所も歴史が古く、古さを大切にしながらも現代の新しさも取り込んだ不思議な魅力にあふれていた。また、とても変化のある地形と自然も素晴らしかった。最後まで読んでくれた方々に感謝します。
8日目は朝から大雨だった。
9;00に「ラ・スペツィア」のホテルを出、南に30分行って「ポルトヴェーネレ」に着いた。
ここはリグーリア海に突き出た海辺の町で、ムール貝の生産地だ。
岬は雨が降り、傘を差せないほど風も強かった。私は登山用に買ったゴアテックスの上下を着た。
バスを降り、海岸の展望台に行って、断崖絶壁に荒々しく打ち寄せる波を見た。①②
岬の突端に古い教会があった。③
①②
③
その後、もう1度「ラ・スペツィア」に戻って商店街を散策した。広場にモニュメントがあり、市場が賑わっていた。④⑤
④⑤
その後、電車で「チンクエッテレ」観光に向かった。その頃、ようやく雨が上がった。
「チンクエッテレ」とは、ラ・スペツィアからレヴァントまで並ぶ5つの小さな漁村の意味なのだ。
人々は明るい太陽が煌めく地中海沿いの断崖の上の小さな村で暮らし、すぐ背後にある急な斜面では、段々畑を作ってブドウを栽培して来た。⑥
昔は船でしか行けない村々だったが、今では海岸沿いの絶壁を抜ける沢山のトンネルを作って電車が通っている。⑦⑧
景観が美しいので世界遺産に登録されたが、私たちが行った昼食のレストランは98段もの急な階段を上らなければならなく、こういう環境で昔から暮らして来た人達の苦労が偲ばれたし、高齢者が暮らすには実に厳しい所だと思った。
急斜面で葡萄を作っている段々畑は、見る分には美しいが、機械が入らないので肥料や収穫物の運搬などの全てを人力でしなければならないから、それは大変な重労働なのだろうと想像した。
⑥
⑦⑧
また、「リオマッジョーレ村」から「マナローラ村」迄の2kmの海岸沿いの道は「愛の小路」と名付けられ、多くの観光客が徒歩で30分の景観を楽しんでいる。
私たちもマナローラまで電車で行き、そこから一駅の距離を散策したが、海から吹く風が心地よく、軽快に歩くことができた。⑨
途中の手すりや落石止めの金網など、低い所からかなり高い所まで、錠前が掛けられていた。恋人たちが永遠の愛を誓って錠前をかけてから、鍵は海に捨てるのだ。⑩
グループ内の70代と思われるご夫婦に、記念撮影のシャッター押しを頼まれた。私は最高の笑顔で寄り添った瞬間の2人を写してあげた。
⑨⑩
予定では「チンクエッテレ」の村々の景観をボートに乗ってみる事になっていたが、波が高く中止された。
「愛の小路」を歩いた後は、「リオマッジョーレ駅」から電車に乗って「ラ・スペツィア」に戻り、バスで「サンタ・マルゲリータ」のホテルに行った。
7日目はボローニャの市内散策から始まった。
ボローニャは13世紀に北と南の交易地として栄えた城壁に囲まれた町だ。
また町中に天井の高い柱廊(アーケード)、「ポルティコ」が全部で42kmも張り巡らされている町でもある。この「ポルティコ」は、雨と強い日差しから通行人を守って来た。
現在はエミリア・ロマーナ州の州都として栄えている。
私たちは「ポルティコ」の下を10分程歩いて、マッジョーレ広場に行った。広場には16世紀に造られた町のシンボル、ネプチューンの噴水があった。①
またローマ法王庁の直轄地になった時に、高官が建てたというコムーネ宮殿②があった。
① ②
角を曲がると、電車通りの向こうに有名な斜塔が見えた。③
この町には、12~13世紀頃、有力貴族が競い合って建てた塔が一時189もあったというが、今残っているのは少ないらしい。
高さ97mのアシネッリの塔には498段の階段があり、上へ登れる。上がないガリセンダの塔は、3mも傾いていて危険になったので建設が中止された塔だという。
時間があれば私も塔に登るところだが、残念ながら登れなかった。
③
また、1088年に創立したヨーロッパ最古のボローニャ大学がある町としても知られている。
その後、ボローニャから北西に44kmの町、モデナへ行った。広く知られているこの町の出身者は、ルチアーノ・パヴァロッテイ、エンツォ・フェラーリである。
パヴァロッテイ広場で近郊都市の食の市が開かれていて、並んだテントの下でモデナで作られるパルミジャーノチーズ、バルサミコ酢、ワインなども売られていた。
写真④は、大きく固いパルミジャーノチーズをカッターで切りながら売る店の様子。⑤はジャムやバルサミコ酢を売る店。
液体は重いし、割れる危険もある。またチーズは、途中で発酵が進むと味が変わるかも知れないので買わなかった。美味しそうだった生栗を自分の土産に買った。
④ ⑤
ところで、ランチを食べたレストランで、塩辛い子牛のハム(ブレザウラ)⑥と濃厚で塩辛いチーズリゾット⑦、デザートにアイスクリームが乗ったミックスフルーツが出た。私はどれも半分も食べなかったのだが、その後バスの中で胃の調子が悪くなり、トイレ休憩した時に吐いてしまった。歩けない程のひどい目まいもして来て友人の世話になった。添乗員氏も心配してくれた。
ホテルで夕食を抜き、一晩寝たら治ったので良かった。きっと食べなれないものを食べて、胃が拒絶反応を起こしたのだろう。
それにしても今回3回出されたリゾットは、どれも米に芯が残ったものだった。ヨーロッパ人は米を洗わず、水に浸漬もせず、スープにパラパラと生米を入れ、加熱も15分位なのだからこんなものができるのだ。私の様な胃腸が弱い日本人なら、毎食後、消化薬を飲んでいても消化不良を起こしてしまう。
⑥ ⑦
次はモデナの北西60kmにあるパルマに行った。16世紀にはイタリアの文化芸術の中心都市だったという。
現在、人口18万人のこの町は、パルメザンチーズと生ハムで名物である。
ここでは、雨の中、クーポラの天井に描かれたコレッジオのモザイク画が有名なサン・ジョバンニ・エヴァンジュリスタ教会⑧と、コレッジオが描いた聖母マリアが雲の中を昇天して行くクーポラのフレスコ画があるドゥモ⑨⑩を見学した。
ドゥモは12世紀に建てられたものだが、13世紀に建てられた鐘楼は改修工事中だった。
残念ながら両方のフレスコ画とも余りに高所にあって、目を凝らしたが良く見えなかった。
洗礼堂の後ろに空中庭園を造っている家があった。⑪
パルマ観光の後、118km北西の町、ラ・スペツィア迄行って、ホテルに泊まった。
⑧
⑨ ⑩
⑪
出席は90%の10人だったが、幹事が小さなレストランを貸切で用意してくれたお蔭で、心おきなく互いの近況を話し合うことができた。
前回、病気の報告をしたのは私だけだったが、もう60代も後半の年齢になったためか、皆の話の内容は自分や家族の病気の話がほとんどだった。
家族が倒れた人、亡くなった人は介護の大変さを、自分が病気になった人はその経過と辛さを話した。互いに身に詰まされた。
お互いにいつ何があってもおかしくない年齢になっているので、ますます健康には注意しようと話し合った。
青年時代の4年間、同じ学窓で学びあった仲間は、基本的な所で信頼し合っているため、たまにこうして会うのも良いかなと思った。
4時頃別れた後、今度は妹と娘に連絡をして待ち合わせる事にした。
娘の仕事が終わる時間に合わせてホテルの和食レストランに行く事にした。
こんな時、瞬時に連絡、打ち合わせができる携帯電話のメールが本当に役に立つ。妹は夫婦で現れ、娘も来て、4人で楽しく小上がりで会食をした。
8時過ぎに別れたが、昨日1日、会った人たちの言葉を思い出しながら帰宅した。
写真は出された料理(美しく盛られた向こう付の刺身は、残念ながら食べてしまって写せなかった)
6日目、7;50、コルティナ・ダンベッツォのホテル玄関前の気温は、0.5℃しかなかった。標高が1224mもある町の晩秋の寒さを感じた。
8;30にバスで176kmを3時間で南下して、ベネツィアの西隣の町、パトヴァに行った。
パドヴァは、人口20万人。90%がイタリア人だが、出身がアフリカ系の人1%、東アジア系の人1%いるという。
紀元前1183年に作られたという歴史の古い町で、ローマ時代には馬の飼育と羊毛生産が盛んだったらしい。
世界的にパドヴァを有名にしたのは、1222年に創立したパドヴァ大学だ。
世界最古の植物園が大学に開設されたこと(この植物園が世界文化遺産にしていされた)、またこの大学でコペルニクスが学び、ダンテやガリレオ・ガリレイが教師だったこと、解剖学教室が世界最古に置かれた事などがその理由である。
バスを降りてサント広場に向かう途中、大きな堀の両側に並んでいた沢山の彫像が印象的だった。①
サント広場に置かれたガッタメラータ像は、騎馬像としてはかなり有名らしい。②
その傍のサンタントニオ聖堂は、聖アントニオに捧げられた教会で、屋根にドームの数が多く、古くから信者の巡礼が後を絶たない所だという。③
① ②
③
何よりもパトヴァで必見なのは、ジョットのフレスコ画が壁一面に描かれているスクロヴェーニ礼拝堂だ。入場券は日本から予約することもできる。
添乗員氏が私立博物館でチケットを買っている間に、私たちは手荷物を預けた。そして直ぐ近くの礼拝堂に行ったが、しばらく外で待たされた。
内部は撮影が禁じられていた。
この小さな礼拝堂は、1300年に貸金業をしていたエンリコ・スクロヴェーニが敷地内に建て、ジョットにフレスコ画を依頼したものだ。
ジョットは1304~1307年に39の聖母マリアとキリストの生涯のフレスコ画を内部の壁に上下2段に描いた。
1回25人が15分間だけ見学することができるので、私たちのグループは2つに分けられた。
若い係りの女性が着いて入り、「これで終わります。」と言って中の人を出す。
その間、VTRを見ていた次の25人が代わりに入って見学するという具合に、徹底して礼拝堂への入場が管理されていた。
僅かな見学時間だったが、ここに来た人誰もがその絵を見るとキリスト教が分かるようになっていた。
最後の審判の絵もあったが、彼の独特な顔の描き方に人物の感情が溢れているようだった。
礼拝堂を出て荷物を受け取り、全員が見終わるまで待ってから、町を散策した。
列柱が並ぶ商店街で偽物のブランド品を地べたに並べて売っているアフリカ系の人がいた。④
添乗員氏は「警察が来たら、布の四隅を持って直ぐに逃げられるようにしている。」と、話していた。
④
午後4時にパドヴァから南方77kmにある町、フェッラーラに向かった。
フェッラーラはルネッサンスの頃、エステ家が治めていた町で、今でもエステ家の居城・エステンセ城が保存されている。
その城は今、市庁舎として使われているとの事だ。⑤
エステンセ城前の広場にジローラモ・サボナローラの厳しい顔をした像が置かれていた。⑥
彼はこの町に生まれたドミニコ会の修道士だったが、1490年、貧富の差がもたらす社会の不公正を批判し、ローマ教皇と対立。1497年ローマ教会から破門され、98年焚刑に処せられた人だ。一時、フィレンツェ共和国で神聖政治を行った人物でもあるという。
その後、フェッラーラの守護神サン・ジョルジョを祀るドゥオモ⑦に行った。写真はロマネスク様式の入口扉の上の美しい聖母子像である。
夕刻、バスで48km南にあるボローニャに向かった。
⑤ ⑥
⑦
朝起きて直ぐ、標高1224mにあるコルティナ・ダンベッゾ町のホテルの自室からベランダに出た。
冷たい空気の中で、眼前に夜明け前のトファーナ山(3244m)があった。しばらく朝日が昇るのを待って写真を写した。①
それから急いで外に出て、周りの山々も見た。西に見えたのはオドダダラゴ山(2715m)らしい。②
どれも朝日を受けて美しく輝いていた。
① ②
-2℃の気温の中、ホテルを8;30にバスで出て、まず町の南東16kmの所にあるミズリーナ湖に向かった。
湖畔を越えるといよいよ道は急こう配の曲がりくねった山道になった。
標高2300mの駐車場でバスから降りて、そこからはトレチーメの展望台を目指してのハイキングだ。
しかし、道路が雪で凍り付き、普通の靴では滑りやすくなっていた。
私と友人は、こんな事もあろうかと滑りにくい靴底の冬靴を履き、杖を持って行ったので安全に歩くことができたが、他の人達は皆、滑る夏靴だったので、転ばないように苦労しながら歩いていた。
最初の山小屋「アウロンゾ」は、駐車場から結構な坂道を5分間登った2320mの所にあった。公共トイレも山小屋もすでに閉鎖されていた。
そこからは平坦な道が30分程続いた。左手はトレチーメの裾野だが右手は絶壁になっていて、足を滑らせたら危険な道だ。しかし、景観は雄大だった。③④
③
④
途中に小さなアルピニストの教会が立っていた。⑤
どんどん歩いて行くと、やっと左手に標高が3003mあるトレチーメ山の3つの峰が見えて来た。⑥
⑤ ⑥
さらに歩いて、標高2344mにあった山小屋「ラバレード」まで行った所で休憩した。
添乗員氏と山岳ガイドが相談した結果、その先へ行くのを中止すると知らされた。
私はもう少し先まで行きたかったので、添乗員氏の許可を得て、なだらかな傾斜路を1人で5~6分程先迄歩いた。その場所から山小屋を入れた写真を撮った。⑦
また今日の目的地であった方角の写真も写した。⑧
それから急いで皆の後を追った。目的地まで行けなかったが、私なりに満足できた。
⑦
⑧
その後駐車場へ戻り、バスで少し下った所にあるレストランで昼食。
午後はミズリーナ湖(標高1756m)の湖畔2kmを30分かけてハイキングした。
現地ガイドの女性が、湖面に雪を投げた。雪は凍り付いている氷の上に乗った。まだ岸に近い場所だけが凍っている状態だった。
凍った散策路を滑らないように気を付けながら暫く行って振り返ると、クリスタロ山(3221m)がくっきりとその美しい雄姿を見せていた。⑨⑩
⑨ ⑩
散策後、コレティナ・ダンベッツォのホテルに戻ったが、その夜は美しい光景を見た感動と興奮がなかなか収まらなかった。
ボルツァーノの市内見学後、バスで東方のドロミテ渓谷に向かった。
バスで45分程行った所に、針葉樹(樅ノ木)に囲まれた透明な湖「カレッツァ湖」(水面標高1530m)があった。
湖の岸に近い湖面は凍り付いていたが、背後に切り立ったラテマール山(標高2648~2846m)が聳え立ち、石灰岩質が溶けた水は神秘的なエメラルドグリーンに染まっていた。
湖畔を一周できる遊歩道は、雪のため途中で閉ざされていた。展望台があったが、余りに近過ぎて写真撮影をしても全景は撮れなかった。
3℃の冷たい空気の中でまるで絵のような光景は静まり返っていて、私はしばし時間を忘れて見とれていた。
ガイド氏の説明では、この地方の針葉樹は樅ノ木で、気温が低い高地でゆっくりと成長するために木質が固く、古くより造船、楽器製造に重宝されて来たのだという。バイオリンの名器・ストラディバリウスなどが作られて来たそうだ。
ところで過日、NHKTVで、2009年に世界自然遺産に指定されたこのドロミテ山塊の成り立ちを報じたBBCTVが制作した番組を見た。
ドロミテ山塊は6000万年前にアフリカ大陸とヨーロッパが衝突した時に隆起してできた地形だそうだ。
ここには3000m級の岩山が18あり、どれも主成分はドロマイト(石灰岩にマグネシウムが結合してできた苦灰石)である。石灰岩は浅い海の海底にあったサンゴ礁なのである。
その証拠に岩を割るとハート形の化石が沢山出てくるが、それは大昔海底に生息していた二枚貝・メガロドンの置き土産だと言っていた。アンモナイトも沢山出てくるらしかった。
この地域には、地球の悠久の歴史が刻まれているのだ。
その後、バスで数日前に降った雪が残る景色を見ながら、さらにドロミテ渓谷を奥へ進んでいった。
標高1750mのカレッツア峠に着いた。
スキー場があり、眼前に標高2500m前後の山が聳えていた。僅かな時間だったが、その雄々しい光景に見とれた。
いよいよドロミテ渓谷で標高が2239mと1番高いボルドイ峠に着いた。
そこには数件のレストランと土産物店があり、サス・ボルドイ(標高2950m)に登るロープウエイが掛かっていた。
レストランで昼食を摂ってから、希望者はロープウエイに乗った。(20名以上の団体は、確か1人1.8ユーロだった)
上って行ったロープウエイは、最後に切り立った急峻な崖をほとんど垂直に近い状態で上った。(写真は私が乗っているロープウエイ内から、降りて来たのを撮った)
サス・ボルドイの山頂につくと、そこには360度のパノラマが広がっていて、アルプス山脈の広大さに感動した。
この山の向こうはスイスやオーストリアだと思うと、そのうち機会があればそちら側からもこの光景を見てみたいと思った。
山を下りてバスに乗り、標高2150mのファルツァレゴ峠を越え、46km離れたコルティナ・ダンベッツォに向かった。
4つ星ホテルの「ホテル・ヨーロッパ」に着いた。
山小屋風のホテルで、2階の部屋のベランダに出て見ると、大きな山塊が眼前に聳えていた。トファナ山(3244m)だった。
夕飯までの間、町を散策した。
ここで冬季オリンピックが開催されたこともある町は、小さいながら山岳リゾート客向けのホテルが多く綺麗だった。
スーパーを見つけたので、ヨーグルト、イタリア独特のレッドオレンジジュース、菓子、チョコレートを買って戻った。
ベルガモを観光後、バスで2007年世界遺産に登録されたミラノの東南東の町、マントバに向かった。
この町は紀元前からあり、ローマ時代に栄え、601年にロンバルディア公国の支配下に入った後も自治都市として栄えた。
13~18世紀にはゴンザーガ家の居城・ドゥカーレ宮殿が置かれた。
15世紀末にゴンザーガ家のフランチェスコ2世と結婚したイザベラ・デステが、多くの文化人、芸術家を支援した事により、ルネッサンス期の代表的な町の一つになったという。(彼女は、絵「モナリザ」のモデルかも知れないと言われている)
レストランで昼食を終えてから、先ずドゥカーレ宮殿があるソルデッロ広場に向かった。
直径が7~8cmもある丸い石を敷き詰めた歩きにくいローマ時代の石畳の道路① を進むと、同じ石畳のソルデッロ広場に出た。
広場を囲んで、ドゥカーレ宮殿(②の右の建物)、ドゥオーモ(サンタ・バルバラ教会)(②の正面の建物)があり、宮殿の奥にはサン・ジョルジョ城もあった。
宮殿には全部で500以上の部屋と多くの美術品があると言われているが、私たちはラファエロがデザインしたという素晴らしい大型タペストリーが並んで掛けられている部屋やベルサイユ宮殿に似た華やかな鏡の間、星座が描いてある宇宙の間などを見た。写真撮影は禁止されていた。
ドゥオーモの内部は、明るく華やかだった。③
① ②
③
マントバ観光を終えた後、バスでその日の宿泊地である181km北のアルプスに近いボルツァーノまで3時間走った。途中、交通の要所として、またロミオとジュリエットの故郷として名高いヴェローナ郊外を抜けた。
4日目の観光は、まず、ボルツァーノの市内散策から始まった。
この町は現在、ボルツァーノ自治県の主都である。
ウィキペディアによると、ボルツァーノ自治県は、中世までは神聖ローマ帝国の一部になっていたが、1363年ハプスブルグ家(スイスに元を置いたドイツ系貴族)のルドルフ4世の領土になってからは1918年までハプスブルグ家に受け継がれて来ていて、チロル地方の内、南チロルでは、イタリア語を話す人もいたという。
第一次世界大戦でイタリアは、1918年、南チロルに軍隊を駐留させた。1919年9月10日、南チロルは正式にイタリア領となった。
1922年に誕生したムッソリーニ政権はイタリア化政策を進め、ドイツ語系住民にドイツ語を禁止した。
1939年ヒットラーは、ドイツ語系住民にドイツへの移住か、ドイツ語を捨ててイタリア化するかの選択を迫った。
第二次世界大戦後の1948年、この地域に自治が保障されたが不完全だったため、1950~60年代にはテロ活動も激化したという。
1969年、オーストリアと自治権拡大とドイツ語の地位向上で合意が成立した。
現在人口482,000人、コムーネは116、ドイツ語住民は25%だという。
このような複雑な歴史を持った地域だけに、チロル風の建物が目を引いた。
教会の屋根は色タイルを並べてデザインされていたし④、壁に絵を描いて装飾している建物が幾つもあった。⑤
④ ⑤
公用語としてイタリア語とドイツ語が通用する町のため、様々な標識が両方の言語で表示されていた。
小さな広場に並んでいた市では、近郊の豊富な農産物や果物が売られていた。⑥ 手作りと思われる野菜のコサージュには温もりを感じた。⑦
また、この町の近郊で1991年に発見された「アイスマン」のミイラを保管している博物館の壁には、研究の結果、想像される猟師姿のアイスマンの垂れ幕が下がっていた。⑧
⑥ ⑦
⑧
3日目はコモをバスで7;45に発ち、93km離れた人口12万人弱のペルガモに向かった。
ミラノの北東に位置するペルガモは、古くからベネチアとミラノの2大強国に挟まれながら、13世紀までは自由都市として、その後ルネッサンス期にも栄えた町である。
旧市街が残されている丘の町アルタは、標高365mの所にあって周囲を城壁に囲まれている。今はケーブルカー(フニコラーレ)で楽に行くことができる。(写真①)
私たちはバスを降りてフニコラーレに乗り、丘の上に上がった。
東側の展望台からは山に囲まれた下町の新市街・バッサが美しく見えた。②
中央付近から展望すると、幾つもの古い塔が見えた。③ 右端の塔が後で傍まで行って見た市の塔だ。
① ②
③
その後、アルタの西側に向かって散策して行くと美味しそうなパン屋さんがあった。④
共同洗濯場がある広場には、水道の横に犬の落し物袋が備えられていた。⑤ (犬を連れた人がやって来た。少し離れた場所で犬が落し物をした。その後、使うかどうか見ていたら、使っていた)
④ ⑤
この門⑥をくぐると、アルタの中心地ライオンの噴水があるヴェッキア広場に出た。⑦ この付近には中世の面影が良く残されていた。展望台から見えた市の塔がそびえていた。
広場の傍にサンタ・マリア・マッジョーレ協会、15世紀に建てられた独特な美しい姿のコッレオーニ礼拝堂⑧があった。
自由時間に広場にいたら、乳母車を押す母親が来た。「ボンジョルノ!」と挨拶をしてから、持っていた折り鶴を子供に渡した。⑨ 言葉が分からないので、残念ながらそれ以外の話はできなかった。
⑥ ⑦
⑧ ⑨
ベルガモ観光では、北イタリアの中世の雰囲気に触れることができた時間だった。