≪世界遺産「レボチャ」観光≫
「レボチャ」は、「スロヴァキア」北東部の山間部にある町だが、1242年にオスマントルコ軍の侵攻を受けた。その後、「ハンガリー」王が町を深い堀と9mもの高さの城壁で囲み、防御の最前線にした。2009年に次に書く「スピシュ城」と共に世界遺産に登録された。
①「聖ヤコブ教会」
この教会は「スロヴァキア」第二の教会で、内部は高さがあり、ゴシック様式の豪華な祭壇に目を奪われた。
②「旧市庁舎」
1615年に造られたというルネッサンス様式でアーケードがある建物だ。今は歴史博物館になっている。
「旧市庁舎」傍の建物は、歴史を感じられる造りの建物だった。
≪世界遺産「スピシュ城」観光≫
「レボチャ」で昼食を終えた後、バスで30分程で城の町「スピシュケー・ポドフラディエ」に着く。間も無く目の前の丘の上に(ガイドブックには標高634mとあった)巨大な石の廃墟が現れた。「スピシュ城」だ。
バスは徐々に坂を上って駐車場に着いた。私達は城の入り口まで急な坂道を20分登った。息が切れた。
この城は、元々この地に建っていた城の場所に、タタール人の襲撃に備えて石造りのロマネスク様式の要塞として1209年から新たに建設が始ったらしい。
ネットで調べた資料によると、この一帯は「旧スピシュ県」の政治、経済、行政、文化の中心地として栄えた地域だった。
1464年以前は「ハンガリー王国」が所有していたが、その後、3つの家の所有を経て、1945年には「チェコスロヴァキア政府」が接収。1993年「スロヴァキア」の独立後は、政府の国有地になっている。世界遺産への登録は、2009年だ。
1464年~1528年に所有していた「サポヤイ家」は上下二層の建物の上階を家族の住居にするため後期ルネッサンス様式に改装し、礼拝堂は1470年頃に付け足された。(ハンガリー王になった「サポヤイ・ヤーノシュ」はここで生まれたという)
1780年頃、城は火災に遭い消失し、廃墟となった。現在はスロバキア政府の手で、修復が進められている。
ヨーロッパ一と言われる規模(多分総面積)のこの城は、2012年「トリップアドヴァイザー」の「世界の名城25選」に選ばれている。
1時間程自由時間があったので、私は最上部の塔の上まで狭く段差が高い螺旋階段をやっと上った。360度はるか遠くまで、素晴らしい景色が見渡せた。これなら敵の奇襲を発見できる。こんな遠くまで来て良かったと思った。
この城の見学後、スロヴァキア第二の都市「コンツェ」に立ち寄り、その町の空港からトルコ「イスタンブール」を経由して成田に無事帰国した。
伯母の入院やシーズンを迎えた薔薇の作業や菜園の作業に挟まれて、記事の掲載が長引いてしまったことをお詫びしたい。だが、やっと終る事ができてホッとした。
初めての「スロヴァキア」は、まだまだ観光地化されていない状況の国だったが、世界遺産が多く、どの町も素朴な雰囲気で、行って良かったと思った。
私のいつもながらの拙文を読んでくれた方々には、心から感謝します。 (完 成)
≪「スロヴァキア」の世界遺産「バンスカー・シュティアヴィニツァ」観光≫
「ハンガリー」の観光を終え、国境を難なく通過すると、そこは「スロヴァキア共和国」だった。
「スロヴァキア」は日本の1/7の面積に5,447,000人(2016年調べ)が暮らしていて、その80%以上がスロヴァキア人だ。その他、ハンガリー人、チェコ人、ウクライナ系のルテニア人、ドイツ人もいる。
言語はスロヴァキア語が公用語。若い人には英語が通じる。
ガイドブックを参照に、 「スロヴァキア共和国」の歴史を要約する。
7世紀にスラブ人が「サモ王国」を建国したが間も無く滅び、9世紀初頭に「ヒトラ公国」ができる。
828年キリスト教会が建てられ、833年には西スラヴ族が「大モラヴィア王国」を作るが907年に滅ぶ。
1536年「ハンガリー王国」の首都が「ブダ」から現在の「スロヴァキア」の首都「プラチスラヴァ」に移るが、1541年に「オスマン帝国」が「ブダ」を支配すると、150年間に渡って「ハンガリー王国」の支配を受けることになる。
18世紀になると、ハプスブルグ家の支配に反対する「ハンガリー民族」の運動が起きるが、「スロヴァキア」では「ハンガリー」に抵抗する動きが強まる。
1918年に「オーストリア=ハンガリー二重帝国」が敗れて、「チェコスロヴァキア」が独立する。1939年「チェコ」がナチスドイツの保護領となると、「スロヴァキア」は独立するが、実はドイツの傀儡政権だった。
1945年ドイツの敗北後、再び「チェコスロヴァキア」として独立する。
1992年の総選挙で「民主スロヴァキア」が第一党となり、1993年1月、「スロヴァキア共和国」が誕生する。
2000年「OECD」に加盟、2004年「NATO」と「EU」に加盟し、2009年、通貨を「€」に切り替える。
ヨーロッパの弱小国は、長い苦難の道を歩んで来たが、スロバキアもそうした国の一つで、独立してからまだ20数年しか経っていない新しい国なのだ。
「ホッロークー村」からバスは北西方向に約80km強走行して、山間の鉱山の町「バンスカー・シュティアヴィニツァ」に着いた。
坂の上に町の「中央広場」や「インフォメーション」があった。
この町は、15世紀半ばには金銀が産出される重要な鉱山になり、最盛期の18世紀には600kgの金、24,000kgの銀が採掘された。
20世紀になると産出量が減って町は衰退したという。現在の町の人口は1万人だ。
「中央広場」に面して「インフォメーション」があり、その裏に一つの「鉱石博物館」があった。ガイドに案内されて内部に入った。
①「鉱石博物館」
②「聖三位一体広場」
広場は傾斜地になっていて、中央に立派な「ペスト収束記念柱」が建てられていた。その台座で遊んでいた女児。
③「新城」
町の中心から狭い階段を登って行くと、小高い丘の上に「新城」があった。16世紀にオスマン帝国の侵略に備えて造られた二つの城の内の一つだ。
壁には砲弾の跡が沢山残されていた。城の前では出店が出ていて、色々なものを売っていた。
≪世界遺産「バンスカー・ビストリッツア」観光≫
次の町は「バンスカー・シュティアヴィニツァ」の38km程北北東にある鉱山の町「バンスカー・ビストリッツア」だ。
ここも14~16世紀にかけて銅と銀の産出地として栄え特に産出量が多かった銅はヨーロッパ中に輸出されていた。
しかし資源が枯渇するようになると、手工業の町として発展した。
一方、18世紀後半からは、スロヴァキア民族運動の中心地となった。
第二次世界大戦末期の1944年には、「ナチスドイツ」の支配に反対して「スロヴァキア民族放棄(SNP)」が起こった。
町の中心には、「SNP広場」が作られていて、教会、時計塔、市庁舎、中部スロヴァキア博物館が囲んでいた。
「ナチスドイツ」に最初に反旗を翻した人々がこの町の人たちだったんだと知って、感銘を受けた。
私達が訪れたのは土曜日だったので、教会では結婚式が行われていた。
(「SNP広場」)
≪世界遺産「ホッロークー村」観光≫
この村は「ブタペスト」の北東約90kmの「スロヴァキア」との国境近くにあった。
13世紀にモンゴル帝国の襲撃から逃れて移り住んだ人々で「バローツ人」と言われているという。
1909年の大火後に「バローツ様式」で再建した家々は、斜面に建っていて半地下様式だ。全部で50棟ほどあるというが、今の住民の大半は年金生活者と聞いた。
壁は藁を混ぜた土壁の上に石灰を塗って白くしてある。室内の煙を外に逃がす「破風」がその家によって異なる。
私達はその家の一軒に入った。
広い庭がある家で、70~80歳代と思われる民族衣装に身を包んだ二人の女性が迎えてくれた。
先ず、「ハンガリー」の蒸留酒「バーリンカ」が振舞われた。二人の女性が歌を唄ったり、民族ダンスを披露してくれた。
それから私達の中から男女1人ずつに民族衣装を着せた。女性のスカートの下には、2枚の下着を着て、スカートが大きく開くようにしていた。
それから簡単な民族ダンスを輪になって踊った。短時間だったが、高齢の村人の歓迎と交流に心が温かくなった。
村内を散策した。冬には1.5mもの積雪になるらしいが、5月下旬なので薔薇やゼラニウムが咲き誇っていた。可愛い教会に目を惹かれた。
一軒の家に入って見たが、質素な暮らしながら、室内を明るく綺麗に飾っていた。
その後、レストランで昼食を食べてからバスに戻った。
暫くぶりで旅日記を続ける。
≪「ブタペスト」市内観光≫
この町は2回目の訪問だったが、何か新鮮に感じられた。現地ガイドは、中高生の時に東京に住み、公立の学校に通学した経験がある若い人で、日本語の違和感がほとんどなかった。
①「漁夫の砦」
首都「ブダペスト」は、南北に流れる「ドナウ川」を挟んで東が「ペスト地区」西が「ブダ地区」となっている。
「漁夫の砦」はドナウ川沿いの小高い丘の上にあった中世の城壁に1899年から「ネオ・ロマネスク様式」で町の美化の為に壮大な砦が建設された。白い石灰石の建物が印象的で「ペスト地区」が眺望できるため、大勢の観光客で賑わっていた。
(ドナウ川の向こう岸「ペスト地区」の写真中央に聳える尖塔がついた建物は、1902年に完成したネオ・ゴシックにルネッサンス様式を加えた「国会議事堂」)
(広場に立つのは「聖イシュトバーン」の騎馬像だ。彼(969または975年~1038年)はマジャール人の大首長だったが、父の死後、「ハンガリー」の初代国王になった。国内に8つのカトリック教会の司教座を置き、修道院付属の学校を作り、カトリック教とラテン語を振興した。1000年12月25日にローマ教皇より冠を戴き、「エステルゴム」で戴冠式を行って、正式に「ハンガリー王国」が成立した。息子達は早くに死んだので、彼の死後、後継者を巡る争いが起きたが、11世紀末に混乱を収めた「ラスロー一世」によって、彼は聖人に加えられた。像の手に持つ十字架は二重のクロスだが、彼がキリスト教を広めたことと、国を統一したことの二つを意味するらしい)
②「マーチャーシュ教会」(聖処女マリア教会)
13世紀に建てられたカトリック教会だ。オスマントルコが侵略した後、モスクに改装されたが、第二次大戦後、教会に再建された。
③「三位一体広場」
「マーチャーシュ教会」の前の広場だ。
14mの高さの「三位一体像」は、ペストの収束を祈って18世紀に建造された。
④「くさり橋」
「ドナウ川」で分断されていた「ブダ地区」と「ペスト地区」を結んだブダペスト最古の橋で、第二次世界大戦で破壊されたが1949年に再建された。巨大な4頭の「ライオン」が橋の両端で通る人や車輌を見守る美しい橋だ。夜間はライトアップされる。
⑤「英雄広場」
ハンガリーの民族「マジャール族」の建国1000年に造られた記念モニュメント。「建国記念碑」は高さ35mあり、「マジャール族」の首長、歴代の王、貴族14体の像が並べられている。
私達が行った17時半頃、丁度トルコから来た人達が映画の撮影をしていたのに出くわした。
⑥「現代美術館」
「英雄広場」の近くにあり、傍には「西洋美術館」もある。「農業博物館」「交通博物館」もあった。
(バスから見た中の良い中年カップル) (レストランの看板)
「ブタペスト」には、歴史に残る巨大モニュメントが沢山あった。
≪「センテンドレ」散策≫
首都「ブタペスト」から北に19kmと近い「センテンドレ」は、14世紀から商業で栄えたが、15世紀になると「オスマントルコ軍」の襲撃を逃れて来た「セルビア人」が移住地として移り住んだ町だ。
また、町は「ドナウ川」の川岸にあって、「セルビア」から真っ直ぐ北に向う「ドナウ川」が「スロヴァキア」と「ハンガリー」の国境沿いに西に折れ曲がる「ドナウベント」に近い。昔の「セルビア人」は、船で移住して来たのだろうか。
現在は人口が僅か2000人という小さな町だが、1920年代に芸術家達の集団が集まって来た事から、美術館が十数件もある。
町の通りには土産屋が並び、道の上まで飾り付けてあった。決して広くはない「中央広場」には、十字架が立っていた。
「中央広場」から奥に行くと階段があり「丘の上のカトリック教会」が建っていた。13世紀に建てられ1751年に改装された教会の祭壇は簡素だったが、静謐な雰囲気が溢れていた。子供達が遊んでいた。
丘の下に降り、「中央広場」横の「セルビア正教会」にも行ったが、扉が閉まっていた。
仕方が無いので町の東側を流れる「ドナウ川」の河畔に行って見た。川と言うよりも小さな海の様な雰囲気だった。
「センテンドレ」の散策を終え、「ブタペスト」に向った。バスの中から「鎖橋」「王宮」「国会議事堂」などを見学してから、「漁夫の砦」に向った。
≪「エステルゴム」散策≫
二つの町は共に「ブタペスト」の北側にある。5日目は朝から晴天で、最高気温は28~29度と予想されていた。
まず「ブタペスト」からバスで1時間半で「エステルゴム」に到着。
この町にはカトリックの総本山の教会がある。
初代ハンガリー国王「イシュトバーン」が西暦1000年に「ドナウ川」を見渡すこの地で戴冠し、丘の上に「王宮」と「大聖堂」を築いた歴史を持つ。16世紀には、オスマントルコ軍の攻撃を受けている。
駐車場でバスを降り、添乗員について北側の「旧市街」方向に歩き出した。「バイチ・ジリンスキ通り」は緩い坂道で、その先には「王宮」と「大聖堂」があった。
①「大聖堂」
「大聖堂」は、高さ100m、直径53.5mのドームを持つ新古典様式の壮大な聖堂である。この国内最大の「大聖堂」は、カトリックの総本山でもある。
現在の建物は1822年から50年をかけて再建し、1856年の奉献儀式のミサでは、「リスト」が作曲した曲を演奏したという。
内部に入ると、窓から入った日の光が壁に反射して全体的に明るくなる様に造られている。祭壇の上部にある絵画「聖母マリアの昇天」は、イタリア人「グレゴレッティ」が描いた。最後の写真は、後部のパイプオルガン。
②「大聖堂」の庭から見た「ドナウ川」の眺め
(直ぐ下にあるのは「キリスト教博物館」)
(「マーリア・ヴァレーリア橋」を渡ると、そこは「スロヴァキア」の国境の町「シュトロヴォ」だ。元の橋は第二次大戦で壊され、2001年に再建された)
新市街から運行しているのか、タイヤ式「観光列車」が走行していた。
≪「ヘレンド」の町の磁器工房≫
「ティハニ」の町を出て、北に25km程の場所に小さな村がある。世界的な磁器ブランドの工場と博物館がある「ヘレンド」だ。
先ず工房のレストランで昼食を採った。テーブルによって図柄が異なる洋皿とナフキン入れがセットされていた。どの洋皿の図柄も繊細緻密画が描かれていて素晴らしかった。
その洋皿に食事が出たが、どれも美味しかった。(写真はテーブルのセッティングの一つと、私に出されたデザートのケーキ)
その後、レストランの前にある「ヘレンド博物館」を見た。そこには1826年の創業以来の「ヘレンド」の歴史的な作品が展示されていた。
ガイドブックによると、1992年以来株式のほとんどは1000人程いる社員が持っていて、伝統的な製法やデザインを守っているそうだ。
(博物館入り口) (前庭に置かれていた置物)
さらに「ヘレンド・ミニ工場」で、繊細な磁器の製作と絵付けを見学した。立派な売店もあり、高価な食器などを買い求めた人もいた。
私は既に食器棚が一杯だし、これからの生活にはもう高価な食器を必要としないなと考えて買わなかった。
≪「ヴェスヴレーム」散策≫
「ヘレンド」を出発後、30分で東隣にある「ヴェスヴレーム」の町に到着した。
この町は「イシュトヴァーン王」が「ギゼラ王妃」のために城を築き、王妃を住まわせた所だ。
先ず「火の見塔」が目に付いた。基礎部分は中世のものだが、上部はオスマン帝国の攻撃や1848年からの独立戦争で破壊されたのを、19世紀に再建したもの。
かって城があった旧市街は小高い丘の上にあり、入り口に造られた「英雄の門」をくぐって登って行った。この門は、民族紛争の戦いを終えた兵士達を迎えるために造られたという。
その先端は断崖絶壁の「展望台」になっていて、そこに「イシュトヴァーン王とギゼラ王妃の像」が旧市街を見守るように建てられていた。そこから見える町並みは絶景だった。遥か下の道を課外学習か何かで列をなして歩く小学生を見た。
また10世紀末に「ハンガリー」最初の司教区が置かれた町だが、18世紀にハプスブルグ家の攻撃によって破壊された歴史がある。
「大聖堂」は歴史的に王妃の戴冠式をする場所でもあるそうだ。前の広場に「三位一体の像」が聳えていた。
その他、1765年に建てられた①「大司教の館」②「ピアリスタ教会」の建物に目を引かれた。③「市庁舎」にも歴史を感じた。
①
②
③
散策を終えてからその日のホテルがある首都「ブタペスト」まで、バスは北東に1時間半走った。
夕食はレストランだったが、ハンガリー料理の「グヤーシュ」(写真左)とデザートが供された。
書くのが遅くなったが「ハンガリー料理」の特徴は、「パプリカ」で味付けをする事だ。余り辛くない「パプリカ」の粉を使って、独特の風味を出した料理が多かった。
≪「バラトン湖」湖畔の町「ティハニ」散策≫
前日は「ヘーヴィーズ」という温泉リゾートのヘルススパホテルに泊まった。
部屋が4階の角部屋だったので特に見晴らしが良かった。朝6時過ぎの日の出と共に徐々に明るくなって来たら、鬱蒼とした深い森、そこにたなびく白い霧の光景が実に幻想的だった。
ところで「ハンガリー」の西部中央に細長い大きな湖がある。ヨーロッパ最大の湖「バラトン湖」で、77km×170kmあり、面積300k㎡もあるので「ハンガリーの海」とも言われる。
その湖にイボの様に突き出た半島にある町が「ティハニ」だ。「ヘーヴィーズ」からバスで1時間45分で着いた。
駐車場でバスから降りると細めの上り坂の道があった。途中には「ラベンダー」の乾燥した花で作った土産物や、名産「パプリカ」の粉などを売っていた。下の方に日本で6年間生活した事があるという女性の店もあった。
私の庭にも「ラベンダー」が植えてある。今までは花が終ったら切って捨てていたが、これからはその花殻を摘んで布の袋に入れ、「ラベンダー」の香りを楽しもうかなと思った。
その「バッチャーニ通り」には独特な藁葺き屋根の家が数軒あったので、写真を写した。
今までもあちこちの国で同じ様なデザインの茅葺き屋根を見てきた。この窓は藁葺き屋根の内部の換気口として造られたものだ。換気口の窓が、まるで眼のようにも見える面白いデザインだ。
さらに坂を上って行くと、頂上に「修道院教会」があった。教会の前の広場から右手下方に瓦斯に霞む「バラトン湖」と船着場が見えた。
≪「クーゼフ」散策≫
「ショプロン」は「オーストリア」側にポコンと飛び出した町なので、散策後はまた「オーストリア」の領土を少しの間南に横切って「クーゼフ」に行った。こんなに簡単に何もせずに国境を出たり入ったりできるのは、EU共同体になったお陰なのだろうと思った。
「クーゼフ」は、人口15000人ほどの小さな町だが、「ハンガリーで最も美しく、最も小さい町」と言われているようだ。
この町の特徴は、堅固な城砦を築いたお陰で、1532年「オスマン帝国」の11回の攻撃から町を守った事だ。何でも数百人の軍が、10~28万人ものトルコ軍を退けたと言うのだ。そのために美しい中世の建物が今でも多く残っていることだろう。
この町に着く前から雨が降り出し、傘をさしての散策となった。
13世紀に小高い丘の上に築かれた「ユリシチ城」は、1777年の火災で被害を受けたという。私達は今回は立ち寄らなかった。
①「中央教会」
「中央広場」に聳える美しい教会は、ネオゴシック建築で、絵になる佇まいを見せていた。
②「英雄の門」
この門は、1532年のオスマントルコ軍を撃退した記念に、1932年に建てられた。
③その他の建物
(ユリシチ広場に建つ「聖イムレ教会」)
(この町で最も古い後期ゴシック様式の「聖ヤコブ教会」) (ここは何屋さん?)
(14世紀の建造物、ゴシック建築の「市庁舎」)
≪ハンガリーの西端の町「ショプロン」観光≫
「ショプロン」は、「オーストリア」国境から6kmの地点にあり、「オーストリア」側に張り出した人口5万人の西端の町だ。
オスマン帝国の襲撃を逃れたため、旧市街に中世の面影が残っている。
第一次世界大戦の敗北によって「オーストリア」領になる筈だったが、1921年の住民投票の結果、「ハンガリー」領として残ることを選んだ町だ。
ローマ時代から交通の要衝として発展し、ピアノ曲「ハンガリー狂詩曲」などを作曲した「フランツ・リスト」(1811~1886年)の生誕地でもある。「リスト」の曲は音を細かく並べてあって優美なので、私の好きな作曲家だ。
また現在は赤ワインの産地としても名高く、途中の景色には広大なブドウ畑がどこまでも広がっていた。
(リストの像) (新市街の道路脇に造られている噴水で遊ぶ少女)
①「火の見塔」
1409年にローマ時代の遺跡の上に造られたが、1676年の火災で焼失し、再建された。上部はバロック様式、時計は17世紀から動いている。
下の「忠誠の門」は、ハンガリーへの帰属を記念して造られたものだという。
(下の写真の左端の建物は「シュトルノの家」で、14世紀に建てられたもの。「マーチャーシュ王」も滞在した事があるらしい。右側の建物が「市庁舎」。いずれも中央広場に面している)
②「山羊教会」
「ハンガリー」でゴシック建築を代表する協会。13世紀後半、山羊飼いの男が山羊が掘り当てた埋蔵金を教会の建築費用にと寄付したためにこう呼ばれるようになったと言う。
教会の前の広場に「三位一体の像」があった。この像の多くは、どの町でもペスト流行の恐怖が収束したことを記念して建造されたものだ。
≪「ハンガリー」という国≫
「ハンガリー」は、国土を「オーストリア」「スロベニア」「クロアチア」「セルビア」「ルーマニア」「ウクライナ」の6カ国に囲まれ、面積は日本の約1/4の国で、人口は994万人、首都は「ブタペスト」だ。
2004年にEUに加盟したが、通貨は当時の「オルバーン首相」の権限で今も「フォリント」を使っている。
ガイドブックによると、ハンガリー人は、ロシアのウラル山脈の麓に住んでいた「マジャル人」で、遊牧生活をしながら西に移動し、9世紀後半にハンガリーに住み着いたと言われている。アジア系の民族で、髪が黒く瞳も黒い。
歴史をみると、900年代に首長の「アールバード朝」がキリスト教を受け入れ、1000年には「イシュトヴァーン一世」がローマ教皇から王冠を戴き「ハンガリー国王」になった。
当時の「ハンガリー」は「スロバキア」「ルーマニア」「クロアチア」の一部を領土とする大国家だったが、1240年代になると「モンゴル軍」の攻撃を受ける。それ以降、多くの都市に城砦が築かれた。
しかし「ハンガリー」も他国に翻弄され、1526年、「ブダ」とその周辺部がオスマン帝国の直轄領になった。
1683年には「ハプスブルグ家」が「ブダ」を奪還、その後1699年になって「オスマン帝国」は「ハンガリー」から撤退して「ハプスブル家」の支配を受ける。1740年には「マリア・テレジア」がハンガリー女王になった。
1848年以来民族運動が活発化した。
1866年、プロイセン王国との戦争に負け、時の王「フランツ・ヨーゼフ一世」はハンガリー国会を承認し、オーストリアとハンガリーの二重帝国、「オーストリア=ハンガリー帝国」が誕生した。
「フランツ・ヨーゼフ一世」の妻「エリザベート」が1898年にスイスで暗殺され、1914年には甥の大公夫妻が暗殺されると、「セルビア」に宣戦布告をした。やがて、ドイツ、ロシアを巻き込んで第一次世界大戦へと進展していく。
1918年、戦争に敗北して二重帝国は崩壊し、1920年には「ハンガリー王国」が誕生するも、その後「トリアノン条約」で「チェコ」「スロヴァキア」「ルーマニア」などが割譲されて現在の国土になった。
1939年以降の第二次世界大戦では、「日独伊」の三国同盟に加盟したが、1944年ドイツに占領される。しかし翌年、ソ連により開放される。
1949年、ソ連のスターリン型社会主義国家「ハンガリー人民共和国」になる。
1953年スターリンが没すると、大規模な一党独裁政治への反発運動が起きた。この時、ソビエト軍がハンガリーに侵攻し、大勢の死者が出た。
1980年代のゴルバチョフ首相による「ペレストロイカ」で民主化運動が高まり、国名を「ハンガリー共和国」に変えた。
その後1999年、NATOに加盟、2004年にはEUに加盟した。
2012年12月、国名が「ハンガリー」に変った。
≪「オーストリア」の世界遺産「グラーツ」観光≫
3日目はホテルを8時半に出て、1時間余り、人口25万人の町の世界遺産「グラーツ」旧市街の観光をした。
ガイドブックを見ると「グラーツ」の名は、スラブ語の「砦」を意味する「グラデク」から来ているらしい。
13世紀に「ハプスブルグ家」の「ルドルフ1世」が、それまでのスイスからオーストリアの「ウイーン」に首都を移したため、「グラーツ」は南部の中心都市として栄えた。
15世紀には「フリードリヒ3世」が居城を「グラーツ」と定め、王宮、大聖堂を造った。
その息子「マキシミリアン」は『戦争は他家に任せよ。幸多きオーストリア、汝結婚せよ』といい、欧州各地の名家との婚姻政策を進めて、やがてブルゴーニュ、スペイン、ポルトガル、ハンガリー、ボヘミアを手中に収めた。
大航海時代には、「太陽の沈まぬ国」と言われたが、19世紀、ナポレオンによって神聖ローマ帝国が滅び、更にプロイセンとの戦争に負けると、「ハプスブルグ家」には「オーストリア」だけが残された。
その後は文化活動を推し進め、ウイーン、グラーツなどの芸術都市を築き上げたという。
現在「グラーツ」は、中世から現代に至る「建築の町」「デザイン都市」としても世界遺産に指定されている。
①旧王宮の二重螺旋階段
15世紀に「フリードリヒ3世」が築いた王宮は現在は州議会場となっていて、この螺旋階段だけが残されているという。昇降時には左右のどちらも使えるが、階が変る所で1つに会う造りで「和解の階段」と言われている。
②「市庁舎」(ラートハウス)
16世紀にルネッサンス様式で建てられ、19世紀後半に新古典主義で改装された豪華な建物だ。前の「ハウプト広場」には「ヨハン大公像」がある。中庭には三層アーチ式の通路があった。「婚礼の間」は結婚式場になっているという。
③「大聖堂」
外観は質素だが、内部は15世紀のフレスコ画が描かれ、天井が高い。イナゴの大発生、戦争、黒死病などが続いたため、それらが無くなる様神に祈る絵もある。17~18世紀に内部がバロック様式に改修されたため、華やになった。
ミサが行われていて、写真は撮るのを遠慮した。
④歴史を残す数々の建物
⑤「ゲマルテスハウス」(兵器庫)
18世紀に「ヨハン・マイヤー」が、外壁にギリシャ神話、ローマ神話を題材としたフレスコ画を描いて飾ったという。傷みやすいフレスコ画が綺麗に残されていた。
「グラーツ」を出発後、「オーストリア」の国境を越えて隣国「ハンガリー」に入った。EU加盟国同士の国境には、EUと国名を表記した立て看板が立っているだけ。初めてこんな国境越えをした人は、チェックが何も無いのに驚いていた。
「ショプロン」の町には2時間半で着いた。
「ザルツブルグ」を観光後、次の町「ハルシュタット」を目指した。
「ハル」とはケルト語で「塩」の意味、「シュタット」はドイツ語で「場所」の意味。
ここも紀元前800年頃から「ケルト民族」が岩塩を求めて入り、町として栄えた歴史がある。「ハルシュタット塩抗」は世界最古の岩塩坑で、美しい山とハルシュタット湖の景観を含めて世界遺産に指定されている。
途中、懐かしい景色に出会った。また、「ウオルフガング湖」の傍で、バスから降りて写真を撮った。
1時間半後の16;10に「ハルシュタット」に着いた。
町の家々は、湖にせり出す山裾に沿った道の両側に細長く続く。駐車場でバスから降りて、その狭い道を奥に向って進んだ。遊覧船の停泊場所や坂になった広場、教会も見えた。
観光客が沢山いたが公共トイレが2箇所しかなく、入るには何と「1€コイン」が必要だった。
私はコインが無かったので、スーパーで5€紙幣を出して3.9€の「ウエハース」を買い、その釣り銭で1€(日本円で135円)のトイレに入った。「ウエハース」はツアーの方々に試食してもらった。
今回の旅行では、「オーストリア」と「ハンガリー」のトイレの大半が有料で、平均は0.5€だった。ここが一番高かった。
観光後17;25に再びバスで出発した。バスは3時間走り続けたが、途中の景色は北海道に似て広大な農地と牧草地が広がっていた。牧草を刈ってロール状にしたのが、牧草地に沢山置かれていた。
バスから山々が見え出した。初めの内は豊かな森林に覆われていたが、「グラーツ」が近づき見えた大きな山脈は、石灰岩に覆われて灰色をしていた。
「グラーツ」のホテルに着いたのは20;25だった。
≪「ザルツブルグ旧市街」観光≫
「ザルツブルグ」の名は「塩の町」の意で、古くから山で採掘される岩塩を主な産業にして発展して来た。
私がこの町を訪れるのは2度目だが、今回はバスの駐車場から徒歩で旧市街に入ったので、前回とは印象が違った。
旧市街は、岩山を掘って造った長いトンネルが出入り口になっていて、反対側は「ザルツアッハ川」に囲まれている天然の要塞といえる場所に造られていた。
(トンネル入り口)
(出口)
また、南西部は「イタリア」の北と国境を接していて、1806年まで「大司教座」が置かれ、ローマ」に告ぐ教会国家を統治していた。
そのためにバロック様式の建築物が多く、歴史地区の1000の対象物と236haの旧市街が1997年にユネスコ世界文化遺産に指定された。
(「レジデンツ」新館と広場の「バロック噴水」)
(「大聖堂」と広場の「マリア像」)
(「ゲトライデ通り」の奥は「ザンクトクラジウス教会」)
アルプスより北の町でオペラが上演されたのは、この町が初めてだという。それ以来、「ザルツブルグ大学」や「大聖堂」などで上演され続け、現在の「ザルツブルグ音楽祭」に引きつがれている。
1756年1月27日に「ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト」が生まれた生家も旧市街にあり、私は前回、彼が使用した楽器や家族の写真、自筆の楽譜などが展示されているその内部を見学している。家の前には相変わらず観光客が多かった。
ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の撮影舞台になった「ミラベル庭園」に行くのも2回目なので、映画がどこで撮影されたかなど知人を案内した。この映画は「ナチス」の追っ手から逃げる家族が画かれているため、政治的過ぎるという理由でヨーロッパでの上映が差し止められたと添乗員から聞いたが、第二次大戦後、ドイツを初めとしてヨーロッパ各国が「ナチス」の政治に多いに反省した筈なのにと不思議に思えた。
また、立派な「ミラベル宮殿」は、1606年大司教「ヴォルフ・ディートリッヒ」が愛人「ザロメ・アルト」のために造営したものだという。現在は市長の住居になっている。
(ギリシャ神話「ペガサスの噴水」)
庭園に行く途中から見た「ザルツアッハ川」とその向こうの丘に建つ「王宮」が、この町の存在感を示していた。
「ザルツアッハ川」に掛かる「マカルト橋」の欄干には、愛の鍵が止められていた。
橋を渡ったところに世界的な指揮者「カラヤン」の家があった。また、庭園傍の公園に「コペルニクス」の大きな像があったが、「オーストリア」との関係は分からなかった。(「コペルニクス」(1473~1543年)はポーランド生まれの天文学者であり、聖職者、医学者、法学者だった。「天球の回転について」という書を著し、「天動説」が信じられていた時代に、太陽を中心として地球が回転しているという「地動説」を発表した)
≪日本から「オーストリア」の東の町「ザルツブルグ」へ≫
旅行は5月20日~29日までの予定だった。しかし、出発の2日前に伯母が「脳梗塞」を起こした。
出発の直前だったので、どうしたら良いか、直ぐに医師に相談したら「今日このまま入院してもらうので、旅行には行って来てください。」と言われた。
そこで大急ぎで自宅に戻り、入院に必要な持ち物一切をまとめて夜、入院室に持参した。
翌日から行く事になっていた介護施設の「ショートステイ」はキャンセルしたが、行くために、伯母がソフトスーツケースに衣類などをまとめて用意して置いてあったから、それに下着や食事道具、ティッシュペーパーを付け足すだけで事が足りた。
伯母には、「ショートステイの代わりに入院になってしまったけれど、しっかりと治療を受けるように頑張ってね。」と話した。私の旅行は2日後だった。
私の旅行荷物づくりの時間が伯母の入院準備で少なくなって焦ったが、何とかスーツケースに衣類などを投げ込み、20日12時の飛行機で「新千歳空港」から「羽田空港」に飛んで、10日間の旅行に向った。今回の行きのチケットは溜まった「マイル」で買った「特典航空券」だったので、便数が少ない成田空港行きは満席だと言われたのだ。
旅行中、何度も伯母の夢を見たが、私が留守中の緊急連絡先を札幌の妹が引き受けてくれているので、今回も助かった。
(妹に施設や病院から連絡が行った事は、まだ無いが…)
帰国は28日夜。成田から北海道に飛ぶ飛行機が無く、翌朝10時発のANAで帰宅した。
所で行きの「羽田空港」からは「京急線」の「成田航空直行便」に乗りたくて切符販売所に相談したら、男性職員が「日曜日なので直行便はありません。途中で乗換えが必要です。」と言う。しかも路線名を知らなければ切符が買えない。焦った。
しかし、その後来た女性職員に話して、無事に直通便の発車時刻を聞き、切符を買って乗り込んだ。
あの男性職員は、間違った説明をした訳で、腹が立った。
成田では18;55に指定されたカウンターに集合。今回乗る「トルコ航空」のカウンターに30分以上も並んでスーツケースを預け、希望した通路側の座席のチケットを受け取った。
21;25飛行機は「イスタンブール」目指して離陸した。機内は満席に近かった。ロシアの上空を飛行し、12時間掛けて「イスタンブール」に着いた。途中何度も気流の関係で飛行機が左右に強く揺れたが無事だった。
「イスタンブール」では日本との時差が6時間あるので、時計を-6時間に合わせた。
「オーストリア」の「ザルツブルグ」行きに乗り継ぐ時間が5時間半もあったが、同じツアーの知人と混む待ち合い室で話をしていたら、あっという間だった。
「イスタンブール」を9時に離陸し、2時間半後の10時半には「ザルツブルグ」に着いた。(「ザルツブルグ」は「ハンガリー」よりも-1時間の時差があるので、こんな時刻になる)
そして午後から早速「オーストリア」の東の町「ザルツブルグ」の観光が始った。