≪「コルマール」に「自由の女神像」が≫
バスが「コルマール」に入った時、道路の真ん中(ロータリーだったのかも)に立つ「自由の女神像」が見えたので驚いた。慌てて写真を撮った。
調べたらアメリカの「自由の女神像」を設計した「オーギュスト・バルトルディ」(1834~1904年)が「コルマール」の出身者なので、彼の没後100年の記念に高さ12mのレプリカを作って展示しているものだという。
旧市街には彼の実家だった所が「バルトルディ美術館」として公開されているが、火曜日が休館日なので扉は閉まっていた。前庭のブロンズ像が素敵だった。
(付記 ニューヨークの像は台座を入れて93mある。フランスの政治家「エドワール・ド・ラブライエ」が、南北戦後の混乱に苦しむアメリカに、独立100年記念として寄付を募って贈った。設計者「オーギュスト・バルトルディ」に製作を依頼し、1884年に完成した像を214個に分解してアメリカに船で輸送したのだ。エッフェル塔の設計者「エッフェル」も設計に参加した。コンセプトは「人類の自由と平等」だった)
「コルマール」散策後、バスは国境を越え、東方300kmのドイツ「フランクフルト」の空港近くのホテルに向って4時間半走った。
翌日は「フランクフルト国際空港」発12;10のANAに搭乗して帰国した。帰りのエコノミー席後部には空席が目立ち、私は中央の3席を1人で使用でき、11時間半、ゆっくりと過して帰国した。
今回の旅は、訪問した国が多様だったので、毎日変化に富む行程を十分に楽しむ事ができた。少し不安だった治安も、何事も無く良かった。
初めの方で体調を崩したので、あと何回外国に出かけられるかと考えてしまった。
帰国後「肉類のアレルギー」がないかどうか、行きつけの病院に行った時に血液検査をお願いした。結果は次回の通院時に分かる事になっている。
(完 成)
≪「コルマール」散策≫
旅の8日目はフランス「アルザス」地方のもう一つの町「コルマール」を散策後、午後、ドイツの「フランクフルト」まで300kmを4時間半で走り、翌日の帰国のために空港近くのホテルに宿泊した。
「コルマール」は、「ストラスブール」に比べるとかなりこじんまりとした町だが、アルザス地方南部の「オーラン県」の県都で、アルミニウムの精錬、ビール醸造、繊維産業などの工業都市でもあった。
13世紀後半に都市権を与えられたが、その後「30年戦争」時(1632~34年)はスエーデン領、「普仏戦争」後(1871~1919年)はプロイセン領、第二次世界大戦中はドイツに占領されていた。
「第二次世界大戦」で破壊された場所は再建に取り組み、今でも中世の史跡が多く残り、古い木組みのドイツ風家並みが多く保存されている。
また、コルマール観光局が出している「観光地図」日本語版によると、「春の祭典」「音楽と文化フェステヴァル」「民族音楽の夜」「アルザスワイン祭り」などのイベントが3月から12月まで年中開催されている町でもある。
旧市街を散策した。どこに行っても絵になる風景が連なっていて楽しかった。古風な外観だが、内部は近代的なのではと想像した。
(「頭の家」1609年にルネッサンス様式で建てられた) (レストランの看板)
(旧市街の通り)
(鳥「シュバシコウ」が巣にいた) (民家の窓下にあった木製飾り)
(「ラ・プチット・ヴニーズ」 ローシュ川の中心地に建つ家々が一列に並ぶ光景をイタリアのヴェニス風と見たのだろう)
(「魚市場地区」 昔は船頭と漁師の家だった所。かっては野菜栽培業者がボートで野菜を運送していたらしい)
(「屋内市場」 1865年に建てられた市場で、青果、ハム、ソーセージ、チーズ、パン、ケーキ、鮮魚などを扱う約20店舗が営業している)
(「小さなヴィグネロンの噴水」)
現代の都市はコンクリートに囲まれた空間で生活する人々が多いが、このような風景を見ると自然と気持ちも癒やされる。世界中から観光客がやって来る理由は、そんな所にあるのかも知れない。
建築材料は確かに異なるが、古くなると何でも新しく作り変える事が多い日本も、そろそろ見習わなくてはと思った。
≪ドイツ「黒い森地方」観光≫②
②「ゲンゲンバッハ」等散策
昼食後、数年前まで世界一の大きさだったという「カッコウ時計の家」に案内された。
建物全体が「カッコウ時計」になっていて、通常の大きさの60倍に造られているのだという。内部の仕掛けは見ることができなかったが、建物の外側の二面を写真に撮った。
「ゲンゲンバッハ」は「黒い森」の中央より少し南に位置する町だ。
14世紀に神聖ローマ帝国から「ワインの町」として認められたワインが美味しいところだ。
今この町が有名なのは、12月になるとクリスマスの前夜まで「市役所」の建物の24個の「マルクト広場」側窓が、毎日1個ずつ開かれて行き、そこに描かれた絵が現れるのだとか。その絵を見るために遠くからも大勢の人々が「マルクト広場」にやって来る。
12月24日には全部の窓が開くので、広場は人で埋め尽くされるらしい。その広場は今は静かだった。
街中を散策した。木組みの家の高い屋根にある煙突に「コウノトリ」?が巣を作っていた。この鳥は3月にやって来てツガイで子育てをするが、9月ごろバラバラに戻って行くのだそうだ。
(調べて見たら、口ばしが赤色の鳥は、ヨーロッパに多い「シュバシコウ」という種類の鳥だそうだ)
「城壁」と「見張り台」も保存されていた。「城壁」に上がって町を眺めた。
「聖マリア教会」の傍の「モクレン」の花が満開だった。
観光後、また1時間かけて「フランス」の「ストラスブール」に戻った。
≪ドイツ「黒い森地方」観光≫①
旅の7日目は、「ストラスブール」で終日自由行動が設定されていた。
旅行会社からはオプションが2つ用意されていた中「ドイツ黒い森地方めぐりと昼食」は、朝から昼過ぎまでの1人1.5万円のオプションだったので、事前に申し込んでおいた。改めて日本から「黒い森地方」に出向くとすると、25万円以上はかかる筈だと思ったからだ。
9時にホテルを出発して西に向った。間も無くこのあたりの「ドイツ」との国境になっている「ライン川」に掛かる橋を渡って「ドイツ」の「シュヴァルツヴァルト」(ドイツ語で「黒い森」の意味)地方を目指した。窓外の景色に春を感じた。
この辺りは南北150km、東西30~50kmの細長い面積に標高1200~1500m程の山が南北に12も連なっている。ここには「ドイツトウヒ」が密生しているために黒く見えるのだ。低地にはブナやカシの木も多い。
山間を流れる「キンツィヒ川」に沿って幾つかの町や村があるが「フランス」のアルザス地方に近いため、フランスの生活様式とドイツの生活様式が交じり合っている地域だそうだ。
厳しい冬期間、降雪に埋もれる屋内でできる手工芸が発達し「カッコウ時計」や「木造のおもちゃ」作りが盛んになった。
出発してから1時間後、「シュヴァルツヴァルト鉄道」のほぼ中央に位置する「シルタッハ駅」でバスから降りた。自由に乗り降りができる簡素な駅舎だった。また、傍に昔使われていた機関車が展示保存されていた。
①「トリベルク」散策
再びバスで「トリベルク」に向った。ここにはドイツ最大の滝があり、その滝を見るために5€払って山に入った。長さが163mあると言っても、実は7つの滝が連なっていた。一番上に滝に掛かる橋があった。そこまで登って写真を撮った。
山の麓にある道沿いに小さな「博物館」があり、壁絵が良かった。
木組みの家も見られた。バス停?に本物の人かと思う木の人形が立っていた。
滝に行く坂の登り口近くにみやげ物店が幾つかあった。角の「カッコウ時計店」は、表の小屋根に飾った木造の熊の人形が凝っていた。一匹は軒下に下がるロープを登っていた。
中に入ると無数の「カッコウ時計」が展示されていた。日本円で数千円からあったが、高給な物はとても高価だった。
その後、レストランで昼食を食べた。デザートの「黒い森ケーキ」が美味しかった。材料にサクランボ(キルシュ)が使われていた。何故か予めフォークが刺してあった。
≪フランス「ストラスブール」観光≫②
②「プチッと・フランス」散策
「旧市街」は、「イル川」の本流と支流に囲まれて、あたかも鶏卵を斜めに倒した様な形の中にある。
ここは地理的にドイツの国境に接しているため、昔から何度もドイツ領になった。その度に言語が変った。
「アルフォンス・ドーデー」がフランスの新聞に書いた「月曜物語」の中の「最後の授業」では、先生が生徒に「私がここでフランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争でフランスが負けたため、 アルザスはプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。」と告げる場面が出て来るのを、教科書で習った方も多いだろう。
今はフランス語の他にドイツ語と英語の授業が行われていて、誰でも3ヶ国語は聞いたり話したりできるのだそうだ。
前置きが長くなったが、建築様式にもドイツのアルザス地方に建てられる白壁のしっくいと木の「木組み建築」が多く残っている。その場所が「プチット・フランス」なのだ。
外観は異なるが、木造作りの日本の伝統的な家屋に通じる面がある様に思う。
③古い「堰」(せき)
なお「イル川」に囲まれた旧市街の入り口に「堰」が造られていた。この「堰」は17世紀にヴォーバン元帥が建設したもので、有事の際に敵から町を守ったり、洪水を避ける目的もあったらしい。
「堰」は川幅を二つに分けてあり、クルージングボートなどが来て「堰」内に入ると、手前とその先で1m程段差がある川を水門で堰き止めて「堰」内に水を入れる。行き先の水面と同じ高さになると「水門」を開けて船を出す。すると船が進む先にある小さな橋が90度回転して、遊覧ボートが通れるようになった。
復路は逆に「堰」に入ると水面を下げてから通行するのだ。
この方式の大規模なものが「パナマ運河」ではないかと思った。小型ながら良い物を見た。
④「ロアン宮」で美術鑑賞
自由時間が2時間以上あったので、行く前に調べておいた通り「美術鑑賞」をした。
「ノートルダム大聖堂」の横にある「ロアン宮」が美術館になっているのだ。3€で券を買い、2階の「西洋美術」だけを見た。予想していたよりも展示作品が多かったし、私達が良く知っている画家たちの作品も何点もあって、1時間近く楽しめた。フラッシュ無しならカメラはOKだった。
(ピーテル・パウル・ルーべンス作) (ラファエロ・サンティ作)
≪フランス「ストラスブール」観光≫①
「ストラスブール」には15時前に着いた。駐車場に停まったバスから降りて、世界遺産の「旧市街」の真ん中にある「ノートルダム大聖堂」まで15分程歩いた。
①「ノートルダム大聖堂」
昨年、スイス旅行の帰路、この町には立ち寄ったが、この聖堂は遠くに見ただけだったので、今回はラッキーだった。
この聖堂は12~15世紀にドイツとの国境にある「ヴォージュ山脈」から切り出した「赤色の砂岩」で造られているので、全体がピンク色に見えた。
建設当初はロマネスク様式で創り始めたらしいが、1225年にゴシック様式へと大きく設計が変更されたため、内部はロマネスク様式、西側の「ファザード」(外観正面)はゴシック様式になった。
尖塔の高さは142mあり、現在は教会としては世界6位の高さを誇る。また、外側の幅は51.5m、全長は112mあり、薔薇窓の直径は13.6mだ。
作家「ヴィクトル・ユーゴー」は、この聖堂を「巨大で繊細な脅威」と評したらしい。
また、世界一大きい「天文時計」があるが、現在修理中だった。
1571年に完成したものを、1843年に内部の構造だけ一新したという。
この教会のパイプオルガンは、「ショパン」と「シュバイツアー博士」も演奏した事があると掲示されていた。
夕方あった1時間余りの自由時間は、信者の後ろでこの大聖堂のミサに参列した。
神父が歌うテノールの賛美歌が大聖堂の高いドーム型天井に反響して厳かさを盛り上げ、主祭壇横に鍵盤があるパイプオルガンの音色が教会中に響き渡った。
私がミサに参列したのは初めての経験だったが、忙しい旅の行程からしばし気持ちが解き放たれたように感じられて、良い経験だった。
≪小国「ルクセンブルク」の観光≫
「ブリュッセル」観光の後、バスで3時間20分かけて「ベルギー」の南東にある隣国「ルクセンブルク」の空港近くのホテルに投宿した。
旅の6日目の朝は、ホテルから近くにある「ルクセンブルク空港」に行って見た。
日本からの直行便は無いようだったが、近隣諸国から乗り入れる飛行機が多かった。
また、自動販売機で売られている飲料水は2.5€で、付加価値税15%を加えるとかなり高額に思えた。
この日は「ルクセンブルク」観光の後、午後、「フランス」に入国して「ストラスブール」を観光した。
≪「ルクセンブルク」観光≫
「ルクセンブルク」では、現地ガイドが英語で説明したのを、添乗員が日本語に通訳してくれた。
「ルクセンブルク」の正式国名は「ルクセンブルク大公国」といい、「ベルギー」「フランス」「ドイツ」と国境を接し、面積は2586k㎡で神奈川県程の広さに匹敵する小国だ。人口は502,000人だが、国際機関が多いため、この国も人口の70%が外国人だという。
「ペトリュス川」と「アルゼット川」の長年の流れによって浸食されてできた深い渓谷が、天然の「要塞都市」を作った。
国連の「世界遺産」に指定されている旧市街を散策し、高台の城壁から眺望した渓谷が素晴らしく、今回この国に来て良かったと強く思った。
①「ノートルダム大聖堂」
1621年に創建されたイエズス会の聖母マリアを祭る教会だった。大公の結婚式が行われてもいる。
②「大公宮」
かって「市庁舎」だった建物を1891年から大公の執務室とした宮殿。大公の滞在時は国旗が揚げられる。
門前に衛兵が2人立っているが、丁度、交代時刻だったらしく、交代式が見られた。
③「ボック」
963年に「アルデンス伯」が岸壁に築いた要塞で、地下に砲台が置かれ、断崖の下には地下要塞も造られていると言う。
④「アドルフ橋」
渓谷を挟んだ旧市街と新市街を結ぶ高さ43m、長さ84mの石造りの橋。1940年にナチスに破壊されたが戦後再建した。
⑤城壁からの眺め(写真上は左側、2枚目は右側を写した)
旧市街にあった商店の看板。何屋さん??
「ルクセンブルク」散策は約2時間。
その後、レストランでランチを採り、「フランス」の「ストラスブール」まで南南東に260kmを4時間かけて走った。
≪「ベルギー」の首都「ブリュッセル」観光≫
「ブリュッセル」は「ゲント」から東南東に60kmの所にある「ベルギー」の首都で、人口は114万人だ。
ガイドブックによると、ここには「EU本部」があり、NATOや西欧同盟の拠点都市であるために外交官が2500人も駐在し、それに国籍取得者や両親が外国人の子供を含めると外国人は84万人で市民の74%にも登る他民族都市だ。宗教的にはイスラム教信者が増加している。
2016年3月22日に空港や地下鉄駅で起きたテロ事件で、死者は30数人以上、負傷者は130以上に達し、世界中に衝撃を与えた。
このテロ事件は2016年6月のイギリスのEU離脱に関する国民投票の結果に大きな影響を与えたし、その年の12月のアメリカ大統領選挙で「アメリカファースト」を掲げたトランプ氏の当選に繋がった。その後もヨーロッパ各国に移民受け入れの是非に関する議論を巻き起こしている。
それだけ「ブリュッセル」は、ある意味でヨーロッパの中心都市だと言えるのだろう。
「ゲント」からバスで1時間かかって「ブリュッセル」の世界遺産「旧市街」に行った。
「ブリュッセル」の語源は「沼の中の居住地」の意味で、紀元979年に領主「ロートリンゲン公」が砦を築いたことによると言う。
それから1000年の歴史が刻まれた町が今の「ブリュッセル」である。
①「ギャルリー・サン・チュベール」
全長212mあり、1847年に完成したヨーロッパで一番古い「アーケード街」の「ギャルリー・サン・チュベール」を歩いた。
高級なブティックやレストラン、ベルギー名物のチョコレート店、宝飾店、眼鏡・時計店などがぎっしりと並んでいて、観光客で賑わっていた。
②「グランプラス」
そこから程近い場所の「グランプラス」と呼ばれている110m×70mの大きい広場に行った。
広場を囲んで「市庁舎」「王の家(市立博物館)」「ブラバン公爵の館」「ビール博物館」などがあり、観光客で溢れていた。
(奥は商工業の同業者組合「ギルドハウス」)
ガイドブックによると「市庁舎」は15世紀に建てられたゴシック・フランボワイヤン様式だそうだが、1400年代中期に改築され、中央の塔が付け足されたという。
写真右の「市庁舎」の左隣2軒目は、昔は酒場、肉屋ギルドだったが、今はレストラン。左端は昔、ビール製造業者、なめし皮商、絨毯販売業だったが、今はビール博物館だ。
「王の家」は、実際にスペイン王が住んだ事は無いが「王の家」と呼ばれている。
かってはパン市場だったらしいが、そこに公爵の家が建ち、16世紀後半にはカール5世の命でゴシック様式となった。スペイン支配時代にはスペイン政府庁舎となったり、牢獄になった事もあったというが、現在は「市立博物館」になっている。(右の写真は「小便小僧」)
北側の「王の家」の並びに作家「ビクトル・ユーゴー」が住んでいたという標示がある建物があった。彼は今はレース店になっているこの家の二階で小説「ジャンバルジャン」を書き上げたそうだ。
高校時代に西洋文学を読み耽った私は、たまたま目にしたその建物に胸が熱くなった。
付記「ヴィクトルユーゴー」の人生
改めて「ウィキペデア」で検索した所、彼は1802年フランス東部の町に生まれたが、父母の確執から子供時代は母と共にあちこちを転々としている。
フランスロマン主義の詩人として名を挙げ、小説も書いた。
やがて政治活動をするようになり、死刑廃止、教育改革、社会福祉などを掲げた。1848年共和派の議員として当選し、当時のナポレオンを支持するが、やがて彼の専制的なやり方に反対するようになって行く。1851年12月ベルギーの「ブリュッセル」に亡命し、その後、イギリス領チャネル諸島に移り、19年間亡命生活を続けた。
小説「レ・ミゼラブル」は、1862年「ベルギー」で出版し、大反響を得た。1885年83歳で死去した。
③「小便小僧」
「グランプラス」から狭い商店街の通りを250m程南東に進んだ角に、有名な「小便小僧」の像があった。
この像は1619年に「デゥケノワ」が創ったが、その由来は不明だとか。
像が盗まれた事があったが、その後ルイ15世が豪華な宮廷服を贈ったことが契機となって世界中から衣装が贈られるようになり、世界一の衣装持ちになった。その衣装が展示されている場所もある。たまたまその日は赤い服を着ていた。
そこまでガイドに案内された後に、2時間弱の自由行動があった。自由昼食だったので、大きいパンケーキ店に入り、飲み物も買って奥のテーブルで食事した。
≪「ゲント」観光≫
旅の5日目は「ブルージュ」から55km東南東にある「ゲント」の町へ向った。
この町は中世以来、織物産業が栄え、「ブルージュ」のライバル的な商業都市だったという。ここもバスの駐車場が決められていて、そこから旧市街まで片道20分間歩いた。
先ず、市役所の建物を見ながら少し歩くと「聖ミヒエル」のブロンズ像が街灯になっている橋「聖ミヒエル橋」に着き、そこから一段下にある「聖ミヒエル教会」に階段で降りた。
それから再び「ミヒエル橋」に登り、傍に聳え立つ「聖ニコラス教会」の横を通って行くと、傍に「鐘楼」があった。
この「鐘楼」は、「ゲント」の市民の「自治」とギルドの繁栄のシンボルとして鳴らされて来たのだと言う。
傍にかっての繁栄の証を残す「繊維ホール」があった。
(手前の建物が「繊維ホール」。背後の塔は「聖バーフ大聖堂」のもの)
いよいよ15世紀に「ファン・アイク兄弟」が描き、初期フランドル絵画の最高傑作と言われる「神秘の子羊」を鑑賞するため「聖バーフ大聖堂」に行った。
この教会は12~16世紀に建てられたもので、外観は質素だが内部の凝った装飾は今まで見た他の教会に引けを取らないように思えた。特に説教台の豪華さには驚いた。また、「ルーベンス」が描いた絵画が前方の柱に掲げられていた。
「神秘の子羊」がある奥の薄暗い小部屋には入場料を払い、日本語のイヤホンガイドを借りて絵を見た。
作品は「フーベルト・ファン・アイク」が着手し、「ヤン・ファン・アイク」が1432年に完成させたものだ。
開閉できる大きな祭壇画として表裏19面に描かれていた。中央の大きな絵の祭壇に立つ血を流す子羊を取り巻く女性たちが、膝を突いて手を合わせて祈っている。遠巻きには、その時代の聖人や神父が大勢立って見守っている。子羊はキリストを暗示しているという細密画だが、撮影は禁止されていた。
帰りもバスが待つ駐車場まで20分歩いた。街中を流れる「レイエ川」の川岸に毛織物産業の中心地を思わせる豪華な商人のギルドハウスが建ち並んでいた。
≪「ブルージュ」観光≫
「アントワープ」観光を終え、次は西へ95kmの運河に囲まれた街「ブルージュ」へ向かった。
この町は「北海」まで10km程しかなく、「北海」からの水路を使って12~13世紀には西ヨーロッパ第一の貿易港として栄えた町だ。
ところが15世紀になると水路に「北海」からの泥や砂が入り、船の航行ができなくなってしまい、商業で栄えた町は急激に廃れてしまって取り残されたのだという。
そのために旧市街はそのまま残り、中世の景観が見られる町として現代になって観光地化し、ユネスコの「世界遺産」に指定された。
現地ガイドの女性が来て、立て板に水を流すがごとく説明しながら、旧市街の要所を案内してくれた。
旧市街はぐるりと運河に囲まれていて、50以上の橋が掛かっている。
先ず旧市街の南から観光した。
①「愛の湖」公園
かっては「ブルージュ」の内海だった所だ。今は水門で仕切られた湖になっていて、沢山の白鳥が棲息し、観光客も芝生に腰を下ろして休んでいた。湖の柵になっている金網には、永遠の愛の誓いを立てる鍵が幾つも掛けられていた。
②世界遺産「ベギン会修道院」
1245年にフランドル伯夫人が作った建物で、夫を戦場に送り出した妻達の共同生活の場だったらしい。現在ここで生活しているのは「ベネディクト派」の修道女達だそうだ。丁度水仙が開花した時期だったので、木立の中に群生する水仙が美しく、静ひつな雰囲気に包まれていた。
その他、運河のある中世の町並みを見学した。「ブリュージュ」はまた「屋根の無い美術館」とか「北のヴェニス」とも言われる。運河めぐりの遊覧船が人気のようだった。
(ブリュージュの美しい「州庁舎」)
ホテルは旧市街の南方にあり、外側はあまり特徴が無い石造りの建物の一部だが、内部に入ると窓辺に素敵な花が飾られ、中庭があり、奥に宿泊棟が設けられた美しいホテルだった。
朝食もメニュウが豊富で美味しかった。
≪「アントワープ」観光≫②
「アントワープ」での昼食は、「野菜サラダ」「ムール貝の白ワイン蒸し」「ワッフル」だった。
「ムール貝」が鮮度が少し良くなかったのかあまり美味しくなかった。「ワッフル」は、少し甘めだったが美味しかった。
「市庁舎広場」で下車した。ツアーの観光客が来ていた。「市庁舎」は1565年頃建立され、現在も市役所として使われている。
少年「ネロ」が絵画コンクールに応募しているが、その頃からここで授賞式が行われているという。
「マルクト広場」でも下車した。ヨーロッパのどこの町にもこの名前の広場はあるが、「マーケットが開かれる広場」という意味だそうだ。広場の周囲には交易で多くの富をなした商業者の家々が建ち並んでいた。
「グルン広場」には、画家「ルーベンス」の像が「大聖堂」をバックにして立っていた。
≪「アントワープ」観光≫①
旅の4日目は、何とか体調も戻り、「オランダ」の「スキポール」ホテルを出て、160km南にある隣国「ベルギー」の「アントワープ」を目指した。
(オランダもベルギーも高速道路の左右に沢山の風車が立っていた。1基1億円もするそうだが、自然エネルギーで電気を起こしていた)
「アントワープ」は、15世紀から商業と金融の中心地として栄えたヨーロッパの有数の港町であり、人口50万人のベルギー第2の都市で、ダイヤモンドの研磨や取引でも有名だった。
また17世紀には、「ルーベンス」や「ファン・ダイク」などのフランドル派の画家が活躍した町でもある。
町の中心にある「ノートルダム大聖堂」(聖母子教会)は1352年から作り始め、170年かけて完成した国内最大のゴシック様式の教会だ。
またこの町は、1975年TVアニメ「世界名作劇場」で放映された「フランダースの犬」の舞台となった町で、日本人には特に親しまれている。
添乗員の話では、イギリスから旅行に来た「作家ヴィーダ」が、帰国後、英語で1870年頃を舞台として書いた児童文学として「フランダースの犬」の原作を出版した。ベルギーでは出版されてなかったので、最近までこの物語をベルギー人は知らなかったらしい。
しかし、「アントワープ」を訪れた日本人の観光客が少年「ネロ」の足跡を問うようになり、次第に知られるようになったという。しかし、物語中に意地悪なベルギー人が出て来るので、地元ではこの物語には反発も強いという。
なお、この時代には本当に労働犬が牛乳運びなどをしていた様で、子犬の時に労働に邪魔な耳と尾を切り落としたらしい。
今では、労働犬「パトラッシュ」と「ネロ」の像が、「ルーベンス」が描いた「キリスト昇天」と「キリスト降下」の絵が飾られている「ノートルダム大聖堂」の前にある。
私も物語の中で絵が上手な「ネロ」が最後まで憧れ続けた「ルーベンス」の「キリスト昇天」の絵を見た。扉で開閉できるつくりになっていて、キリストが亡くなる時を描いた絵だ。「キリスト降下」は、大勢の人々の中に天から舞い降りるキリストが描かれていた。
本当にこの物語の結末は悲しい。物語では、風が吹いて来て、絵を覆っていた大きなカーテンが開くという設定になっているが、その絵は聖堂の中程にあるので開いた窓などは実際にはない。
画家の「ルーベンス」は「ネロ」と違って裕福な家庭に育ち、画家としても宗教画を描いて大成功し、多くの弟子を抱える工房を経営した。生涯に千数百点の絵を残している。
(「ネロ」と「パトラッシュ」の最後をモチーフにした像)
≪「オランダ」の「マーストリヒト」観光≫
「ドイツ」に別れを告げて国境を越え「オランダ」に入った。かっての国境税関の建物らしきものは残っていたが、使われていなかった。今回の国境にも、両側にそれぞれ立て札があっただけだった。「EU統合」とは、人、物、経済、文化の統合であり、本当に歴史的な事だったのだと改めて考えさせられた。
「オランダ」に入ると、何故か田園風景が広がり出した。
まず「牧草」を栽培→翌年「牧畜」をして農地を肥やす→その翌年に「小麦や野菜」栽培→肥料分が少なくなるので次年は「牧草」という輪作を繰り返して、農地の地力を維持しながら農業を続ける方法が取られている様だった。
町が見えて来た。家々の窓にカーテンはない。添乗員は「オランダでは質素倹約の精神を尊ぶ「プロテスタント」が多いので、家の中はさっぱりと整理整頓してあり、カーテンをせずに見せるのです。」と言っていた。
また、「オランダ」の消費税は、贅沢品は21%らしい。
約1時間後、「オランダ」最古の町「マーストリヒト」に着いた。バスは駐車場に止まって、そこから「旧市街」まで歩いた。
途中で大きな「マース川」に出た。この川はかっての「神聖ローマ帝国」の国境だったそうで、925kmもあるのだそうだ。大きな「聖セルファース橋」が架かっていたが、右側半分が「跳ね橋」になっているのだという。ローマ時代から交通交易の要所として大型船舶が通過した場所だ。
旧市街にある大きな「セルファース教会」は、外側を一回りしただけで入場しなかった。傍にある広場の街路樹「プラタナス」の新芽が出る前の姿が印象深かった。また、道ですれ違うオランダ人の身長がとても高いので、自分が小人に思えた。
レストランやカフェーの内外は、まだ冬の厚いコートを着て、食事やコーヒーを楽しむ人達で溢れていた。老人が物乞いをしていた。
自由時間が少しあったので駄菓子屋に入った。カラフルな包み紙で包まれた飴や菓子がぎっしりと並べられていた。私達にはどぎつい色に着色された菓子類も多く驚いた。
夕食は「スキポール」のホテルのレストランだった。写真の様な食事が出たのを少しずつ食べたが、部屋に戻ったら間も無く気分が悪くなり、何度も嘔吐を繰り返した。翌朝まで続き、ツアーに参加する事ができなかった。幸いにもそのホテルは2連泊だったので、3日目は1日寝ていた。
(ポテトサラダに薄いローストビーフが被せてある) (鶏胸肉のソースかけ、ブロッコリー添え)
(デザートのチョコレートアイスクリーム)
その結果、残念ながら「リッセ」の「キューケンホフ公園」と「レンブラント」の「夜警」の絵がある事で有名な「アムステルダム」の「国立美術館」、それと「運河クルーズ」の参加を見送った。まだ行っていない3~5月の間2ヶ月間だけ開園するという「キューケンホフ公園」が悔しかった。
写真は知人が撮った中の一部。
≪ドイツの「アーヘン」観光≫②
ドイツ「アーヘン」までの高速道路は、ヒットラーが建設させたと言う。道路の厚さは75cm、勾配は4%以内で航空機も離発着できるようにしてあるとか。
その道路に「速度制限」は無いと思われているが、実際は時速120kmだという。
添乗員の説明では、ドイツの「消費税」は、一般的な必需品には7%だ。しかし、贅沢品は19%なので、牛乳は7%だが豆乳は19%、また、ハンバーグを注文してその店で食べると19%だが、テイクアウトすると7%と複雑なのだそうだ。
「アーヘン」に着くと、世界遺産の「アーヘン大聖堂」に行くために駐車場から15分程歩いた。郵便配達は3輪車で配達していた。
途中に歴史的な建築物の「アーヘン市庁舎」があった。立派だった。前庭には「カール大帝」の銅像が広場を見下ろしていた。
通りのプランターに色とりどりの春の花が美しく飾られていた。「大聖堂」には立派な「木蓮」の大木があり、蕾が膨らんでいた。
表門の傍には2尾の魚を抱えた裸の子供の像があったが、意味するところは分からなかった。パン屋のパンが美味しそうに飾られていた。
聖堂内部の装飾は、圧倒されるほどの金が天井やステンドグラスに使われていて、往時の繁栄を物語っていた。
≪時差-7時間の国々へ≫
今回訪れた5カ国共、3月末日より夏時間設定になっていて、-8時間の冬時間時差が1時間短くなっていた。
羽田国際空港を11;15に離陸したANA機は、満席に近い搭乗者を乗せ、12時間10分かけてドイツのフランクフルト国際空港に飛行した。現地時刻は16;25だった。
機内では日本時間の夜に当たる時刻に眠くなり、8時間熟睡できた。
その日は、空港近くのホテルに投宿したが、行って見ると3日前に名前が変ったと言われたが、以前にも泊まった事があるホテルだった。
前庭に植えられた「エリカ」(別名「ヒース」)が、色とりどりの花を咲かせていた。
時差の為に眠られないと翌日辛いので催眠剤を飲んで寝た。
≪ドイツの「アーヘン」観光≫①
2日目はフランクフルトのホテルから8;15にバスに乗り、西北西260km離れた所にある町「アーヘン」を4時間掛けて目指した。今にも雨が降り出しそうな空模様で気温も7~8度程かなと思った。
途中のガソリンスタンド兼コンビニで休憩した際、今回初めて1€払ってトイレに入った。すると0.5€分のカードが出て来るのだが、そのカードはドイツ国内の同じ様なコンビニで買い物の際に割引券として使えるのだ。しかし実際は、売られている菓子も飲料水も高めの価格が付けられていた。
日本の公衆トイレもコンビニやレストランのトイレもまず無料で使用できるが、外国ではレストランやカフェ位しか無料ではない。トイレの施設と美観を維持するには、お金が掛かる事が当然だと考えられているのだ。それにしても結果的に0.5€(日本円で78円)は決して安くない。
私は以前にも経験があるが、改めてトイレの入り口の支払機を写真に撮った。
また今回の便座は変っていた。トイレで用を足し、水を流そうと背部のボタンを押したら便座が形を変えながら回転し出した。自動の便座洗浄装置だったのだ。
「アーヘン」の町が近づいて来た。火力発電所があった。